森忠明
子どもは世界をひっくるめて断言できるほどの時空を閲していないし世界を知性化する必要も興味も大人ほどにはない。その子どもの謙抑さ、素身さを無制約者的なプラスと見、文学作法の基点と考えるとすると、権高に決定論をばらまく教師や、脳天気な金言主義で売りまくる作家などを一笑に付し、出直しを迫る境位でもあるはずで、私はそこに寄りつつ書いてきたつもりです。
「今、日本の児童文学にとって最も必要なことは、どうすればアメリカやヨーロッパの児童文学に追いつき、追い越すことができるのかについて熱っぽく語りあうことだと思う。(略)そんな熱気のかけらも感じられない新人たちはうんざりである」(鳥越信『日本児童文学』92年7月号)
こういう性急な断言をしたがる癖や、フモールのかけらもない発表は、謙抑や慈愛や余裕といったものを忘れた「慢」の大人の特徴です。たとえ新人たちに拙い技術しかなかろうと、最終的には子どものしあわせのためとかの、高志ゆえからの創作なのだと解釈すれば、「うんざり」などと横柄なことはいえないし、「追いつき追い越す」などと五輪コーチみたような頓痴気を吐けるわけがない。そも、文の道はアトランタへの道とは違う魔道なのであり、「熱っぽく」やって「熱気」を上げれば何とかなるような道ではありません。大人が子どもに、あるいは評論家の三流どころがよくやる”無知に訴える論証”のごとき、いかにも自信に満ちたものいいを恥じるのが文の道で、それはまたG・バタイユのいう”呪われた部分”としてのポエジーに通ずるのであり、”祝福された部分”での優劣ならいざしらず、A国のポエジーがB国のポエジーを「追い越す」瞬間を俺様なら判定できるぞといいたげな自信に満ちた書きぶりには、首をかしげざるを得ません。
今春、私は小学六年生二名から電話取材を受け、その厳密を指向する態度に感心しましたが、プロの評論家を標榜して日本の児童文学や新人たちをひとからげにしたいのなら、その前に、かの小学六年生のごとく日本の童話作家にインタビュー(最低三百名)し、各代表作について最低三百枚くらいの考究が必要です。それもせずに外国との比較など、だれが信じましょうか。評論家にかぎらず、慢心気味の大人は、現代小学生の愛ある電話取材に学ぶべきです。子どもと作家を育てることは、愛あるものにのみ可能なのですから。
■感動の嵐!! とつげきインタビユー
三月二日の給食前、森忠明さんにインダビューをしました。
どうなることかと思ったけれど、とてもやさしく話をしてくれました。(電話代・六百七十円)
Q しゅみは何ですか。 (松本、感動の一しゅん)
A 昼寝と宵寝。
Q 今の生活に満足していますか。 (このとき、松永は小刻みにふるえていた。)
A 昼寝できるので満足。 (仕事より、ねる方が大事なようだ。)
Q なるほど。
(以下略)
(広島市立毘沙門台小学校六年三組『なかよしタイムズ』第30号より転載)
”小刻みにふるえていた”という松永君の、子どもならではの貴い白心を、生活上創作上の核心として、そこに様々の花や夢を結晶させ、本にもしたいと考えますが、大人の慢心に結晶するものといったら、肩書きの多さぐらいのものでしょう。
(初掲『子どものしあわせ』一九九二年十一月・草土文化)
(もりただあき)
(標題は、上に掲出したものでは技術上の理由でルビが省略されていますが、本来は「大人の慢心・子どもの白心」です――編集部)
(pubspace-x5545,2018.11.25)