「現実」と「観念」の諸相―吉本隆明の宗教論から―

伊藤述史

 
Ⅰ 「現実」と「観念」の矛盾
 
 人間はさまざまな手段と形態を取って、その思い、想念、あるいは「観念」を表出しながら生を営む生き物である。それらは哲学、思想、イデオロギーといったある種の体系性と論理性を指向するものから、文学や芸術など個人の内面に関わる心性をより直接に表現しようとするものまで多様である。けれどもこうした観念的な諸形態は、それ自体として、あたかも天から降ってくるように自足して現れ出てくるのではない。それらは、「現実」と切り結んでいる。この点について吉本隆明は、新約聖書の「マタイによる福音書」を論じながら次のように言う。
 

「マチウの作者は、律法学者とパリサイ派への攻撃という形で、現実の秩序のなかで生きねばならない人間が、どんな相対性と絶対性との矛盾のなかで生きつづけているか、について語る。思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしないと言っているのだ」(「マチウ書試論」)。

 
 あるいは夏目漱石の作品を論じる中では、吉本は以下のように解釈している。
 

「『門』を読むと、主人公が思い悩んで鎌倉へ行く。何か公案、つまり禅的な課題を与えられて、全然ダメだみたいなことを言われて帰ってきちゃいますね。(中略)漱石のそういう我執を否定してみたり、またこだわってみたりという、そういう格闘の仕方そのこと自体の中に、なんか人間の存在の仕方の本質的な問題があるとおもうのです」(『<非知>へ <信>の構造「対話篇」』)。

 
 吉本はここで、人間の「観念」は「現実」とののっぴきならない関係の中でのみ形づくられる、という当然といえば当然の事実をまず確認している。吉本が「相対性と絶対性との矛盾」という時、それは人間が日々の生活を営む「現実」と、そこから紡ぎ出される「観念」との相克を表わしている。また「禅的な課題」とは観念の領域の課題であり、「我執」とは現実の領域の問題であると見ることができる。人間が「現実」と「観念」との間に挟まれて苦闘するのは、人間の生き様の実相であり、そこに吉本は「人間の存在の仕方の本質的な問題」を見出している。
 ここで言われている「相対性」とは、私たちが日常取り囲まれている「俗世」、あるいは「現実」のあり様であり、そこでは各人各様の価値が錯綜している。私たちは、この「相対性」をどうすることもできない。「絶対性」は個人であれ集団であれ、文学、芸術、宗教、哲学、思想、イデオロギーなどの諸形態を取りながら、特定の内容を帯びる「観念」の領域を形づくっている。場合によって人は、こうした「現実」の「相対性」と「観念」の「絶対性」との間にあって、矛盾の中で分裂して心的に崩壊していくのかも知れない。けれども多くの人々は、矛盾を矛盾として意識しないか、あるいは「現実」の「相対性」と「観念」の「絶対性」との間を往ったり来たりしながら、矛盾の意識を飼いならして生涯を終えるのであろう。
 
Ⅱ 「現実」から「観念」への上昇
 
 吉本隆明はまた、人間が「現実」の「相対性」から「観念」の「絶対性」へと上昇していく契機を次のように描写している。 
 

「原始キリスト教は単に存在する現実を、人間の実在の意識と分裂させるために、倫理というものを社会的秩序と対立するものとして把握する。(中略)ここから現実的に疎外され、侮蔑されても、心情の秩序を支配する可能性はけっしてうばわれるものではないという、一種のするどい観念的な二元論がうまれ、現実的な抑圧から逃れて、心情のなかに安定した秩序をみつけ出そうとする経路がはじまる」(「マチウ書試論」)。

 
 ここで言われている「単に存在する現実」、「社会的な秩序」とは、「相対性」が支配する「現実」であり、「人間の実在の意識」、「倫理」、「心情の秩序」とは、「絶対性」が支配する「観念」の領域であることは見易い。人間の心性はこうした二元的構図の中で分裂し、アイデンティティの所在をともすれば見失う。けれども私たちが吉本の論に止目するのは、人が「現実」の領域から「観念」の領域へと上昇していく必然性の根拠に、「現実的な抑圧」が指摘されていることである。これは吉本がある対談の中で、「その不適応は外界とか現実とかっていうものを、何らかの意味合いで遮断しておいて、なお観念の世界みたいのがありうると考え、それはまた追究すればしうると考えてきた、そういうものにもとがあるんじゃないか」(『<非知>へ <信>の構造「対話篇」』)と述べたことと直接に重なっている。そして人が「現実的な抑圧」を被る中で、「観念」の領域へと歩みこんでいく場合、この領域が多少とも宗教的な形態を取り易いことも理解できる。あるいはどのような形態であれ、この領域が「絶対性」の色合いを帯びてくればくるほど、宗教的な形態に限りなく接近していくこともまた確かである。
 
Ⅲ 「観念」から「現実」への下降と往還
 
 けれども一方で人は、「絶対性」の支配する「観念」の領域に閉じ籠ってばかりであるわけにはいかない。人は「観念」の領域で育んできた「絶対性」の諸契機を携えて、抑圧と異和を生じさせる「現実」の領域の変革を指向して「俗世」へと下降してくるからである。「現実」の変革を総体としての構造の革命として指向すれば、それは個人であれ集団であれ、その「観念」の領域は主に思想やイデオロギーの形態を取る。「現実」の変革を個々の人間の救済として指向すれば、その「観念」の領域は宗教的な形態を取る。そして「現実」の変革の中で、人は再び「観念」の領域へと上昇し、「現実」の領域と「観念」の領域との間を往還することになる。ただこうした上昇と下降の往還の過程の中で、「観念」の領域の形態は徐々に変化していく。例えばそれは、革命思想的なイデオロギーの形態から宗教的な信仰の形態への変化として現れる場合もあろう。この形態の変化の要因は人によってさまざまであろうが、それはもっぱら「現実」の変革の中で直面した問題や困難といった外的な緊張がきっかけとなってくる。
 言い換えれば「観念」の領域といっても「絶対性」といっても、それは人の内面の中でつねに混じり気のない純粋で完結した世界として持続しているわけではない。それゆえにこそ人は、「現実」と「観念」との間の上昇と下降を繰り返すのであり、こうした矛盾の中で生きざるを得ない。そして人が「現実」を嫌悪と変革の対象であると見定めるなら、「現実」はその人間にとってあってはならない「虚構」となる。けれども一方で「相対性」の支配する「現実」に住まう人々から見れば、芸術、宗教、思想、イデオロギーなどの形態を取る「観念」の世界も、さまざまな価値が相克する「相対性」の次元にまで引き下げられ、「虚構」として眺められる場合がある。これらの事情に関連して、吉本隆明は次のように述べている。 
 

「新約書がアピールするしかたっていうのはどこなんだろうかというふうにかんがえていくと、(中略)そんなものは外側からいえば架空なものにすぎないんだけども、一種の内面的な世界みたいなものが、あるいは観念の世界みたいなものが設定できるような実感みたいなものがあります」。
「ぼくが観念の世界を観念の世界としてとり出すと考えてきた、そのことは、本当はヨーロッパから明治以降入ってきた近代というものを、自分なりに独断的に受けとってそう思ってるにすぎないんじゃないか、という先ほどの疑問とつながるような気がするんです」(『<非知>へ <信>の構造「対話篇」』)。

 
 明治維新以降、ヨーロッパから日本へ輸入されてきた近代文明の影響のもとで、日本の近代化の過程が文学やイデオロギーの形態の中で自己の内面の世界の確立を促してきたことは繰り返し論じられてきた。ただ吉本は、ヨーロッパ近代による内面の確立がはたして空間的にも時間的にも世界的な普遍性を持ち得るのであろうか、と疑問を呈しているのである。もちろん西欧列強の進出に直面したアジア諸国の近代化の過程は地域によって多様であり、その多様性はその国の知識人の西欧文化の受容の様態にも当然刻印されている。つまりヨーロッパ近代文明は、世界へ向けて一様に浸潤していったわけではない。この点は恐らく、当のヨーロッパの知識人にあっても当てはまる。そこには「現実」と「観念」との間を浮遊し煩悶する人間の内面の葛藤が、さまざまな様相を伴って見出されてくるはずである。「現実」が虚構であれば、これを裁断する「観念」もまた虚構であるに過ぎないかも知れない。むしろこうした内面の葛藤と心的な劇のあり様こそ、人間の「生」の本質的な普遍性を表出していると考えるべきではないだろうか。
(了)
 
(いとうのぶふみ)
 
(pubspace-x3427,2016.07.14)