「サブカルチャーを論じる」とはどのようなことだろうか

西兼司

 順番  1、「問題の立て方」  2、「述べられていることへの違和感」  3、「カルチャーの基盤とメインカルチャーの現在」  4、「サブカルチャーの体位」

<問題の立て方>

 高橋氏が「公共空間X」に初めて「サブカル論」を「サブカル論を論じる」という形で投稿した。「サブカルチャーについて考えていくことが必要だ」ということは、X結成時から確認してある課題領域であったのだが、実際は同人の大部分が、「サブカルとは縁のない生活」であったり、「サブカルチャーを受け入れてはいるのだけれども、自覚的ではない生活」であったり、「サブカルって範囲が曖昧で物言いにくいよね」であったりで、事実として語ることができなかった。それを「サブカル論を論じる」観点から、語ったのである。呼応して、別の観点からものを言い、サブカル論への筋道を大きくできればと思う。

 ただし、私は高橋氏よりもさらに年上だから現実の「サブカルチャー領域」に親しみがあるわけではない。歌舞音曲や体育遊戯に現を抜かす軟派であることを恥じて生きてきた人間である。漫画は小学生時代から高校生までは多少は読んでもいたが、アニメということになれば、子供と一緒に映画館に行くことはあっても、自分の趣味で行くような人間ではない。テレビで見るアニメと云っても、サザエさんやちびまる子ちゃんを多分長い一生で20回か、30回ぐらい見たことがあるという程度のものである。

 だから、直接サブカルチャーを論じる自信はない。むしろ、サブカルチャーを論じる枠組みを論じたいのである。さしあたり高橋氏の論に依拠してそれを考えていきたい。サブカルチャーを論じるのか、サブカルチャー論を論じるのか、これは論じる対象がはっきり別であることを示しているが、「対象は動くから定めることが難しい」にせよ、「論じる対象は広大無辺であるから切り口はたくさんありすぎる」にせよ、問題にするものはなんであるのかを避けて議論するのは難しい。「サブカルとは何か」という問題が、まず初めの議論の入り口である。

 「サブカルチャー」は「メインカルチャー」に対抗する、メインカルチャーが存在するであろうことを前提として成立する観念である。メインカルチャーを定めることをすべて放棄してサブカルチャーを語ることはできない(註1)。もちろん、メインカルチャーも動き続けているのである。

 そして、メインもサブもともに、「カルチャー」である。カルチャーとは何かといえば、これは思考、工夫、生産、分配、消費、生殖、子育て、秩序、付き合い、衝突、贅沢を受け入れる形としての「民俗」である。世俗社会(出家をも余地として認める)のあり方である。生産の諸要素(機械制大工業)や贅沢奢侈の結果としての諸要素(建築物・工芸品・歌舞音曲)も、それは社会に受け入れられているのであるから、文化の形の一端を示すものではあろうが、「文化」そのもの、つまり「カルチャー」ではない。あらゆる要素をそれなりに受け入れている人間集団の継続し得ている実態的存在・「民俗」が、要素の基盤たるカルチャーである。

 高橋氏の云う、メインを「日本」と「戦後」もしくは「(戦後)モダン」とすることは了解可能なことである。そのうえで「私の世代で、サブカルと言ったら、マンガやアニメは分かるとして、あとは、例えば、以前ならそこに、音楽と性的コミュニケーション(宮台他2007)を入れれば良かったのだが、またオタクの分析も結構世に出ていて(東2001、大塚2016)、しかしこの後で取り挙げる黒瀬陽平が扱うのは、GREEとか、モバゲーといった、ソーシャルゲームである。これはもう私には分からない。さらには、最近のサブカルチャー論には、ライトノベルもある」に加えて、「寺山修司と岡本太郎はポストモダンの先駆けだが、モダニズムに対しての強烈な違和感があって(寺山修司は既成のモダニズム演劇を嫌い、また岡本太郎は丹下健三や磯崎新などのモダニズムに対する強い反発があった)、その反発の力がものすごく、そのために、ポストモダンをも突き抜けてしまう」と演劇、造形を加えることも理解可能なことである。

 しかし、私の初めの疑問は整理されない。問題がどのように建てられたのか、私には分からない。文化要素の変容を任意に整理し語るだけで、「サブカル論」、ないしは「サブカル論を論じる」ことができるのか。

(註1)特殊日本的には、「サブカルチャー」に対比されるのは、「ハイカルチャー」だという話も聞く。「ハイカルチャー」という語感も理解ができないわけではないが、「上位文化」と訳すことのできる学問、文学、美術、音楽など支配階級の嗜好する支配イデオロギー様式のみを抽出する文化観は、私の文化観ではないのでこの用語は取らない。ただし、「ハイカルチャー」といってよい成熟、洗練が学問、美術、音楽などに留まらず、すべての文化要素で、たいていの時代に適度に偏った形で生じる事実・「ハイカルチャーと云うのがふさわしい文化要素群」が存在することについては、これを当然認める。それが「文明の型」と云われるものであることも認める。

<述べられていることへの違和感>

 「ポストモダンの世界像の中で育った新たな世代は、初めからそれを当たり前だと考え、世界全体を見渡そうとする必要性を感じない」(高橋「サブカル論の現在」3. サブカル論の現在 ポストモダン論として)のはもっともなことである。これは角度を変えてみれば、新しい世代は世界を所与のものと考え、その世界の歴史的相対化はその世代にとっての下の世代が出てきて初めて可能になると謂うことである。古い世代にならなければ時代の相対化は直感的にはできないということである。

 そうした観点からすると高橋氏の言っていることにも事実認識の問題としては相当に違和感がある。これについては数点確認しておきたい。高橋氏よりおよそ10歳私が年を取っていることから来る実感的認識の違いがあるのである。小熊英二の『1968』が事実の抽出において惨憺たる失敗をしているように、時代的当事者がたくさんいる時代に恣意的な資料選択を行って当事者たちから批判されても放置しておけば、そうした事情を知らない後継世代からは「著作・物神崇拝」によって、信じられてしまって「信じられないような偽史」を作る根拠にされかねないからである。

(1)、「まず、こういう言い方ができる。戦後、マンガはまずアメリカの、ディズニーなどの強い影響下で始まった」とは云えないだろう。鳥獣戯画の時代から、北斎漫画を経て、30年代の新漫画派集団、大人漫画、幼年漫画(ストーリー漫画)を引きついて、戦後漫画は「紙芝居」、赤本、少年月刊誌の絵物語から始まった。続いて、貸本屋漫画が出てきて、少年週刊誌までの時期をつないだという日本には独自の漫画の系譜がある。これらすべてを前提にして、例えば、手塚治虫がディズニー映画の影響を大きく受けているという話が成立するのだ。研究者の視点次第ではこうした表現となることは大いに考えられることではあるが、戦前の大人漫画の系譜がディズニーを経由せずにギャグマンガの系譜として戦後に受け継がれたことは欠かしてはならない一視点であろう。
(2)、「例えば、『鉄人28号』の鉄人はアメリカ軍で、その操縦をしている正太郎少年は、無垢な心、すなわち憲法9条を持つ日本人であり、アメリカ軍と日本人が良好な関係であれば、世界は平和であるという解釈を、多くの人がして来たのである(内田2010、p.158ff.)」と云うのも鉄人28号を同時代的に読んでいた子供からすると牽強付会の与太話である。横山光輝がどういう意図を持っていたかは知らない。しかし、朝鮮戦争があり、60年安保闘争があり、ベトナム戦争の影が忍び寄っていた70年安保闘争敗北までの日本にアメリカ賛美の空気が横溢していたと想像すること自体が、想像力の枯渇だ。子供は「ヤンキー」と云って豊かなアメリカ人に敵意を隠さなかったし、青年は「アメリカ帝国主義」という言い方を普通にして下剋上の害意を温めていた。少数の既得権益者とインテリはアメリカと日本の良好な関係を望んでいたであろうが、「ヤンキー・ゴー・ホーム」を望む人の方が多かったのだと謂うことを伝えていかなければ、戦後史を偽史として創作することにしかならない。鉄人28号の時代は大卒が絶対的少数派であったことを忘れたのでは話にならない。
(3)、「日本では、1970年代から、マルクス主義が退潮するのと前後して、ポストモダンが出て来て、それらが左派的な言辞に影響を与え、かつ、それらが日本では特異なことに、アカデミズムではなく、ジャーナリズムの場で広がった」と云うのも「左派的言辞」というマジックワードが使われているが、(60年安保闘争を契機にして既成左翼とは全く分かれた)「革命的左翼」には、全く当てはまらない。70年代の前の「70年安保・沖縄闘争」は、「60年安保闘争」と同様に敗北したのだが、「左派勢力」一般が闘ったものではない。日本共産党系の勢力と熾烈な闘いをしながら権力から「暴力学生」、「過激派」という不思議なレッテルを張られた革命的左翼勢力が単独で(「単独」という表現には文学的誇張があるが)闘ったものだ。この政治勢力が社会から非合法的・脱法的に排除されたことは、戦後史の常識的教養であろう。
ジャーナリズムとは大学を卒業してマスコミに潜り込めた(「就職活動」という脱色活動によって自己を変色させることに成功した)左翼、云いかえれば逮捕されないサヨクの精神活動であって実践活動部隊とは基本的に無縁の存在である。もちろん、革命的左翼の孤立が良いことであったのか、逮捕されるような活動を好むスタイルが良いことであるのかは、当然別個の問題として存在するから「マルクス主義が退潮」した事実はあるが、「ポストモダンが出てきて左派的言辞に影響を与えた」ことはない。左翼とは別の世界、断絶した一般社会(読書人世界)の言説で在って、それが無力であることは云うまでもないがそれが左派的言辞ではなかろう。
(4)、「私は90年代のオウム真理教の事件が、戦後最大の問題だと思っているので、そしてそのオウム真理教にサブカルチャーは本質的に関わっている」と云うのはそれこそ世代間の歴史感覚の差であろう。オウム真理教事件(89年11月から95年3月)を、「戦後最大」と云うのは、「67年・68年・69年安保改定阻止闘争(70年安保・沖縄闘争)」を知らぬからであろうし、「グリコ森永事件」(84年3月から6月)を実感的に知らぬからであろう。三菱重工爆破から始まる東アジア反日武装戦線の連続爆弾闘争(73年8月から75年5月)よりも一連のオウム真理教事件は、組織は大きかったが支持基盤の厚みはなかったので衝撃は小さかったのではないか。日本の公安を含めて、オウムが各国の諜報組織のおもちゃになっていたことは忘れられないことであった。「諜報のおもちゃ」性が「最大の問題」性だと云うのなら同意できることであるが、「サブカルチャーが本質的にかかわっている」のが「最大の問題」性だとするのなら、ハルマゲドンなり、空中浮遊などの荒唐無稽話のことだとしても、当時も今も問題性の理路が分からない。それとも修行法の特異性を指摘しているのであろうか。修業は、薬物を使ったり、独房監禁など、それなりに特異であるが、修道院など類似した例はあるし、古典的ではあってもサブカルチャーと云わなければならない理由はよくわからない。
オウム真理教のイデオロギーをわざわざ「サブカルチャー」の範疇に入れなければならない理由があるのだろうか。イデオロギーは雑炊であるという印象はあるが、「タントラバジラヤーナ」や「ポア」という発想も含めて目新しくもなければ、カルチャー(民俗)という広がりも感じられない。一般論として「カルチャーの危険性」=「宗教の危険性」と「馬鹿どもの問題性」は重なるところは当然あるだろうが、別の問題である。
(5)、「大澤真幸や東浩紀の言い方をそのまま使って言えば、70年代の連合赤軍と90年代のオウム真理教事件は、前者が共産主義という社会的に認知された物語を信じたのに対し、後者が認知されにくい物語を信じていたという違いがあり、その違いには、前者がマルクス主義に、そして後者がポストモダン的なサブカルチャーに影響を受けたという点に求められると思う」の「連合赤軍」と「共産主義」と「マルクス主義」の繋がり神話にも違和感がある。世間がそう受け止めたのはそうだろう。しかし、連合赤軍が共産主義を標榜したのは事実であっても、そのレベルが本当に低いと見られていたこと、マルクス主義とは云っても『賃労働と資本』を読んだに過ぎないレベルであったことは、革命的左翼を標榜した人間たちには比較的知られていたことであった。直接的な迷惑を受けたブンドグループ以外は、努めて関知しない態度をとったことは事実であって、連合赤軍カルチャーの危険性=思索なき独り善がり政治の危険性の展開の中で、「馬鹿どもがバカなことをした」だけのことである。
 「連合赤軍」問題と「共産主義」・「マルクス主義」の退潮とは全く別の問題であって、「共産主義を標榜するマルクス主義」は、「共産主義」という思想それ自身を豊かに語れなかったことが退潮の原因たる本当の問題であろう。「共産主義という社会的に認知された物語」は、その内実が『共産党宣言(共産主義者同盟宣言)』や『ドイツイデオロギー』のレベルにとどまるものであって、それ自身が持つ「理想」としての豊かさが少し小さすぎるのだ。思想は認知されることが重要なのではなく、それ自身の大きさ・豊かさ・魅力が世界を吸収する器かどうかと謂うことであろう。日本でも西洋でもロシア・中国でも、コミュニズムを「共産主義」として所有論に還元し、「共同体主義」から「共同態主義」へと発展させられなかった道の誤りがあるであろう。

 10歳程度の世代差にして、同時代に起きた事態・事件に対する印象は、相当に違う。議論の前提の印象が違うのである。これは同じ年齢でもありうることである。生きた空間が違えば、アメリカに対する印象も違うであろう。育った階級が違えば、事実評価の基準が違うはずだ。

<カルチャーの基盤とメインカルチャーの現在>

 話は戦後を前提としていいはずである。文化要素としての「漫画」、「アニメ」、「音楽」、「性的コミュニケーション」、「オタク」、「ソーシャルゲーム」、「ライトノベル」の基盤の民俗はどのような状態であったのか。もちろん、「民俗」要素はこれだけであるはずはないが、此処ではそれは置いておく。

 「民俗」を支える基盤で一番大きいものは、「家庭」(消費、生殖、再生産基盤)である。次に「地域」と云ってもよさそうであるが、これは大都会と地方では戦後一貫して状況が違った。大都会では地域の繋がりは、生活苦を抱える家庭ほど弱かった。繋がりを持てるほどの余裕を持てない存在がプロレタリアとして都会に散居・参集していた。都会では「役所」の存在が大きかった。都会と地方の両方で民俗の基盤をなしたものが「学校」である。これ以外の民俗基盤は、各家庭で大きく異なる。「田・畑」である家庭もあれば、「海の上」、「山の中」も、「勤め先」、「自宅」、「工場」という実感がいい家庭もあるであろう。さらに加えて70年代以降、被差別者として既成社会と対峙すべく立ち上がった人々には、「沖縄」、「部落」、「アイヌ」、「公害」、「障害」、「犯罪者」、「在日」、「被害者」と少数者意識と一体の民俗基盤もある。

 この中にそれぞれの無意識、自意識、価値意識に基づく雰囲気、習慣、伝統、作法、流儀、技芸、取捨選択、判断がある。具体的な民俗である。この民俗は、その民俗を主体化した個人個人のものではあるが、同時に継承や普遍化を求めることを媒介に、家庭・家族、(営利)法人、公務(法執行)法人、生業共同空間、イデオロギー(宗教・政治、福祉)運動共同体、寄生自由活動(芸術・武芸・芸能)共同体、共助共同態として集団的単位を形成しつつ存在している。

 この存在のあり方そのものが、メインカルチャーといってよいものであるが、このメインカルチャーの特質は、権力の下で「法の支配」に屈服する「法治従属共同体の民俗」だということである。人間や個人の自然(じねん)=自由(自らなる道)の展開の前に予めの「暴力への承伏を前提」として、「阿諛追従と不可分の形での文化」となっていると謂うことである。

 これに意義も意味もあることは否定できない。「権力が権力(衡平を実現する暴力)」であり続ければ、それは当然である。しかし、「権力が暴力に過ぎない」ものであることは、それこそ世代間継承はなされていなくとも、年寄りは実感として見せられてきていることである。

 しかし、メインカルチャーもまた依って立つ、「民俗基盤」を「国家直属」=「法の枠内だけ」のものに急速に痩せさせているのではないか。高度成長期後半から日本では、国家権力も労働運動も「左翼」運動も、専業主婦モデルを否定して「女性の社会参加」と称して「家庭内労働力の労働市場への総動員運動」が実施された。「企業(生産過程)肥えて、家庭(消費過程)痩せる」社会を指向した訳で、80年代から労働者賃金が上がらず、家庭が疲弊し、家庭が縮小し、交通費・行動費・交際費に事欠く人々がひきこもる基盤として「家庭」が機能するありさまとして帰結している。バブルがはじける90年代初頭よりも前に労働者賃金が少しも上がらない、上がらない時代が79年第二次石油シヨック以降始まったと云うのは、70年代・80年代を壮年期として生き抜いた人間の実感(註2)である。

 「地域」も、「役所」も、「学校」も、「田・畑」も、「勤め先」も、「工場」も急速にその民俗を喪失しつつある。別の形の民俗が形成されればいいわけだが、その筋は見えていない。大家族も、幅広い友人関係も、義理と人情の非公然関係も、超法規的な宗教的・イデオロギー的な関係も、貪欲に基づく放恣的な活動も、再建されていく条件がない。民俗を失って、知的財産権に依拠した「文化産業」だとか、「コンテンツ産業」だとかが喧伝されて、その産業興隆のその果てにメインカルチャーの再建が願望されると謂うこと自体が、「文化」の力の衰え、「メインカルチャー」の衰弱を物語っているのだと謂うことは解りやすいであろう。

(註2)賃金の上昇は、1960年から80年までは単純に言って10倍、80年から2015年は単純に言って1.5倍、ピーク(97年)で2倍に行かない。独立行政法人労働政策研究・研修機構の「早わかり グラフで見る長期労働統計 図1賃金」(http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0401.html)による。この統計は私の実感にかなり近い。

 

<サブカルチャーの体位>

 サブカル論はメインカルチャー論を抜きにして単独で展開するには限界があるのは明らかである。しかし、メインが崩れていきつつある、その崩れ方が尋常でない(代替メインフレームが見えない)時、自ずからサブカルも特殊な様相をもって自らの体勢・体位を自覚的に措定するよりほかはない。

 日本で現在成立している「サブカル論」は、私などがその全貌を知るすべもないが、80年代から興隆してきた漫画同人誌即売会運動とそれから派生したオタク文化運動によって目眩ましをされて、関連する「戦後日本漫画」、「アニメ」、「コスプレ文化」、「キャラクター商品」、「遊園地のキャラクタースタイル」、更には政府が音頭を取って政策として遂行しようとしている産業政策の中身までをも不用意に「サブカルチャー」の中に入れて議論しようとしているかに見える。

 しかし、日本は国家資本主義社会である。国家政策の中身が「サブ」であるはずはないし、著作権など知的財産権に保護された利権による資本運動空間が「サブ」のはずがない。合法公然の「メイン空間でのカルチャー」運動と「連動している体裁」をとった金儲けであることは、確認されなければ話の枠組みが曖昧になってしまうであろう。金本位制資本主義では想定しえない「公共事業産業」だとか、「補助金産業」だとか、「スポーツ産業」だとかの後に、「IT産業」の後を追うようにして「文化・コンテンツ産業」振興が語られているのである。

 そうであるならば、サブカルチャーとはどのように存在していて、先行きどんな可能性を持っているのか、語る枠組みを慎重に措定しなければならないことは明らかである。直ちに、合法公然の土壌にしか咲くことのできないメインカルチャーとは違った空間にしか、サブの花咲く可能性はないとまでは言わない。しかし、金儲けが充分できる産業分野を「サブカルチャー」と言い切るのは、強い違和感がある。オタクを自称する人たちの「文化運動」と、コンテンツ産業に野心を持っている人の指向、関心、生き方が、すなわち「民俗」が違うことははっきりしている。

 サブカルチャーを論じようとして問題の枠を措定するのなら、端的に言って、「権力膝下での民俗」から逸脱をして、法の支配への反逆をも孕む、脱法、超権力、自然(じねん)、自由の民俗形成活動を想定せざるを得ないではないか。もちろん、その前段の可能性・潜勢力を見ることに違和感はない。

 半面で、著作権や特許に依拠してGDP統計上の価格的価値を増大させていく第三次産業の「起業」、「イノベーション」と不可分の文化産業がサブカルチャーであるはずがない。変動相場制なくして、70年代以降の資本過剰なし。一次産業・二次産業以上の第三次産業の寄生的発展なし。76年中国の改革開放以降の途上国離陸なし。アメリカ第二次産業失陥以降のプラザ合意・米過剰資本形成・IT革命なし。ソ連崩壊・歴史の近代から中世への回帰なし。などというモダンの没落の発端が、あの71年8月15日の「ニクソンショック」であったことは自明の理ではないか。「通貨の変動相場制」ということは、通貨が貨幣を代替して持っている機能のうち、「価値の尺度機能」と「貨幣としての貨幣(蓄蔵、支払い手段、世界貨幣)の機能」を失って、「流通手段」としてだけ機能すると謂うことに他ならない。最終決済なき自転車操業体制に経済体制が入って、商品の(価格と切り離されて)価値は誰にも分らない時代が実現したと謂うことだ。

 虚(変動相場制と連動する信用膨張)によって生み出された実(世界経済成長と途上国人口爆発)は、いくら二酸化炭素排出規制などで目眩ましをしようとしても、「実は虚」である。排出熱量規制をしないで、排出熱高保存ガス規制をするでたらめさは、その「排出権取引」構想に見られるとおり、変動相場世界から生み出される過剰資本処理の何回目かの「虚業の創出」に過ぎない。

 社会のメインストリームが、こうであるならばサブカルチャーはこうした欺瞞のイデオロギーと対決する「メインストリームからの自由」を謳う(体勢をとる)民俗運動に自然になっていくであろう。「漫画同人誌即売会」という形はまさにそのような民俗基盤であったが、それ以上の具体的な形を私が語るには、私は年を取りすぎている。

 情報化社会は、過大な熱量産出に依拠した、情報の末端での創造と(超合法権力の)中央への集約(蓄積・活用)を前提とした情報の流通体制である。全世界自然人の身体・行動・思想の把握までをも超国家機関が実施していこうとするシステムである。人工知能の実用化が進めば、「社会の維持・保護」を理由に個々の生物たる人間を統制誘導するようになるであろう。全世界統制者がだれになるかは、現在、見えていないというだけのことに過ぎない。情報化社会という時流に乗った「サブカルの創造」などということは、「浪速のことは夢のまた夢」と云う虚無以上のものではありえない。

 科学史は「魔術から科学」への筋道を明らかにしてきたのだという。しかし、これからは「科学から魔術」への傾向が、世界権力の頂点でも、支持基盤でもはっきりうかがえる状態になっている。「フェイクニュース」も、「オルタナティブファクト」も、「戦闘は『法律的には武力衝突』ですから、戦闘状態ではありません」も、「事実から真実へ」ではなく、「ポスト・トゥルース(脱真実)」=「物語の中に事実(らしきもの)を載せていく」、近代主義の変容の現実化にほかならない。小さな話としての「ポストモダン」ではなく、大きなイデオロギーとしての「次の時代構想」が底流では切実の求められる時間に入ったと云うより外はないであろう。

 「サブカル」はそれを潜在的・先駆的に求めるのであろうし、「サブカル論」も、不定形不安定な潜勢力であると謂うことを踏まえて語られることが必要になるであろう。また、サブカルの位置・意味はそこにこそあろう。私は高橋氏の云う「ここで定義ができる。/サブカルチャーとは、氾濫する小さな物語群の中で、発信者と受け取り手が共犯関係にある作品のことと定義したい。要するに仲間内では分かるが、仲間でないと分からない。しかしそれはそれで良いと居直る」という規定を、このような歴史的条件と枠組みの中の話として受け止めた。

以上

 
(にしけんじ)
 
(pubspace-x3983,2017.03.02)