「童話俗化の問題」

森忠明

 
 昨日、NHKに出演いたしましたが、アナウンサーの明石さんが「森さん、リハーサルお嫌いでしょう」といわれました。しかし私は「いえ、ぼくは、五分毎に考えが変わってしまう男だから、リハーサルはちゃんとやってください」と頼みました。結局リハーサルで言ったことと本番で言ったことは全然違いました。これからお話することも、あちこちに飛んでアカデミズムな話にはならず、放埓を売り物にしている人間ですので、論理的にと期待されている方を失望させてしまうかもしれませんがお許しいただきたいと思います。
 去年は名古屋にお招きいただきましたが、その人たちは作家志望の方たちでしたので、こちらも偉そうに方法論とか精神論とか、恐持てで言いまして後々冷汗ものでした。
 今日は、家内の故郷である広島で、私にとっても第二の故郷という気持ちでいますので、ざっくばらんに思ったことを話させてもらいます。
 「童話俗化」ということですが、広島は毎年正月にきてホテルに泊まることにしているのですが、今年の正月に来た時も、本通りのアカデミア古書店で私小説の神様のような上林曉の全集のエッセイの部分を三巻三千円で買いました。その中に「俗流との戦い」とか、「文学俗化の問題」というのがあって感動しました。それをこのたび演題に転用させてもらいました。
 上林曉のいう「文学俗化の問題」とは、家を一軒建てたり、新聞に毎日名前が出なければ一流の文学者とは見られない潮流に、それは文学と関係ないのではないかと、純文学作家としての気負いのようなものを書いています。しかし私は、現在、同業者でばりばり書かれて活躍している作家について、どうこういうのではなく、あくまでも私の俗化の問題について話させてもらいます。
 私自身、無能の人なのですが、その無能感にさいなまれて四十七年間生きてきましたが、無能の人間でもどうやって生き延びさせてもらってきたかということを話して、子育ての反面教師として役立ててもらえたらと思います。
 劣等倒錯に陥って、貧乏自慢の、自分の不勉強自慢になってしまいそうですが。
 昨日もNHKで番組が終わったあと、メディアパークに来ていた主婦の方たちの一人が「ファンなんです」って、ぼくを見ながら寄ってこられたので、ぼくはつい「どうも、どうも」なんていったら、それはぼくじゃなくて明石アナウンサーのことでした。明石さんにしてみれば、ぼくの手前、「いやー、こんな内容のない男に、テレビって恐ろしいですね」って一生懸命フォローしながらサインに応じておられました。その時少なくともぼくも傷ついたし、明石さんも立場を失いました。
 ぼくは少年時代、野球に熱中していましたが、有名選手のサインをもらいに行くとき、ほかの選手にも悪いからと一応他の選手のサインももらっていました。子どもというのは、そういうところに気を使って生きているんです。
 「明石さん好きなんです」と率直にいえる人は偉いのですが、もう一歩踏み込んで、あそこに森もいる、明石さんもいる、と二人を立てるように振る舞ってくれたら、お互いが傷つかずに済んだのではと思います。
 でも後でまた考えますと、人が近づいて来たとき、すぐ自分のファンだと思ってしまう奢りもまた、まだまだ修業が足りないなあと思いました。そんな私自身の俗なるものの問題を、創作する上でどのように処理すべきか考えてみたいと思います。
 私が住んでいた昭和三十年代の立川市は、米軍基地のある町ですが、拝金主義で非教育的なすさまじいところでした。ちょうど経済成長初期のころで、大人は大人で自分たちの生活でせいいっぱいの時代でした。だから、大人たちに、ああしろこうしろと言われることもなく、ランドセルを背負って、どの道通ればアトラクションがあるかを楽しみながら、毎日登下校していました。米軍人同士のけんかやがさつな大人たちを尻目に、とんでもないひどい環境でしたが、子どもは子どもの世界で育って、みんな立派な大人になりました。
 その中でずっこけたのが私で、どこでボタンを掛け違ったのだろうと今もって考えているのですが、こんなやくざな商売をやっているおまえの話など、聞きに来てくれる人などいるのかと、今年七十二才の母などは心配しています。父親もそうです。
 それで証拠写真撮ってくるよ、といってきましたので、すみません、一枚撮らしてください。というわけで、ぜんぜん家族には信用がないんです。母はどこで育て間違ったかといいますが、五十近くなって、今さらおそいですよね。
 母にとってよかったことは、寺山修司に出会えたり、明石勇アナと電話でしゃべれたりしたことぐらいですか。
 寺山修司と母は腎臓が悪かったので、ぼくに電話をくれた寺山修司が、ぼくのことはどうでもよくなって、母と腎臓談義をしていました。ぼくが遊びに行くと、開口一番、「お母さん、お元気ですか」って聞くので「元気ですよ」というと安心するみたいでした。
 どこで親の期待を裏切ったかといいますと、ぼくが五才の時、姉が脳腫瘍で死にました。姉の骨を拾った日のことをぼくはよく覚えていて、人生は短い、はかない、とことばには出しませんでしたが胸底にプリントされてしまいました。
 小学校に入学した後も、こんなにいい天気の日に、なんで三時、四時まで束縛されなければならないのか、人生は短いんだから、自分の時間は思うように使いたいと思っていました。それでも四年生までは優等生でしたが、五年になって、この短い人生をどうして好きなように過こしてはいけないのだろうかと思うようになったら、突然、「時間停止体験」をしてしまいました。
 自分としては何とか学校にも行きたいと思うのですが、おれは何なのだと思うと、時間の中に閉じ込められた思いがして体が動かず、どうすることもできなかったんです。
 その後十七才の秋、谷川俊太郎に出会ったとき、「ぼくも同じ体験をした、暗黒なんだよね、あれは」といってくれました。心理学者のユングという人も、幼いときに精神分裂体験におちいりぶらぶらしていたら、ある日ユング少年の父親が、息子の治療費がかかって苦しい、と友人に話しているのを立ち聞きして、ユングは父親を困らせないよう自己治療して立ち直ったといいます。
 ムンクの絵は、子どもの時に絶望的な暗黒をみた絵だと中川一政は書いています。湯川秀樹も少年時代にペシミズムに罹っていて、何かとてつもない大発明でもしないと、自分のなかの虚無を埋め尽くせないと思ったそうです。
 自分の体験をこのような大家と並べて論じようという僭越な気持ちはないのですが、一般論として、この世に生まれてきて、そこにあるというだけで不登校になってしまう。このごろは登校拒否といわず不登校というのだそうですが。確かに自ら拒否したわけでなく何とか立ち直ろうとしていたわけですから不登校なんです。ぼく自身が、ボタンの掛け違いをしたことの大きな原因は、姉の死だったことはまちがいないと思います。
 五年、六年の二年間学校に行けなかったのですが、宮大工をしていた母方のおじいさんが、当時羽振りがよくて、壱万円札がでたばかりのころ、孫のことが心配だったのかぼくを呼んで、金これだけあるから、いつも湯治にいく旅館に行ってこいと五十万ぐらいだしてくれました。これで自己治療ができると思ってうれしかったですね。
 小児科に入院しました時も、まともに扱ってくれないので、憤然としてぼくは、精神科に回してくれと頼みました。立川病院の精神科は病院のはずれに建っていたのですが、渡り廊下を伝っていくと、空気がちがっていて、ぼくにとってはサンクチュアリでした。
 母をはじめ親戚は、とうとう忠明は気が狂ったと思ったらしいですが、本人はこの滅入った気持ちを何とか立て直そうと必死でした。その気持ちは言語化できないわけですから。当時の精神科の主治医が小泉さんという人で、五十ぐらいの人でしたが、会った瞬間、出会いを感じました。別に治療するわけでもなく、「あんたどんなタイプの女の子すきなの」とか「野球はどこのポジション守ってるの」などと無駄話ばかりしていました。そんな話をしているだけで、気持ちがものすごくおだやかになって、救われた思いがしました。入院患者は、とにかくぼくに何も期待しないから、幽霊の中にいるようなもので、たいへん環境がよかったんです。とても楽でした。伊香保の温泉旅館にいる時も楽でした。
 最近、いじめなんかで自らの生命を絶つ子がいたりしますが、あの「真空の恐怖」のひどさというのはどうしようもありません。だから、六年の終わりごろに、これから先、どうして生きていけばいいのか、自分なりの結論をだしました。
 自分がこんなに苦しむのは、これは親の期待にそおうとしているからだし、世間の既成の社会的価値観みたいなものにそおうとしているから苦しいんで、だからこれから先、親も泣かせ、世間の人から馬鹿にされても気にしなければいいんだと、自分なりにわかったんです。まさにドロップアウトでした。これから先、留年したり落第したりしても、いじめられたり馬鹿にされたりしても、自分が選んだ道なのだから怒ったり、コンプレックス持ったりしなければいいんだ、透明人間みたいに暮らせばいいんだ、学校が、おまえは落第だといえば、そうですかって落第すればいい。それがわかるまで二年かかりました。それでもう一度小学校をやり直させてくれるのかと思ったら卒業させられて、立川二中に行かされました。そこで突然英語だの数学だのやらされたけど、何とかついていけました。今なら五年、六年が抜けるなんてとんでもないことです。光村図書の教科書に載せる文章を頼まれたとき実感しました。
 中学では、美術の先生との出会いがよかったので、その先生の授業を受けるためだけに通ったようなものです。
 高校の時の美術の先生もよかったですね。秋川が流れている野外授業など、とても楽しい思い出があります。出世を諦めたような先生に教わったことがよかったと思います。
 「無能」な生徒を扱うには、「無能」な先生の方がいいのではないかと思います。無能のように見えていて実は大変な教育者なんですが。
 中学三年の時、国語の授業で「徒然草」が出てきましたが、この古典が気に入って、全篇を読み、一人で勝手に悟ってしまいました。文部省は八百年前の古典ということで教科書に載せているけれど、内容を考えるととんでもない作品です。無能でいい、がんばらなくてもいいという文学なのですから。この本を小学校の時に読んでいたらどんなに楽だったかと思いました。悩まなくても済んだはずですから。
 「徒然草」は、出世しなくてもいい、隠遁文学、虚無僧文学、虚事に生きることを示唆しています。本気で「徒然草」を読んだら、実業家になろうとする人なんかいませんよね。
 ところで、超一流のエリート実業家は、そういう人たちがいるから、この世の中はうまく動いているわけですから、ぼくは尊敬していますが、そうした超一流のエリートという人たちは、実はぼくみたいな無能な人たちのことがよくわかっているんです。どういう風に使えばいいかということを。
 精神科医という人は、ふうてん性や痴聖性が身につかないと治療できません。ぼくは精神的不具であることの意味、わけも判らず、止むを得ずドロップアウトせざるを得ない人たちの、どうしようもなさがわかる気がします。
 種田山頭火じゃないけれど、いいところで生れながら、山頭火は、十一の時、お母さんが井戸に身を投げて亡くなりますが、ムラサキ色になって井戸からあげられたお母さんを見てしまうんですね。そしたらもう「晩年」ですよね。そんな山頭火に実業家になれといっても無理ですよそれは。お母さんがムラサキ色になっちゃったのを見ちゃったんですから。「どうしようもないわたしが歩いていく」ということですよ。どうしようもなく歩いている種田山頭火に向かって、おまえ貯金しろよなんて言えますか。
 このあいだ、大病院の外科部長をしている幼友達が遊びにきて、「おまえのところに来ると休まるよ。いいなあ」っていいました。「おれたちは、ちょっと気をぬくと裁判ざただからなー」っていうんです。
 もう一人の幼友達に山口組の暴力団の幹部、親分がいてちょくちょく遊びにくるんですが、母なんか「まさみつくん」なんて呼んでいるんですが、その彼がこのあいだ、「おれがこの道に入ったは忠明のせいだ」っていうんです。
 二十歳のころ、おれが落ち込んでるとき、おまえは何とかいう賞をとって、「人生一回こっきりなんだから、やりたいようにやれよ」っていってくれた。だからおれは、そのように生きたというんです。その彼が、今いくら持ってるかって聞くから、五千円ぐらいかな、っていったら、おまえ、やくざよりもやくざだねえ。よくそれで、女房子どももらってやってるなっていいました。そんなにほめるならお金を貸してくれといったら、いくらでも貸すよといいました。
 「昔から日本の私小説家の葛西善蔵、嘉村礒多なんか、日本の無頼派を気取ってる作家ってこんなものなのよ。映画監督の浦山桐郎が死んだとき、千円しか持ってなかったんだ。そんなものなのよ」。というと、感心してました。
 野間児童文芸賞をもらったときも、二千円ほどしかなくて、家内ももってなくて、頼りは一才半の娘の貯金十万円でパレスホテルに泊まったんですが、「一才半の娘の貯金をあてにしているようでは、おれもまだまだだなあ」とつくづく思いました。
 だけど世の中には貧を楽しむという、「貧楽」というものがあります。別に清貧を気取ってるわけじゃないけれど、知者は水を楽しむということがあります。
 『少年時代の画集』という本を書いた時、自作のあまりの売れなさにあきれて、もうこれっきりにしようと思っていた時、当時広島の全日空ホテルに勤めていた家内から、「あなたの絶版になっている本は、図書館から借りて、すべてコピーして保存しています」などと、泣かせる手紙をもらったんです。世の中にはこんな奇特な人もいるんだと感激して、あと五年も続けてみようかと思いました。あまりプロ根性もないだらしない男なのですが、その時広島で彼女と会って結婚を決意しました。私にあるのは愛と才能だけですといって。結婚してみて、ほんとにお金がないのがわかって、びっくりされました。子どもが生まれた時、女房はノイローゼ気味になって、子どもを連れて別れるといいだしました。いわれても仕方がない暮らしだったから、淋しかったけど創作意識は高まりました。その時の淋しさ、内なる「俗」の問題ですが、お金持ち、幸せな人って必然的に俗になってしまうんですね。好き好んで不幸にはなりたくないのですが、不幸せ感というのは、創作の上で大事なものであると思います。
 松下幸之助さんのお金儲けの話は、実業家は読んでも文学志望の人は読みません。百才で亡くなった土屋文明という人も短歌や俳句など、文学にふさわしくない人の例として、不動産とか頼るものを持っている人の句や歌は作ってもだめだといっています。
 むかし、二十五才の時、児童文学者協会に投稿した作品が一位になって、関英雄先生、大石真先生、久保喬先生たち三人が、立川でお祝いをしてくれたことがあります。一張羅を着込んでお三方のところに初めて行きましたら、お銚子三十本ぐらい並べて飲んでおられました。ふと見ると、胡瓜を肴に飲んでいるんです。やっぱり児童文学は儲からないんだなあと思いましたが、そのお三方が神々しく見えました。関英雄先生は心の大きな方で、ぼくは協会に入っていないんですが、「森さん、森さん」といってかわいがってくださいます。協会に入らないのは、会費が高いからという理由なんですが。
 今日は皿海達哉さんもお見えですが、昭島の図書館で、「飛ぶ教室」のバックナンバーを見ていましたら、五、六年前のものに皿海さんが、「児童文学の極北」というタイトルで、森忠明は童話作家界のつげ義春であると書いていました。ただ森忠明は、何かというと寺山修司の名をだすのがよくない。寺山修司の名前なんか出さなくても、もう一人前なんだから、寺山修司だって出されたら迷惑なんだから、出さない方がいい。と書いてあってすごくうれしかったんですが、実は寺山修司は、名前をいってもらうのがとても好きな人でした。テレビで名前を出すと、「二度もいってくれてありがとう」と電話をかけてきたり、本を送ると「師事って書いてくれなかったね」なんていってくる。寺山修司という人は、そんな俗っぽいところがある人だったといいたかったんです。
「俗」、立川は俗中俗の町だし、ぼくも俗です。俗だからおもしろい。ただそれを、つまり厳島神社の宝物館には、超一級品が納められているように、宝物館というのが子どもの世界なので、子どもに対しては超一級品をリリースしなければならない、そこにおいて、俗をどう生かすかが童話の問題であると思っています。
 なぜ童話を選んだのかとよく聞かれますが、非常に僭越な話になりますが、童話が一番むずかしいからだとぼくは思っています。男と生まれたからには、文学様式の中で一番むずかしいものをやろう、と思いました。童話は一番成功し難い分野だと思います。これはドン・キホーテです。
 戦わずして負けるのがわかっているジャンルが童話です。これでも一応、詩や戯曲を手懸けてきましたが、何といっても童話が一番むずかしい。なぜか。簡単です。つまりベッドシーンを書かない、ご清潔文学であることの権利をどこまで行使できるか。森瑤子のようなことは書けない。飛車角落ち以上、それでどこまで勝負できるか、これは、最大の実験場です。童話の世界はむずかしくて、生きているうちは成功しない、暫定文学です。それぐらいの覚悟をしているから、失敗してもしょうがないと思っています。
 むかしは、子どもというものは質屋に奉公するにしても、一級品が見られるところヘポーンと留学させられました。主人は奉公人に、いいものから見せていった。そうしないとニセモノをつかまされてしまう。詩人の伊東静雄は、詩とか童話というものは超一流品でないと、あとはがらくたなんだといっています。ぼくもそう思います。
 大人の文学は、がらくたでも通用するところがありますし、また許されるわけです。むしろ二流品の方が訴えるものがあったりします。
 ところが、子どもに対しては、気取るわけじゃないけれど、通俗性とか、人間の持っている生命本然の姿とか、生々しい欲望とか、生臭さとか、生きることの賎業性とか、あらゆる一切合財の人間の本音を、どう止揚し、還元し、高処へもっていくかという、気迫の文学だと思います。
 そのために、自分の中にある俗っぽさみたいなものを、どうたたき直すか、できれば宝物館には、平家納経じゃないけれど、厳島神社の宝物館のような、子どもという宝物館に一編ぐらいは奉納して死んでいきたいというのが、ぼくのドン・キホーテ的望みでもあるんです。
 ですから、売れるとか売れないとかいうのは、貧乏人のいうことで、ぼくは貧乏人ですが、メリットとかデメリットとか、いっているうちはだめなんですよ。そういうものを超越した世界なんですから。フィリピン人は、散歩することを風を食べてきます、というそうですが、そんなもんですよ文学は。つまりわかる人にしかわからない。だから、売れなくてあたりまえという感じです。
 子どもにとっての最大の文学は遊びだと思います。本なんか読まなくていい。他人の物語なんかに興味はない。遊べたら十分だと思います。ぼくにいわせれば、今の子どもは、本の読みすぎですよ。ぼくなんか、中学時代まで一冊も本を読まずにきましたが、ただマンガだけはきっちり読み切りました。マンガをきっちり読むことで、初めて純文学のよさがわかるはずです。馬場のぼるや手塚治虫に熱中した時代がありましたが、ある時ふっと、それよりも上林曉の方がいいと思うようになりました。
 ぼくの父はインテリじゃなくて、中里介山の「大菩薩峠」の三十余巻をただ繰り返し読んでいる人でした。ぼくには名作童話の一冊も買ってもらった記憶がないし、本を読めといわれたこともない。当時、立川には映画館が十軒ほどあって、郵便局員だった父は、帰ってくると「行くか」といって映画館に連れて行ってくれました。いかがわしい映画から文部省推薦まで拒まず観る父で、観たあと、どうだったもない。一切コメントしない人でした。見てさえいればいい人で、ぼくは純粋観客といっているのですが。今も七十七才でぴんぴんしています。
 この父はバリ雑言で人を苛むという才能がない。ただ自分がいいと思うものは見てこいとお金をくれました。
 小学校時代、小津安二郎の映画に凝って、尾道の風景なんかうっとりして観ました。家内が尾道北高出身なので尾道にはよく行くのですが、やっぱりいいですね。
 幼いときからぼくは、ジジむさいところがあって盆栽に凝ったりして、生れながらの老人みたいでした。ところが優秀な学校の先生は、それが理解できない。偏差値の高い優等生には、ぼくのような劣等生の気分なんか判らないし、限界があると思います。
 しかし、私は学校の先生によって生かされてきた、とも思っています。高校の時に詩を教えてくれた先生がいたり、赤点が多かったので落第も決まっていたのに卒業させてくれた校長先生がいたりしました。
 また同級生に、卒業写真撮らないのといわれても、どうせ卒業できないからというと、
 「あなたが卒業しないのは分かっているけど、この年度にあなたがいたということは、私たちにとっても必要なことだから入りなさい」
 と、かっこいいことをいってくれた、片思いの女の子がいました。その人は広島出身の人で、結局ふられたのですが、その時から広島にあこがれてしまいました。家内と縁があったのもそのせいのような気がしています。
 ところでこの高校の校長というのが、当時東大進学率一番を誇っていた日比谷高校の教頭だった人で、その先生が東京のチベットといわれているぼくの高校の校長になってきました。新聞部の編集長だったぼくは、「新任校長インタビュー」というわけで、校長室に行って「先生、都落ちですか」ときいたら、にこっと笑って、「ぼく、こういうところが好きなんだよ」といいました。偉い人は違うと思いました。しつこく「都落ちの感想を書いてください」というと、「いや、ぼくは都落ちだとは思っていない。これが本当の高校だと思っている。日比谷はあれは邪道です。予備校です。この五日市高校こそが理想です」というんです。結局理系、文系と最後まで分けなかった。東大の理系をねらっている生徒を、保健体育をさぼったといって留年させてしまうような高校でした。修学旅行にも連れていかないんです、罰として。
 卒業して、五年ほど経ってから聞いた話ですが、ぼくは四つの教科が赤点でしたから、当然落第だったのですが、卒業判定会議で、森が卒業できないというと、温厚だったその校長が、青すじ立てて怒ったというんです。教育というものを何と心得ているかって。森という生徒は、華道やったり、編集やったり、ティーチ・インやったり、ぼくがいないと文化祭が成り立たないほど、アトラクション係をしましたからね。みんな受験勉強している中で、ぼく一人が学外活動していました。女の子の名前で谷川俊太郎に手紙書いたりして。こんなに楽しんでるんだから、一年、二年留年しても仕方がないとぼくは本当に思っていました。それを校長は、森のような生徒こそ卒業させるべきだといったそうです。話してくれた先生は、あの時はビビった、あの温厚な校長が青すじ立てて怒ったんだから、というんです。おれも二十八で若かったから、お前を必死になって落とそうとしてたんだ。今になって思うに教え方が悪かったんだよなあ、年は取ってみるもんだ、なんて言ってました。
 落とそうとした英語の先生も、広島の家内のところにいるとき、七年前、突然二十数年ぶりに電話をかけてきました。「今英語の教師をやめてガソリンスタンドをやってます。ぼくはあなたのことをずいぶん気を悪くさせて謝ります。それだけがいいたくて」って。こんなことを言う時って生命力が低下してて危ないんですよね。それっきりまた音信はありませんけど。
 当時、犬猿の仲だった先生も、卒業して何年か経つとやっぱり反省してくださるということです。ぼくは劣等生でしたが、このように、いろいろ情けをかけられて生きてこれたんだろうと思います。
 文学というものは大人向けであろうが、子ども向けであろうが、私の独善的な考えですが、基本的に人生の失敗者の身上調書と思っています。失敗者のね。成功者の文学なんて読みませんよ、ハウツーもの以外は。やっぱりもののあわれというか、基本的にはあやにくの世界というか、愛しちゃいけない人を愛したとか、だめと思っていても、わかっているけど好きなんだとか、どうしようもない、やるせない世界を書くのが文学だと思っています。
 原爆だとか、戦争だとかいう巨大な複雑なものは、ぼくには手に負えないから手をだしません。アンタッチャブルです。それは、ぼくの義兄に任せています。義理の兄というのは原水禁の事務局長をやっている横原由紀夫という男です。ぼくは本当に狭い世界でこちょこちょやっていきます。世界のことは、お兄さんにお任せしますといっているわけです。生半可なつもりで、他のジャンルの人に、私それもできるのよ、というのは好きじゃありません。プロはプロです。
 このあいだプロパンガスの業者に来てもらったとき、道具箱をのぞかせてもらったんですが、新品のドライバーが入っていて、それは絶対使わない道具なんですが、持ってないと不安だというんです。しかも両手ききでないと直せない。プロだなあと思って見てました。
 文学のいわゆる存在理由は、あってもなくてもいいような道具じゃないかなと思います。
 むかし、落語家の志ん生だったか文楽だったか、その弟子が「ぼくらの商売はあってもなくてもいいようなものだから」といったら、師匠が「なにいってんだ」と怒ったそうです。失言したかと弟子が恐縮すると「落語なんて、なくても、なくてもいい商売だ」といったんだそうです。
 芸術、文学には何の使命もないと思います。文学を何かに役立たせようと思ったらそれはぼくにとって邪道です。
 文学で何かしようと思ったら、この人は違うなあと思います。じゃ何のために書いているかというと、それは自分のためのセラピーです。それを、編集者や出版社が見て、本になりますよ、といわれればそうですかって本にしてもらいます。
 表に一歩出たらすべて取締の世界です。その中で、ぼくら芸道一代の究極の存在理由は、あらゆる非難に耐え、あらゆる言論の自由を許すということが、ぼくのたった一つの存在理由だと思っています。
 一切の芸の存在理由は、あらゆる自由を保証することだと思っています。
 一歩出たら取締だらけで自由がないわけですから、世の中に一人ぐらい無制約者、無制限者、好きにしろ、という者がいてもいいと思います。だから、使命感、これでなんとか世直ししてやろうと思った瞬間に、芸術は俗化するというのがぼくの考えです。
 話は前にもどりますが、女房が子どもを連れて逃げたときに書いたものは、非常に不幸せ感が漂っていてよかったんです。それが百枚ぐらい書いた時、帰ってきました。この子には父親がいた方がいいって。ぼくはほっとしました。でももうだめ。その瞬間にぼくの書くものは俗になっています。それがわかるんです。不幸せのコードで書いているものを、ここで転調したくない。だからすごく苦しみました。女房が帰ってきてから一年余り、不幸せなコードを思い出そうとしますが、どうしても文体が俗になってしまいます。
 またこういうこともあります。講談社の新人賞を決めたとき、このまま本にしてもいい作品がありました。しかし、一年経って、本になったとき、書き替えられて、全く別の作品になっていました。どういうことかというと、つまり、受賞した人が、これが受賞するかどうかわからない時に書いた文体と、当選してしまってから書き替えた文体では全然違うんです。受賞してしまってから書いた文体がいかにはしゃいじゃっているか、そのトーンを合わせるのがいかにむずかしいか。不幸せなトーンで書いた時の文体が、幸せな気持ちで書いた時の文体では、二流、三流に落ちてしまってるんです。
 俗であることの意味を、これから先も、いかに自分の薬籠中のものにするか、聖俗をうまい具合に配分して、成功のおぼつかない、むずかしいジャンルの中でもがいていきたいと思っています。
 十七才のころ、文筆業で食べていこうと決意したときから、賞をとったり、有名になってちやほやされたりすれば必ず、堕落するんだと思ってきました。
 ぼくの作品を、もっと子どもたちに読んでほしいといってくれる人がいることは、ありがたいのですが、画家のゴッホも、「あらゆる人間は、認められた瞬間に馬鹿になる、惚けてしまう」といっています。認められるということは、認められたいと思ってやっているうちが華で、ある権威に認められた瞬間に、ある聖なる部分が消えちゃうという、春の花のようなかそけきものの世界で、そのかそけきものがまた生命ですから、そういうものが認められることで消えちゃうという非常に残酷な世界でもあるわけです、芸の世界って。
 いちおう、世間的な栄誉も受けます、でも基本はみんな乞食ですよ。どんな栄誉を受けたって。生活気分はやっぱりルンペン、身近な切なさがなければ、世界は見えてこないと思います。
 やっぱり、どこかこう、おれは何やってんだという不幸せ感が人間を生かすのではないでしょうか。
 むかし、寺山修司がぼくを誘って、三本立ての映画を一本だけみて出たことがありますが、どうだったかと聞くから、つまらなかったといったら、初めてぼくをにらんで、「世の中には、つまらない映画や、つまらない女などいないんだよ。つまらないと思った時は、あなたのボルテージがさがっている時なんだから、世の中、ものの見方で、どんなに駄作でも、あなたの見方で面白くしなければいけないんです。ただ単純につまらないという人に、ぼくは希望を感じません」
 といわれたときは、ショックを受けました。だから、百花繚乱、いろんな作品があってもいいとぼくは思っています。そのいろんな中から、自分の好みにあったものを「愛ある想像」で補いつつ、読んでもらえばいいと思います。私の場合は、千人に一人の文学だと思ってるんです。この間も、広島の小学校から感想文を送ってもらいましたが、みんながみんな面白いといっているわけじゃない。「数ならぬ身」の不幸感が私の原動力なのですから、それでいいのだと思います。もっと話したいのですが、時間がきてしまいましたのでこれで終わります。
 立川は、がさつな町ですが、駅の近くで便利なところに住んでますから、三食付きではありませんが、どうぞ泊りにいらしてください。ご清聴ありがとうございました。
 
(日本児童文学者協会創設五十年記念・関西大震災チャリティ講演会・「ひろしま児童文学35号」一九九五年)
 
(もりただあき)
 
(pubspace-x5345,2018.09.27)