高橋一行
4より続く
17世紀のデカルト以降、主観と客観の関係が問われ、そこから意識が分析される。それは認識論的転回と言って良いものである。それが20世紀になると、この主観と客観の関係は言語分析によってなされることになる。それが言語論的転回である。さてその20世紀の哲学は、その言語論的転回の直接的な支配下で進展した英米の分析哲学があり、また主としてフランスで展開された実存主義、構造主義においても、言語の問題は重要なテーマとしてあり、またマルクス主義にも影響を与えている。その辺りが20世紀の哲学の思潮のまとめになる。
その後21世紀に入ると、ここは岡本裕一郎の適切なまとめを使うと、3つの潮流が出て来ており、ひとつは言語の問題から心の問題へとシフトした認知科学的な自然主義的転回があり、ふたつ目には言語コミュニケーションの技術的な媒体を重視するメディア・技術論的転回があり、3番目には、言語によって制約された思考の向こうに独立した存在を考える実在論的転回がある(注1)。私は先のふたつについてもいずれ別項を用意したいと思っているが、ここでは3番目の実在論的転回について書きたいと思う。これは今まで問題にしてきたカントとヘーゲルの読み方、彼らの自然と精神の関係についての考察に関わり、この論稿の結論部をなすはずのものである。
「思弁的唯物論」を提唱するQ. メイヤスーから紹介して行く(注2)。彼の提唱する思弁的唯物論は、現代哲学が思考と存在の相関のみを問題にする相関主義に陥っていることを批判して、その相関の向こうに何かしらの物質が実在することを主張する。その相関主義とは、メイヤスー自身の言い方では、私たちは思惟と存在の相関関係にしか接近できず、切り離して捉えられたこれらの項のひとつに決して接近することはできないというものであり、さらにはそのような相関の乗り越え不可能な性格を認める傾向全般を指す(p.15f.)。
この相関主義には弱い相関主義と強い相関主義と二種ある。前者はカント哲学を指し、後者の哲学の代表はヴィトゲンシュタインとハイデガーのそれである(注3)。
カントは、物自体は認識不可能であるとした。認識できるのは、その物自体に触発されて主観の形式の中でまとめ上げられた現象のみである。ここに相関主義が始まる。しかし物自体は認識できなくても、思考することは可能であり、従ってその存在は確実である。するとカント哲学は、思考から絶対者への関係を完全に禁じている訳ではない。これが弱い相関主義である。
これが強い相関主義になると、このカントの物自体は、認識できないばかりでなく、思考もできないとされる。さらにその物自体をすっかり除去してしまい、現象という主観が構築する限りでの客観を扱う。つまり主客の相関のみを残す。
さてしかし、人類が出現する以前の自然は想定されるべきである。つまり人間がこの地球上に出現したのはたかだか数百万年前のことであり、それ以前の現実について何かしらの解釈が可能である。メイヤスーはそれを「祖先以前的」と言う。すると相関主義においては、この祖先以前的な言明にどのような解釈が与えられるべきかという問いが生じる。つまり相関主義はそれ自身永遠的で、かつそれ以外の思考はできない。相関主義者は、相関主義に忠実ならば、祖先以前的言明は幻想であると言うしかなくなるはずである。相関主義者は、自然科学者が宇宙の歴史や生物の進化に対して積み上げて来た言説は、その言説通りには起こり得なかったと言うしかないのである。
ここからメイヤスーは、この相関主義を超えて、大いなる外部を取り戻そうとする。ポイントは、この相関主義をまずは一旦肯定し、しかしそれを超えたところに、「祖先以前的」な自然を見出すことにある。相関の循環に入り込んだ上で、それを突破し、相関の外へ出る。そして人類が生まれる前から自然が実在したことを確認する。
それは素朴実在論を信奉する自然科学者たちがやって来たことと変わらないように見えるのだが、メイヤスーは相関主義の果てに実在論を認める。
ここでメイヤスーは思弁的という言葉の定義をする。それは絶対的なものに接近できるとする思考のことである。するとそれは独断論に陥ると思われるかもしれない。しかしあらゆる絶対的なものが独断的なものである訳ではない。近代哲学は、独断的形而上学の終焉を説くことによって、あらゆる絶対的なものを否定してしまった。とすると、その反省として、そこから新たな絶対論的な思考を蘇らせねばならない。ゆえに自らの立場を思弁的実在論とするのである。
メイヤスーの主張の意義は、人間がいない自然、つまり人間が生まれる前の自然について、考察することを可能にしてくれるということにある。自然科学上の知見だけがそこに迫れるというものではない。それは哲学の課題とすべきである。つまり自然科学者は、現代哲学と無縁なところで、素朴実在論の考えに基づいて、宇宙の歴史や進化論を研究して来た。それを尊重し、哲学者もその問題に取り組むべきである。
さてこの問題はレーニンが『唯物論と経験批判論』で扱った問題である。このレーニンとメイヤスーは一体どこが異なるのか。レーニンは、「経験批判論の最も名の通った」(序論)マッハやボグダーノフをしつこく批判する(注4)。彼らは相関主義者と言って良い(注5)。マッハは「物体は感覚の複合である」(第1章-第1節)と言う。ボグダーノフは「一般的に物理的世界とは、社会的に一致させられ、社会的に調和させられた、一言で言えば社会的に組織された経験である」(1-4)と主張する。レーニンはその批判をし、その上で実在論を主張する。
レーニンも「自然は人間よりも前に存在したか」(1-4)と問う。マッハ主義者はこの問いに的確に答えることができない。これに応えることができるのは、唯物論だけである。
まず「物」が定義される。「物質とは人間にその感覚において与えられており、我々の感覚から独立して存在しながら、我々の感覚によって模写され、撮影され、反映される客観的実在を言い表すための哲学的カテゴリーである」(1-4)。そして次のように言う。「あらゆる健全な人間の「素朴実在論」は、物、環境、世界が、我々の感覚、我々の意識、我々の自我、及び人間一般から独立して存在するという点にある。・・・人類の「素朴な」確信を、唯物論はその認識の基礎に意識的に置く」(1-3)。するとこれは「素朴実在論」ではなく、「意識的実在論」ということになる。
相関主義を突き抜けた「思弁的実在論」と、相関主義を徹底的に批判する「意識的実在論」と、どこが異なるのか。それは相関主義を基本的に認めるものと拒否するものとの違いに過ぎないのだろうか。しかしレーニンののち、レーニンの思惑とは違って、哲学の主流は相関主義である。メイヤスーはそのことを踏まえて出て来ており、レーニンとの違いは大きいと言うべきである。
さらにマッハ主義を批判してレーニンは言う。「全物質は、その本質上感覚と同類の性質、すなわち反映するという性質を持っていると推測することは論理的である」(1-5)。物質はすでに潜在的に精神性を帯びている。レーニンの唯物論は精神の発生する以前に物質が存在し、しかしその物質の中に精神性が萌芽として宿っていることを主張する。この観点をレーニンが持っていたということは注目すべきである。このことの意義についてはこののちに触れる。
さて次はM. ガブリエルの実在論を以下に解釈する(注6)。ガブリエルの全体像は容易につかめないのだが、ここでは上述のメイヤスーの論点と関わる限りで、紹介しておく。そののちに、ガブリエルのメイヤスー批判をまとめる。
ごく簡単にガブリエルの主張をまとめて置く。まず世界は存在しない。しかし世界以外のすべてのものは存在する。つまり存在するものすべてを包括する世界それ自体は存在しないが、世界の中には、国家も夢も様々な可能性も、芸術作品も、世界に関する私たちの思考も含まれていて、それらはすべて存在するのである(p.17ff.)。
彼自身の要約を使えば以下のようになる。まず私たちは、物質及び事実それ自体を認識することができる。第二に、物質及び事実それ自体だけでなく、論理法則や人間による認識もまた存在している。新しい実在論は意味の場の存在論であり、私たちが認識する一切のものは何らかの意味の場に現象する。それらはすべて存在している(p.169)。
メイヤスーと並んで、これが新実在論と呼ばれるのは、相関主義が認識に関わる対象のみが存在し、つまり私たちにとって現象するもののみが存在するという考え方を採るのに対して、ガブリエルもまた存在の範囲を大きく広げているからである。
因みに彼は自らの立場を実在論と言って、唯物論という言葉は使わない。彼の言う唯物論は、世界には物質しかない、精神は物質に還元できると考えるものの考え方のことである。これに対してはガブリエルは批判的である。世界には物質のほか,精神も実在すると考えるからである。ただこれはガブリエルの唯物論の定義であり、私の定義については後述する。
さてこのガブリエルの主張を以上のようにまとめた上で、今度は、ジジェクとの共著で展開されるガブリエルの主張を見て行く。ガブリエルのメイヤスー批判は、以下のようにまとめることができる(注7)。まずメイヤスーは、人間という主体が存在しない宇宙の秩序を記述しようとするが、問題は、そのような主体がどのようにその主体のない宇宙の秩序から生まれたかということなのである。そのことにメイヤスーは言及しない。そして主体を産み出す秩序自身はまさしく偶然性から生まれて来ており、つまり偶然性の中にこそ秩序が埋め込まれている(p.11f.)。
このことは次のように言い換えられる。メイヤスーは、偶然性は必然的であると考えている。あらゆるものが他であり得る。つまり偶然的である。しかしこのこと自体は他の様ではあり得ない。つまり必然的である。必然的な存在、つまり神は存在しない。そのことは必然的だ。しかしメイヤスーはそう考えているにも拘らず、数学的実在を信じ、カオスが自己規範化するのを信じている。メイヤスーにとって、物自体は存在し、かつそれは数学化可能な質であるような実体である(p.163)。するとあらゆるものが偶然的に存在し、そのこと自体は必然的なのだが、同時にその偶然的な存在はかなりの程度必然化されているということになる。
それに対してガブリエルは、世界は徹底的に偶然的であると考えている。必然とは事後的に人が偶然をそのように位置付けるものに過ぎない。私たちが世界を必然的であると概念化するその能力は事後的にのみ成立し得る。つまり必然性は偶然性なのである。メイヤスーは、偶然性は必然的であると言う。しかしガブリエルは、必然性は偶然的であると言う。
世界の中に理性は偶然的に生じる。そうして一旦理性が生じれば、あとはその理性が、その理性が生まれて来た必然性を遡及的に位置付け、世界は理性によってのみ維持される。偶然が必然化すると、偶然性は覆い隠されるが、しかし絶えずそれは顕現する。
私はそのガブリエルを批判する。確かに必然性は事後的に作られる。しかし事後的に作られ得るのは、そもそも潜在的に元々の偶然性の中に必然性の萌芽があったからだ。萌芽があったということの方を強く打ち出すとアニミズムになる。私の考えは、そのアニミズム的な物質の中に潜在的に必然性が宿っていて、それを数学的に記述することが可能だというものだ(注8)。しかしその数学的な秩序は事後的にしか見出せないのだから、そして世界はいくらでも別様にあり得た訳だから、それは徹底的に偶然的なものである。世界は偶然性に基礎を置く。そう考える限りでは、私の主張とガブリエルのそれと変わりはない。
ここで先のレーニンの記述を、私が以前から参照しているヘーゲルと比べてみる(注9)。ヘーゲルは、「魂はただそれ自身が非物質的であるばかりでなく、自然の一般的非物質性であり、自然の単純な観念的生命である」(『精神哲学』389節)と言う。
これはどう解釈すべきか。魂は非物質的(=精神的)だというのは問題ない。ただ魂が非物質的(=精神的)なのは、自然が非物質的(=精神的)であって、そのことによって魂もまた非物質的(=精神的)であるというのが、このヘーゲルの言明である。するとここで言われているのは、自然が精神になるということであり、自然が精神になったときの最初の形態が魂であるということである。物質は非物質性という性質を持っており、潜在的に非物質的である。そうすると、先の引用の後半は、魂は自然の非物質性というあり方を顕在化させて、単純な姿になったということに過ぎない。そしてそこから精神が発達して行くのである。
「魂は実体であり、精神のあらゆる特殊化及び個別化の絶対的基礎である。その結果、精神は自分の規定のすべての素材を魂の中に持っていて、魂は精神の規定に浸透している同一の観念性として残っている。しかしなおこの抽象的な規定においては、魂は精神の睡眠に過ぎない。言い換えれば可能性から見て、万物であるアリストテレスの受動的なヌースである」(同)。精神は魂の可能性が展開されたものである。『精神哲学』のこのあとの展開で、精神は様々な段階を経て発展して行くのだけれども、ここはまだその最初のもので、魂は「精神の睡眠」、「受動的なヌース」に過ぎない(注10)。
ここで自然から精神が生まれると言う時に,ヘーゲルはこれを時間的に考えていない。しかし論理的な順番として,自然が精神を産む。つまり精神が生まれる前の自然が実在するとヘーゲルは考えているのである。そしてその自然の中に潜在的に精神が存在しているのである。
こうなると、レーニンもまたヘーゲルも変わりがないと言うべきである。精神と物質を峻別して、そのどちらが根源的か、どちらが先にあったのかと問うのが、観念論であり、唯物論であるとするのなら(これが私の定義であり、先のように、世界には物質しか存在しない、精神は物質に還元され得ると考えたり、その逆に世界に存在するのは精神だけで、物質だと見えるものはその幻影にすぎないと考えるものを、狭義の唯物論、狭義の観念論と考える)、レーニンもヘーゲルも、そのどちらでもなく、そのどちらをも超え出ている。言い換えれば、物質が自己展開して、自らの中に潜在的に宿っていた精神を顕在化させるという考えと、精神の疎外体としての自然が自己展開して、精神を産み出すという考えは、唯物論でもなく、観念論でもなく、その両者を超えたものである。
実在論の意義は3点ある。ひとつは、上に述べたように、人間の進化を問えることである。もうひとつは、人間が滅んだあとの地球について考えることができるという意義もある。ただし、レーニンに人間が生まれる前の自然を問うという問題意識はあったが、人類が滅んだあとの自然を問うという問題意識はなく、両者は論理的に繋がるが、テーマとしては別のものと言うべきであり、後者は近年になって問われるようになったものである。しかし私はこのことを本質的な問題と考えている。以前私は「進化論をシステム論から考える」(「公共空間X」)の中で、最も進化した動物である人間は、最も環境の変化に弱く、容易に滅び得ると考えるべきであると書いた。自然を超える精神を持った人間が自然界で最も脆弱なのである。それはまた人新世の主張とも重なるだろう(注11)。
そして3番目の意義は次のようなものである。人は物自体に突き動かされている。物自体を切り捨てることはできず、それは私たちの根本を規定している。そのことを明確に自覚すべきである。これもすでに言及して来たことなのだが、このあとにも繰り返される。
精神は自然から出て来たのだが、自然からは飛躍し、自然性から切り離されている。自然と精神のその連続と断絶を見るべきだと私は主張してきた。今回はさらに次のように言いたい。つまり現代思想は、偶然性を無条件に承認している。そして秩序を神学的に基礎付けするものや、自然の中に見出された必然性に依拠するという考え方を拒否して来た(ガブリエル=ジジェクp.156f.)。そこは評価すべきである。しかし本当は次のように言うべきである。精神は自分がそこから出て来たところの自然に基礎付けられるべきであるのだが、その自然とは、無であり、偶然的なものである。しかしその偶然性から必然性が生まれる。先に述べたように、メイヤスーは必然的な存在者がいないことが必然的である、つまり偶然性が必然的であると主張するが、ガブリエルは必然性が偶然性から出て来ることを、つまり必然が偶然であることを主張する(p.156)。これは次のように言い換えられる。メイヤスーは精神が出現する以前の自然の存在を肯定する。つまり精神の外に、すでにある程度秩序を持った偶然の自然の存在を肯定する。その偶然は必然的に存在する。しかし問題はそこから精神が出て来たということなのである。つまりどうやって偶然から必然性が出て来るのかということである。そうすると偶然とはその中に必然が埋め込まれているもののことであり、必然とは偶然的なものに過ぎないということである。それは事後的に必然へと展開される偶然である。精神がすでに出現したあとに遡及的にその精神を産み出す萌芽を自然の中に見出すことができるのである。
さて前回、目的論という言葉を使い、これは次回にもまた論じたいテーマである。この目的論は実在論である。精神が出現する以前の自然が実在し、それが精神を産み出すという目的を持っていると考えるものだからだ。カントは物自体を実在すると考え、『判断力批判』で目的論に肉薄しようと試みた。カント以降、ヘーゲルはそれを引き継いだが、そのあとの哲学者たちは目的論はおろか、物自体まで捨ててしまっている。そう書いておく。次回に続けたい。
注
1. 岡本裕一郎『いま世界の哲学者が考えていること』ダイヤモンド社2016
2. メイヤスー、Q., 『有限性の後で -偶然性の必然性についての試論-』千葉雅也他訳、人文書院、2016 (原文2006、英訳2012)
3. メイヤスーの言うところの相関主義の特徴を最も良く表しているのは、主観と客観の関係主義を標榜した廣松渉の哲学だと私は思う。そうすると、メイヤスーはヴィトゲンシュタインとハイデガーをその代表的な哲学者として挙げているので、ヴィトゲンシュタインを創始者のひとりとして確立した分析哲学と、ハイデガーの強い影響下で始まった実存主義、構造主義、及びポスト構造主義に加えて、マルクス主義の中にも強い相関主義的な主張があったことになる。20世紀の哲学の主要なところはほぼ相関主義だったと言うことができる。
4. レーニン、V.,『唯物論と経験批判論』1.2 寺沢恒信訳、大月書店1953、1955
5. 私はかつて、マッハとボグダーノフをシステム論の創始者と位置付けたことがある。
6. ガブリエル, M., 『なぜ世界は存在しないのか』清水一浩訳、講談社、2018(原文は2013)
7. ここから前回も使ったガブリエル=ジジェクを使う。『神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性-』大河内泰樹他監訳、堀之内出版、2015(原文は2009)
8. その数学が複雑系である。
9. ガブリエルは実在論の根拠をシェリング読解から引き出しており、一方ジジェクはカント以降、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと読み解くことで、自説を補強している。ジジェクについては、次回以降さらに詳述する。
10. ヘーゲル『精神哲学』(船山信一訳、岩波書店、1965)。尚この辺りの解釈については、加藤尚武を参照した。「ヘーゲルによる心身問題のとりあつかい」『ヘーゲル論理学研究』No.19, 2013
11. 人新世とは地球の歴史的区分の話なのだが、人間が急激に自然を改変してしまい、そのために自然が人間の安定性を保証できなくなってしまったという感覚が広がって、今注目されている概念である。それは人間が滅びたあとの自然を示唆し、人間が生まれる前の自然を考えるべきという実在論の主張と重なるが、現時点では、様々な論者が様々な思い入れを以ってこの思潮に臨んでおり、扱うには慎重さが求められる。
(たかはしかずゆき 哲学者)
次号に続く
6へ続く
(pubspace-x4912,2018.03.18)