今生じている事態は、過激なナショナリズムに由来するのか (1)

高橋一行

 
   「ジジェクを巡る思想家たち」はまだ書き続けていくつもりなのだが、先にナショナリズムについて思うことを2回に分けて書く。
 
   昨今の高市首相の人気を支えているのは、中国への嫌悪感だと思う。横暴で日本を脅かすと多くの日本人が感じている、この隣国に対して、強い姿勢で臨むことが人々の支持を獲得する要因である。政権側はそう信じ、またそれは今のところ成功を収めている。
   しかしとりわけ若い人と話していて感じられるのは、必ずしもそれがナショナリズムに基づいているのではないということである。ナショナリズムは、近代国家が持つ、その歴史を国民が感じ取り、その中に自らが属しているという感覚が根底になければならない。しかし日本の伝統が大事だという思いが、彼らの思考様式の根本にあるということは、それほど強くは感じられない。近代国家としての日本が独特の文化を持ち、その中で自らが育ったという感覚は、伝統をしっかり学ぶことからしか出てこないはずだが、そういうものとは異なった、ただただ中国に舐められてはならないという気持ちしか、そこに感じられないのである。
   そしてそれはまた彼らのリベラル左派に対する攻撃的な批判に繋がる。何かを言おうとすれば、本当に中国が攻めて来るかもしれない、この時代において、日本の国力を弱めるような発言はするな。お前は中国のスパイかということが言われる。反日という言葉を子どもも使う。国難のこの時期に、左翼は一体何を言っているのかというところなのだろう。平和ぼけもいい加減にしろということなのだろう。
   一方で、この批判されるリベラル左派もまた問題を抱えているのではないだろうか。私の感覚では、左派にとって、狭隘なナショナリズムは克服すべきものであった。ナショナリズムは悪であるという感覚がずっとあった。そして現在の右派の興隆と言うべき現象を、ただ単に唾棄すべきものとしてしか見ていない。ナショナリズムについて考察しなかったために、現在起きていることを分析し得ない。つまり単に右派をナショナリストと決めつけて、それを悪だと断じているだけだ。
   すると右派は必ずしもナショナリズムに基づいて行動している訳ではないのに、それをナショナリズム故であると左派は批判する。どちらの側も、ナショナリズムという理念を理解していないのではないかということが、本稿で私の言いたいことのひとつである。
   状況をあらためて確認したい。まず高市政権が誕生してすぐに日中関係が悪化した。それは政権発足前から予想されていたことだけれども、実際には予想したよりも早い時期に両国の関係は捻じれてしまう。またその後は、予想していたよりも多くの支持を、政権は国民から得ている。
   いろいろとデータはあるが、どこでも高市首相の支持率は高い。中国との対応一点で、米価が高止まりしていても、日本維新の会や国民民主党との関係において不安があっても、それらは帳消しにされる。そしてこのあとも中国に対して強硬な姿勢を貫き通せば、円安が続いて、日本経済がますます低迷しても、高市首相の人気は維持できるだろう。
   とりわけ若い人たちからは絶大な人気がある。そしてそこに感じられるのは、強いものが勝つという考えを無条件に肯定する心性である。彼らは理念の力は信じない。そして日本が経済でも軍事力の点でも、中国に負けているということが最大の問題なのである。すでに負けていることを嫌でも感じさせられて、しかしそれでいて日本は勝たねばならないと彼らは強く思うのである。
   またある程度の年齢の人たちであれば、自分よりも劣っていると思っていた集団が、妙に自信を付けて、荒々しく襲ってくる、ないしは襲ってくるように見えるという話になる。相手を侮蔑し、しかし心の中では、すでに日本は負けていると思っている。そしてそういう感情は、ナショナリズムとは異なるものだ。
   そういう感情を持つ人たちが相当程度存在し、一方、隣国とは友好関係にあるべきで、戦争を煽ってはいけないと考える人たちもいる。そしてこういう思考パターンの人がリベラル左派と呼ばれるのだが、彼らは原理にこだわる人だと、これは右派からも見なされ、かつまた自らもそう考えているのではないか。理想や道徳を信条とすると言えば聞こえが良いが、左派は右派からは、「思想強め」だとか、「正論ばかり言い続ける」という非難をされているのである。
   このあたりはアメリカ国内の事情と似ている。そこでは、元々自分たちこそがアメリカ人であると思っていた人たちからは、流入する移民や、黒人や女性や低所得層が、自分たちよりも良い思いをしているように見えてくる。自分たちがアメリカの主流だったはずなのに、いつの間にか疎外されている。そういう、没落しつつあるアメリカで必死にトランプを支える人たちの感情と、興隆する中国に脅かされる日本の人々の気持ちは、異なるものではない。つまり、日中には隣国関係の歪があり、アメリカには自国内の階層間の軋轢があるということだ。
   さて、日本が中国に対して優越感を持っていたのは、日清戦争から太平洋戦争までの期間に留まらず、私の感覚では、さらに戦後に日本が経済的に急成長したことに由来すると思う。中国は過剰な人口を抱えて、貧困に喘いでいるというイメージは、私の世代では長く共有されていた。それが本稿のこのあとに正確なデータを示すが、簡単に言えば、今から15年ほど前に、日本のGNPは中国に追い越され、気付いたら今や大きな差を付けられている。このことに私たちは戸惑っている。あんな奴らがいつから偉くなってしまったのだ。おかしいだろうという訳だ。
   そして若い世代だと、中国は最初からに大国で、しかし大国なのに大国の品位がなく、日本を攻撃する。それに苛立つ。それに屈してはいけないと思う。
   一方、中国は中国で、昔から世界の中心にいたはずだったのに、この百年余り、日本に支配され続けたことに対する、猛烈な屈辱感があるだろう。経済でも軍事力でも日本を圧倒して優位に立った今、やっと復讐ができるようになったのに、日本は相変わらず、中国を攻撃し、中国を苛立たせる。
   そういう情念が、昨今の世界を覆っているもののひとつである。そしてもうひとつは、国際関係の大きな変化があり、それに誰もが対応できないでいることから来るもどかしさであると、私は見ている。それは今述べたような、日中関係の大きな変化があり、また日本を守ってくれているはずだと思われたアメリカが、トランプ政権の下で大きく変容する。それは大国の力を失いつつあり、国内の支持者の要求もあって、世界のリーダーであることを止め、かつトランプ大統領の方針が、思想や信条よりも、その場その場のディールを重視するものであるということもあり、かつ世界は大国が支配すれば良いのだとして、中国やロシアの横暴を認めてしまったという、そういう変化がある。
   問題はそれを今後どうするかということについて、上手な対策がなされていない。高市首相がやっているのは、事態をアメリカに守ってもらうことでしかない。しかし右派からすれば、それ以外に対策はない。首相がトランプ大統領に会い、その隣でピョンピョン犬のように跳ねていたという批判があるが、しかしではどうしたら良いのか。中国と対決するためには、アメリカの庇護がいる。ひたすら庇護を求めるしかない。他にどうしろと言うのか。短期的な話としては、右派は現実的な対応をしているのである。
   しかしそれは長期的には適切な路線だとは思えない。アメリカが日本を守ってくれると思う訳にはいかない。
   中国は権威主義体制の下、圧倒的なスピードで経済成長をし、IT技術を開発する。日本は当然人権を尊重しないとならないし、時間の掛かる民主主義的な手続きを重視する。中国はそういうことを無視して、経済発展に邁進する。そして日本はすでに中国に後れを取り、その差は開く一方で、経済的に振り回されている。さらにいつの日か、武力で蹂躙されてしまうという恐怖感がある。
   そういう危険があるときに、中国に対して強い姿勢で発言をするリーダーが人気を得るのは当然である。しかしそれが事態を一層悪化させるのだけれども。
   要するにそこにあるのは、妬みや僻み、劣等感であって、ナショナリズムではない。しかしこれは日本の側だけの話ではなく、中国が執拗に日本攻撃をする理由でもある。双方が情念で動いていて、しかし根底では、経済の繋がりは相当に深く、今後も結構何とかうまく、その活動は続けていけるように私には思える。果たして日中はこんな感じで進むのか。世界はどうなるのか。そしてそれにどう対処するのか。このことを考えるのが、本稿のもうひとつの問題である。
   それは現状分析において、ナショナリズムが見られないということの確認と、しかしその解決策に、ある程度のナショナリズムが必要だということになる。そしてその際に、これは本稿のこのあとで詳しく書くが、まずナショナリズムとは何かということを書いておく必要がある。
   こういう時にしばしば引用されるA. ゲルナーを使えば、それは「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する、ひとつの政治的原理である」というものである(ゲルナー)。ここで政治的な単位とは国民国家のことで、それは国民のためにあるとする考え方である。そこで私たちは、日本は日本人のためにあり、中国は中国人のためにあると考えるから、つまり自国民と自国民でない人たちとを分けるから、その原理の中に排他性はある。しかしその排他性は、直ちに他国民を侮蔑せよということには繋がらない筈である。とすれば今、日中間で起きているのは、双方のナショナリズムのぶつかり合いではなく、今までの歴史的な軋轢が蓄積されて、ついに感情的な高まりが噴出したものだと見做すべきものなのである。
   今後の世界の情勢も、各国の国民の持つナショナリズムでは説明できないという認識が前提で、その上でどうするかということを考えねばならない。まず世界は、アメリカ一国が支配する時代は終わり、いくつかの大国が世界を支配するようになるだろうと思われる。その際に、大国と小国では、採るべき戦略が異なる。
   まず大国は好き勝手に自己主張を強めるだろうと思われる。そういう時に小国は、ナショナリズムを基盤にして、他国と協調し、そこで正義を求めていくしかない。
   そういう結論に向けて、以下、先に論を進める。
 
   ここで与那覇潤『中国化する日本』(2011)を参照する。
   中国社会とは、法の支配や基本的人権や議会制民主主義――以下、これらをリベラル民主主義の理念と言う――が欠如した社会であると与那覇は断じている。与那覇は、ここで視点を逆転させて、むしろなぜヨーロッパ社会にそれらが発達したのかと問うてみる。するとヨーロッパは中国よりも遅れて発展し、中世の貴族社会が長い間力を持っていて、王に対抗するために、上述の概念が生まれ、その貴族の権益を下位身分に分け与えることで、それらは広まったのである。
   ところが中国は早くに近世社会に入ったために、特権貴族がいなかった。それが中国でそれらの概念が発達しなかった理由である。そして日本もまた、江戸時代に貴族ではなく、ムラやイエが貴族の代わりをした。そのために今でも日本では、議会政治よりも、行政の長が専制を振るうことが好まれる。議論をするのではなく、選挙に勝った首長の独断が評価される。これはこの本が書かれた当時、各地域に、ポピュリスト的な首長が誕生したということを踏まえての主張である。日本は元々西欧の概念よりは中国のそれを好み、かつ、今ますます中国化していると著者は断じるのである。
   この本は2011年の本であって、15年経った今、ずいぶんと状況は変わってしまったのだが、しかし著者の言うところの根本は変わっていないと思うし、日本が中国化しているという、著者の主張自体は、ますますそうなっているので、日本の分析については、著者は正しかったと思う。
   しかし、ではさてどうするかというところで、私には著者の主張は物足りないと思う。著者は、中国に理念を突き付けよと言う。中国は経済や軍事力でアメリカを抜くかもしれないが、そこに理念がないから、中国に元々あった筈の儒教や道徳精神を中国に気付かせよということになる。
   これに対しては、中国はこの15年、ずいぶんと経済発展させて、今や日本の言うことなどまったく聞かなくなってしまっただろうと思う。日本から中国への働き掛けについては、絶望的にまで、その可能性はなくなったのである。そして日中は互いにつまらない情念で小競り合いをしつつ、ずっとそういう対立関係が続いていくのではないか。日本はますます中国化するかもしれない。そして中国は、今後も欧米化という意味での進歩はしないように思える。
   日本のGNPが中国に抜かれたのは2010年である。つまりこの本が書かれていた当時の話で、今、2024年のデータで言えば、中国の名目GDP(推計)は18兆7496億ドルで、日本のそれは4兆194億ドルである。つまり日本の経済力は、中国の4分の1以下である(注1)。これだけすでに差を付けられていて、問題は今後ますますその差は大きくなるだろうと思われる。今や日本が中国に何か影響を与えることなどできず、ただ単に日本は中国に飲み込まれていくだけだということになる。
   ここで注意をしておけば、私は中国がマルクス主義の理念を実現している国家だと思ったことはない。上述のようなリベラル民主主義を欠いた権威主義の国家であり、一党独裁の国家であるために、国家が主導して資本主義を急速に発達させ得た国である。これが私の中国観である。
   もうひとつ、根本的なことを言えば、先にも書いたように、今アメリカが、「法の支配や基本的人権や議会制民主主義」といったリベラル民主主義の考え方を捨てつつあるということである。つまりアメリカも今、中国化しているのである。これが15年前には考えられなかったことなのである。かつてトクヴィルによって、民主主義の理想が実現されているとされたアメリカが、それを捨て始めている(トクヴィル)。
   繰り返すが、日本もアメリカも、リベラル民主主義を捨てて、権威主義国家になりつつある。これを中国化していると表現して良いのである。
   そしてここから得られることは、日米は、リベラル民主主義を共通の理念として持つ友好国ではなくなったということである。どちらも中国と同じく、互いに自国の利益を追究する、理念なき国家になったのである。
   世界は中国化する。それはしかし、20世紀のアメリカがそうだったように、中国が世界を支配するということではない。アメリカは力が弱まったと言っても、今尚、強国である。さらにインドも人口の点では中国を抜いており、今後の経済発展も期待できる。ロシアもその軍事力と、かつての強国だったという意識を今尚、頑強なまでに持ち続けている。そういう世界情勢は20世紀のものではない。つまり世界は中国一強ではない。また何より、中国の理念のなさは、世界のお手本となり得ない。世界をソフトに支配することはできないだろう。
   そういう大国が小競り合いを続け、その中で日本をはじめとした、世界の小国は翻弄されるというのが、私の見立てである。
   現実に起きているのは、情念のぶつかり合いであって、ナショナリズムの対立ではない。そしてその背景にあるのは、政治体制と国際関係の変化である。その変化に誰もうまく対応できていない。右派はそれをナショナリズムの対立であると考えて、それはもう対立するしかないのだと居直って、対立が日に日に激化するのをなす術もなく、放置している。左派もその対立をナショナリズムに基づくものだと考え、かつそれを悪だと見做して、ただ単に非難するだけである。
   もう少し先に論点を進めていきたい。その左派について考察するのが、次の課題である。そもそも左派は昔からナショナリズムを正確に把握することができなかったのではないか。
   例えば、次のようなことがかつてあった。まずマルクス主義は国家の死滅を唱えていたから、マルクス主義者はナショナリズムに対しては当然批判的になる。それはブルジョア階級の意識の産物である、と。しかし大澤真幸が書いているが、第一次大戦時に、各国の労働者は一斉に自国の戦争をナショナリスティックに支持したのである。マルクス主義は、世界中に革命が起きるだろうと考え、つまり普遍主義を旨とするのに、各国のマルクス主義者はそう考えなかった。世界革命よりも、自国の利益が大事で、そのために戦争を支持したのである。このことにレーニンは驚愕する(大澤2007)。そして私たちは今なお、このことの意味をきちんと考える必要がある。
   日本でも左派はナショナリズムには懐疑的と言うより、ナショナリズムを馬鹿にしている。しかし国家の役割は現実的に随分と大きなものがあり、それに依拠している以上、国家についてきちんと考えねばならないのである。それが、マルクス主義者が考えたように、いつの日にか国家がなくなるというのなら、その消滅の必然性についても考えねばならないが、現実にそう簡単になくなるものではなく、実際私たちが国家の庇護の下で暮らしている以上、ナショナリズムについても拒否するだけで良いということにはならない。
   ここで萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』を読む。この本も、先の与那覇の本と同じく、2011年に出版されたものである。
   彼はまずポストモダンと言われる人が皆、ナショナリズムは悪であると考えることに強い違和感を覚える。上述したように、マルクス主義者は多くがそう考えてきたのであって、マルクス主義にポストモダンが変わったとするならば、今やポストモダニストがナショナリズム嫌いになったということだ。厳密に言えば、ポストモダンを拒否してマルクス主義に留まった人もごく少数ながらいるが、マルクス主義を批判してポストモダンに移った人と、マルクス主義の感性を残してポストモダニストになった人と、このふたつが今やリベラル左派を構成している。だから私は、萱野がポストモダニストと呼ぶ人たちを、ここでリベラル左派と呼ぼうと思う。
   そして萱野が言うのは、彼らが日本における格差を重視して、その対策を求めるのなら、それは国家の仕事になるということだ。そこで私たちはナショナリズムに依拠することになる。ナショナリズムの感情を基盤に、国家に働き掛けていくことになるからだ。すると、ナショナリズムに頼っていながら、それを拒否することになり、それはおかしいという話になる。萱野の言うところは尤もなことである。
   これは私の言い方で言えば、左派の使命が、今や労働者による国家の転覆ではなく、国民の福祉を守ることになったということであるならば、左派は国家を大事に思い、国家によって、その目的を達することを考えるべきであるということになる。
   さらに萱野は次のような皮肉を言う。日本の人文系の人たちは、ナショナリズムを道徳によって克服しようとしているのではないか。彼らの言い分では、ナショナリズムは他者を排斥するから良くないということなのである。この点で私は萱野と同じ思いをリベラル左派に対して持っている。そしてそこで、この道徳は余りに無力であると言わねばならない。萱野は、ナショナリズムが排外主義に向かわないよう、ナショナリズムの内部からナショナリズムを加工しなければならないというのだが、この点も同感である。
   要するにナショナリズムそのものが右翼的であるという訳ではないということである。その役割と意義をリベラル左派も認識すべきである。
 
   さて本稿で考察すべき、もうひとつの論点は移民である。ここでもまず左派は、移民を積極的に受け入れるべきだと言う。その根拠は、移民の人権は守るべきであり、彼らが自国で暮らしていかれない事情があるのなら、先進国が彼らを受け入れるべきだというのが原則になる。A. ネグリの『帝国』の結論は、すべての人々が自由に国境の垣根を超えて自由に行き交うことができることとなっていて、しかしそれでは先進国は移民で溢れ返るだろう(ネグリ)。
   そしてまた、そこに移民を締め出せという右派の強い主張が出てくる。それを国民が支持し、そこで左派はどんどん後退していくのである。これは右派の主張というより、国民感情がそうなっているということが問題である。日本においても、欧米諸国に比べれば移民は極めて少ないというのに、すでに外国人排斥の感情は強くなっているのである。
   この外国人排斥は、日本では次の3つのレベルで起きているが、それがしばしば混同される。ひとつは、増える旅行者である。そこでは彼らのマナーの悪さが問題になる。実際私も京都にはここ数年出掛けていないが、外国人が多過ぎて、出掛ける気になれないからである。第二に、外国籍の金持ちが不動産を買い占めて、民泊を経営したり、土地やマンションを投資の目的にして、値段を釣り上げていることである。そして第三に、外国人労働者の問題があり、これもしばしば外国人が日本の治安を悪化させているとされる。彼らは不法滞在をし、犯罪者になると言われるのである。
   これら三つは、まったく別の話として解決の手段を講じなければならないのに、すべて一緒くたにして、外国人排斥に繋がっている。
   しかし第一の問題は、円が極度に安く、日本経済が低迷していて、外国人には安い物価の日本が魅力的だということが問題の根本で、この経済問題が根本だという認識の下で、円高にシフトさせ、経済水準を上げるという改善がなされれば、適度な数の外国人が日本を訪れてくれるようになる筈である。それで問題の多くは解決すると思う。あとは適切な額の税金や手数料を外国人旅行者から取って、諸施設の整備に充てれば良い。つまり外国人の方に、この問題の根源があるのではないということなのである。
   第二の問題については、これは民泊の基準を厳密にし、法を守らない場合は厳罰に処し、また投資目的の不動産の売買に対しては、法の改正や手数料の値上げをするなど、いくらでも解決案はある。
   私が言いたいのは、それらはそれだけの話であって、大騒ぎする話ではないということである。ただ今までの日本の対応が遅れていたということだけは確かであり、早急に対策を講じれば良く、これもそれだけの話である。
   さて大きな問題は第三の点についてである。
   そもそも1年以上外国に滞在したら、それは国際標準では移民と称するのである。それを日本では、移民という表記を嫌って、外国人労働者と言う。まずはそのあたりから考えねばならない。つまり日本経済にとって、一定数の移民が不可欠だという認識は必要である。そして移民として受け入れるのなら、その状況を正確に把握しなければならない。その上で移民に対する福祉も必要になってくる。これがまず指摘すべき、最初のものである。
   さらに、これ以上円安が進み、日本経済が低迷すれば、移民は日本に来なくなる。そしてこれが最悪の状況なのである。つまり、ある程度移民が来てくれるくらいに経済を整えねばならない。従って、私が言いたいのは、日本の経済の要求に従って、もう少し移民を増やして良く、そして彼らを受け入れるのなら、当然配慮が必要だということに過ぎない。しかし日本ではそういう議論ができない。議論をする前から、移民排斥の感情が人々の間に強くあるからだ。
   つまり移民の問題は感情的にならずに、ひとつひとつ解決していくしかない。しかしそこに、さらに厄介な問題が入ってくる。つまり上述の問題にすべて中国人が絡み、そして相手が中国だと、日本人は冷静になれなくなる。
   実は、ひとつひとつは大きな問題ではない。しかし3つの問題が重なって、ごっちゃにされて、そこに嫌中という問題が入ってくるから、大きな問題だと見なされる。
   まず第三の外国人労働者の中で中国人の割合は年々減っているという事実は指摘すべきである。2024年10月のデータで、外国人労働者は230万人いる。その内、ベトナム人が最も多く、約57万人である。次いで中国人の約41万人で、以下、フィリピン人、ネパール人、インドネシア人と続く。最近ではミャンマー人も増えている。
   さてこの中国人の41万人をどう見るか。中国のあの圧倒的な人口の中では、これは極く少数者である。2025年7月のデータで、中国の人口は14億1932万人だから、日本に労働者として来ているのは、わずかに0.02%である(注2)。つまり彼らが、日中間の諸問題にとって、大きな影響を与えている訳ではない。
   また次回、ヨーロッパの移民について論じるが、その問題の大きさと比べると、日本はまだ移民の規模は小さい。今の内に議論をして、その上でもう少し受け入れれば良いのである。
   ここでも嫌中ということで言えば、第一と第二の問題が大きい。つまり、いつのまにか彼らはそんなに金持ちになったのかということである。経済的に豊かになった中国人が気に食わない。そのやっかみが根底にある。そして移民としてやって来る、少数の貧乏な中国人も嫌われる。しかしこれは、移民の問題ではないと思う。移民の問題としては、あくまでも経済的に貧困であるために日本に入ってくる、アジア諸国の人々の問題が本質的なものである。
   ここでそろそろまとめに入る。さて、これは何度でも書くが、日中のこの関係を、相互にナショナリズムをぶつけ合っているとは言えないだろう。日本の側は、今まで馬鹿にしてきた相手が急激に力を付けてきたので、それに惑い、またそのことに恐怖も感じている。中国は中国で、相手を恨み、また今や見下してもいる。同時に、日本はかつてGNPが世界第二位だった輝かしい時代に郷愁を感じつつ、静かに落ちぶれていくことに耐えられない。中国は、これだけ力があるのに、世界から正当に評価されないことに対する苛立ちがあろう。
   すると結論として次の様にいうことができる。今、ナショナリズムの問題としては解明できない事象が、ナショナリズムの装いで現れているのである。
   ここで良いナショナリズムと悪いナショナリズムがあるというのではないということは、多くの論者が強調することである。つまり良いナショナリズムに見えたものが、いつの間にか悪いものになっていたり、悪い面であるのに、それをナショナリズムの名の下に正当化することもある。まずはナショナリズムとは何かということを正確に把握すること、またナショナリズム的であっても、ナショナリズムの問題として論ずべきでないことは、つまり別のカテゴリーで論じるべきであることは、それはそれとして確認されねばならない。
   では日中関係は何が問題なのか。ひとつは歴史に由来する国民同士の情念の問題である。またもうひとつは、新しく国際関係が組み直されつつあって、それが過渡期であるために、その対処法が確立されていないために起きるものである。
   この後者の問題は、今や世界中で生じている問題である。つまり今まで優位だったものが没落することから生じる問題というのは、今のアメリカがまさにそうである。白人中産階級が没落し、アメリカ全体が衰えつつある。それに対する恨みと、新しい秩序に対応できないもどかしさがある。
   そのアメリカも、トランプが言うように、石油を掘り、大きな軍艦を造って、製造業を回復させることで、問題が解決するとは思えない。日本とアメリカの政治家は製造業に固執し過ぎている。この点で中国の指導者の方が先んじている。
   以上が状況認識である。そして差し当って、ここから日中関係とアメリカ国内の階層の対立について言えるのは次のことである。
   人はまず多くの場合、ナショナリズムのような理念で動いているのではなく、嫉妬や妬み、劣等感と裏腹の優越感、人を蹴落として見下したいという気持ち、過去の郷愁と言った情念に突き動かすされているのだということを押さえておく。
   第二に、今は大きな変革期で、今まで支配していた人々は没落を嘆くだけで、新しく自分の活躍する場を見出せない。一方で新しく興隆してきた人たちは、まだ社会を主導する力に欠けている。日中関係における中国の優位と日本の没落、世界における超富裕層の寡頭支配と中産階級の没落という事態が、今、生じているのである。
   第三に、中国が民主化せず、世界のリーダーになれないのに、逆に日本やアメリカが中国化しているという問題がある。
   第四に、そうこうしている内に、いつ戦争が起きるかもしれず、また環境破壊は進み、人々の格差は拡大し、人類の崩壊の可能性は高まっており、それに対しては何としても対策を打たねばならないということも指摘すべきである。
   さて事態を正確に認識すれば、問題の半分は解決する。
   第一に、人は情念を排して解脱する訳にはいかないのだが、せめて今生じている事態は、情念のぶつかり合いが原因なのだということは理解して、できる限り冷静にならないといけない。まずは自ら反省し、かつ相手も落ち付いてくれるのを待つしかない。
   繰り返せば、右派はいままでこの情念に居直っていたのだし、左派はこの情念を軽視し過ぎてきたのである。
   日中間で言えば、まだ双方が経済的には繋がっているから、そのことは確認して、罵り合いの収まるのを待つしかない。日中は感情的には対立しているが、しかし経済的には双方が双方を必要としていることを確認すべきである。
   ここでも必ずしも両国の友好関係を強めるところに力点を置かなくても良い。諸個人が国家を超えて友好関係を持つのは良いのだが、しかし国家としては、敵対関係にならなければ良いという程度の付き合いが必要だと思う。
   第二に、日本は小国としての戦略を立てる必要がある。感情のぶつかり合いだと、最終的に得をするのは大国である。大国は、最後は力でやりたいことを実現できるからだ。それに対して小国は正義に訴えるしかなく、そのためには戦略が必要で、他国からの協力を得なければならず、感情ではなく、理に適った主張が必要なのである。つまり私たちの国は小国であるという自覚の下、必死で戦略を練らなければ生き残れない。
   具体的にはまず第一に、アジア諸国と連携をすること。第二に、ヨーロッパ諸国と、大国への対処の仕方を議論すること。そして第三に、中国の支配に喘いでいるアフリカ諸国を含めて、途上国に援助をし、味方に付けること。これらの処方箋が考えられるだろう。
   また第三、第四の問題については、次回に扱う予定である。
   最後にS. ジジェクを引用する。これは2020年の本にある(Žižek 第7章)。
 

   ドナルド・トランプは、こうした新しいタイプの猥雑なポピュリスト的「主人」を象徴する人物であり、彼を非難するありがちな議論、つまりトランプのポピュリズム(貧しい一般市民の福利への顧慮)は見せかけで、彼の実際の政策は金持ちの利益を保護することであるというのは、あまりにも近視眼的である。トランプ支持者は、「非合理的」に行動している訳ではない。トランプ支持者は、自らの利益に反する票を投じるような、単純なイデオロギー操作の犠牲者ではなく、彼らの観点からすれば極めて合理的に行動している。彼らがトランプに投票するのは、トランプが売り込んでいる「愛国的」ビジョンには、治安や安定した雇用といった、彼らの日常的な問題が盛り込まれているためである。トランプが礼節の初歩的な規範を大胆に破る仕方は、支持者に猥雑な享楽を感じさせるだろう。しかしながらトランプは単に、そうした猥雑な享楽を生み出すメッセージを、恥知らずに私たちに浴びせるだけで勝っている訳ではない。その驚くほど下品な言動を通してトランプは、筋の通った物語を支持者に提供しているからだ。それは非常に限定的で捻じれているのだが、それでも、リベラル左派の物語よりも明らかに効果的に機能する。彼の恥知らずな猥雑さは、いわゆる「普通の人々」との連帯のサインとして機能している。それは「ほら、私はあなたと同じだ。肌の下にはみな同じ赤い色の血が流れている」というものだ。そしてこの連帯は同時に、トランプの猥雑さが限界に達する地点を示すものでもある。
 
   トランプの成功の「病理」を検討するために精神分析は必要ない。精神分析の対象となるべきは、トランプの成功に対する、リベラル左派の反応における非合理的な愚かさだけである。・・・トランプの言動のなかでも最も下品な部分を利用するには、それを学ぶ必要があるのだが。

 
   リベラル左派はトランプを批判する。リベラル左派は自らが正しいと思っている。しかしそのために彼らはトランプに対抗できないのである。トランプは馬鹿で、私たちは賢いとリベラル左派は思う。それは間違いなくその通りなのであるが、しかしリベラル左派がそう思っている限り、彼らは大衆からの支持は得られない。一方で、トランプは何をしても、一定の支持を国民から得ている。
   このことは日本においても、かなりの程度当てはまるのではないだろうか。ただ日本もアメリカも、没落に向かう道を歩んでいる。
 
   次回はヨーロッパの状況を中心に書く。日中とアメリカとはまた異なった状況がヨーロッパにある。私自身が昨年フランスに滞在したときの印象も交えて、ヨーロッパに起きている世界史的変革について述べたい。またドイツでは、難民の受け入れに懐疑的な左派が登場している。そういう考えも紹介する。
   またその際に、1980年代に出てきた、例えばアンダーソンなどのナショナリズム論を参照する。そして最後に、先の第三と第四の問題を考えたい。
 

1 IMF統計に基づく。出典は「世界の名目GDP 国別ランキング・推移(IMF)」。
https://www.globalnote.jp/post-1409.html
2 厚生労働省「「外国人雇用状況」の届出状況まとめ(令和6年10月末時点)」に拠る。
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_50256.html
人口については「世界の人口 国別ランキング・推移(国連)」に拠る。
https://www.globalnote.jp/post-1555.html

参考文献(五十音順。次回使うものも含む)
アンダーソン・ベネディクト『増補 想像の共同体』(1983)白石さや他訳、NTT出版、1997
大澤真幸『ナショナリズムの由来』講談社、2007
—-   『近代日本のナショナリズム』講談社、2011
萱野稔人『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』NHK出版、2011
カント・イマニュエル『永遠平和のために』(1795)宇都宮芳明訳、岩波書店、1985
工藤庸子『宗教vs.国家』講談社、2007
ゲルナー・アーネスト『民族とナショナリズム』(1983)加藤節監訳、岩波書店、2000
小島望 「「ドイツのための選択肢」に抗するための選択肢? ザーラ・ヴァーゲンクネヒトと「左翼保守」であること」『白鷗法学』 No.31-1、2024
—-  『ネイションの名の下に 三王国戦争とナショナリズム起源論』彩流社、2025
塩川伸明『民族とネイション ナショナリズムという難問』岩波新書、2008
Žižek, S., Hegel in a Wired Brain, Bloomsbury Academic, 2020
ジジェク・スラヴォイ『性と頓挫する絶対 弁証法的唯物論のトポロジー』(2020)中山徹他訳、青土社、2021
スミス・アントニー(1986)『ネイションとエスニシティ』(1986)巣山靖司他訳、名古屋大学出版会、1999
高橋一行『所有論』御茶の水書房、2010
—-  『知的所有論』御茶の水書房、2013
—-  『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス 政治と宗教の今』岩波書店、2018
トクヴィル『アメリカのデモクラシー (1)-(4)』(1840)松本礼二訳、岩波書店2008
トッド・エマニュエル『帝国以後 アメリカ・システムの崩壊』(2002)石崎晴己訳、藤原書店、2003
—-  『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(2015)堀茂樹訳、文芸春秋、2016
—-  『第二次世界大戦はもう始まっている』(2022)大野舞訳、文芸春秋、2022
ネグリ・アントニオ&ハート・マイケル『帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(2000)水嶋一憲他訳、以文社、2003
ピレンヌ・アンリ『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニュ』中村宏他訳、創文社、1960
与那覇潤『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』文藝春秋、2011
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x14490,2026.01.06)