高橋一行
3より続く
本稿を3回分書いて来たが、ここで短いまとめを提出する。次回以降、さらにテーマを広げて行く予定だ。
柄谷行人は、カントの物自体は他者であると言っている。『純粋理性批判』に他者の概念は出て来ないと私は主張して来たのだが、カントは実は物自体によって、他者を含意しているというのが柄谷の主張である。
カントは現象としてしか見ることができず、決して認識はできないが、感性を触発してそれに内容を与えるものを物自体とした。それは物そのものであるのだが、同時にそれは私たちが勝手に内面化できない他者の他者性を意味している。それは自我の変様態のような代物ではなく、学の普遍性を確保するために導入されたもので、つまり現象の普遍性はそのような他者性を前提する限りで成立し得ると柄谷は言う。
論点はふたつある。ひとつは以上のように、物自体に他者を含めて良いとすることで、興味深いのは、もうひとつの論点として、『判断力批判』への言及があり、その趣味判断において他者性を見出していることである。そこには複数の主観が現れており、つまり美の判断は主観的であると同時に、普遍的でもあり、趣味判断は必然的に他者を要請する。そしてその考え方が、物自体が他者であるという主張を補強している。その際、柄谷のオリジナリティーは、カントにおいて、『純粋理性批判』から『判断力批判』への移行があったのではなく、逆に『純粋理性批判』を『判断力批判』から読み直すべきだということである。『純粋理性批判』には主観としての他者は出て来ない。それは私がすでに前稿で書いたように、そこでカントは主観の形式だけを論じていて、自己と他者との交流もないし、論理を進展させるのに、他者の同意を求めてもいない。しかしカントは物自体を設定することで、未来の他者を想定し、それによって他者性を導入した。他者性は『判断力批判』で明確になるが、しかしそれはすでに『純粋理性批判』から始まっていたのである(注1)。
さてこのようにカントを読むことは、私はぎりぎり可能であると思う。このカント理解においては、物自体、すなわち他者の他者性は、統制的原理であって、それは私たちが内面化できるものではない。それは超越論的他者であって、その他者は共同主観や共通感覚において私と同一化できるものではないとされているのである。
しかし他者をかくの如く崇めるのは現代思想の常套手段であって、カントをこのように読むことに如何ほどの意義があるのかと私は思う。そしてこの物自体=他者は超越論的な存在であるとする考え方は、いくつもの異なる立場から批判される。
まずヘーゲルは、他者を相互承認論において把握し、カントの持っている超越論的な性格を批判する。これは一般的な、カントとヘーゲルの理解である。
竹田青嗣をここで引用する(注2)。柄谷の主張は、認識を認識たらしめているものは、他者との関係においてであり、他者との全般的な関係相関性に根拠付けられているという点で、「結果的には妥当であり納得できる」とする(竹田p.12)。しかし、このことはのちにヘーゲルがカント批判をする際に問題となる点である。つまりカントは、道徳的な意志、他者を自由な道徳的な人格と見なす自律的な意志を発動させて、道徳的な主体となることで自由になるとするのだが、ヘーゲルにおいては、他者を自由な意志であると見なす自律的な意志の相互性が、人間の自由を保障する。ヘーゲルはこの他者との相互承認に自由の根拠を置くことで、カントの自由が持っていた超越性を完全に抜き取る(同p.30f.)。
これがガブリエル=ジジェクだと以下のようになる。カントは物自体を存在論的に扱わず、認識できないものとしたが、しかしそのことによってカントはこの存在を前提した。しかし重要なのは、そのカント的な存在論の残余を破壊すること、カントにおいて物自体=現実界は実体化されているが、それを徹底的に脱実体化することにある。これを成し遂げたのがヘーゲルである(注3)。
カントは有限なものの対立に意識的に留まる。そしてそのことによって、その向こうに無限なものがあることを示唆する。そこには決して到達できないとしつつも、その存在は認め、かつそれを絶対化する。
ヘーゲルは一般には、その有限な対立を止揚し、現象と物自体の二元論を統一したとされているが、それはどうか。有限な対立が、そのままで、実はその中に無限が胚胎していることを指摘する。それを反省的に措定することで、すでに私たちは無限に達している。いや、このように言うべきかもしれない。無限はすでに有限の運動の内にあり、決して超越論的なものではないと。
カントは物自体は認識できないとして、その存在を前提に、認識の問題を解明した。問題は、そのことによって、物自体の存在を確定し、それを神格化してしまったことにある。本当は、カントの物自体は、それを認識論的に問うのではなく、存在論的に問わねばならないのである。それはカント以降しばしばなされるように、物自体をあっさり捨ててしまって、カントの認識論だけを評価するということではなく、物自体の存在論的な資格を論じるということでなくてはならない。そのことによって、物自体を脱存在化し、脱神格化する。それがヘーゲルのやったことである。
すると柄谷行人のように、物自体=他者を崇める必要はなく、そこに思想の根拠を置く必要もない。
さらにジジェクはまたその同じ本の中で、次の様にも言っている。ジジェクは『純粋理性批判』の第二版の序文を使う(ガブリエル=ジジェク第3章)。
我々が認識できるのは物自体としての対象ではなく、感性的直観の対象としての物、換言すれば現象としてのものだけである。するとこのことからおよそ理性の可能的な思弁的認識は、すべての経験の対象のみに限られるという結論が当然生じて来る。ところで、これは十分注意しなければならないことであるのだが、我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識(erkennen)できないにせよ、少なくともこれを物自体として考える(denken)ことができねばならないという考え方は依然として留保されている。さもないと、現象として現象して来る当のもの(物自体)が存在しないのに、現象が存在するという不合理な命題が生じて来るからである」(B XXVI)。
ジジェクはこの箇所について、ここはもうほとんどヘーゲル/ラカン的であると言っている。本質=物自体=超感性的なものは、現象としての現象に他ならないが、まさしくその中で何物も現象しない現象であり、それは無が現象する現象なのである。この時点ですでにカントはヘーゲル的なのである。
さらに私は、カントの『判断力批判』の後半での議論において、そこでは物自体が超感性的なものとして捉え直され、それが反省的判断力によって規定されていると考えている。それは超越論的なものと見なされるのではなく、目的論的に捉えられているのである。そこでは自然の客観的合目的性の論理的把握がなされ、そこで完全にその神秘性は剥奪されている。そしてその仕事がカント構想力に託されている。しかもそれが無自覚に働いている知性の存在を顕在化するというやり方でなされる(注4)。そのようにカントを、ヘーゲルに近付けて読むことが可能であると考えている。
この『判断力批判』をどう位置付けるか。第一批判は、確かに、物自体を認識できないものとして想定することによって、その存在は揺るぎないものになってしまった。ヘーゲルは、物自体を認識できるとしたのではなく、それはむしろ現象の作り出したものだと持って行く。そしてそれはジジェクの表現を使えば、無なのである。それに対して、カント第三批判は、構想力概念を充実させることによって、この物自体を規定できるとした。その点で、カントは一段とヘーゲルに近付いたことになる。
一応次のように言うことはできる。カントは第一批判において、物自体と現象の二元論を展開し、第三批判では、これを一元論に近付けた。しかし一元論にはなっていない。これは佐藤が言うように、カントは、「小心翼々とも見える批判哲学的知性の自己規制が、また、最後まで消えることのない機械論への配慮が、『判断力批判』における有機体論のダイナミックな展開を抑圧している」からである(注5)。カントは物自体を現象の現象として、脱神格化することはできなかったし、のちに述べるようにその目的論的な理解も徹底できなかった。
カントは、どうしたって、現象を超えた世界の重要性について語りたい。それは構想力にしかできないということになる。ヘーゲルは、そういう世界は、有限の、現象の世界にある。いや、そこにしかないという話だ。
第三批判を単に趣味判断の書、美学の書として読むのではなく、目的論の側面を念頭において、第三批判の内にある形而上学的・存在論的問題を扱う。それが超感性的なものを扱うということの意味だ。
それは自由の実現可能性の問題でもある。超感性的なものは、理論的には超越的で、実践的にしか内在化され得ないとされたのだが、『判断力批判』において、第二批判で論じられる自由概念が第一批判で扱われる自然概念に影響を及ぼし得ると考える。そこでは感性的な認識から超感性的な認識へと進展がなされ、それによって、自然と自由との裂け目が埋められる。それが『判断力批判』のなし得たことである(注6)。そしてそれは、美感的判断力の批判と目的論的判断力の批判、つまり反省の主観的な面に定位した合目的性と、反省の客観的な面に定位した合目的性という区分に対応して、それぞれが吟味され、この両方を見ることによってなされる。それによって、超感性的なものが規定されるのである。
こういう読み方の対極にあるのが、先の柄谷行人の読み方で、柄谷に限らず、彼らに共通するのは、『判断力批判』を前半部しか評価せず、後半部の目的論的な議論を拒否することである。それは同時にヘーゲルを徹底的に拒否することでもある。しかし目的論とは、次号に詳述するが、自然を神学的に基礎付けられたものと見るのでもなければ、自然そのものに顕在化した秩序を見出すものでもない。それは自然を徹底的に偶然なものと見なし、その偶然性に依拠する考え方である。再びジジェクの言い方に従えば、目的論が見出すものは無である。
目的論は自然がどのように精神を産み出すのかということを説明する。カントが『判断力批判』で取り組みたかったのはそういうことであったし、ヘーゲルが『エンチュクロペディー』で説明し得たのもそのことだ。しかしカントは目的論を示唆しただけで終わった。
積極的な目的論についての、ヘーゲルの説明は、習慣論においてなされる。ここはごく簡単に説明すれば以下のようになる。個体としての動物は病に陥り、やがて死を迎える。個別の死の繰り返しの中に、類が現れ、それが意識されると、人間の精神へと高まって行く。つまり精神は類意識の自覚されたものである。その意識の有無が動物と人間を分けている。同時に、動物はすでに感覚の能力を持ち、それは病に陥る。感覚の病にある動物と心の病を持つ人間は、その点において連続している。しかし人間は習慣によって、病を克服する。その克服ということについては、前号で、それは決して克服されず、ただ反復されるだけだと書いた。しかし反復するだけであっても、その行為を以って克服と言うことはでき、それが人間の精神を高め、動物と決定的に離れる所以となる(注7)。
前号に書いたように、カントは心の病は構想力の病であるとして、その構想力を重視し、『判断力批判』において、自然の目的論的理解、つまり自然と精神との関連を問うという作業をしようとした。ヘーゲルは、さらにその自然と精神の境界にあるのは、心の病そのものであるとし、それに支配されつつ、そこからの離脱を試みる人間の精神の歩みについて語った。精神が初めから心の病にまとわれているということを明示的に語ったのである。
カントとヘーゲルの異同はかくの如し。そこからカントとヘーゲルのどちらかだけを特権化する必要もないということが分かる。
再び、ガブリエル=ジジェクに戻る。人間は自然とこのように連続し、かつ断絶している。その断絶面しか見ず、つまり人間が自然的存在でないということから、人間が自然から切り離されているからということで、世界についての理論において信念の体系を構築すべく、直ちに「義務論的な空間を占めるような超越的存在者」(ガブリエル=ジジェクp.34)を求めてはいけない。精神は本来的に無意識や病や死と結び付けられているのである。あるいはジジェクはしばしばハーバーマス批判をするのだが、というのもハーバーマスが新カント派的なアプローチで、存在論的な関わりをせずに、「自然的な存在者からは演繹されないような、コミュニケーションのア・プリオリで超越論的なもの」(同p.33)を求めているからであり、それを批判するのである。その批判内容は、私は極めて正しいと思う。
精神は自然から出て来たのだが、自然からは飛躍し、自然性から切り離されている。自然と精神のその連続と断絶を見るべきだと私は主張してきた。今回はさらに次のように言いたい。つまり現代思想は、秩序を神学的に基礎付けするものや、自然の中に見出された必然性に依拠するという考え方を拒否し、その偶然性を無条件に承認して来た(同p.156)。他者性やコミュニケーションや正義といったものを考えると良い。それらは端的に自然から切り離されたものである。そしてそういう考えは、それはそれとして評価すべきである。
しかし、次のように言うべきである。精神は自分がそこから出て来たところの自然に基礎付けられるべきであるのだが、その自然とは、徹底的に偶然的なものである。しかしその偶然性から必然性が生まれる。これは次のように言い換えられる。まず精神が出現する以前の自然の存在を肯定する。つまり秩序を持った精神の外にある偶然の自然の存在を肯定する。それは偶然的であって、その偶然は必然的に存在する。しかし問題はそこから精神が出て来たということなのである。つまりどうやって偶然から必然性が出て来るのかということである。そうすると、偶然とはその中に必然が埋め込まれているもののことであり、逆にそれを必然から見れば、必然とは偶然的なものに過ぎないということである(同p.10ff.)。このことについては、次回に詳述する。
カントとヘーゲルと共通しているのは、無意識や病を重視しているということだ。佐藤は、カントの構想力に託された健全な無意識や無自覚性の思想が復権されるべきだと言っている(佐藤p.151)。私はそれが健全だとは思っていないが、しかし、ドイツ観念論の持つ豊かさのひとつが、この無意識の重視にあると思う。主体化は無意識を通じて行われる。
以下にまとめを書く。
カントは、市民社会では至る所で、心の病を抱える人がいるという観察をする。ヘーゲルは、精神の歩みにおいて病に陥るのは必然的であると考える。カントにおいて、誰もが病にあるというのではないが、しかしこれほどにも世に病は溢れており、それは市民社会のひとつの必然的な構成要素となっていることに注意すべきである。そしてヘーゲルにおいても、病の必然性というのは、事実の問題として必ず誰もが病に陥るということではない。理論的に病が先行し、理念的に誰もが病に陥る。潜在的には誰もが病に陥ると言っても良い。それを習慣によって克服することによって、精神がその歩みを先に進めるのである。病は精神の進展において最も基本的なものである。人はその病にどう取り組むのか。それこそが習慣である。
心の病や精神の変調を夢や天才の情熱と並んで肯定するカント。病を克服しようとしつつも、決して克服はできず、ただそれを反復するだけだとみなすヘーゲル。病に陥ることのできるほどの能力を持った構想力だからこそ、超感性的なものを規定できると、構想力に特別な思いを寄せる『判断力批判』のカント。心の病こそが精神を発生させたと考える『エンチュクロペディー』のヘーゲル。
カントは人間の心の病に陥る能力こそが超感性的なものを規定できるとし、ヘーゲルは、その超感性的なものとは、心の病によって動かされているのだとした。それが今回の結論である。
注
1 柄谷行人『トランスクリティーク -カントとマルクス-』(岩波書店2004) 第1部
2 竹田青嗣『人間的自由の条件 - ヘーゲルとポストモダン -』(講談社2004)
3 ガブリエル, M. = ジジェク,S.『神話、狂気、哄笑 -ドイツ観念論における主体性-』(堀之内出版2015)
4 佐藤康邦『カント『判断力批判』と現代 - 目的論の新たな可能性を求めて -』(岩波書店2005) p.150f.
5 前号の注3で引用した。
6 前回も参照した濱野喬士『カント『判断力批判』研究』(作品社2014)をここでも参照した。
7 前出のガブリエル=ジジェクの第2章にカントとヘーゲルの習慣論がある。これについては、別稿を要する。
(たかはしかずゆき 哲学者)
5へ続く
(pubspace-x4847,2018.02.09)