高橋一行
ジジェクのキーワードの一つは具体的普遍である。「ヘーゲルの<具体的普遍>とは何か」(以下、「具体的普遍とは何か」)という論文を見て行こう。
ジジェクはここで、ヘーゲルが『精神現象学』で取り挙げている隠喩を引き合いに出す。すなわち男根は排尿の器官であると同時に、生殖の機能も持つ。ここで高次の能力と低次の能力が無限判断論的に結び付いている。ここでジジェクは生殖という全体性に達するためには、排尿という最も低い段階を通らねばならないということを強調する。つまり抽象的普遍から具体的普遍へと進まねばならず、まずは、自己収縮、ないしは否定作用が働かねばならないのである。ここで逆説的ではあるが、まずは排尿という、個体維持のために必要な能力を維持することが、生殖という普遍的な価値のある能力を確保するために重要なのである。このことをジジェクは、「具体的普遍の道はただ抽象的否定性の十全なる主張を経なければならない」(同 p.298f.)と言う。
同様に、革命のためにはテロリズムが不可避である。革命的意図はそれ自体として自己破壊的狂気を持ち、その中で自己消滅することが定められている。こういった抽象的否定性が重要であることを理解したときに、ヘーゲルはヘーゲルになったのである。このことは、前々回の議論で述べている。具体的普遍に達する前には、必ず抽象的普遍が必要だということで、ここではこの否定作用にヘーゲルが気付いたときにヘーゲルがヘーゲルになったとジジェクは言う。
私の言葉で言い換えれば、男根は様々な理由で生殖の能力がなくなっても、排尿の器官としての役割は残る。また能力はあっても普遍に繋がらない場合が実際には圧倒的に多い。事実の問題としては特殊性しか発揮しない個別の哀れさこそが、しかし個別の個別としての輝きである。また革命に繋がらないテロの無残さが、実際には歴史を作る。それが堆積されているのが歴史である。その無数の特殊性があって、その積み重ねの中ではじめて、普遍が具体化する。
ここで抽象的普遍は抽象的否定と言い直され、また特殊と言われることもある。この排尿器官=生殖器官の具体例は、ヘーゲルが『精神現象学』で、無限判断の例として提出しているものである(注1)。そしてジジェクが強調するのは、ここでは具体的普遍よりも抽象的普遍の方が重要だ、ないしは具体的普遍に進むためには、抽象的普遍の段階を経由する必要があり、そこにおける否定性こそが強調されるべきだというものである。
ジジェクの他の著作から拾い出すと、この話は何度も繰り返されている。例えば、『厄介な』でも具体的普遍と抽象的普遍の話として、放尿の器官と生殖の器官の話が出て来る。ここでも男根を放尿の器官としか見ない見方は短絡的で、思弁的な見方をすれば、それは生殖器という高尚な器官なのだと考えてはいけないということが強調される。それがヘーゲルの言いたいことではない。人は放尿という選択肢を取るしかないのである。その副作用として、思弁的な見方がその読み方を通じて現れる(p.155ff.)。また「具体的普遍とは何か」ではテロの話があったが、『厄介な』では次のようになる。前近代の有機体的な調和の取れた社会組織と、あらゆるものを破壊し尽す解放革命という恐怖政治とどちらかを選択しなければならないときは、恐怖政治の方を選択しなければならない。この選択を通じてのみ、社会の秩序と個人の自由との新たな和解を果たす国家を作ることができるのである(p.162)。具体的普遍へと通じる道は抽象的な否定を受け入れることだ。抽象的な否定を選択することで具体的な統一へと進むことができるのである(p.164f.)。
さらに『症候』には、「普遍的なものの中に統合された例外」とか、「普遍と合体した例外」という言い方が出て来る(p.133ff.)。つまり具体的普遍とは例外のことである。ここで取り挙げられるのが、国家である。個々人の合理的集合体としての国家が、君主の人格において、現実性を獲得する。これは前回取り挙げた白痴王のことである。この王が例外である。ここでも具体的普遍論は無限判断論として展開されている。例外が普遍を築くのである。合理的全体性としての、つまり普遍としての国家は、自然の残滓である君主の身体によって支えられている(p.140)。
『パララックス』においても、具体的普遍とは事物それ自体との本質的な不一致であるとされる(p.58)。真に普遍的なものとはその例外である。その具体例は、キリストであり、そのみじめな追放された人間は、まさしく人間そのものである。普遍性は中立的な入れ物ではなく、特殊な戦いそのものが普遍性だ。具体的普遍は様々な特殊な諸形態として現象し、まさにこれらの間の消去し得ない緊張、不一致の内にあり続ける(p.61)。
ここまでの議論をまとめておく。ジジェクの主張は、ヘーゲルが無限判断の例として挙げたものを、抽象的普遍と具体的普遍として言い直し、まったく正反対の規定を持つものが無媒介に結合するという無限判断の例であったものを、具体的普遍に達するためには抽象的普遍が重要だということから、さらに抽象的普遍こそが決定的に重要で、それこそがもうすでに具体的普遍であると展開したことにある。
そもそも具体的普遍とは、ヘーゲルにおいて次のような意味で使われている。『小論理学』13節の注では、桃や梨や葡萄と並んで果物があるのではなく、桃や梨や葡萄といった具体的な存在の中に普遍がある、つまり普遍というのは単に抽象的なものではなく、具体的なものだのいうのがヘーゲルの言い分である。
この普遍概念の使い方は、しばしば『法哲学』に見られるものである。例えば、「意志は普遍的である」という文言は24節にある。続けて同節の注が重要だ。ヘーゲルは言う。普遍性ということで、単に共通性とか総体性というようなことを考えてはいけない。また個別的なものの外にある抽象的な普遍性を考えてもいけない。それ自身の内にある具体的な普遍性こそが自己意識の実体、自己意識の内在的な類、ないしは内在的な理念である。これは自分の規定の中で自分と同一である普遍的なものとしての自由な意志である。そしてこれは思弁的な仕方でのみ把握されるのである。
具体例としては、例えばヘーゲルは議会について、それをそれぞれの諸個人が、様々に特殊な職業の代表者として集まり、そこででき上がる政治の場であるとし、それを最高の具体的普遍と言い換えている(303節)。こういう使い方をするのである。
そしてジジェクもまた、先の「具体的普遍とは何か」において、抽象的普遍と具体的普遍の例として、家族と国家を使っている(p.292)。つまり主体はまず家族という、生まれ落ちた特定の生活様式に埋没している。そこから国家という二次的共同体に入り、その一員として役割を果たす。ジジェクのユニークな点はその際に、この普遍的な二次的同定と特殊な一次的同定が対立する、つまり前者が後者を拒否するよう主体に迫るときに、抽象的否定と呼び、後者をうまく普遍の中に参入せしめるときに、それを具体的ということにある。そしてそこから直ちにその場合、抽象的否定を選べ、それこそが普遍に至る道なのであるとしている。ジジェクは意識的に『法哲学』の議論を下敷きにしている。
さて前回の議論から繋げて言えば、ここではジジェクは二極的な無限判断を使っているのだが、しかし私はこれは三極のトリアーデで考えるべきだと思う。つまり特殊と普遍の対立という言い方ではなく、ジジェクは嫌がるだろうが、個別-特殊-普遍のトリアーデで理解した方が良いと考える。つまり男根という個別の器官が排尿という特殊な役割を担い、かつ生殖という普遍的な役割も担っていると考えるのである。その上で、ジジェクに倣って、重要なのは、特殊な能力だと言うべきなのである。
トリアーデで考える利点はたくさんある。前回私は、ヘーゲル『法哲学』、「論理学」、『精神現象学』で使われている無限判断論を所有論に結び付けて、以下の所有の3段階を作った。
肯定判断 占有取得して所有する。
否定判断 使用したので所有していない。
無限判断 譲渡したので所有していない。
ここで単に、「所有は譲渡である」と無限判断で言うよりも、3段階で考え、まずは所有が肯定され、次いでそれが否定され、最後にその否定が徹底的に強められると考えた方が良い。
さらにその応用として、以下のようにジジェクの所有の3段階も得られる(注2)。
肯定判断 資本主義社会では私的所有が正当化されている。
否定判断 社会主義社会では所有形態は国有である。
無限判断 共産主義社会では所有形態はコモンである。
ここでも肯定判断で肯定された私的所有が、否定判断で否定され、最後の段階は、否定の徹底で、主語の持っている領域そのものをも否定する。これが否定の否定として捉えるべきものである。
これはこういうトリアーデで表現すべき事柄なのである。ジジェクはトリアーデを嫌って、そういう形で整理をすることはなかった。しかし「所有は譲渡である」という無限判断は、否定判断の否定性を強めたもの、つまり否定の否定として捉えられるべきである。
この個別-特殊-普遍のトリアーデについて、ヘーゲルに即して説明をしておく。ここは以前、私は概念論を使ってまとめている(注3)。すなわち、概念は特殊を経て個別に進み、またその個別は特殊を経て、普遍に戻る。その運動について説明している。これは否定の否定である。つまり特殊に至ることと、特殊を経ることが最初の否定作用なのであり、そこからさらに個別に進むことが否定の否定である。逆のコースもまた然り。つまり個別は自己を否定して特殊に至り、それをさらに否定して普遍に至る。ここで特殊の役割の重要性を指摘すべきである。
具体例で言えば、まず生まれたばかりの赤ん坊は何も規定がないから、これを普遍そのものと考える。次に少し個性が出て来れば、家族の中で特殊な位置付けがなされたと考え、さらに大人になって、国家や人類という普遍的な共同体の中で位置付けされるのである。また逆に、今度はそうした大人としての個人が(これが個別)、家族や地域社会での役割を自覚し(特殊)、しかしそれだけでは物足りなくなって、もっと上位の段階を求めるようになる。つまり国家なり、世界全体の中で自らの仕事の位置付けを求めることになる(これが普遍)。そういうことを考える。そしてここでもこれはまず自己規定という最初の否定をし、その上で、さらにその規定性を徹底するということがなされている。
もっともまったく規定を持たない生まれたばかりの赤ん坊というのは、すべての規定を取り払った存在として理念的かつ事後的に考えられたものに過ぎないのだが、しかし論理的な順番から言えば、そうなるのである。
トリアーデを使うと、実は無限判断論は否定の否定であることがはっきりするというのが、ここで私の言いたいことであるが、これについて、ジジェクはどう考えているのか。再び『厄介な』を参照する。
否定の否定についてジジェクは次のように言う(p.124ff.)。最初の否定、つまり状態Aから状態Bへの移行は、Aの状態を否定するが、まだAが指示するカテゴリーに留まっている。しかし二番目の否定は、Aの持っている言語空間を否定して行くことになる。
マルクスが使う例で言えば、まず生産者が生産手段を個人所有している段階があり、その多数者が少数者の資本家によって収奪されるという最初の否定があり、続いて収奪者が収奪の対象になり、そこでは個人所有という形態そのものが廃止されるのである。これが否定の否定である。
否定の否定とは否定の徹底であり、決して元に戻ることではなく、新しい質の誕生である。 このことが、「論理学」の概念論の最初の段階で、まず普遍、特殊、個別の話として議論され、それが判断論の中で、肯定判断、否定判断、無限判断となり、それが推理論に進んで無限が成立するという順番で論じられる。かくしてヘーゲルは「絶対者は推理である」と言い、「すべてのものは推理である」とも言う(『小論理学』181節注)。
さて、「絶対者を単に実体としてだけでなく、主体としても考える」というのは良く知られたヘーゲルの文言である。ジジェクは、この主体=実体論を、具体的普遍論と同じ論理だと見做して論じている。例えば、「具体的普遍とは何か」では、先の、普遍という有機的全体を選ぶのではなく、テロという狂気を選べとジジェクは書いた後で、それこそがこの実体=主体というヘーゲルの考えを表しているとしている。というのも、この選択によって、社会秩序(実体)と個人の抽象的自由(主体)との和解を示しているからである。
また『厄介な』では、『精神現象学』は、主体が社会という実体の中で自分の企図を実現しようとする必死の試みであるとしている。そこでは社会という実体が、再三にわたって主体の企図に横やりを差し、めちゃくちゃにしてしまうという、同じ物語が何度も何度も繰り返して語り掛けている(p.130)。
ここにも否定の否定の論理が出て来る(p.131)。主体とは一方的な自己欺瞞と誰も立ち入ることのできない特殊性の中に自己を据えようとする不遜な運動であり、最初の否定は、主体の社会という実体に対する抵抗運動のことである。続く否定の否定とは、社会からの復讐だ。主体の傲慢さに抗う脱中心化された他者の復讐なのである。これがジジェクヴァージョンの否定の徹底である。以下にヘーゲル読解をするが、ここでジジェクは正しくヘーゲルを理解していると思う。
つまり無限判断論、抽象的否定と具体的普遍の対立、否定の否定、実体=主体というヘーゲル哲学の根本を表す概念は皆、ジジェクにとっては同じことを意味している。
再々度『厄介な』から引用する。「絶対的なるものとは、有限の決定の自己止揚の運動である」(p.145)。また「理性とはその彼方に何か見えて来るだろうという思い込みを取り除いてしまえば、悟性そのものに過ぎない」とジジェクは言う(p.147)。その上で、絶対的な主体など存在せず、主体は有限であり、悟性であり、幻影であり、分裂であるような非実体的存在であると言う。実体が主体のように知覚されるのは、実体にも本来的にそのような性質が備わっているからである。主体は実体の中にあらかじめ内在している(p.153)。かくして主体=実体となる。
ジジェクがヘーゲル哲学の核心にあると考えている、この「実体は主体である」という文言は、正確には「真なるものを単に実体として把握し、表現するだけでなく、主体としても把握し、表現しなければならない」とヘーゲルが言うところのものである。これは『精神現象学』の序文にある(p.16f.)。「生ける実体とは、真実には主体であるところの存在、言い換えると、真実に現実的であるところの存在であるが、そうであるのは、ただ実体が自己自身を定立する運動である限りのみのことである」と続く。実体が自己を定立する。これをジジェクは、主観的認識の行為が実体的対象の中に前もって存在する(『ヒステリー』p.39)と捉えている節がある。これはカントの場合、主体が物自体に発する実体的内容に普遍的な形式を与えるのに対し、ヘーゲルの主張は、主体が本質に辿り着いたとき、そこに実はその主体が前もって自らがもたらしたものを見出すという意味で考えられている。ここでも事後的な遂行性が問われている。
しかし『精神現象学』においてヘーゲルが言っているのは次のことである。つまり主体は否定的媒介を行うが、実体はそういう作用を行わない、いわば固定されたものである。ヘーゲルにおいては、真なるものは、自己否定して、他者になり、他者になって、なお自己であることだから、真なるものは主体として把握されねばならないということになる。そういう運動の中で実体と主体を考えれば、実体は主体化し、主体は実体の中に自己を見出す、つまり主体もまた実体化するということになる。
ジジェクはこの実体=主体説を、実体は客観であり、その中の運動にこそ主体の運動があるということだと理解している。そしてそれは間違いではない。こう解釈できる余地もヘーゲルの叙述にはある。つまり、「論理学」においては、実体は必然性の段階にあり、その必然性は自由へと進展する。そうなると実体は概念になる。概念とは主体をヘーゲルの言葉で言い換えたものである。このことは本質論の最後、つまり概念を導出するところで論じられる。『小論理学』151節では、実体は偶有の全体であると言われ、その補遺では、それは絶対的な事物及び絶対的な人格のことであると説明される。158節を意訳すれば、自由すなわち概念は、必然性とそれに対応する実体の真理である。それは自己と自己を否定した他者との相互作用を通じて、なお自己のもとに留まり、自立する存在である。
実体は認識の彼岸にあるのではなく、自らを開示して主体となる。それをジジェク風に言えば、主体は事後的に自らを実体の中に見出すということになる。
しかしこのことは『精神現象学』に即して論じると、意味合いがもう少し限定される。黒崎剛を参照する。実体とは、諸個人が形成している共同体のことで、それはまだ主体にはなり得ていない。そこで諸個人がこの実体に媒介されて主体になると考えることもできるが、ヘーゲルの真意はそうではなく、個人と共同体を循環させる実体が、諸自己意識を包括する主体、つまり精神となることを論じているのである。この循環を発生させる原理こそが精神なのである。このことによって、意識に対する所与の前提が精神の構造の中に位置付けられ、精神は思考と存在の対立を超えて行く(黒崎)。もちろんここでもこのようにして生成した主体からあらためて実体を振り返ることで、そこに必然的な推移を見て取れるのである。
ここで主体=実体論は、ヘーゲルが『精神現象学』の序に明示し、それがこの本全体の基調になっているほか、「論理学」においても、本質論から概念論への論理として、つまり本質論の実体概念が概念論で主体概念として論じられるという具合になっていることに注意したい(注4)。
さらにジジェクはこの後者について次のように言っている。ヘーゲル論理学は存在論、本質論、概念論の三部から成る。前のふたつが客観的論理学で、最後のものが主観的論理学である。先に書いたように、本質論から概念論への移行が、実体から主体への移行の議論になる。このことを確認した上で、ジジェクは、客観の論理を展開し、それを受けて主体の論理を展開したら、さらにもうひとつ、両者を総合する論理学があれば良かったと言う(『厄介な』p.139)。しかし概念論は主観性、客観性、理念の三編から成っていて、最初の主観性が主観的論理学であり、その上でもう一度客観性を展開し、最後にその総合をしている。ここで展開される客観性は自然哲学であり、また理念の編では精神哲学の萌芽が論じられる。さらに言えば、『大論理学』で考えるのではなく、『エンチュクロペディー』で考えれば、『小論理学』に続いて『自然哲学』と『精神哲学』がある。ヘーゲルとしてはこれで十分だというところだろう。
最後にもうひとつ論点を提出する。ジジェクはしばしば、主体=実体を説明するときに、もうひとつの論理を出す。それはすなわち、他者の中に自己を見出すということである。
『偶発性』に次のような指摘がある(p.414)。ヘーゲル『大論理学』の同一性の節に「対立的規定」の概念があり、自己は自分自身と対立する規定においてそれ自身と出会うとされている(注5)。これはヘーゲルが良く使う論理で、対立する他者の中に自己を見出すという論法である。さらにここから普遍と種の関係についても、普遍的な類は、自分自身の種という対立の中に自分自身を見出すとされている。
ジジェク論をまとめたマイヤーズは、この点に、具体的普遍の考え方が現れているとしている(マイヤーズ p.143, p.195ff.)。以下に具体例を挙げて考えてみよう。ジジェクはこの普遍と種との関係を、以下のような宗教の話を例に出して説明する(p.415f.)。例えばキリスト教徒とイスラム教徒が論争をするとき、彼らは単に意見が違うだけでなく、そもそも宗教とは何かという見解において、両者はすでに異なっているのである。つまりキリスト教とイスラム教は、同じ宗教という普遍のもとにあるのではない。ふたつの個別があるとき、それぞれの個別が担う普遍そのものが異なっている。共通の普遍のもとにふたつの個別があるのではない。これがヘーゲルの具体的普遍の一例だとされる。
『大論理学』を実際にあたって、このことを検討してみよう。そこには実は、「対立的規定」という言葉はない。ただ、反省は措定的反省、外的反省、規定的反省と段階を踏み、同一性を経て、規定的反省は区別となり、そこからさらに対立となる。すると規定的反省が対立と呼ばれるようになるのだから、それを対立的規定と言うことは、一応は可能だと思う。ヘーゲルは「対立において、規定的反省、すなわち区別が完成する」(『大論理学』 p.55)と言っている。するとこの対立の中で、自己と他者とが反省し合う関係が成立する。ここで普遍と特殊、類と種という対立関係にあるふたつの項が反照し合っていると考えることは可能である。
さらに『感染』において、次のようなことも言われる(p.182)。ヘーゲル弁証法においては、規定的反省が反転して反省的規定となる。すなわち措定的反省と外的反省の両者の統一が規定的反省であり、そこから反省的規定が生まれる。
最初の措定的反省では、私が直接的に能動的である。次に外的反省では、他者が能動的になり、私はただそれを受動的に見ている。そして私のために動いてくれる他者の能動性を私が措定し、他者の能動性と私自身の能動性との間に直接的な同一性が生じると、そこに相互作用が生じ、それこそがヘーゲルの言う反省、つまり本質なのである。ジジェクはこのように説明する。
これはヘーゲル反省論の読み方としては正しいと思う。ヘーゲル自身の言葉では、仮象は反省であり、反省は先の3段階を経て、最後の段階の規定的反省が反省的規定になる。反省規定とは本質のことである。すなわち規定的反省は本質になるのである。
これに対してジジェクが提示する具体例は次のようなものだ(p.169ff. p.181ff.)。ユーゴスラヴィアでは特権階級が高級車に乗るのではなく、普通の人々がその代表を通じて自ら高級車に乗る。これは他者が私の代わりに動くとき、私自身がその他者を通じて動いていると考えるべきことなのである。他者が私の代わりに楽しむとき、私自身がその他者を通じて楽しんでいるのである。ここでは他者が私のために何かをしてくれるというのではなく、私自身が他者を通じてその行為をしているということなのである。
『全体主義』にも「対立的規定」という言葉が出て来る(p.230)。続けて、「経済はひとつの類であり、それと同時にそれ自身の種である」とある。これも先と同じだろう。マルクス主義では経済が社会生活の支配的な規定要因、つまり普遍であると考える。それに対してポストモダンはその経済一元論を批判する。つまり経済は人間の活動のひとつに過ぎない。しかしこの両者の考えは対立してはいない。つまり普遍としての経済がその下にあるひとつの種である経済を重層決定する。ここでも対立規定の中にある自分自身と出会う運動こそが具体的普遍の考え方であるとされている。また、類が種に出会うことこそが全体主義だというのである。
この考え方は、先の『偶発性』でも使われる(p.414)。生産、分配、交換、消費という分節化された社会の全体の中で、生産はこの全体性を構造化する原理として普遍であり、しかし同時にその個別の要素でもある。
『厄介な』にも、「具体的普遍」という節が設けられている(p.171ff.)。普遍なるものは個別の具体的な内容の中心に切り込まれた裂け目のことである。普遍なるものは数多くの個々の内容の中立的な枠組みではなく、本質的に分裂を生じさせ、その個々の内容に裂け目を入れる。普遍なるものは、それを直接に具体化する個別の内容を前面に押し出すことによって、自らの存在を提示する(p.175)。
以上4冊のジジェクの著作を示せば、この点については十分だろうと思う。以下、再度ヘーゲルの記述を見ておく(注6)。
反省は本質の運動を示す概念である。存在論において、存在の運動が記述され、その結果として自己内の立ち返った存在が本質である。その運動は否定であり、つまり存在は自らを否定し、その上でその否定的媒介を自らの内に持っている。本質はこのように生成した存在であり、そこには本来的に非本質的なものが備わっている。これが仮象である。ヘーゲルはまず「存在は仮象である」(p.12)と言い、次いで「仮象は本質と同一のものである」とし(p.17)、さらに「本質は反省である」として(同)、それは否定性、否定された否定、絶対的な否定性であるとして、「本質の反省的な運動は、無から無への運動」であるとする(p.18)。まずここまでが反省の説明である。
その反省はまず、否定的なものから還帰して措定されたものとして、措定的反省であり、次いでそれは自己自身を否定するのだが、そうして措定された否定的なものは、反省そのものと対立して現われる。反省はそこで外的な反省と言われる。
このことについてジジェクは、『厄介な』において、措定的反省とは、物事を生成させる側面を表し、それに対して外的反省は主体が知の対象を認識する側面を表していると言う(p.170)。
これはテイラーのヘーゲル論を下敷きにしている(Taylor 第10章論理学存在論の終わりから、第11章本質論の最初の所を参照)。対象の動きであると同時に、主体と対象の関係の歩みでもあるという、ヘーゲルの考えをよく示している。ジジェクは、反省というカテゴリーにおいては、主体と対象は連関しており、またその対象の側に現象と本質との差異があるとき、現象の下に覆い隠されている本質に手を届かせようとする主体の眼差しを通じてのみ、その差異が存在すると言っている(p.218)。
外的反省はさらにその外面性を止揚し、自己内還帰がなされる。そうするとそれは自己自身に規定をもたらす規定的反省となる。そしてこの規定的反省こそが、自己内反省したものとして、反省的規定と言われる。反省は自己規定をし、規定されたものと非自己とを対立させ、その上で両者の乖離を総合する。
このあたりは「論理学」の本質論の議論である。そしてそれは正確に理解されていると思う。しかし普遍-特殊-個別の議論は概念論のもので、このふたつは領域を異にするものである。本質論の「対立する規定の相互反省」とでもまとめるべき考え方から、具体的普遍の議論を導くのは、実は無理がある。
ただし、本質論の中に、全体とその契機が同じという文言はある。つまり同一性と区別との関係を論じるところで、同一性は自己の中に区別を含み、区別はその同一性そのものの本質的な契機であるとした上で(p.44)、同一性は全体であり、またその契機でもあるとしている(p.45, p.38)。普遍と特殊の関係をこのように考えることは可能である。しかし本来概念論の領域で考えるべきカテゴリーを本質論で考えているという批判はできると思う。概念論のポイントが推理論的連結で、本質論の基本は反省関係だから、ここでもジジェクは推理論を重視せず、何でも反省関係で考えている、少なくともヘーゲルの重要な論点は反省関係であると考えているのだということは分かる。
もう少し言えば、判断論は概念論の中にあるが、分裂の段階の議論だから、本質論的なものである。概念論の疎外態と言って良い。この判断論と本質論の反省の議論は、二極的で、ふたつの異なったものの関係を問う論理である。しかしそれに対して、推理論は、これこそが概念論を特徴付ける論理であって、三極的なのである。
注
1 これは最初の無限判断が出て来る、『精神現象学』上巻p.346の4ページあとである。
2 拙著『知的所有論』1-1に書いた。
3 拙著同6-1に書いた。
4 ヘンリッヒは反省理論を展開する論文の最初に、この主体=実体論に言及している(ヘンリッヒ)。彼にとって、ヘーゲル哲学の核心は、「論理学」本質論の反省理論と、『精神現象学』の序の主体=実体論である。この点で、ジジェクも同じであると考えられる。
5 ヘーゲルの使うBestimmungをジジェクはdeterminationと訳し、邦訳訳者はそれを「決定」としているが、一般には「規定」と訳した方が良い。
6 山口1991を参照した。
参考文献
ジジェクについては、前回までと同じ。新しく使ったものは以下の通り。
「具体的普遍」「ヘーゲルの<具体的普遍>とは何か」井上正名訳、大橋良介編『ドイツ観念論を学ぶ人のために』世界思想社2006
その他
マイヤーズ, T., 『スラヴォイ・ジジェク シリーズ現代思想ガイドブック』村山敏勝他訳、青土社2005
Taylor, C., Hegel, Cambridge University Press, 1975
ヘンリッヒ, D., 『ヘーゲル哲学のコンテクスト』中埜肇監訳、晢書房、1987
山口祐弘『近代知の反照』学陽書房1988
—- 『ドイツ観念論における反省理論』勁草書房1991
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x7737,2020.04.10)