親鸞読書ノート2026年―結城令聞監修『現代語訳 親鸞全集』(講談社、1975年)―3―

石塚正英

 
   わが親鸞研究の足跡は、形あるものとして遺っている限りで、1991年3月に確認できる。読書ノート『親鸞について』(親鸞ノート1)である。以後、フィールド調査報告や学術論文執筆の機会あるごと、断続的に足跡を辿ることができる。直近では以下の論文執筆時に確認できる。「頸城野に耕される愚禿親鸞――流浪の古代直江津往還③」、〔感性文化online講座〕⑪、2026.01.11.「恵信尼五輪塔は地涌観音菩薩か」、石塚正英個人ブログ【歴史知の百学連環】、2026.04.03. 本稿は、上記2点の準備として本年2月~3月に行った研究読書のノート記録(その3)である。
 
★第7巻 教行信証(二)
〔念仏と信心 藤 秀璻〕
〔引用73〕
仏は絶対界のお力であり、われわれは相対有限の凡夫である。仏は真如法性しんにょほつしょうの理と一つになったお万であり、われわれは法性真如の理に肯いて、煩悩の林の中をうす暗くさまようている微生物的の存在である。仏とわたくしとの問には、深さの知れぬ大きな断層がある。この断層は、人間が人間(凡夫)であるかぎり、こちらから踏み越えることの出来ぬ断層である。「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、親鸞の嘆かれたのはそこである。この断層をつなぐみちはほかにはない。法性真如の理、一切の万善、万行、恒沙の功徳、仏のさとりのお体、百福荘厳しょうごんの浄土までもこの本願の名号みなに成就して、向うさまから呼びかけて下さる南無阿弥陀仏、この名体不二の名号を頂受し称念するほかに道はないのである。120-121頁
〔注記73〕仏の絶対界と凡夫の相対有限を私なりの区分で言うと、前者を〔メタフィジカル・バース(超自然界)〕後者を〔フィジカル・バース(自然界)〕と称する。さらには、「とても地獄は一定すみかぞかし」に読まれる「地獄」を〔メソフィジカル・バース〕と称する。親鸞の説いた「往相還相」の交互的概念のうち、往相と還相の境目、交叉点でもある。
この大行は如来の天心の現実界への表現であるから、宗教、芸術、学術、社会、文化のあらゆる面に波動し浸透する根本の力となる。大行の「大行」たる究竟のこころは、そこにあるであろう。しかるに、それが一つの口頭禅こうとうぜんとなって、何の力もなくなっているとすれば、それはわれわれの生活の上に、如実修行の念仏の影が薄くなっているからである。仏教が理論に傾斜して念仏の大行が軽視されているのは、今日の宗教界の病気の一つである。124頁
〔注記74〕仏教は教義学(学問)でなく宗教(文化)であり、民間信仰や山岳信仰と習合して一定の生活様式を支えている。その場合、自然諸神を祀る民間信仰は〔メソフィジカル・バース(半自然界)〕を作り出している。
 
〔さとりとすくい 原 随園〕
〔引用75〕
教行信証の第四巻(証の巻)にこういわれている。/「しかれば弥陀如来は、如より来生して、報応化種々の身を示現したまふなり」/その意味は、弥陀如来は、真如からあらわれて、報身、応身、化身と、いろいろの姿をとられるというのである。129-130頁
〔注記75〕「報身、応身、化身」などの方便は、キリスト教に対応させると化身(インカルナチオ)の一種である。弥陀如来はメタフィジカルで、化身はメソフィジカルである。
〔引用76〕報身応身化身といろいろの姿であらわれるということは、いうならばすべて方便のためである。/現実のわれわれが、理解しやすい具体的な形をとってあらわれるのである。/このような方便によって、われわれの前にあらわれる仏の根源は何であるか。「(真)如より来生する」といわれる真如とは何であるか。/教行信証の証の巻に、さきにのべた文章の前に、こう書かれている。/「必ず滅度に至るとは即ち常楽なり。常楽は即ちこれ畢竟寂滅なり。寂滅は即ちこれ無上涅槃なり。無上涅槃は即ちこれ無為法身なり。無為法身は即ちこれ実相なり。実相は即ちこれ法性なり。法性は即ちこれ真如なり。真如はこれ一如なり」云々。/これは仏の悟りの境地である。130-131頁
〔注記76〕「法性」はメタフィジカルで、方便のために姿を現す報身応身化身はメソフィジカルである。親鸞は方便を認めなかったが、真宗門徒にとって方便は重宝だった。方便の最大級は伽藍建築をもって代表される真宗教団ではないだろうか。滝沢秀樹は『イエスと親鸞』(世界書院、1986年)においてこう記している。「教団的葬式仏教の論理の出発点はやはり蓮如にある。蓮如を問わずして親鸞にむかうところに、「凡夫」と知識人の裂け目がどうしようもなくひろがるひとつの理由があると思われてならない。蓮如の念仏は徹底的に「凡夫」の為のそれであった。その為に彼は親鸞の思想を一部改変するという危険をさえおかした(蓮如自身の主観においては「改変」ではなかったであろうけれども)。しかしそこには親鸞の核心がなお保持されている。保持させたのは蓮如ではなく、それをうけいれた「凡夫」だったと言うべきかもしれない」。
〔引用77〕金銀などの七種の宝でつくられている講堂とか、道場の樹木などであらわされている浄土の姿は、方便化身の浄土である。現実の世界の建造物を例にとって、わかりよく浄土の様子を示されたということである。130頁
〔注記77〕「わかりやすく」が曲者である。方便が真実に取って代わる可能性がある。ただし、次善の対応として、方便(化身)が真実(浄土)の象徴であるとすれば、説明としては間違っていないことになる。その際、フィジカルな講堂とか樹木とかは、メタフィジカルな浄土を連想させるメソフィジカルな役割を帯びる。
 
〔はからい心と真実の心 福原一來〕
〔引用78〕
浄土真宗の信心は、多くの場合御信心といわれる。それは、われらの救を全うする信心が、人のはからいによるものではなくて、如来からたまわる、まことの心であるからである。もとよりまことの信心は、その人の身についた心の在り方となり、生活の態度を規制浄化する、中心の心のはたらきであるとされねばならぬものであろう。しかし、その信心がまことであればあるほど、自らの力によって定まるものとか、わがはからいにもとづくものとはいわれぬことを、親鸞聖人は明らかにされた。「まことの信心のさだまることは、釈迦、弥陀の御はからひとみえてさふらふ。往生の心うたがひなくなりさふらふは、摂取せられまゐらせたるゆへとみえて候。摂取のうへには、ともかくも行者のはからひあるべからず候」(末燈鈔)。138頁
〔注記78〕人間(身体)に関する私の議論に「環境の凝固結晶としての人間身体」というものがある。これまで、身体(身体観)の変化を考察する場合、身体は環境(社会・自然)に向かって、内部から外部へ拡張していくように理解してきた。「道具・機械も身体の一部」という発想がそれである。いうなれば「内発的身体」である。しかし、私は考察のベクトルを反転させ、環境から身体論を構築している。身体の変容は、身体が環境への拡張によって生じるのではなく、環境が人間身体に吸収され凝固・結晶することによって生じるのである。そのような人間身体を、本稿では「外発的身体」とも表現することにしたい。さて、ここで私なりの方便を用いる。すなわち、環境としている箇所を「如来」に置き換えれば、「如来の凝固結晶としての人間身体」となり、人間身体を「信心」に置き換えれば、「如来の凝固結晶としての信心」となる。人間(身体)は如来に発する信心によって生きる、ということになる。如来は阿弥陀であり、阿弥陀は無礙光あるいは無辺光であり、その方便は太陽である。太陽は大自然の象徴であり、人間は大自然によって生かされているのである。
 
〔二種深信 金子大榮〕
〔引用79〕
「本願を信じ、念仏をまうさば、仏になる」(歎異鈔)これが真宗の教である。二種深信というは、その本願を「信」ずる心を説くものである。弥陀の本願は、愛憎の悩みにある衆生を一如の世界(浄土)にあらしめたいということであるから、何人にも受容されねばならぬ。されどそれは容易に信じられない。それは自身を頼み、能力の限界を知らないからである。したがって深く弥陀の本願を「法」として信ずることは、深く自身の罪障を知ることを「機」としてのみあることであろう。この「機」において、この「法」を信ずる、これを二種深信というのである。148頁
〔注記79〕「機」とは弥陀のはからいによって救われる存在で、「法」とは「弥陀の本願」を指す。二種深信は、その「機」と「法」を信ずること、ないしそれを説くことである。
〔引用80〕ここでわれらは、自身の罪悪を以て深信の内密とせることに留意せねばならない。これは自身の実相を信ずるという意味においての自信である。とすれば、一般に自信といわれているものといかに異なることであろうか。自信とは自力を頼み、将来に希望をつことである。しかるにここでは自力の限界を知り、将来に絶望しているのである。しかしこの相違は言うまでもなく、人間としての自覚に拘ることである。自信を以て将来に望む、それより他に人間生活はないのであろう。149頁
〔注記80〕金子大榮によれば、自信とは「ここでは自力の限界を知り、将来に絶望している」有り様をいうとのこと。他力の意味における「自信を以て将来に望む」とは「自己の限界を知って」ということ。
〔引用81〕弥陀の本願は「衆生を摂取」する。衆生とは生あるものみなである。それを人間としては「老少善悪の人をえらばれず」といい、「男女貴賎ことごとく」とも説かれてある。されど衆生は人間のみではない。鳥獣をも含み、虫魚にも及ぶのである。これは人間を万物の霊長として選ぶものではなく、惣ての生類を代表するものと見るものである。したがって、その衆生を摂取する大慈大悲は、人権の平等を認めるというようなことではなく、深く生の喜びを与えたいということである。150頁
〔注記81〕金子のいう「衆生」は、宗教性を脱色するならばフォイエルバッハの〔アルター・エゴ(alter-ego)〕と類似している。フォイエルバッハは、「我と汝」双方にとっての身体を考える。我にとって我の身体は我の感覚・知覚の主体であり、我の欲求や願望の発信源である。しかし汝にとって我の身体は汝の感覚・知覚の対象であり、汝の欲求や願望の向かう先である。そこで我の身体と他者の身体は対立するのでない。我と向かい合ったもう一人の我、つまり他我(alter-ego)の意味をもつ。我と汝という二つの個別が〔我と他我という対を単位とする普遍〕に転化している。その転化を実現しているのが生身の身体、我の身体、汝の身体である。その際、フォイエルバッハにおける汝には、当然ながら、自然が入る。身体は自然そのものである。「近年の旅行者たちが目撃者として語っているのを読むならば、古代のエジプト人は動物を尊敬した、ないし少なくとも尊敬することができました。それに反する特殊な理由が見いだされない場合、そのことが信じられなくはないことを私たちは見いだすでしょう。そして、古代エジプト人が動物を尊敬した、ないし少なくとも尊敬することができたのは、ちょうどアジアやアフリカやアメリカの諸民族が動物を最近までないし今日でも尊敬しているのと同じであります」。Ludwig Feuerbach, Gesammelte Werke, hg. v. W. Schuffenhauer, Akademie-Verkag, Berlin, 1969, Bd.6, S.49.」
〔引用82〕人間的次元においては、善心こそ神仏の心に相応するものであり、悪人は神仏の心に反くものといわねばならない。されど大悲の仏心の立場においては、自身の罪悪を知りて念仏するものこそ、本願に相応するものである。したがって自己の善をたのむものは本願に逆らうものであり、悪人と信知するものこそ本願に順うものである。「善人なをもて往生す、いはんや悪人をや」とはこの道理に依るものである。154頁
〔注記82〕金子のいう「自身の罪悪を知りて念仏するもの」は悪人でなく、むしろ善人なのではなかろうか。悪人とは、自身が罪悪を知らないばかりか、念仏によって「機」すなわち救われる存在であることを知ろうともしないものを指すのではないだろうか。
〔引用83〕信仰が若し善人に味方して、悪人を憐れむという種類のものであるならば、その信仰の「法」とするものは、いかなる人もその「機」とならねばならぬものであるに違いはない。その法は全人類に強制することさえもできるであろう。されど弥陀の本願は、自身の罪悪を知るものでなければ深信せられない。しかるに自身の罪悪を深信(じんしん)するというようなことは、何人もまた何時でもあり得るものではなく、個人としても自覚の「機」があるのである。したがって全人に普遍なる本願の道理も、ただ個人の信心としてのみ実証せられるのである。154-155頁
〔注記83〕「善人なをもて往生す、いはんや悪人をや」の悪人について金子は、「自身の罪悪を知るもの」としているように読める。「機」とは救われる存在あるいはそれに気づくことだから、自身の罪悪に気づかぬものこそ悪人なのではなかろうか。弥陀の本願は、罪悪に無自覚で「個人の信心」とは縁遠い悪人をこそはからってくれるのではないのだろうか。
〔引用84〕故に自己を疎外すれば、煩悩というも罪悪というも人間世界の有様であり、社会情勢の現実に他ならぬものと見ることができよう。知識も道徳も、この立場において行われているのである。しかるにその人間世界において、「自身は現に」と感知せずにおられないところに、機の深信の意義があるのである。これ即ち現前の自身を知る深き反省に依るものであらねはならぬ。さればこそ法の深信の機となるのであろう。この意味において機の深信は、法の深信の母胎となっているのである。しこうして法の深信は機の深信を待つことにおいて、現に自身につく現実となるのである。/五/しかるに機の源信は「個」人にあり、法の深信は「全」人を包むということは、また機の深信は「現」在にあり、法の深信は永遠の光であるということである。156頁
〔注記84〕人間世界における「機」の深信と弥陀の世界(浄土)における「法」の深信は、前者が後者の母胎となることで呼応しあっている。となると、往相還相にかかわる人々は呼応の実現者ということになる。
 
〔三心と一心 大江淳誠〕
〔引用85〕
この第十八願の三心は、阿弥陀仏の救いの力を受けたるものの心に現れてくるものであるから、如来に依って起こさせられたもの、換言すれば阿弥陀仏の救いの力が、人間の心の中に徹到して生じたものであるから、これを他力の信と云い、如来廻向の信と云うのである。故に「信文類」の解釈では、三心をすべて一たびは如来の三心として語り、そうして後これを受ける衆生(救いの対象である人間)の三心として述べてある。159頁
〔注記85〕「三心(さんじん)」とは、往相にある人が懐くべき三種の心で、至誠心・深心・廻向発願心をいう。浄土の如来が廻向して衆生が受け止め、さらには浄土に向かう衆生が抱懐する、というように円環を描く。
〔引用86〕曇鸞の『往生論証』の解釈を、親鸞聖人は「信文類」の三心一心の問答の終りに出してあるが、それは如来の心と、衆生の心とを、木と火とに喩えるものである。衆生の凡心は木の如く、如来の真実は火の如きものである。火は木を求め、木に宿って木を焼く、木は火のために焼かれて、木もまた火となる。木が火になるところが、如来の仏心が衆生の凡心に潜入したすがたであって、蓮如上人が、「仏心卜凡心トヒトツニナル」といったのは、またこの意味である。凡心と仏心とは本来別な存在である。けれども仏心が来て、凡心に宿って仏心と凡心とがひとつになる。ここに如来の真実の徳を、そのまま、衆生の上に語り得るのであって、これを衆生の至心とするのである。163頁
〔注記86〕「如来の仏心が衆生の凡心に潜入したすがた」とか「仏心が来て、凡心に宿って仏心と凡心とがひとつになる」とか「如来の真実の徳を、そのまま、衆生の上に語り得る」いう表現からは、浄土でなく穢土に真実がもたらされるように理解できる。
 
〔信の一念について 坂東環城〕
〔引用87〕
仏教では、我々の住んでいる世界は、我々の懐いている世界観と切り離して見ることが出来ないとする。我々は自らそれを意識するとしないとにかかわりなく、各自の世界観を持っているのである。世界観のないところに世界はない。大経では、そう云うわけで、二つの世界観が、対応的に説かれている。人間の苦悩を見そなわす釈尊の深い慈心というものが、そこにうかがわれる。/ここに二つの世界と云うのは、浄土とそして穢土とである。そしてそれらの二つの世界の成り立ちが、本願と三毒とである。176-177頁
〔注記87〕「我々は自らそれを意識するとしないとにかかわりなく、各自の世界観を持っているのである。世界観のないところに世界はない」とあるが、悪人や凡人に世界観は乏しかろう。ヘーゲルのいう即自的な意識・眼識はあるが、自己を相対化する対自的な意識・眼識は希薄だろう。
〔引用88〕本願というのは平等の世界観である。その仏の平等心に照らされて、自己の差別の世界観が写し出されてくる。無始以来、己れの生活の依りどころとなって来た世界観が、ここに一瞬にしてこわされるのである。自己によって否定せられるのである。これが信の一念の意義である。/「信心と言ふは則ち本願力の廻向の信心なり」―信巻末― 177頁
〔注記88〕親鸞における「仏の平等心」は凡人に関するものであって、平板でなく多様性を有しているだろう。浄土ではきっと衆生一人ひとりの差異がもっとも大切にされ、かがやきを放っていることだろう。往相還相における平等心というのは、そうした〈差異〉をみなで大切に尊重することを言うのであって、みな同じことをし、同じ目標をもつということなどではない。平等志向は個人的な自力の行でなく、如来の廻向たる念仏の向かわしめる先に待ち受けるのだろう。
 
〔真の仏弟子 梅原真隆〕
〔引用89〕
親鸞の真仏弟子の讃嘆は、独断でなく自負でない、すぐれた聖賢の体験したところである、ここに代表的な聖賢の芳躅ほうしょくをみると、みなくびすをついで西方の浄土を慕うて往生された。浄土は万人の最後にかえるべき生命のふるさとである。念仏往生は真実の大通である。この大道を履践りせんする金剛心の行人は、真の仏弟子である、これは法界の公認するところである。202頁
〔注記89〕「浄土は最後にかえるべき生命のふるさと」という表現は以下の2点に関して悩ましい。①最後、②ふるさと。往相還相の菩薩行に最後はないが、いずれの日にか正覚を得たい理想としての最後なのだろう。また、だれもが浄土をふるさととしているわけではないが、安住の地として築き上げるべき故郷なのだろう。
 
〔如来の祈り-難化の三機を悲憫して 藤原凌雪〕
〔引用90〕
第十八願の対象は、願文に「十方衆生じゅっぽうしゅじょう」とあり、またその成就文には「諸有衆生しょうのしゅじょう」と示してある。衆生といえば、人間だけではない。すべての生きとし生けるものが如来のいのりの対象となっている。「諸有」も、アラユルとむから、十方衆生の意味するところと変らない。206頁
〔注記90〕フォイエルバッハにおいては生き物だけでなくすべての自然すなわち環境の全てが人間の友である。「人間は根原的には自分を自然から区別しない。したがってまた、自然を自分から区別しない。(中略)粗野な自然人はその上自然的諸物体のなかに実際の人間を認める。こうしてオリノコ河畔における先住民たちは太陽、月、星を人間と思い込み――彼らは「太陽、月、星はあそこ天上にあって我々と同様に人間である」と言っている――パタゴニア人たちは星を「かつての先住民たち」と思い込み、グリーンランド人たちは太陽、月、星を「特殊な機会に天に移された自分たち(グリーンランド人たち)の先祖たち」と思い込んでいる」(Ludwig Feuerbach, Gesammelte Werke, hg. v. W. Schuffenhauer, Berlin, 1969, Bd.10. S.30.)。
〔引用91〕誠に知んぬ、悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまず。恥づべし傷むべし。/と、その慚愧悲歎はなはだ深刻をきわめている。しかし、これは絶望と自棄の悲歎ではなく、抱いて離さぬ慈光に照護せられた信心の行者の、内に探りあてた本来的自己のすがたである。そして、この体験的な反省の告白を承けて、抑止門おくしもんの釈はつづくのである。210頁
〔注記91〕「その慚愧悲歎」は「体験的な反省の告白」だという。ならば、その体験は何処においての体験か。「愛欲の広海に沈没し」てのことに鑑みるならば、居多ケ浜においての体験である。
 
〔浄土と涅槃 正親含英(おおぎがんえい)〕
〔引用92〕
もともと、如来の本願は、この世にかけられた真実の世の願いであり、人間にかけられた如来の願いである。人間のおこす願いでなく、人間にかけられた真実の願いである。いつ、誰れがおこしたと問うを要しない、いつからと知らずだれといわずして、人にかけられて来た真実の願いである。かけられた願は聞いてゆく願である。経典の言に、その願いが聞かれるのである。人の世にかけられた願いの言に、人の世のまことが知られるのであり、それが、また、人の世の願いとなるのである。真実の世の願いが浄土の願いであり、浄土は、その本願の世界、如来の浄土である。故に、如来の浄土は、この人の世の業苦を離れては感ぜられないのである。人間の業苦に於て、そこに、かけられた如来の本願を行信して、その証果として帰入せしめられるところが浄上である。218頁
〔注記92〕正親含英の捉える浄土は「この人の世の業苦を離れては感ぜられないのである」から、超自然ではない。私の造語で分類するならば、「如来の浄土」は〔メタフィジカル・バース〕でなく〔メソフィジカル・バース〕に存在する。(上の図〔存在圏(バース)の三類型〕を参照)
〔引用93〕人間がこの地上に肉体をもって生活する以上、東は東であり、西は西であって、東も西も同じではない。観無量寿経に、浄土を想観するに、まず、日没の相を観よと説かれるのである。そこに浄上の感情がある。善導は、これによって、(一)浄土の方処ほうしょ、(二)人間生活の業障ごうしょう、(三)浄土の光明が感知せられると説いている。221頁
〔注記93〕中村元/早島鏡正/紀野一義訳注『浄土三部経(下)―観無量寿経・阿弥陀経』岩波文庫、2005年。「観無量寿経」から【漢文和訳】「世尊はヴァイデーヒーに告げられた――「あなたと、そして、生ける者どもは、心を一筋にし、思念を一処に集中して西方を観想するのだ。さて、どのように観想するかというと、一切の生ける者どもは、生まれながらの盲目でないかぎり見ることはできるのであるから、目明きであればみな、太陽の沈むのを見ることができよう。正坐して西に向かい、はっきりと太陽を観るのだ。心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。すでに太陽を観終ったならば、その映像が眼を閉じているときにも、眼を開いているときにもはっきりと残っているようにするのだ。これが〈太陽の観想〉であり、〈最初の冥想〉と名づけるのだ」。17頁
【漢文書き下し】「〔正説〕 〔一、心統一して浄土を観想する十三の方法〕/仏、葦提希いだいけに告げたもう、「汝および衆生、まさに、専心に、念を一処にけて、西方を想うべし。いかに、想いをなすや(と言わば)、およそ、想いをなすとは、一切衆生、生盲にあらざるよりは、有目の徒、みな、日没を見る。まさに想念を起し、正坐し、西に向いて、日を諦観すべし。心をして堅住ならしめ、想いを専らにして、(他に)移らざれば、日の没せんと欲して、(その)かたち懸鼓けんくのごとくなるを見よ。すでに日を見おわらば、眼を閉ずるも開くも、みな(日没のかたちを)明了ならしめよ。これを〈日想〉とし、名づけて〈初観しょかん〉という」。50-51頁
親鸞の夕陽礼拝。居多神社に親鸞聖人の真筆と伝わる「日の丸の名号」が保存されている。その経緯について、研究者の吉田唯は論文「日の丸名号」において以下のように説明している。「それ(『居多浜御旧跡日の丸名号略記』―引用者)によれば、親鸞が三十五才の時、「南都北嶺の衆徒の妬」みにより都を追われ、居多神社の前浜に着船し、滝の本の助惣の民家に滞在することになった。そののち、居多神社御手洗で口を清め参詣した途次に、夕日を感得する。その夕日(=日の丸)の中に六字名号を記したのが、この「日の丸名号」であった。/これは、「浄土三部経」の一つである『観無量寿経』に説かれる「日想観」を体得したものと考えられる。「日想観」とは、夕日が沈むさまを見て極楽浄土を想念する観法である」(阿部美香/吉田唯/関口静雄「一枚摺の世界―その小釈の試み(3)」『学苑』第888号、2014年、82頁)。
古代の「裏日本」は「表日本」であり、西方に浄土があり洗練文化が存在したから、浄土に帰る夕陽こそ日本を象徴するという考えがある。西に向かって手を合わせ、拝むのである。能登あたりの海岸では、神社の鳥居は海に向かって建てられている。神は海の向こうから受け入れ、信徒は海の向こうからやってきたという。中国大陸や朝鮮半島から渡ってきた今来の人々がもたらした文化である。日輪に名号を記した「日の丸名号」が居多神社に伝わっている。
上越市名立区の日前(ひのくま)神社の鏡夕陽「日前神社夏至の降神」(2018年6月21日午後6時39分 撮影者:小島雅之)。海岸近くに社殿があるので、夏至の頃、神鏡が夕陽を受けて輝いている。

 
〔還相のすがた 源 哲勝〕
〔引用94〕
親鸞の信仰によれば、自利(入)は往相廻向であり、利他(出)は還相廻向である。/往相は浄土に生れゆくすがたであり、還相は浄土より還りくるすがたである。/浄土は単なる観念界ではなく、客観的実在界である。だから「十万億の仏土を過ぎて世界あり」というような距離感が伴うている。これが浄土教の特徴である。浄土は自利利他円満の理想界である。自利することによって利他を満足し、利他することによって自利を満足する世界である。われわれの現実界は、自利を満足しようとすれば利他を失い、利他を満足しようとすれば自利を失うような矛盾の世界である。/こうした現実の世界の矛盾に悩むものは、その極限において、浄土を願求せずにはいられない。238-239頁
〔注記94〕一方では「浄土は単なる観念界ではなく、客観的実在界であ」り、他方で「われわれの現実界」は「自利を失うような矛盾の世界」なのだから、「われわれの現実界」は「客観的実在界」とは相違しているようだ。なるほど、「論理的思弁を越えている」ようだ。
 
〔念仏と禅 阿部正雄〕
〔引用95〕
浄土というのは、その本願成就において荘厳せられた、阿弥陀如来のいます仏土に外ならない。自力の修行により、直下に自己の本性たる真如を覚りえない機根の劣悪な、我々末法の世の人間は、阿弥陀如来こそ、形なき真如が形をあらわし、十方の衆生を救わずんば自ら覚らぬとの誓願を成就し給うた仏であると信じ、一切の自力自心を放棄し、ひたすらに阿弥陀如来に帰命するのである。ここに南無阿弥陀仏の念仏がある。かく弥陀の本願を信じて念仏もうさんと思い立つその端的に、救いは成就し、必ず真如減度に至るとの往生決定の立場に生かされるのである。256頁
〔注記95〕ここでは、阿弥陀如来は、超自然神である真如(メタフィジカル)が形あるもの(フィジカル)として衆生の前に現われた象徴(メソフィジカル)である。(上の図〔存在圏(バース)の三類型〕を参照)
〔引用96〕親鸞は対象的に仏を念ずる自力的な念仏行を排除して、徹底的に内面の、純一なる信の立場に徹していった。しかもその信があくまで主体的に内へ内へと深く追求されたが故に、却ってその信そのものも衆生の起す自力的な信ではなく、――自力的信もなお虚仮こけである――一切の自力の底をつき破って逆に如来より廻施せられた信である、との絶対他力の信に転入したのである。265頁
〔注記96〕「主体的に内へ内へと深く追求された」結果、「一切の自力の底をつき破って逆に如来より廻施せられた信」となる、その反転は自力でなく他力だということ。その反転は如来のはからいということなのだろう。
 
★第8巻 教行信証(三)
〔仏陀のさとり―光明無量・寿命無量- 曾我量深〕
〔引用97〕
現在は過去及び未来をその内容として、過去を過去の相において、また未来を未来の相において、現在の中に包むものである。故に南無弥陀仏の中に、無上涅槃も還相廻向も未来の相のままで現在している。このように考えて来ると、現在というものは、単なる現在ではないということがわかって来る。164頁
〔注記97〕「過去」とあるが、それはいつのことか、この生におけるものか、往相におけるこの生のことか? 「現在に包む」とあるが、未来も包めるのか?
〔引用98〕即ち阿弥陀仏を念ずるのは、我々が自力をもって念ずるのではなくて、弥陀の本願力によって念ぜしめて下さるのである。然るに諸仏を念ずる場合には、我々は我々自身の立場から自力を以って念ずる。神に対する祈りもまた同様である。172頁
〔注記98〕「諸仏を念ずる」者は真宗門徒ではないのだから、話題にする必要はないはずだが。
 
〔仏法不思議ということ 二村龍華〕
〔引用99〕
さて、仏教では、すべての人間はそのままでは迷うていると言う。一体、迷うとはどう言う意味か。また、人間は迷うているとは、どうして言えるのか。迷いの反対は悟りであるが、迷うていると言うことは、さとりが成り立って、はじめて言えるのである。まよいがあって悟りがあるのではなく、悟りが成って、迷いがあるのである。174頁
〔注記99〕言いえて妙である。釈迦が仏教を説くまでは、迷っている人はいなかったのだろう。
〔引用100〕未開時代の宗教が、すべて外に神を立てたり、悪魔が想像されたりすることも、法性を失うているから、それが変形して外に神となり悪魔となっているまでである。また、弱肉強食とか、生存競争とかいうが如きも、法性を見失うた相だとも言えよう。/法性は、諸法をむすぶ糸とも言うべきであるから、これを見失うと、諸法は支離滅裂の個々物となる。それ故、個々物は自己を第一とし自己を守るために、たがいに奪いあい、食い合う競争をするのである。176-177頁
〔注記100〕「未開時代の宗教」とは釈迦以前か釈迦以外のものだから「法性」とは無関係である。もともと存在していないのだから、したがって失うこともない。
 
〔他力への歴程 序説 武内義範〕
〔引用101〕
晩秋の午後の一日、私は比叡山にのぼったことがあった。その日の印象は忘れることが出来ない。澄み切った空を映じて琵琶湖の水はあくまでも深く、遠く竹生島の姿までくっきりと浮び出ているその眺望は、あたかも大きな水盤のように私の眼下にひらけていた。(中略)それは今日幸いにも、私は源信や或は若い日の法然も親鸞もが体験していたであろう水想観と日想観とを、ともかくおぼろげながら自らに経験することが出来たということである。230-231頁
〔注記101〕琵琶湖が舞台とはいえ、西方浄土への想いが募る日没の体験として興味深い。〔参考〕潟町海岸(鵜の浜)から居多ケ浜を遠望する冬の日没風景(2010年2月13日 高野恒男撮影)

 
★第9巻 先学
〔親鸞と蓮如 山田亮賢〕
〔引用102〕
従来、親鸞の深さと蓮如の広さということが言われているが、こうした見方は一応承認することが許されるであろう。特に親鸞の人間性の追求には底知れぬ深さが感せられる。しかし親鸞在世中の対社会的活動には、所謂広さは認められない。親鸞自身の性格が関東を主とする有縁の限られたる同行を相手とするに止まり、ひろく社会的に呼びかける態度には出なかった。むしろ真実の救いの道を明らかにして自ら歓び、未来の一切の人々に呼びかけたと言ってよいであろう。その内心の願いに呼応して、数百年の歳月を隔てて蓮如現れ、親鸞の真精神を自ら体験し、ひろく世間に呼びかけて徹底的に教化に尽したのである。したがって親鸞の教えは蓮如を俟って具体的に世に知らされたと言ってよい。そこに蓮如の世に現れた対社会的活動の意義はきわめて大きい。280-281頁
〔注記102〕「親鸞の教えは蓮如を俟って具体的に世に知らされた」と山田は言うが、実のところ、蓮如は親鸞思想を換骨奪胎させたのである。ある意味で、今を生きるための念仏・弥陀称名すなわちレゴメノン(発声の儀礼)を実践する親鸞の文化的行為(弥陀信仰の原初的形態)は、仏像・伽藍・教団という宗教的権威を勢いづかせる蓮如の文明的行為(弥陀信仰の文明瀧形態)によって抹殺されたのである。それはちょうど、マルクス思想を別のレールに脱線させたエンゲルスに似通っている。マルクスは晩年に至って唯物史観の成立しない先史社会(氏族)に注目し、フェティシズムでもって唯物史観を修正したが、エンゲルスは先史社会の原理を種の繁殖(自然淘汰説)に置き換えた。
 
★第10巻 研究
〔親鸞研究について 三枝博音〕
〔引用103〕
親鸞の書きのこしているものを注意してみると、自然の世界のいろいろの物について記しているのが私には眼にとまる。もちろん現代人のいう自然観察を記述しようがためではなく、深こくな且つ貴重な彼の思索のようすを他人にわからせようとして、例を自然界からとって説き明そうと試みたのであろう。(中略)今日人々の用いる厳しい意味での自然法則というほどのものではないが、人間をとりまく自然の世界の法則ということもともどもに考えられているようである。8-9頁
〔注記103〕親鸞は遠流先の居多ケ浜で、海風や季節風、旱天や降雪のなどの自然現象に日常的に触れて7年を過ごした。一言で言うならば、「愛欲の広悔」に身を晒して行きたのである。それが親鸞の、自然観形成の原点だっただろう。
〔引用104〕もし以上のように思索することが正しいとするならば、自然法爾の了解は自然の世界についての法則的知識と無関係ではないであろう。自然法則の知識がそのまま自然法爾の了解ではもちろんないが、自然法爾の了解の可能性を提供するものでなくてはなるまい。それはどこまでも可能性であるにとどまる。しかし、たとえば人間が道徳的な善をふみ行えることは、カントも指摘したように、人間をとりまく環境のぜんたいが人間に道徳的行為をなし得る可能性を提供しているから、はじめてでき得るのである。あたかもそれと同じように、自然法爾という宗教的な思索と行為は、自然界によって可能の条件でもって支えられていなくては、できぬことであろう。26頁
〔注記104〕「環境の凝固・結晶としての人間身体」に似通った議論である。自然環境の凝固・結晶としての自然法爾、である。これまで、身体(身体観)の変化を考察する場合、身体は環境(社会・自然)に向かって、内部から外部へ拡張していくように理解してきた。「道具・機械も身体の一部」という発想がそれである。いうなれば「内発的身体」である。しかし私は、考察のベクトルを反転させ、環境から身体論を構築する。身体の変容は、それが環境へ拡張することによって生じるのではなく、環境が人間身体に吸収され凝固・結晶することによって生じるのである。そのような人間身体を私は「外発的身体」と称している。身体を環境的自然に接続すると、人間身体は環境=外部から、環境の一部を吸収しつつ、外発的に特殊化したといえる。その動きは人の意識に端を発するのでなく自然現象としての環境に端を発していた。それを宗教的な表現に置き換えるならば自然法爾だろう。参考:拙稿「環境の凝固・結晶としての人間身体」、拙著『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年、第9章。
 
〔わが信念 清沢満之〕
〔引用105〕
信念を得るには、あながち此の如き研究を要するわけでないからして、私が此の如き順序を経たのは、偶然のことではないかと云うような疑いもありそうであるが、私の信念は、そうではなく、この順序を経るのが必要であったのであります。私の信念には、私が一切のことに就いて、私の自力の無功なることを信ずると云う点があります。この自力の無功なることを信ずるには、私の智慧や思案の有りだけ尽して、その頭の挙げようのないようになると云うことが必要である。これが甚だ骨の折れた仕事でありました。その窮極の達せらるる前にも、随分宗教的信念は、こんなものであると云うような決着は、時々出来ましたが、それが後から後から打ち壊されてしまうたことが、幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うている間は、この難を免れませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら不真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何も分らないとなった処で、一切の事を挙げて、悉くこれを如来に信頼する、と云うことになったのか、私の信念の大要点であります。32-33頁
〔注記105〕清沢は、宗教を打ち立てるというよりも、善だとか真理だとか幸福だとか、何らかの概念を堅持しようとしている。一言でまとめると宗教的信念を得ることである。そのために「如来に信頼する」という結論を得た。その結論は一種のトートロジー(同語反復)である。如来を得るために如来に信頼する、あるいは、如来に信頼するために如来を得る、となってしまう。
〔引用106〕私の信念は、どんなものであるかと申せば、如来を信ずることである。その如来は私の信ずることの出来る、又信ぜざるを得ざる所の本体である。私の信ずることの出来る如来と云うのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、その無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である。(中略)如来は無限の能力であるが故に、信念によりて、大なる能力を私に賦与し給う。33/35頁
〔注記106〕清沢の言う「信念」とは、「大なる能力」を授けてくれる「無限の能力」保持者の如来を信じることだ。ところで、「大なる能力」とはいったい何であるか、何に行使するのか、衆生の救済に用いるのか。人間諸個人に必要な信念は、そうした具体性を持っていなければならない。だが、そのような事柄を実践するとなると不可能な事態に陥る。その先に出逢うのが如来ということである。
 
〔親鸞 三木清〕
〔引用107〕
もとより親鸞の思想の特色が体験的であること、人間的であること、現実的であることに存することは争われない。そこに我々は彼の宗教における極めて深い「内面性」を見出すのである。しかし内面性とは何であるか。超越的なものが内在的であり内在的なものが超越的であるところに、真の内面性は存するのである。内面性とは空虚な主観性ではなく、却って最も客観的な肉体的ともいい得る充実である。51頁
〔注記107〕三木はここで「内面性」と「内在性」の二語を使い分けている。前者は「最も客観的な肉体的ともいい得る充実」であり、後者は「超越的なもの」である。その使い分けを相互に関連付けるならば、超越性を内に入れ込んだ肉体、それが「体験的であること、人間的であること、現実的であること」なのだろう。ここに出てくる「超越的なもの」とは、親鸞の場合、弥陀であり如来であるのだろう。
〔引用108〕聖道門は釈尊を理想とする自力自証の宗教として、そこに真の超越性は存しない。しかるに浄土門は釈尊を超越した教である。親鸞は真実の教である『大無量寿経』について、「如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」といっている。弥陀如来の本願や善は釈尊を超越するものである。真に超越的なものとしての言葉は釈尊の言葉ではなくて名号である。名号は最も純なる言葉、いわば言葉の言葉である。この言葉こそ真に超越的なものである。念仏は言葉、称名でなければならぬ。これによって念仏は如来から授けられたものである事を証し、その超越性を顕すのである。本願と名号とは一つのものである。経は本願を説くことを宗教とし、仏の名号を体とする故をもって真に超越的な言葉であるのである。かくの如き教として『大無量寿経』は真実の教であるのである。/しかしこの超越的真理は単に超越的なものとして止まる限り真実の教であり得ない。真理は現実の中において現実的に働くものとして真理なのである。69-70頁
〔注記108〕三木はヘーゲルの弁証法を使って宗教的真理を現実を動かす原動力にあてがっている。①人間釈尊(自然界)の言葉→②弥陀(超自然界)の言葉→③如来釈尊(半自然界)の言葉。ここに記した「半自然界」は私の理論的造語であり、〔メソフィジカル・バース〕とも称する。
 
〔親鸞と戒律 西本龍山〕
〔引用109〕
袈裟を脱いで鳥の肉を食する他宗の人々と、袈裟を著しながら魚鳥の肉を食する親鸞と、両者を対照して其の何れがゆかしいか、ということを学ぶべきである。真宗には戒律は必要が無い、律制の如きは時代錯誤である、異国文化の奴隷たるに過ぎない、ということどもを、真宗の学者達は臆面もなく堂々と述べておる。かくては親鸞の無戒名字の比丘と言わるる謙譲の精神に相応すると思うているのであろうか。危い極みである。それは無慚無愧(むざんむき:引用者)の極である。252-253頁
〔注記109〕西本龍山は、仏教学専攻の岸野亮示によれば、「真宗教学と仏教教理について論述や考究を行い、もって教学の振興と自信教人信の誠を尽くす教師」である。岸野亮示「律尊者 西本龍山:大谷大学と「根本説一切有部律」研究」、大谷大学仏教学会編『佛教学セミナー』第109号、2019年、49頁。「真宗の学者達」への批判の言葉である「無慚無愧(むざんむき:引用者)」とは仏教用語で、何のためらいも臆面もなく悪態をなすことである。それはそのまま親鸞に対する批判とも解することができる。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x15357,2026.06.13)