森忠明
マクシム・ゴーリキー風にいうと立川は私にとっての大学である。ホセ・フェリシアーノ風にいうと立川は私の心である。立川婦人会歌風にいうと立川は “喜び悲しみ分ち合い強く正しく朗らかに子らを育てて年寄りも愛と情けに手をつなぐ” 街である。
「森さん、もっと遠くのいい所ヘロケハンに行きましょうよ。たまには立川を捨ててね」
立川ばかりを舞台にして童話や少年小説を書いている私を、編集者諸氏はそう言ってひやかす。が、E・M・シオランの「人はただひとつの国語を墨守すべきだ。そして機会あるごとにその国語の知識を深めるべきだ。作家ならば門番の内儀とおしゃべりするほうが外国語で学者先生と話しこむよりずっと有益である」という文章中、国語を地域あるいは多摩弁といいかえ、門番の内儀を立川住民と置きかえれば、私が此処に固着偏執することの至当な理由になる。
父方は伊達の下級藩士の裔、母方は武田の落武者の裔、両者が立川でぶつかって私が湧出。以来三十五年、立川で生きてきた。いや、生かされてきた。八百屋のおじさん、雑貨屋のおばさん、田中実医学博士、鳶の名物親方、競輪選手のおにいちゃん、ロンリーなオンリーさん、長唄のお師匠さん――そういった近所の方々の、有形無形の施しをうけながら、昭和三十年代を見事な悪童として遊びきらせてもらった私だ。
なめくぢら師恩に泣きしことのなし
というのは秋元不死男氏の一句だが、なめくぢらではない私は今、市恩に泣いている。
昨今、立川の〈文化〉向上を望む声を多く耳にするが、立川の魅力は非〈文化〉的なところにあるのだし、「絵ハガキにはなってやるもんか」という、ちよつと拗ねぎみのフラッパー風情がなんともいえないのであるから、教養あふるるお嬢様に憧れる必要はないだろう。街とは本来いかがわしく、うさんくさいところの謂であったはずだ。皮肉でもなんでもなく立川の良さはその即物性、拝金主義ムードにあるのであり、おとなりの文教スノビズムにはない、裏を見せ表を見せて散るもみじ的いさぎよさが立川の美質である。
昔、伊藤整氏は “立川駅は汚なくて切符を買うだけの所” などとのたまい、近年は詩人の石原吉郎氏が “立川駅のホームの吹きさらしで、けっしてうまくない駅弁をたべ” などと書いてくれたが、立派な駅舎となろうとも、駅弁の味がよくなろうとも、軍都あがりで元カスバの立川は、風光明媚愛好作家や可憐なカルチャー信奉者を蹴飛ばすような骨太の野卑とペペルモコ魂を、永遠の隠し味としてゆくべきだ。
某日、旅先のタクシーで、「お客さん、どこから」ときかれ、「立川」と答えると、バックミラーの運転手氏はにんまりし、立川花街での思い出を語りはじめた。野天風呂で知りあった老人には「立川って、犬と連れこみが多いとこだねえ」と妙に感心されたりする。ことほどさようにわが街は、艶っぽい土地としてのイメージがゆきわたっているようだし、かく言う私の家も浪曲師三門博の愛人宅であったとかで、〈欲望の街〉としての筋金が入っているらしく思われて、私はなんだか楽しくなる。
筋金入り、といえば、私の小学生時分の仲間たちも、タチカワ・ノースサイド・ギャングとして鳴らしていたものだ。
肺結核病棟をアジトにしたり、GIに銃器の操作を教わったり、ストリップ小屋の振付師になりたい、などと言いながら、〈悪環境〉を逆手にとって、一期の夢を戯ぶれまわっていた少年少女たち。そんなかれらも現在は善き市民、オーマイパパ、クレバーママとなり、この日まで一人として縄目にかかったものなどないのだから、当節の非行蛮行問題は地理的環境によるものとは思えない。
あの、経済成長しょっぱなの頃、タチカワ・ノースサイドの親たちは子どもにほとんど無干渉、完全放任。大人は大人の夢を見て、子どもは子どもの夢を見ていたのだが、きょうびは親の夢を子どもに見せたがる残酷喜劇の三幕目あたりだろうか。
不日、親の悲願を天晴れ成就した優等生が、公序良俗為政者となって、この街を日本のどこにでもあるような御清潔不人情都市にしてしまうことのないように、私は立川のよかりし時代、疾風怒濤の二、三十年代を描きとどめておきたい。それは多摩川で根川で、ふりちんで遊んだ元ギャングの、単なるノスタルジーに堕すかもしれないが、猥雑なポテンシャル・エナジーに満ちていたタチカワは、描くにたる時空であると思う。さいわい、童話作家の今江祥智氏が「立川物語、五百枚ぐらいで書きなさい。理論社から出版しましょう」と言ってくださったが、五百枚ぐらいではとても書きつくせはしないだろう。立川にかぎらず、ふるさとというものは、あつかうに容易なシロモノではないのである。
(初出:『グラフ立川No. 5』一九八三年十二月・けやき出版)
(もりただあき)
(pubspace-x7453,2019.11.11)