高橋一行
現時点でコロナ第七波がピークを迎えたものの、感染者数が下がる気配はなく、まだまだコロナ終息を宣言するには程遠い。しかしお盆を迎えて、帰省ラッシュも始まり、3年ぶりに人の動きも見られて、コロナ禍について、ひとつの区切りは付いたと言って良いのではないか。今後私たちはこのコロナとどう付き合って行くのかということを考えるためにも、ここで2年半に及ぶコロナ禍を振り返ってみたい。この連載の身体というテーマから見ていきたいと思う。
今回のコロナ禍は、人と人の、身体を通じての接触の大切さを再確認させた。オンラインは効率が良いが、それだけでは社会の機能をすべて果たす訳にはいかない。オンラインで済むことはオンラインで十分だということは認識されるようになったが、つまりオンラインで済むものはそれで済ませれば良いのだが、しかしときに対面は必要である。それは身体と身体の接触が人と人との付き合いの根本にあるからではないか。
ここでオンラインということでズームを念頭に置いている。私の職場では、2020年度と2021年度は、一部の大人数の授業はビデオ収録をして放映するということをしたが、大半はズームを使った。私たちは2020年の春に生まれて初めてズームを使ったのだが、すぐに慣れる。と言うより慣れざるを得なかったと言うべきで、ゼミも講義も会議も研究会もすべてズームを使ったのである。
また2021年度の後半は一部対面授業が始まったが、自宅からズームで参加したいという受講生も認めて、多くの授業は対面とズームの混合形式であった。
2022年度は授業はほぼすべて対面になったが、会議は意識的にオンラインを残し、対面とズームと希望する方を選んで良いという集まりもあれば、基本的にズームで行うが、時に対面にするというような会合もある。そういう混合形式が推奨されている。
さて以上が状況の整理であるが、2年ほどズーム中心の生活を経て、この春からやっと対面が復活して、私はほっとしている。この数か月間、対面のありがたさを痛感している。
例えば、オンラインで知った人と実際に会うと、意外にも小さな人だと思うことがある。オンラインでは顔が大きく映るから、相当に顔の大きな人だと思ったら、実際にはこじんまりとしているということなのである。今後も長期的に付き合う必要のある人であれば、この認識のずれは早い内に修正しておいた方が良い。要するに私たちは相手をその身体的な特徴で以って認識するのである。
またズームで授業をしていると、ゼミ生の名前が覚えられない、顔と名前が一致しないという問題も、何回か対面で会えば解決する。
対面授業が復活すれば、また飲み会も再開され、それはありがたいと思う。この2年間は、ズームで会合が開かれたのちに、飲み会もズームで行うということが何度かあった。ズームは何かテーマを設けてそれを論じるというときに結構役立つものなのだが、雑談したり、意味のないことを繰り返したり、要するにくだを巻くということがズームではできない。しかしそういう付き合いは人と人との間で本質的なものではないか。
要するにズームでは、相手の顔色を窺ったり、身体全体で私を受け入れてくれるのか、拒否されているのかを探ったり、物理的な距離で心理的な距離を推し量ったりすることができない。もちろん握手をしたり、抱擁したりすることもできないのだが、それだけでなく、相手の身体から立ち上る雰囲気を感じることができないし、相手もまた私に対してそういうことができないのである。
人と人の接触の大切さというのは、身体と身体の接触の大切さなのである。
こういう経験は今までなかったので、あらためて対面ということのありがたさを感じる。オンラインの効率の良さと対面のありがたさと、その両方のバランスを考えることが、これからの私たちの生活を考える上で必要である。
もちろん一方で、オンラインの効率の良さも書いておく必要があるだろう。
例えばズームを使う研究会では、質問者はチャット機能を利用して簡潔に発言したいことをまとめると進行がスムーズになる。司会者もチャットを見ながら質問を順にさばくことができる。そうすることで、対面の研究会よりも議論が深まるのではないかとさえ思える。またそのチャットをそのまま保存すれば、会の議事録代わりになる。
さらに研究者は全国にいて、場合によっては外国にもいる。ズームでの会合の方が、移動の必要がなく際立って楽である。
会議についても、私の職場ではキャンパスが4つあるから、会議のためにキャンパスを移動するのは結構大変で、オンラインで済ませることができるのなら、その方が効率が良い。秘密保持が必要なものも大分技術が進んで、問題は生じない。資料も予めオンラインで送られれば、予習もしやすい。
例えば学期の最初と最後は対面で集まり、あとはオンラインで会議をするということは奨励される。対面で集まったあとは懇親会もある。しかし普段は議論をするだけで良い。また議題を確認するだけならば、メール審議で十分だ。
ふたつのことがここには横たわっている。ひとつは私があちらこちらで言っているのだが、言語は猿の毛づくろいから発達したというものである。これはR. ダンバーが指摘するところである(ダンバー)。私と他者の身体的な接触が、精神的な交流の根本にある。
オンラインだと当然のことながら、その身体的な接触が少ない。つまり顔は見ることができ、音声も聞こえるのだが、しかし機械を通しての話であって、身体性を感じることは少ない。そこでは言語だけで交流ができるのだが、そしてそれはそれで効率の良いものだが、しかしすべての人間関係をそれで済ます訳にはいかないということが問題なのである。
もうひとつは以下のことである。
次回このことは哲学史の中で整理するが、以下の順に考えてみたい。まず精神を私だと仮定し、その精神が身体を持っていると考えてみる。その精神としての私が他者と付き合うことができるのは身体のお陰である。目で相手を見て、喉を震わせて言葉を発し、また耳を通じて相手の声を聞き取る。時に握手をし、抱擁する。
しかし常に精神としての私が身体に命じて、身体を動かしている訳ではない。多くの場合、身体は自ら動く。または無意識の内にまずは身体が動き、精神はあとからそれを確認しているのではないか。むしろ身体が外界に反応して動き出し、その動きを通じて、精神作用が生じてくるのではないか。私が私として存在しているのは、私の身体のお陰なのである。身体なくして精神はあり得ない。
第二に、私の身体は他者から見れば私そのものである。この身体が相手から見た場合の私である。また他者もその身体がその人なのである。身体を通じて他者と交流するというより、身体と身体の接触が他者との付き合いなのである。
すると私の身体がまず私から見て私そのものであり、つまり私は身体として存在する。また他者から見ても私の身体が私なのであり、私は他者から見れば身体として存在している。つまり私は私から見ても、他者から見ても、身体として存在している。
精神としての私が私の身体を持つというのは、そういう局面もあり得るが、多くの場合はそうではなくて、私は私の身体そのものなのである。他者もまたその身体そのものであり、その上で、私の身体も他者の身体も精神性を帯びている。
まずは実感から、このような大雑把な整理をしておく。
今回のコロナ禍で、身体を巡って気付かされたことはもうひとつある。
美馬達哉は次のように書いている。
もしCOVID-19が諸国民の間を徘徊して恐怖をかき立てる妖怪なのだとすれば、感染症とは何よりも政治学の対象であって、医学と生物学の対象ではない。それはチェルノブイリ原発、地球温暖化、エイズ、金融不安、テロ・ネットワークなど、次々に出没しては人々の脳髄を恐怖によって押さえつけて支配するスペクタクルの歴史にこそ位置付けられるべきものなのであり、医学史や環境史の一頁ではないのだ。したがって、COVID-19に代表される「感染症」が、国際社会によって対処されるべき一つのスベクタクルとして認められているいまこそ、病原体を巡る生物医学的言説(バイオメディカル)に対して、「感染症」の生政治学的(バイオポリティカル)分析を対置する絶好のチャンスだともいえるだろう。(美馬 p.23)
この一節に美馬の主張がすべて表れている。彼はさらに次のように書く。つまりCOVID-19のパンデミックによって、外出制限や都市封鎖などの閉じ込めが世界中でなされたのだが、この異常さにまず驚かねばならないと美馬は言う(同 p.192)。確かにそうである。さらに彼は以下のようにも書く。「COVID-19での非常事態における閉じ込めは、生命を守るという生政治的な大義のもとで行われ、監視される側の人々の協力と同意を前提にしている」(同 p.196)。それもその通りである。しかしこれが現代の支配の仕方なのだと彼は考える。「制御と支配の道具」といった文言が繰り返される。
さて私は学生に、私は左派だが、今回のコロナ禍において、政府の言うことは聞く様にしていると言う。この屈折はしかし、うまく伝わらない。つまり一般に左派、とりわけ左派リベラルは、権力が至るところで支配しているという指摘をするのだが、しかし私はそのお陰で私たちの身体が維持できるということの方を重視したいのである。
感染症は政治学の対象であるというのはその通りである。人々を支配しているというのも美馬の言う通り。私たちが政治社会に生きている以上、すべては政治学の問題である。そこでは純粋な生物学の問題はあり得ず、すべては政治のフィルターを通してしか見ることはできない。しかしそのために、私たちは権力によって支配されているのだとマイナスに捉える必要はない。そのお陰で私たちは生存できるのである。
ここで美馬が依拠しているのは、身体の規律という考え方である。病とは正常からの逸脱なのだが、逸脱した人をうまく管理し、正常と異常の境界を設定し、社会から排除したり、正常な役割遂行の方向へと導いたりする社会統制の制度が存在し、機能していると、美馬は重ねて強調する(同 p.97)。身体の規律がそこで求められる。
美馬はM. フーコーの『監獄の誕生』を引用する。そこに身体の規律という概念が提出されている。規律とは、身体の精密な管理と恒常的な拘束を可能とする権力の技術のことである。
フーコーは具体的に、17世紀のフランスのある都市で取られたペスト対策を論じる。「ペストに襲われた都市は、隅々にまで階層秩序や監視や視線や書記行為が及んで、個人のすべての身体を明白に対象とする広域的な権力の運用の中に身動きできなくなる状態—それこそが完璧なやり方で統治される居住区の理想世界なのである」(フーコー p.201、美馬 p.167)。ペストとは人々が規律・訓練的な権力の行使を理念的に規定できる試練のようなものだとフーコーは続けて書いている。
そこからさらに、人びとはペストへの恐怖から、偏在する監視の持つ規律調教の力に従っていたのだと美馬は論じていく。
このことに対して、S. ジジェクは『パンデミック』において、この種の、リベラル左派が得意とする指摘を揶揄する。コロナ禍は人々の自由を著しく制限し、人びとにそれを認めさせてしまうとリベラル左派は言う。しかしそのような解釈をしたところで、現実的な脅威は消し去ることができない。監視と処罰は人がコロナ禍を乗り越えるためにはむしろ必要なことなのである(ジジェク 第8章)。
ジジェクはフーコーそのものを批判しているのではない。ジジェクが揶揄するのは精神史における連続と断絶を詳細に描写するフーコーそのものではない。あたかもコロナ禍を騒ぎ立てることで、国家権力が人々への支配を強めているのだと主張する人々に対して、その見当違いを批判するのである。
コロナ禍において、実際この種の言説があちらこちらで元気一杯に権力批判をしている。それ等に対しては私もまた、ジジェクに倣って皮肉を言いたい。逆説的に思えるのだが、そもそも皮肉屋のジジェクが、コロナ禍に対しては、積極的にこれを変革に繋げようとしている。国家がすでに共産主義的な改革を始めている。それを評価するのである。危機において私たちは皆社会主義者であるとジジェクは言う(同 第9章)。国家は市場メカニズムから離れて、飲食業者に補助をしたり、ホテルを患者のために押さえたり、治療や予防に必要な手段を調整する。それは災害共産主義と言うべきものである(同 第10章)。私は日本の国家が、決して十分な対策をしたと思わないし、何よりも首相が言葉を尽くして人々を納得させようとしなかったし、専門家の意見をまったく聞かないで、勝手に判断をしたかと思えば、今度は専門家に振り回されたりと、責任を取るという態度が見られなかったという政府批判はしたいけれども、基本的に人々の行動を制約すべく呼び掛けたことは評価したいのである。何よりも私たちは自分の身体を守らねばならないのである。
以下、ふたつの留保について書いておく。
ひとつはしばしば中国がコロナの抑え込みに成功したということが言われる。つまり徹底して国民の自由を抑え付けることによって、命を守ったのだと言われる。しかしコロナ発生の初期、つまり2019年末と2020年の早い時期に、もっと情報を公開していたら、ここまでコロナがはやらなかったかもしれないのである。表現の自由がないところでは人の命は守れない。
また、今の時点でも中国は国民に行き渡るワクチンを確保していない。そのために過度の都市封鎖が続いている。これも人の命を守っていることになるのか。他の病気の治療ができないとか、ストレスから他の病気にかかる可能性が増すといったことが生じていないか。この2年半ほどのコロナ禍の状況とその対策を見て、中国の対応が望ましいとは思わない。
もうひとつは、例えばD. ライアンの本を読むと、その主張の大半はコロナ禍でいかに監視が強まったのかということに終始しているように思える。曰く、今や監視資本主義と言うべき社会が到来していて、パンデミックと監視が結び付き、監視があたかもパンデミックのように世界的に広がっている(ライアン)。
しかしこの本は、監視すること自体が悪だという論調では書かれていない。監視を行う場合、それは人類が繫栄するよう、人間を主体に行うべきであるとされている。信頼と正義があって、共通善のために監視がなされてデータが蓄積される必要があるのだ。
このような主張も出ている。つまり規律や監視がすぐさま支配や制御に繋がるという訳ではない。
最後に書くべきは以下のことである。
人は生物として病に陥り、死ぬ。これは今までもそうであり、今後もそうであろう。今回のコロナ禍は、そのことを集団的に意識させたのだと思う。もちろん受け止め方に個人差が大きく、コロナが怖くて家に閉じ籠っていた人から、全然気にせずに外で飲み歩いていた人まで幅があり、また緊急事態宣言や学校教育への制限などの政府の施策に対しても、それをどう感じるかは人によって異なるのだけれども、人間が脆くも病に襲われる存在であることはあらためて認識させたのだと思う。最後に書きたいのは、生物としての人間の宿命についてである。
先にコロナ禍は政治的なものだという意見を紹介している。人が政治経済を営む社会の中で生きている以上、すべてはそのフィルターを通してしか見ることはできないのだけれども、ここで問いたいのは、人が生物的な存在であるということの政治的意味であると言って良い。
今まで、散々書いてきたことをここでも簡単にまとめたい(高橋2017、特に3-2「病の体系『精神哲学』を読む」)。それは病が進化を駆動し、精神を生みだすということである。身体はそもそも必然的に病に陥るものであり、それが身体の特性なのである。
その上でさらに人は生物学的に言って、病に掛かり易いのであるということも指摘したい。それは人が補食-被食の連鎖の外にいるからである。餌が取れずに飢え死にする、餌として食べられてしまうという関係の中で、個体数が調整されている動物と違って、多様なものを食べ、他の動物から食べられてしまう危険性の少ない生物は、病気で死ぬしかなくなるのである。
またこのような生物学的な制約を受けて、歴史的にウイルスと菌は人をしばしば襲ってきた。このことに関する資料はたくさんある。例えばW. H. マクニールは、狩猟時代の人類から、18世紀以降までの歴史を描いている(マクニール)。
そういうことを前提にして、以下いくつか考察をしてみたい。
まず人がコロナに掛かるということは、人は生物であって、機械ではないということを意味している。パソコンはウイルスにやられることがあるが、これは比喩的な意味においてであり、ウイルスそのものの被害に遭う訳ではない。こういうことがなぜ大事かと言えば、近い将来、人工知能が人の知能を抜くのではないかということが言われ、そうすると人は能力の劣った機械になってしまうのではないかという議論があるからである。しかし人は病に陥ることができるという点で、機械よりも優れているのである。
もちろん病になるよう機械に教え込めば、例えば鬱になる機械を創ることは可能だろう。そういう機械を使って、様々なシミュレーションをすることは可能で、それは治療に役立てることができるかもしれない。しかしそういう特殊な用途を除いて、機械に病になるよう命令するのはまったく以って意味がない。
要するに人は機械とは違って、身体を持っている生物的な存在である。しかし動物とは異なって、私たちは言語を持ち、社会を創り、国家を創り、その中で生きている生物である。そのことは押さえた上で、ここでは生物の側面を強調しておく。
いつどんな病に掛かるのかということは根源的に偶然的なものであって、人はその偶然性に晒されつつ生きている。それが生物としての人の宿命である。病の原因は様々なものがあるが、ウイルスはその中にあって、分かりやすく自己主張する。
ここでウイルスと人との奇妙な関係について言及しておく。生物に似ているが、生物の要件を満たしていないウイルスと、生物の一員であるけれども、精神を持つことで生物を超えたと自らを見做している人間が、ここで結び付く。それは因縁と言うべきものである。ウイルスが生物の進化を促したという説もあり、ウイルスこそが人の出現を促したのだと考える立場もある。とすればウイルスは人が存在する前から、人に影響を与えている。ジジェクの言う、無限判断的な関係がそこにある(高橋2021 補論四)。
さらにまた次のことも指摘できる。身体は自然の中にあるのだが、その自然を人が悪化させた結果、コロナが出てきたということはあり得る。つまりコロナ禍は環境危機が引き起こしたものであると言うことができないか。ここで問われているのは、頻度の問題である。数百年に一度のパンデミックが、環境破壊のために数十年に一度起きるようになってしまったということは考えられないかということである。洪水や異常気象などもまた問題となる。つまりそれ等も今までは百年に一度起きていたのだが、近年では数年に一度生じるようになっている。人が身体を持ち、その身体は自然の中にある。破壊された環境は直接身体に影響する。
大澤真幸もまた、コロナ禍が人新世の環境変動の一環として生じたのだとしたら、今後もこれ以上の惨事が繰り返されるだろうと言う。そうなると、今の時点では資本主義は今後もずっと続くのだと多くの人は考えているのだが、そうは行かなくなるのではないか。さらにはこの環境の破壊が、まさしく資本主義がもたらしたものなのだとしたら、資本主義こそが越えられねばならないのではないかと問い、この資本主義を内側から脱出することが可能かという問題を立てて、それを論じるのである(大澤真幸)。
ここから、私たちはコロナとともに生きていくという平凡な結論が出てくる。私たちは根本的に自然の制約の中にあり、そこからは逃れられない。あとは可能な限りその被害を減らすべく、社会を変えていくしかない。
当初、天然痘が根絶されたことを例に出し、コロナウィルスも撲滅できるという論もあった。しかしむしろ天然痘の方が例外であって、多くの感染症は撲滅することはできず、人は繰り返し病に陥るのである。
また私の実感では、今回のコロナ禍において、第二波、第三波とやって来て、そろそろ終息するかと思い、ようやく飲み屋に行かれるとか、旅に出られると思い、しかし第四波、第五波と続き、今や第七波で、しかも感染者数は、あとのものの方が大きく、つまり常に最大値を更新している。今の実感では、コロナは少なくとも私が生きている限りの間ではなくならない。いずれ治療薬ができ、危険性を少し減らすことができるだろうが、それだけの話で、これはもう残りの人生はコロナとともに生きていくしかないのである。
ワクチンは打つ。当面(2022年8月現在)マスクは屋内では使う。大人数での飲み会は極力避ける。しかしあとはできるだけ平常の生活をしていく。
ウイルスとともに生きていくすべを身に付けるか、それができなければ、人類は滅びるだけの話だ。
今回のコロナの出現はまったく以って偶然なのだが、ウイルスの存在は必然である。それが結論になる。
コロナ禍が生物学や医学の問題ではなく、政治学の問題であるというのは、繰り返すがまさにその通りで、しかしただ単にそのことを指摘したところで意味がなく、ではどうするのかということが問われるべきである。その際に再びこれを長期的な視野で生物学や医学の問題としても考え、そこに資本主義が根本的に影響を与えていることを洞察し、そこから政治学的に対策を考えるべきである。それはまさしく資本主義をどうするのかという問題になるのである(高橋2022)。
ワクチンや治療薬が普及し、医療体制が整った先進国と、それらの恩恵に与れない国々との格差が今後の大きな問題となる。後者の国々で新たな感染者数の増加が起き、それが前者の国々拡がる。格差の是正が必要なのは、単に恵まれない人々が可哀そうだからというのではなく、格差があるために、恵まれている人々もまた不幸になるからだということが認識されるだろう。
参考文献(著者名のアルファベット順)
ダンバー, R., 『ことばの起源 - サルの毛づくろい、人のゴシップ -』松浦俊輔、服部清美訳、青土社、2016
フーコー, M.,『監獄の誕生 - 監視と処罰 -』田村俶訳、新潮社、1977
ライアン, D.,『パンデミック監視社会』松本剛史訳、筑摩書房、2022
マクニール, M.,『疫病と世界史』佐々木昭夫訳、中央公論新社、2007
美馬達哉『感染症社会 - アフターコロナの生政治 -』人文書院、2020
大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ - 資本主義の内からの脱出 -』NHK出版、2021
高橋一行『所有しないということ』御茶の水書房、2017
—- 『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
—- 『脱資本主義 – S.ジジェクのヘーゲル解釈を手掛かりに -』社会評論社、2022
ジジェク,S.,『パンデミック』齋藤幸平監修、Pヴァイン、2020
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x8921,2022.08.15)