高橋一行
2013年の年末、NHKのドラマ「あまちゃん」の再放送を見る。そこでは、いくつもの、他者の夢が語られていた。
主人公の天野アキは、三陸の高校生で、海女になりたいと思っている。親友の、足立ユイは、東京に行って、アイドルになりたいと思っている。しかし、実際に東京に行って、アイドルになった、ないしは、なりかけたのは、アキの方で、ユイは、父親が病で倒れ、母が失踪するということがあって、東京に行かれず、三陸に残り、紆余曲折あって、結局、海女になる。ここで、ふたりの夢が交錯する。
アキの母、春子は、若き日に、アキの祖母で、海女の夏が、仕事を自分に継がせようとするのに反発して、家を出て、アイドルになろうとする。しかし挫折して、その後、ひっそりと、東京で暮らし、アキを育てている。20数年経って、17歳のアキを連れて三陸に戻る。アキは、初め、海女になって、祖母夏の願いを実現しようとし、次いで、アイドルになって、母春子の夢を実現しようとする。春子は、最初は、娘の東京行きに反対するが、後に、自らも東京に出て、プロダクションを設立して、娘を売り出そうとする。
物語の最後は、3.11の大地震があって、アキは三陸に戻り、ユイとふたりで、海女兼地元発信のアイドルになることが、示唆される。これで二人の夢は融合する。それは祖母夏と母春子の夢の融合でもある。
さらに春子は、アイドルを目指していた頃、アイドルとして売り出そうとしていた鈴鹿ひろ美の影武者として、歌の吹き替えをする。ひろ美は音痴なのである。ここでは、ひろ美の、芸能界で活躍するという夢を実現させたのは、春子である。また、実際に歌を歌い、アイドルになりたいと思っていた春子の夢は、ひろ美が果たすことになる。
一方、東京で、アイドルを目指していたアキは、大女優になっていたひろ美と出会い、ついに、ふたりは親子の役で、映画に出る。ここでは、良い母親でありたいという春子の願いを、ひろ美が映画の中で果たす。しかしその映画は、震災のため、早々と打ち切られることになるのだが。
そのひろ美は、ずっと音痴であることに引け目を持っており、アキをプロデュースしていた春子が、かつて自分の影武者であったことを知り、彼女から歌の特訓を受けるが、それでも、音痴は治らない。しかし、震災後、ひろ美は、荒れ果てた三陸に出かけて、そこでチャリティーコンサートを開き、自ら歌う。奇跡的にも、その時に、彼女は上手に歌うことができる。かつて春子の吹き替えによって実現してもらった夢を、やっと自ら叶えるのである。それは、震災が、または震災の後に連帯し得た人々が、そうさせたのかもしれない。コンサートに集まった誰もが、鈴鹿ひろ美は、本物の歌手であることを願っていたからである。
精神科医新宮一成は、ラカンについて語った書物の中で、フランス文学を専攻する女子大学院生の患者が持っていた夢を、新宮自らがフランスに渡ることで実現し、一方、イギリスに行きたいと思っていた新宮の代わりに、彼女が専攻を変えて、渡英するという経験を語っている。また新宮は、ある時、懇親会で、食べたいと思っていたマグロの寿司を食べ損なうが、翌日、病棟で、その女子大学院生から、夢の中で、マグロの寿司をおなか一杯食べたという報告を聞く。欲望は常に他者の欲望である。
ジジェクがしばしば引用する、フロイトの、幼女とケーキの話がある。女の子は、苺のケーキをおいしそうに食べるが、それは、自分のうれしそうな姿を、両親が見て、満足してくれるということを知っているからである。苺のケーキをおいしそうに食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自らを、両親の欲望の対象にすることで、アイデンティティを形成しようとしている、少女自身の企てである。ここで明らかなのは、他者の夢を実現することが、主体の成立だということである。ジジェクは、ラカンの主張を簡潔にまとめて、「欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいと思う欲望であり、何より、他者が欲望しているものへの欲望である」と言っている。重要なのは、そのようにして、主体が形成されるということだ。
だから、他者の夢を実現する天野アキの物語は、主体の成立と形成の物語であり、典型的なビルドゥングスロマンであり、女の子の成長を扱う、NHKの、朝のドラマとして、そのドラマの中に散りばめられた、如何にもNHK的なギャグとともに、最もオーソドックスなものなのである。
参考文献
新宮一成『ラカンの精神分析』講談社、1995
ジジェク、S., 『ラカンはこう読め ! 』鈴木晶訳、紀伊国屋書店、2008
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x192,2013.12.30)