森忠明
先夜、WOWOWで「デンバーに死す時」(ゲイリー・フレダー監督)という映画をみていたら面白いシーンがあった。大衆食堂に集まった札付きの悪党ども五人が、犯罪計画の最中に汚い言葉でののしり合い胸ぐらをつかみ合う。すると首領格のアンディ・ガルシアだったかが「よせ、(他のテーブルに)子どもがいるんだぞ」と叫ぶ。いったんはおさまる。でもすぐに殴るけるの大げんか。今度は別の悪党が「やめろっ、子どもの前だ」とどなる。刺青だらけの獰猛な大男たちが、しきりに子どもを気にする、という設定は、いわゆるシリオコミック(まじめでこっけい)で、アメリカ映画特有の上等のユーモアと思われた。
それだけでなく、なかなか味のあるセリフが多く、「人生は子ども時代の夏休みのように早く過ぎ去る」とか、「自分にとって大切なものを十項目あげるのはむずかしい。たいていは五つか六つだ」なんていうのには感心。後者の字幕を目にして私が想起したのは、寺田寅彦が関東大震災の翌日に書いた日記の一部分だった。旧字体を改めて引用する。
〈―さて避難しようとして考えて見ると、どうしても持ち出さなければならないような物は殆ど無かった。ただ自分の描き集めた若干の油絵だけが一寸惜しいような気がしたのと、人から預かって居たローマ字書きの書物の原稿に責任を感じたくらいである〉
五年前、私たち親子三人が借りていた家は、戦前に建てられたとかで貫禄は充分なのだが、地震や火事が心配。いざというときには何を持ち出そうか、どこへ避難するか―妻とたびたび防災会議をしていた。根太は腐っているし、かなり恐ろしい家だったから会議も真剣にならざるをえない。妻と出した結論は、子ども以上に大切なものはなく、どうしても持ち出さなくちゃならない物品は一つか二つ、ということだった。貧乏文士のメリットである。
どこへ避難するかは決まっていて、それは昭和記念公園。ついこの前までは米軍立川基地だった所だ。もっと前は日本陸軍の飛行場だった。
「大正のなかばに参謀本部が綿密な地質調査をやってな、関東で最もしっかりした地盤はここだって選んだのが立川さ。地震でもよそより揺れないのはそのせいだよ」
とはわが父の説明。そう信じていたいらしいので反論しなかった。
父と地震、というと恥ずかしい記憶がある。父は立川東宝で、中学生の私は立川名画座で映画をみていると、グラグラッときた。私はあわてて外へ飛びだした。揺れはすぐにおさまった。外へ出たのは私だけで、戻ってみると座席は他の客にとられていた。帰宅した父は苦笑いしながら言った。「東宝で表に飛びだしたのはオレだけだったよ」
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『じしん、こわかった・大震災にあった子どもたち・1年生』(震災をつたえる会・編、小峰書店、本体一四五六円、九六年三月刊)は、阪神・淡路大地震で被害を受けた小学生たちの体験記を集めた貴重な本。六年生までの全六巻構成なのに、なぜ一年生の巻をとりあげたのかというと、私の父が常々こう言っているからだ。「八十年生きてきて一等こわかったのは小学一年で体験した関東大震災。一等悲しかったのは弟に死なれたこと」
関東名物?の赤土からわきだす泥のような水を飲むほかなかった、と父は語るが、この本でも水が出ない辛さを記す子が多い。給水車が四国や新潟など「とおいところからきてくれたから、わたしも水くみがんばるね」(西宮市・あらやまのぞみ)。恐怖と喪失の中で、人々の善意に感謝する子どもたちの文章は、警世や啓発をこえて、死者六千三百余人への鎮魂の書となっている。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x13673,2025.07.31)