孤独な少年――『ピーターのとおいみち』

森忠明

 
   「協調性に欠ける」「単独行動が目立つ」「友だちを作る努力をしたい」「無届け欠席を少なくしよう」「言葉づかいが乱暴」—私の小学生時代の通信簿には、芳しくないコメントが多い。
   六歳で死んだ姉の骨拾いをしたり、若死にの犬を庭に埋めたりしているうちに(生きものはいつ死ぬか分からないし、人間の命は短そうだから、自分の好きなように一日を過ごしたほうがいいんじゃないか)と考えた。天気の良い日の授業が苦痛。外に出て自由に遊びたかった。
   「森っ、おれの顔より雲のほうがきれいかもしれないけど、今はこっちを見てくれよ」
   四年三組の担任だったY先生の“すてばちユーモア”が耳に残っている。

    小学校の正門の近くに、映画ポスターがずらりと張られた板塀があった。昭和三十年代、我が町には十もの映画館があり、文部省推薦ものから扇情的なものまで百花繚乱。ランドセルをしょって登校しても、そのポスターを見ていると、いつのまにか足が立川名画座やシネマ立川へ向かってしまうのだった。友だちなんか作らなくても映画があれば淋しくない、と思い、学校をサボってばかりいた不良小学生の前に、もつとスケールの大きい不良が現れた。
   そいつは私と同じクラス、四年三組にいたのである。名は有明昭一良あきいちろ。江戸時代後期の探検家間宮林蔵の子孫というだけあって、気軽く一人で遠出していた。給食で腹ごしらえをしてから、ふらっと教室を出て電車に乗り、甲府や諏訪へ足を延ばす有明に、尊敬の念をいだいた。
   去年、「森銑三著作集」(中央公論社)に収録の「偉人暦」を読んでいたら、間宮林蔵について、こんな記述があった。旧仮名遣いを改めて引用する。
   〈人を訪ねて夜を更すと、蒲団を一枚借りて、帯も解かずに座敷の隅にごろりとなり、夜中に目がさめれば、挨拶もしないで帰ってしまう。彼はそうした大自然児だった〉
   中学生の有明には、好きな先生の家や片思いの女生徒の家を深夜に訪問する奇癖があり、迷惑がられても澄まして一礼。静かに退去するのだった。御先祖様にそっくりではないか。
   自分勝手という点で、彼と私は共通していたが、有明は友だちを積極的に作ろうとし、私はしなかった。「友人の獲得と維持のためです」などと言って、手品に凝りだしたのは中三の頃だった。
   一九六九年、有明の音楽的才能に注目した寺山修司に「この男は手品を使ってまで友人を欲しがる少年でした」と紹介すると、寺山修司は笑顔で言った。「孤独地獄を知ってたわけだね。おれも友だちをひきつけておくために、いろんなアトラクションを考えだしてさ、サービスにつとめる子どもだったよ」

   『ピーターのとおいみち』(バーバラ・クーニー・絵、リー・キングマン・文、三木卓・訳、講談社、本体一五〇〇円、九七年三月刊)の舞台はフォスターの歌曲が似合いそうなアメリカの山間部。小さな一軒家で母と二人きりで暮らすピーターは五歳になったばかり。友だちが欲しくてしかたがない彼は、五月のある朝、母に黙って遠い村の学校へ出発。深閑とした森の道を行く途中、だれかが仲良しになりたがってるみたいな気配を幾度も感じる。やっと学校についたら用務員さんがいるだけで「がっこうは   9月からはじまるんだよ」と教えられる。肩を落として家に帰ると、彼と仲良く遊びたがっていた森の動物たちが総出でお迎え。ロング・ウォーク(原題)の末に、友だちは人間ばかりではないことを知り、“孤独の産物”を得るピーター。
   読後、有明(二十四歳の夏、琵琶湖で溺死)の墓参りに行った時に、妙に人なつっこいニワトリに付きまとわれたことを思いだした。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(pubspace-x12770,2025.02.28)