森忠明
高校二年の秋、詩人の谷川俊太郎氏に電話して「会っていただけませんか」と言った。怖い物知らずとはあのことだ。詩人は快くOK。数日後に西荻窪のこけし屋という喫茶店で会ってくださった。十七歳、学生服の私が緊張して待っていると、当時(一九六五年)三十四歳の谷川氏がスカイグレイのポロシャツ姿でドアを開けた。胸をときめかせて憧れの人の前へ歩み「谷川俊太郎先生でいらっしゃいますね」。詩人はうなずき「ぼくのこと、わかりました?」「はい、教科書のお写真で」「ぼくって有名なんだね」。さりげなく少しもキザでない口調。
「今の日本で、詩だけで食べてるの、ぼくだけなのね」「高校生こそセックスやエロチシズムについての詩を書いてほしいな」
夢のような三時間だった。三十二年も前のことだけれど、つい二、三年前のことのようだ。別れしな「写真を撮らせてもらえますか」とたのんでみた。アルバイトをして買ったアサヒペンタックスSVを持っていたのである。詩人は駐車場にとめてあったモーリスのそばに立つと「ぼくはどっちの横顔がよかったんだっけ」と真顔で少考。ななめ左からの撮影を許可してくれた。それは夕方で、薄暗く感じられたから、私は絞りF4、六十分の一秒にした。すると谷川氏は「このほうがいいんじゃない」と手をのばし、F8、五百分の一秒に変えた。絞りはともかく、シャッタースピードをそんなに速くしちゃってだいじょうぶかな―内心うろたえた。光が足りないと危ぶんだのに仕上がりはすばらしかった。後年、文藝春秋専属カメラマンの鈴木好之氏にその日のことを話すと、
「それはセブンティーンだった森さんの青春が気分的に暗かったんで、世の中がグルーミーに見えたんですよ。実際にはさほど暗くなくて、谷川さんの露出が正解だったわけです」
たしかに私の高校時代の成績は赤点だらけで進学担当のO先生に「おまえの面倒はみてやれんぞ」などと脅かされていたのだから、この世は暗黒みたいなものだった。下手な詩を書くことと、カメラまかせというか、闇雲にシャッターを切ることの二つが、心の支えであり、かすかな希望の光だった。写真というものは被写体よりも撮影者の心理状態をより多く記録するものらしく、高校写真部の時に撮った古写真のほとんどは冬枯れや廃屋や野良猫など、淋しいものばかりだ。
娘が四歳半の頃「パパとママの結婚式の写真を見せて」と言った。「式を挙げてないから無い」と答えたら「じゃあ絵に書いてあげる」。すぐにクレヨンでかきはじめた。花婿の私はシルクハットをかぶっていて、なかなかの出来であった。
思想家シオランは〈哀惜の念は、逆方向への転生だ。何度でも私たちを蘇生させ、まるで複数の生を生きてきたような錯覚を与えてくれる〉(出口裕弘氏訳)と記しているが〈哀惜の念〉を〈写真〉と替えてもよいだろう。
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『記念写真』(長原啓子・作、佐藤真紀子・絵、ポプラ社、本体一二〇〇円、九七年七月刊)は、まず扉の文章が気に入った。〈シュカッというシャッター音は瞬間を切り取る光のハサミ。一瞬一瞬が、心のファイルに積まれていく〉。富山県の中学校が舞台。主人公の高科風海は一年生の新体操部員で写真館の一人娘。彼女と同級のハンサム広瀬克己も三枚目の島辺明夫も、表面は元気なスポーツマンだが、それぞれ重い悩みを抱えている。三者三様、自分の暗部と対決しながら級友や家族への慈しみを深めてゆく。
現代中学生の日常用語と、耳にここちよい富山の言葉をたっぷりまきちらした瑞々しい傑作。風海と同年の読者には熱い共感が沸きあがり、大人の読者には過ぎ去った青春の純情が蘇るだろう。
特に島辺少年が語る父母の人生は感動的で、泣き笑いのうちに親子の絆の意味を教えられた。本格派作家のデビューに拍手を送る。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x13487,2025.06.30)