積山 諭
『尼僧物語』(1957~1959年 フレッド・ジンネマン監督)は、『真昼の決闘』(1951年)、『地上より永遠に』(1953年)という傑作で広く世に知られた監督の異なるテーマが確認できる興味深い作品である。後年の『ジュリア』(1976年)はナチズムの吹き荒れるドイツを舞台にした佳作だ。このような作品と比べれば『尼僧物語』という作品が独特の位置を占めていることはとても興味深い。主演はオードリー・ヘップバーン。149分の長尺で多少の冗長さはある。特に前半部の修道院の場面はエンターテイメントを期待する観客には退屈にもなる。しかし一人の尼僧の生涯を描くときに、そのシーンは不可欠。厳格な習慣、仕来たりで生活する尼僧の日常生活の厳しさを伝えるからだ。そこを凝視しなければ原作と作品の意図するところは掴めない。私は劇場公開とは異なるDVDのおかげで何度か繰り返し観てその理由を納得した。
主人公が修道院で尼僧になるまでの前半部と後半部のアフリカ・コンゴ(後のザイール)での描写が対照的で刺激される。作品の前半は修道院という、キリスト教がイエスの時代以来、変質して世界宗教という基盤を固めていくなかで重要な装置として機能した様子をこの作品で確認することもできる。後半はアフリカという文明国からすれば未開の土地でキリスト教を布教するうえでの軋轢を描く。土地の人々が太鼓の音で来客(オードリー)の訪問を音で伝えるというシーンが象徴的。それはオードリーたち文明国のヨーロッパ人からすれば原始的で奇矯と感ずるものだ。しかしアフリカを発祥の地とするジャズの音の起源はそこにある。ジャズドラムスの面白さの淵源はそこと思われる。私が敬愛するデューク・エリントンのピアノにも聴きとれる。デュークのピアノは叩きつけるような奏法である。それは叩くというより弾く。そこにはオーケストラでは伝えられない一人のピアニストの意志を聴きとる。そのような経験は楽器それぞれが持つ特徴を通じて人間精神の響きが伝えられるといってもよい。敬虔なカトリック教徒だったブルックナーは教会のオルガニストとして交響曲の作品に宗教的雰囲気を表現し、独特の境地に達した。その音響空間は『尼僧物語』でオードリーが演じた尼僧たちが修行する修道院という空間に漲っているようにも思える。修道院という空間は禅寺の空間とも共通しているかもしれない。ヨーロッパのある修道僧は鈴木大拙にそれを伝えた。『尼僧物語』の映像はそのような連想も惹起した。
この作品が、それとは別に歴史的に再考を要する意味も持つと思われるのは、描写されているモデルとなった宣教師たちが撮影終了後に起きた政変(政治革命)で地元民たちによって多くが「殺害されたという事実だ。それは『フレッド・ジンネマン自伝』(北島明弘訳・1993年・キネマ旬報社 p264~265)に説明されている。文明の衝突という現象がどのような事実となって生じるのか、ということは拵えられた物語とは別の歴史的事実として新たな意味性を持つ。異なる文化の“融合”がいかに至難なことか、という歴史と現実の突き付ける仮借ない事実である。オードリーの後半生の巡礼者のような生き方はこの作品が一つの契機となっていることを推察させる。アフリカでの文明の衝突は現在も中東ほかで続いている。それを乗り越えるのは何か。そのような沈思にも赴かされる作品だ。
(せきやまさとし)
(pubspace-x3519,2016.08.15)