演劇時評(1)――「我が名は桃」タッタタ探検組合

ハンダラ

 
劇 団 名:タッタタ探検組合
タイトル:「我が名は桃」
公演期間:2015年11月4日 (水) ~2015年11月8日 (日)
会  場:中野ザ・ポケット(東京都内)
出  演:あおきけいこ、岡田茂、キクチマコト、栗原智幸、権藤英子、斎藤啓子、佐々木優、柴田O介、谷口有、藤本ひでたか、薬師寺淳一、大曽根徹、加賀谷風花、川手祥太、喜島春樹、小山梨奈、山素由湖
脚  本:岡田茂
演  出:谷口有
 
 今回オープニングで結構長めの尺で映像が入る。そこで、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行くハズが、総ての作業は怖いおばあさんの命令でおじいさんが引き受けている。おまけにおばあさんは寝転がって飲んだくれ、風呂は先風呂、上がってからは、体を揉ませる有様。ちょっとでも逆らえば、鞭が飛び、包丁を持って追っかけまわされる。
 桃だって赤ん坊ではない。何と30年も桃の中で過ごし齢を重ねた青年である。更に誰もが感じたハズの桃太郎が入っていたのに“桃を切って桃太郎迄傷つけなかったのはどうして?” という素朴な疑問にも笑える答えが用意されている。
 舞台は、朝廷が未だ地方豪族を抑え切れてはいない時代。豪族同士の戦いも数多く行われた後、有力豪族と朝廷のみが生き残っていた。桃たちが討伐軍となって出向く牡仁一族支配地には、不思議な力を持つという神(ビリケンのパロディー)が祭られ、彼らを襲ってきた他豪族を打ち滅ぼして得た戦利品の金銀財宝も多いと言われていた。
 今回、討伐に加わったのは、桃の他、雉に似せた衣装を纏う羽根氏の生き残り、ギロウ。猿に似せた衣装を纏う赤毛氏、ツルミ。犬の衣装を纏う兵牙氏、ナガレ。朝廷から牡仁氏討伐を命じられ、人質として、娘、瑠璃姫を差し出しておきながら、牡仁氏を襲撃し逆に打ち滅ぼされた川手氏の残党で姫の兄、兼安。朝廷の命を受けた大納言、烏丸 正房、正房の側近、宗近らである。(驚くのは、正房がお歯黒をしていることである。実際、歴史的に当時の貴族はお歯黒をしていたのだ。)残党を集めて牡仁氏征伐に向かう目的、本当は正房自身が噂の神の力を入手して、自らが世界の頂点に立つ為だが、朝廷の命で討伐軍を組織しようにも、牡仁氏の強さに恐れを為して軍に集まる者は無かった。
 偶々出会った皆を仲間に引き入れる際、活躍したのは、宗近である。彼は参加者各々の出自の秘密を明らかにし、仲間に加えたのだ。然し、出自が不明だった者が一人だけある。桃だ。彼は桃の中に入って川を30年間も流れていたので自分が何者であるか一切思い出せない。ただ、おじいさんに川で拾われ、それ以降、おばあさんにこき使われて来た思い出があるばかりである。それでも、熊もイチコロの毒キノコ入り料理をおばばに食わせ、絶命したか確かめもせず、じいさんと若い妾が晴れてカップルなったのを機にいそいそ旅に出たのだった。その際、黍団子と、偉いのだが酒好き・女好きの坊さんが、じいさんにくれた霊験あらたかな札を3枚貰った。(この札、じいさんの話では願いがかなうという代物)
 さて、人質になった瑠璃姫は、同い年の牡仁族の姫と仲良くなり、牡仁族の皆にもかわいがられて心配のない生活をしていた。が、未だ真実を知っていいた訳ではなかった。
 タッタタの凄さは、ギャグ満載の中で、牡仁氏の族長、ムララが、「戦国の世に生きる姫、これからどんなことを見ようが、聴こうが、泣くんじゃない」と諭す、科白を入れる所だ。更には、支配・被支配という関係の中で、自由の問題を示唆する箇所があり、何を以て自由とするかという根本的な問題に関しても提起されている点に留意しておきたい。
 更に終盤、正房に奪われた札は、圧倒的に優勢だった牡仁族の戦いを一瞬にして逆転する。この時のどさくさに紛れてじいさんカップルの首を取って現れたのは、死んだはずのおばば。彼女はおじじの死の間際に札を2枚貰ったと言うが、当然奪ったのであろう。蛇に睨まれた蛙のように、恐怖の余り動くこともできなかったおじじの姿が想像できる。何れにせよ、おばば、この地の神を奪おうと黄金の神像に手を掛けた。すると大地に穴が開き、奈落へ落ちてしまう。この宝を入手しようと正房が落ち、それを助けようとした宗近が落ちる。それを助けようとした桃も落ちかかるが、桃の持つ剣とお尻の特徴ある痣の形から、行方不明の兄であると悟ったムララが、手を差し伸べ、兄を助けた。この時の科白が、生きていりゃ何とかなる。要するに“命どぅ宝”だ。この思想は琉球王であった尚 秦が、民を守る為に屈辱を呑んだ時の言葉であった。現在、辺野古、高江で戦われている民衆の戦いを想起させるではないか? 
 また今作の隠れたテーマが、再生する命であることは、明白である。終盤にこんなシーンがあった。一旦、おばばに殺された桃が、神の発する光に包まれると蘇生したことから、作品の追求するものが、正史上は鬼と呼ばれる負けた者らの、超自然を操る神(この発想はキリスト教にも通底するであろう)への敬い・信仰によって、負けても、負けても決して諦めず抗い・生き続ける。このことによって戦いの趨勢は決して決せられた訳ではないことを明かし、力の論理が貫徹しているかに見える世界でこれらの異議申し立て人に反逆の正当性を付与するのである。別の言い方をすれば、為政者の多くは、常に他者を決して信ずることはなく、従って安心立命を得る術を持つことはないのに反し、互いを尊重し、融和して生きることを実践する者のみが、互いの信頼を勝ち得、ひいては安心立命と魂の平和を得る。どちらが普遍的真理を具現しているか? についての解を示唆しているのである。
 今作で深い意味を負った言葉が発せられるのは、総て自分からは一度も他を攻めたことのなかった牡仁氏の側からなのは、このような意味を持つであろう。(これは、安保法成立以前の自衛隊をも想起させよう)またこれらの深い表現が、ギャグとの対比で用いられて居る為に、言葉の持つ本来の力が深く強く我らの心を打つ。
 おばばが奈落へ吸い込まれてしまった為に最後の札は、牡仁氏の下へ回ってきた。手にしたのは牡仁氏の護りに徹した戦いに与する瑠璃姫。彼女は、花でこの地が満たされることを願う。漸く温かな春のような気分に包まれる中、地の底からぬっと現れた腕一本! 無論、おばばのものだ。
 ところで、舞台は土俵中心に作られている。土俵奥の高い所に神棚が設えられて、神様が祭ってあるのだが、足をこちらに向けたその姿は、最初に注釈で触れたように大阪通天閣に鎮座ましますビリケンを捻ったものである。神前で行われる所作の中心は土俵であり、相撲は元々、奉納相撲を起源とするから神への儀式は、パロディ化された土俵入りである。
 無論、この儀式を司るのは、長やその親族であるから今作でもその形は守られる。現在でも残る横綱土俵入りの型は二つ。雲龍と不知火で、雲龍には受けの型も入るのだが、今作で用いられるのは不知火。その心は、こちらから仕掛けはせぬが、売られた喧嘩買わざるを得ぬ時は、一切合財を戦いの為に! という型である。戦いにイーブンは無い。互いに武器を持っている以上、それは無いというのが、99.9%以上の確率での現実だろう。実際、戦闘で戦う以上、殺した者が勝ち。これが戦争というものだ。兵士達の戦闘フィールドでは、動く物・者は総て攻撃対象である。0.01乃至0.001秒の遅れが、自分の死に繋がると思っているからだ。悲しいかな、これは実体験にも裏打ちされていよう。そして、この体験にのめり込んでゆく背景にあるのは、徴兵制の無い社会なら、貧しさゆえの将来性の無さであり、戦地に赴いてからは、何処から攻撃されるか分からないという怯えと「敵」とされる者達への無知、不信である。収奪社会での兵士とは、基本的に学歴の低い底辺出身者である。だが、それが理由で、最も過酷な体験を強いられるのだ。本来、彼らが牙を剥くべき相手は己を支配する階層に対してであるにも関わらず、彼らの知的レベルが低い為、また、己の知的レベルを客観化して自己評価できない為に、このような地獄に追い込まれるのである。だが、彼らも人間だ。気付く者も現れる。そして気付いた者の多くが、発狂したり自殺したりするのだが、国家は、都合の悪いことは総て隠すから公にならない。更に国家は、隠蔽のみならず、嘘をつき通して国家論理を正当化する為、真実を見抜く頭脳を隔離し、拷問にかけて転向させる。抹殺し、居なかったことにするなど何とでもすることができる。国家というものは、このような怪物システムである。通常、これ以上の権力は、無いので事実上何でもできるのだ。理由は、責任を負う必要などないからだ。これに対抗するには自由を起点とした、市民の市民による国家権力解体と監視、運用しかあるまい。具体的には、国家(政治家・官僚・資本家・利害関係者・協力者等)が隠している情報の強制開示、開示された情報の第三機関による非利害的評価と処罰、財産没収などの制裁などだ。無論、その閨閥もキチンと調べ洗いざらい告発し制裁を加えなければ意味が無い。
 今作は喜劇であるから、異議申し立てに関する総ての基本を明確に問題提起している訳ではない。だが意識的な観客は、責任を負う者の多様性を認める一方でここまで読み込まなければ、喜劇という難しいジャンルで、頑張っている劇団の姿を観たことにはならないのではないか?
 
(ハンダラ[ペンネーム])
 
(pubspace-x2705,2015.11.17)