小詩集『おれは森忠明だ』(1967) 寺山修司編
森忠明
失う日
八月の西陽の中で
便所の手水がぷっつり切れたのが
失意の手はじめだった
俺はもともと
ポケットをべろりとむきだすぐらいに易く想像されがちな
一人娘の軟派な恋人であり
親不孝の愚息であり
いい奴であり
貴方であり
お変人であり
42J0145であり
極東福祉国家の民であった
実際 俺にとっての日日というやつは
希望でなくて何だったのか一体
ただ俺はひとつ覚えのように耐えてきた
ニッポン大政府の職能図よりも
まことしやかな光景に耐えてきた
アマルガムのように苦い風土に耐えてきた
一本五十円の映画館の隅で愛国できたし
高校のティーチ・インじゃちょっとした反戦詩も書いたし
自殺未遂の女友達を数回も慰めたし
朝日ジャーナルもニュウ・テスタメントだって愛読したし
詩経だって日本共産党綱領だって研究したし
分詞構文だって横尾忠則の美学だってわかってやれたし
おとなっぽくドライなキスや喃語も交わしたし
つまらない約束もきちんと守ったし
町内運動会のマラソンにも飛び入りしたし
おふくろさえも捨てかけたし
今日も扁平な光景を見送ったし
ああ 俺はよっぽど気長にできてるらしい
現に俺は飽きもしないで
日日に希望という純情を賭けてきたが
日日は俺を見限ったり
奪ったりしつづけた
そこで俺は
日日に居直ってしまおうと考えるが
俺は俺の居直る場所を失いかけ
俺の居直る光景さえも想像できなくなっていた
●森忠明ノート 寺山修司
またまた森忠明くんを紹介する。
彼はこの欄が生み出した、立川版アレン・ギンズバーグである。
彼の日常用語をたっぷりまきちらしたスポーティな詩には、「実存」というもののしたたかな手ごたえがある。
ここには長すぎて掲載できなかったが、「長恨歌一九六七―快速の肉声をもって読みとばすこと」という傑作もあり、よめばよむほど心に沁みてくるのだった。
森忠明くん、うんと書きまくってくれ。
(もりただあき)
(pubspace-x,2021.11.30)