偽悪の名人――『頭にきちゃう!』

森忠明

 
   先日、中学時代の恩師土方ひじかた憲司先生(あだ名はドカちゃん)から三十四年前の学級日誌が郵送されてきた。「忠明君の仕事に役立つんじゃないかと思って」という添え書き。その黄ばんだノートは自由形式の日直日誌で、授業内容を記録したらあとは何を書いてもよいのだった。
   昭和三十八年十月二十一日(月)のページに、十五歳だった私の鉛筆による”エッセイ”があった。実になつかしく恥ずかしい。趣旨は当時、クラスのワルで嫌われ者だった須田(仮名)についてである。全文を写してみる。
   〈須田君は淋しがりやだ。小学生の時、銭湯につかりながらいろいろ話をした。また学校帰りの途中にも話をしたが、須田君の話題は無尽蔵のごとくであった。話ずきにみえた。気は僕と同様小さいといえる。須田君のエネルギーは体中に充満している。それが僕の感心できないところに発散されているのは好ましくない。きょうの音楽で、園原先生に対してとった態度はうなずけない。園原先生は若いが立派な先生だし、私達生徒からなめられるような人格の持ち主ではなく、なめるような私達に無礼がある。須田君はいいやつだ。一方、憎らしく思う時もある。須田君は青いしりをした赤ん坊のように、これからぐんぐん成長すると思う。須田君のもっているエネルギーをうまく須田君がコントロールする日はいつだろうか。僕は期待している。(ここに須田君を選んだのは個性のあまりにも強い男であることと、偽悪の名人であり、本当はものすごくいいやつだと信じたからである)〉

 
   次のページにはドカちゃんの青インクによるコメントが記されている。これも写す。〈「須田君の巻」おもしろかった。僕も彼はいい奴だと思っている。彼は正直な男だ。バリッとしたところがある。僕は須田と話す機会は今まで何回ももったし、かなりつきつめた話し合いもした。須田は口が下手だ。でもいつも嘘をつかない。そのままを言う。須田はしゃべるのがめんどうになるとらんぼうをする。彼の若さを直接的に発散してしまうのだ。須田と話しあったあとなど又くりかえされると頭にくることもあった。或日、誰も居ない廊下を須田が一人で掃除しているのをみた。僕はそのうしろ姿を抱きしめたい気持ちで一ぱいだった。僕はだまってそのまま声をかけずに帰ってきた。須田はいい点と悪い点をうんと持っている男だ。言いかえれば、可能性の強い男だ。あいつは今頃家でメシでもくっているだろう。クシャミをしているかもしれない。頑張ってくれよな須田。でっかい人間になることを希望する〉
   中学卒業後、須田は料理店に就職。現在はでっかいレストランを経営する社長だ。四年前の同窓会には息子にベンツを運転させてきた。そして「森にな、書いてもらったろ、卒業の時、『ミミズの慟哭』っていう詩。壁に飾ってあるぜ。あの詩には励まされたんだ」と言った。どんな詩か全然おぼえていない。

 
   『あたまにきちゃう!』(ノーマ・サイモン・作、ドーラ・リーダー・絵、なかむらたえこ・訳、朔北社、本体一二〇〇円、九六年十一月刊)は、子どもが抱く悪感情―怒りや嫉妬や挫折感によって生じる心の乱れを、どうしたらコントロールできるのか、読者と一緒に考えようとする絵本。「むかつく」状況を二十例も描いているが、そのなだめ方や発散法は示されていない。
   登場人物たちの怒気を含んだ顔は自分のことのようで反省させられ、いらだつ心理を的確にとらえた文章には頭を冷やされる。つまり、かんしゃくを起こすシーンを客観視することで、子ども読者に自己抑制と他者理解を望む仕掛けなのだ。
   教育臭のない教育絵本。情味あふれる画風ゆえに二色刷りの簡素さも寒々しくない。作者は教育コンサルタントと名乗っているけれど、優しいおばさん哲学者なのだと思う。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(pubspace-x11052,2024.02.29)