自然と半自然と超自然を行き交うバースマシン

自然と半自然と超自然を行き交うバースマシン

石塚正英

  
はじめに 
 
   1968年の若き日々、長野市で友人とあつく交わしたWIN.P(ウィンピー)談論からほどなく60年、その着想を忘れずに来た私は、2026年に至ってバースマシン概念を構想しようとしている。過去・現在・未来の時空を移動するタイムマシン(Time Machine)でなく、自然・半自然・超自然の圏域を移動するバースマシン(Verse Machine)である。実現に至る条件として、以下の3つが必須である。①自然圏域〔フィジカル・バース〕をベースに半自然圏域〔メソフィジカル・バース〕から超自然圏域〔メタフィジカル・バース〕へと連なる〔存在圏(バース)の3類型〕の理解。②脳波で機械を動かすBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)技術。③物理学者ペンローズが注目している意識と量子技術の連携、これが最大の推進役となるだろう。
   あれれ、何のことか、何をいいたいのか、さっぱりわからない、と思わずにいられない書き出しではある。本稿は、ここに記したWIN.P談論の説明から始めて、①~③について順次説明し、よってもって論題の〔自然と半自然と超自然を行き交うバースマシン〕の構想を解説することを目的としている。
   なお、私は今月、つまり2026年8月、まえもって本サイトに以下の拙稿を公開している。「宇宙=自然の始まりをどうみるか―アインシュタイン・ホーキング・ペンローズ」(9日)、「仏教(倶舎論)の極限微粒子と物神的振舞いの量子(素粒子)」(18日)。それらと本稿との間で緩く流れある議論となっているので、全体を〔量子物神8月3部作〕と称することとしたい(☆01)
 
一 WIN.P談論
 
   1968年12月2日のわが日記に、「WINのこと」という記述がある。そこでは次元のことを問題にしている。三次元を「科学の成立する次元」とし、ゼロから二次元まで、および四、五、それ以上の次元を「認識できない次元、宗教の存在するかもしれない次元」としている。ゼロを含め自然数の次元はすべて「精神の存在する次元」である。さらには、ゼロより数の少ない次元を「WIN――皆無の次元」としている。その上で、次元と次元の間を想定し、「Pという状態で精神は存在できない」としている。Pとはたしかパンティのことで、「隠されている」といったことを示している。四次元も科学の成立する次元だと思うのだが、とにかく奇妙な議論だった。私は当時浪人していて、長野市の大学予備校の寮舎において、寮生の渡辺・石塚・長瀬の三人が徹夜の討論をやり、それはそれは楽しい談論風発で互いを刺激しつつ導いた結論である。WIN.Pとは、三人の姓の頭文字を合わせて、けっこう真面目に造った術語である。
   長さ・時間・質量の積といった物理量や、四次元を超える空間的ひろがりといった次元への関心はその後薄れていったが、WIN.P談論の余韻として、アインシュタインの相対性理論によって知られる時空、重力は時空の歪みから生まれる空間の性質だ、という構えには好奇心が唆られた。そのほか、次元と次元の間――WIN.Pの「P」――、宇宙をも含めた異世界という意味での多次元に注目していった。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』で、極楽のお釈迦さんが犍陀多(カンダタ)を救おうと地獄に蜘蛛の糸を垂らしている全景はどこなんだろう、と思ったこともある。かなりの年月を経て、たとえば、『BASHAR 2017-世界は見えた通りでは、ない』を読んで、そこに記されている以下の記述(バシャールの発言)に注目したりもした。
 

〔引用1〕まず私たちが「The One」(ザ・ワン)と呼んでいるものがあります。ザ・ワンは完全に均質であり、そこには「他者、ほかのもの」は存在しません。そしてザ・ワンには、自己意識はなく、自分が存在しているという概念すらありません。ただし、ザ・ワンの“一部”には自分のことを認識している部分があります。その部分を私たちは「All That Is」(オール・ザット・イズ)と呼んでいます(☆02)
〔引用2〕多重性、多次元性は、宇宙を貫く原則ですが、それらには、現れ方の違い、方向性の違いがあります。たとえば、多重性の方向のひとつが、オーバーソウル/ソウル/ハイアー・マインド/フィジカル・マインドという現れ方です。これはひとつの「多次元性」です(☆03)

 
   「The One」(ザ・ワン)と「All That Is」(オール・ザット・イズ)は、私の造語で区別するならば、前者が①自然圏域〔フィジカル・バース〕で、後者が②半自然圏域〔メソフィジカル・バース〕に当たる。①は生物としてのヒトの生存圏であり、②は言語をもち観念する人間の思惟圏である。また、「ソウル」とか「マインド」とかは、②と③超自然圏域〔メタフィジカル・バース〕の間を浮遊する。宇宙の多次元とか多重性とかは、今更ながら、――次節で説明予定の――わが着想〔存在圏(バース)の3類型〕に引っかかるように思える。次元について、私はそれを無機的な空間の広がりだけに限定させるのでなく、質の変化をイメージしたくなってきた。場合によっては、蜘蛛の糸が垂れ下がる場のようなグラデーションかボカシをつけたかった。若き日々に夢想したWIN.Pという音、ウィンピーだけが時を超えて私の心中で余韻を奏でていったのである。ただ、同じバシャールの発言で、以下のものは気に入った。
 

タイムマシンは皆さんのSF映画のなかに出てくるような形で機能するわけでは、ありません。ひとつの時間のコマから別の時間のコマにジャンプするということは、「ひとつの現実」から「別の現実にジャンプ」しているということです(☆04)

 
   この言い回しは新鮮だった。タイムマシンは時系列のみならず時空の双系列をジャンプしているということなのだ。つまり、私のウィンピーを半世紀ぶりに発想転換する糸口を与えてくれたのである。数量的時間のみならず質的圏域もまたジャンプする。それこそ、時の流れの中の刹那というよりも、圏域の変異の中のトンネル潜り――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった(川端康成)――みたいな動きをもっている。そうだ、圏域だ、自然と超自然との間の変異、そこには圏域であるだけに中間をはさみたくなった。半自然の圏域である。圏域をバースと表現する私の構想は、世の中がコロナパンデミックに襲われ出した2020年から2023年の間に輪郭を得た。〔存在圏(バース)の3類型〕である。次節において詳細を説明する。
 
二 〔存在圏(バース)の3類型〕の理解
 
   人間および神々の存在する圏域を、私は三種に区分している。(a)〔メタフィジカル・バース(超自然世界)〕、(b)〔メソフィジカル・バース(半自然世界)〕、(c)〔フィジカル・バース(自然世界)〕である。(a)は単独で超絶した不可視の世界であって、キリスト教の唯一神やプラトンのイデアが存在する。崇拝したくなるほど美的な数学的原理の世界もそうである。(b)は「田の神」(穀物神)などの自然神、霊魂が存在する世界である。観念を有する人間が懐く象徴物は、すべてこの圏域に入る。ナノサイズの量子(クアンタム)は極小(粒子)であれ物質だから、それにみの条件だと(c)に入る。だが、計算によって探り当てた〔量子もつれ〕現象は非局所性――宇宙空間の隔たりを瞬時に結ぶ――を特徴とし、ニュートン物理学は通用しないので(b)の圏域に入る。つまり量子(素粒子)は、類型としては共感呪術の霊魂(外魂の遠隔作用)と似通っている(☆05)。(c)はそうした霊魂や象徴物を生み出す基盤となる自然界・物質世界である。ニュートン物理学が通用する圏域はすべてここに入る。夜来風雨の声が聞こえ五感の働く世界は、むろん(c)に入る。第六感は、それが霊的であれば(b)に入るが、微弱電流(マイクロカレント)などの感知能力であれば(c)に区分けされる。
   〔メソフィジカル・バース〕の「メソ(meso)」は中間という意味であり、〔メソフィジカル・バース〕を日本語で表記すると「時空中間域」ともなる。この術語は物質と観念の中間ということでもあり、その場合は「物観中間域」ともなる。〔メソフィジカル・バース〕は、原理的には自然界に存在し、現象として〔メソ〕の異界に位する。神(カムイ)と人間の共存するアイヌ民族の神話世界、それらはことごとく〔メソフィジカル・バース〕である。対して、神々や信仰世界と無縁の科学的パラダイムに生きる人々にとって、現実世界は〔フィジカル・バース〕であり、導きの糸は哲学よりも数学である。対して、キリスト教の天国は〔メタフィジカル・バース〕の圏域である。多神であれ一神であれ、超越神のみが存在する圏域はみなそれである。プラトンのイデア世界も、純粋数学の世界も、みな〔メタフィジカル・バース〕に入る。超越神を可視化した諸像は〔メソ〕に入る。なお、〔メソフィジカル・バース〕には二種類あって、自然を根拠として超自然に上昇する途中の〔メソ〕の他に、超自然を根拠として自然へと下降する途中の〔メソ〕も想定できる。もとは人間だったが神の子イエスを宿したために神の母となったマリアは(c)から(b)へと上昇を始めた。対して人間の体を得たイエスは(a)から(b)へと下降を始めた(☆06)
   ここでアイヌ民族の世界観を事例に引いてみたい。アイヌの星文化は〔メソフィジカル・バース〕の世界を典型的に描いている。例えばNHK番組「コズミック・フロント」シリーズの一つ「スターゲイザー 受け継がれる星の記憶」(初回2021年12月23日放映)では、概略以下のように語られた。人間の世界であるアイヌモシリの上空には6種類の上層世界が展開している。「ウララカント(霞の天)」、その上に「ランケカント(下の天)」、「ニシカント(雲の天)」、「シニシカント(本当の空の天)」、「ノチウカント(星の天)」、「リクンカントモシリ(上天)」の順番に昇っていく。最上空の圏域には人間と同じ姿をしたカムイ(神)がお暮らし、また「エカシ(長老)」や「フチ(老婆)」はアイヌモシリを離れるとそこで暮らす。カムイの化身あるいはカムイが送り出したものは、動植物や自然現象となって人間の世界と深く関わっている。
   以上の内容をまとめると、幾層にも重なったアイヌの神話世界には、神々だけの圏域である〔メタフィジカル・バース〕は存在せず、人間だけの圏域である〔フィジカル・バース〕も存在せず、神々と人間と自然が共存する〔メソフィジカル・バース〕が存在するのみということになる。アイヌの世界は思惟の世界である。実は、アイヌのみならず人間の世界は、そのほとんどが思惟の世界なのである。アイヌ語で「アイヌ」とは人間の意味であるから、とくべつに断らずともよかったのだが、近代科学に慣れ親しんだ人間たちにとって「思惟する」とは、「科学する」と等値になってしまっている。そうではないだろう。脳科学は脳機能に関する科学的研究ではあるものの、脳そのものは身体を介して喜怒哀楽を感受し沈思黙考に耽る存在である。その脳が身体を解さずに単独で外部と対峙する時代がやってきた。そのような脳は〔存在圏(バース)の3類型〕とどのようにリンクしていくのだろうか。
 
三 脳が外部と対峙するBMI技術
 
   さて、ここからが本稿の本題「自然と半自然と超自然を行き交うバースマシン」に関する説明にかかわる。認識の大前提として、人間の身体は動物と同様、〔フィジカル・バース〕から離れられない。衣食住する身体は、それなしには生きて行けない。だが、夢がそうであるように、意識(魂)は物質ではないので、脳裡を離れることができる。完全離脱は意識の死を意味するが、そうでないかぎり孫悟空の空中遠征のようなことは可能である。ここに、一つの民話を挿入する。「蜂になった魂」というテーマである。
 

とんと一つあったそうな。・・・「おら、ねぶとうなった。」というて、ねぶったそうな。そうすると、ねぶった男の、はなのひだりの穴から、小さい蜂が、ブーンととびたっていったそうな。・・・こんだ、ねぶっている男の、鼻のみぎにはいったそうな。・・・ひとのたましいが、ハチになって、あそびに出たそうな。いちごさかえもうした(☆07)

 
   著者の水澤謙一は、昔話の中にみえる遊魂信仰に惹かれ、長年、新潟県を中心に関連する昔話を追って採集し、一冊の昔話集とした。その一つ、「蜂になった魂」は短編ながら、日本人の古い霊魂観、外魂思想の一面を色こく示している。眠っている人の魂が、虫(ハチ、アブ、ハエ、チョウ、ブト、アリ、クモなど)になって、鼻(口、耳)から抜け出て飛翔し、外界へ出かけ、もどってくるという、「夢のハチ」系統の昔話を、おもに集めた昔話集となっている。こうした民話は世界各地に残っているが、この民話を量子時代の今日に活かすには、魂を身体の外部に移す手段を講じなければならない。
   現在のところ見渡す限りでは、脳と機器(デバイス)をダイレクトに結ぶBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)技術が転用できそうである。21世に入って先端技術の開発は、目を見張るひと時のゆとりもないほどスピードをあげている。その一つに想念技術の亜種であるBMIがある。昔の人であれば念力とかテレパシーとかに間違うだろう。それらは技術でなく超能力に括られていたのに対して、想念技術は文字通り技術なのである。それも最先端技術である。「ブレイン・マシン・インターフェイス」という装置を介して産み出される。文字通り、脳(ブレイン)と機械(マシン、コンピュータ)を直接つなぐコミュニケート技術(インターフェイス)である。原則として、生の身体は関わらない。つまり、〔フィジカル・バース〕は考慮しなくていい。
   人と機械の意思や情報の仲介のための技術であるブレイン・マシン・インターフェイスは、未来に期待される技術である。失われた感覚や運動機能の人工的な再建、人工器官による代償機能の構築が可能となる。脳電流・生体電流が思うように流れず四肢を動かせない障害者に代わってコンピュータ(パワードスーツ)が四肢の動きを制御するという技術は、目的が身体的ハンディの克服である限り有意義である。
   だが、身体をまったく介さずに脳が直接身体外の機器・機械を動かすとなると、そこに身体の介在は見られなくなる。そうした技術は、一面では由々しき問題を潜在させている。身体の動きを支援する技術であれば心身ともに健康を維持できる。しかし、身体を支援するどころか身体の支援すら受けないで脳の動きだけで人間の行為が成立する技術は不健康である。身体にとっても脳にとっても、ともにマイナスの影響がでてくる。けれども、本稿で取り上げるBMIは自然世界(フィジカル)でなく、身体が介在できない半自然(メソフィジカル)の圏域における利用を想定したものである。その意味では必須の技術である。中澤英輔「ブレイン・パイオニアの研究倫理―ブレイン・コンピューター・インターフェイスを例に」には、最先端技術の開発に伴う研究参加者として、「ブレイン・パイオニア」が紹介されている。この協力者は「登山家や宇宙飛行士のように、人類未踏の次元に進んで切り込んでいく英雄である」とされている(☆08)。私がここで問題にしているのは、あえてリスクを背負ってでも、マクロやミクロの異類型圏域に我が身=脳を介入させることが可能かどうか、である。その問題を検討するべく、次節において物理学者ロジャー・ペンローズの論文「意識とは何か」を取り上げてみたい。
 
四 意識と量子技術の連携やいかに―交互的に住み分ける
 
   ペンローズは量子力学(数学・物理学)の専門家であるが、それ以上に、プラトンの人類夢を懐く孤高の思索者である。彼は例外であるが、ノーベル賞級の成果を樹立したような人物ほど、最先端(ultra-fine)を価値的に優先する。ハイテクを称えてローテクを見下す。だが、ローテクを「ローカルテクノロジー」と解釈して再利用する気になって久しい私は、そうは思わない(☆09)。少々わが蘊蓄を記す。
   テクノロジーに関して、まずは自力と他力という括りでこう分類できる。停電しても関係なく動く技術(人力車・人力発電など)は自力。停電したら動かない技術(電気・電子機器一般)は他力。身体と機械の関係ではそのように分類できる。ところが、近年は、自力が知らず知らず他力を創出するような技術が考案されてきた。その一例として、かなり以前から商品化されている踏むだけで電気を生成できる「発電マット」がある。人がその上を歩く際、床に加わる圧力を利用して発電するのである。床下に圧電素子を内蔵し、歩行した時に生じる圧力のエネルギーを電気エネルギーに変換するシステムである。こうした人力・自然力は今でも充分再利用できるものである。それを私は地域や路地に根ざした技術という意味でローカルテクノロジーと称している。これはローテク・ハイテクいずれの技術をも取りこむ。ハイテクはモノを豊かにするが、ローテクは心を豊かにする。対して、ローカルテクノロジーは地域を豊かにする。地域にとって相応しい技術であれば、ローもハイも併用し、ドンドン取り込み、ユニット(結合)し、アマルガム(融合)にする。
   そのような発想を重視する私は、量子力学が古典力学を乗り越えたとか否定したとか、そうした言い回しを好まない。そうではなく、古典力学のほかに量子力学という体系が増えたのである。両者はけっして競合関係になるのではなく、〔フィジカル〕と〔メソフィジカル〕の相互協力関係にある。ノーベル物理学受賞者のペンローズは、あるインタビューに答えてこう明言している(/は改行)。
 

クラーク それでは、あなたは、「量子力学は不完全である」と言っている人たちに賛成するのですね。/ペンローズ そのとおりです。それも、純粋に物理的な理由からね。量子力学については、実際、随分長い間考えてきましたよ。それで、量子力学は不完全だと確信するのです。一番の理由は、私たちの住むようなマクロの世界で起こることを説明できないことです(☆10)

  
   そうは言っても、ペンローズはどこまでも量子力学に人類社会の未来を託す人でもある。基軸は古典でなく量子にある。それだからこそなのかもしれないが、彼は量子力学の現状を素直に判断してはばからない。以下の引用文ににじみ出ている。
 

量子的実在のこの謎めいた特徴(This puzzling feature of quantum reality)――つまり、粒子がさまざまな(異なる!)仕方で「二つの場所に同時に(be in two places at once)」ありうることを真剣に認めなければならないということ――生み出しているのは、他の量子状態を得るためには、複素数による重み付けを用いて,量子状態を足し合わせることを許さなければならないという事実である。この種の状態の重ね合わせは量子力学の一般的な――そして重要な――特徴であり、量子的線型重ね合わせ(quantum linear superposition)と呼ばれている。(中略)では、クリケットの球あるいは人間のようなマクロな物体が同時にまったく離れた場所に所在するのを我々が経験しないのはなぜか。これは深遠な問題であって,今日の量子論はまだ納得のいく答を我々に提供していない(This is a profound question, and present-day quantum theory does not really provide us with a satisfying answer.)。クリケットの球ほど実体的な対象については,システムは「古典レベルに(at the classical level)ある」と考えるべきであり――あるいはもっと普通の言い方を借りれば「観測」あるいは「測定」がクリケットの球に加えられてしまっており――、その時には線型重ね合わせの重み付けとなる複素確率振幅はその絶対値を2乗し、実際の選択肢を記述する確率として扱わなければならない(☆11)

 
   ナノスケールの量子(素粒子)は、①二つの相反する状態が同時的に存在する〔重ね合わせ(superposition)〕や、②二つが「同時にまったく離れた場所に所在する」とされる〔もつれ(entanglement)〕に特徴がある。それに対して「クリケットの球あるいは人間のようなマクロな物体」は「古典レべルにある」ので、そのような奇怪な特徴は存在しない。マクロで不可能なことがミクロで可能となるのはなぜか、「これは深遠な問題であって、今日の量子論はまだ納得のいく答を我々に提供していない」。実に率直な発言である。このような言い回しは、量子技術で財を成したいと思っている産官学諸機関にはタブーである。けれども、現代物理学にとって第一の課題となっているものに、古典レベルにある重力においても量子的重ね合わせが成立する、重力は量子論で構築できる、という仮説の検証、いわゆる「重力の量子性」問題がある。けっして避けて通ることはできない課題なのである。ペンローズからもう一箇所引用する。
 

量子論は、Rがいつ、そしてなぜ現実に起こる(あるいはそのように見える)かについては沈黙している。その上、量子論はそれ自身では古典的世界がなぜ古典的に「見える」かを適切に説明しない。「大部分」の量子状態は古典的な状態に少しも似ていない。/こうしたことすべては、我々をどこに取り残すのだろうか。マクロな物体に適用したときには、量子力学があっさり誤っているという可能性、あるいは法則UとRはもっと完全な、しかし未発見の理論に対する優れた近似となっているにすぎないという可能性も、真剣に考察しなければならない、と私は考えている(☆12)

 
   量子力学は「なぜ」をタブーとしているが、ペンローズはありていに語る。彼の解釈によると、量子の変化にはU(unitary evolution)とR(reduction)の二種類がある。前者は量子の振舞いを観測していない重ね合わせの連続を指し、後者は観測した瞬間、一つの結果への重ね合わせの収縮を指す。その場合、「量子論は、Rがいつ、そしてなぜ現実に起こる(あるいはそのように見えるか)かについては沈黙している」。量子力学にとって〔重ね合わせ〕や〔量子もつれ〕は最重要な現象なのだが、なぜそれが確率的に生じるのか、誰も答えないまま一世紀を経過しているのである。アインシュタインはおかしいと思ったが、のちの研究者はこぞってアインシュタインこそ間違っている、と断じたのだった(☆13)。私は、むろんアインシュタインを高く評価している。私にすれば、古典力学はマクロ(実在)の〔フィジカル・バース〕にかかわり、量子力学はミクロ(極微)の〔メソフィジカル・バース〕にかかわる。人間は観念的には後者で活躍するけれども生物的には前者に生存するのだから、私の考えとして、人間生活の根底としての実在世界〔フィジカル・バース〕と関係を絶った理論は、あたかもピタゴラス派の数字信仰のごとく、超自然の〔メタフィジカル・バース〕に昇華する以外に居場所はない、と言いたい。そこでは、数字は学術でなく崇拝の対象であり、神霊化している。
   ペンローズはそうではない。彼は現状における量子力学の欠点をタブー視せず、まっとうに自覚している。数学的言語に疎い一般人に対しては、こうアドバイスしている。
 

読者諸氏への注意/数式に出会った際の心構え/本書のいくつかの場所で私は読者が半減するというしばしば聞かれる警告を無視して、ためらわずに数式を利用した。もし、式に出会って(大部分の人が感じるであろうように)うんざりしたときには、私が嫌な文章に出会ったときに通常採用している対策を採用なさることをお勧めしたい。その対策とは 何のことはない、その行をそっくり無視して(to ignore that line completely)、本文の次の行に移ることである(☆14)

 
   そのような研究態度のペンローズは、人間の意識について、量子力学との絡みを念頭に、こう記している。
 

真の知能は意識を必要とするという信念を私が開示しているとき、私は、アルゴリズム的な手段では、つまり今日この用語が用いられている意味では、知能はコンピュータによっては適切にシミュレートできない、ということを暗に示唆しているのである(というのは、アルゴリズムを実行するだけで意識が引き起こされるという強いAIの主張を、私は信じないからである)。(中略)なぜなら、意識の働きには本質的に非アルゴリズム的な成分(an essentially non-algorithmic ingredient in the action of consciousness)がなければならないことを、私はまもなく強く論じるつもりだからだ(☆15)

 
   意識と量子技術の連携やいかに、ペンローズは未だ道半ばである。いや、スタート地点を確保してもいない。私にすれば、人間の観念である意識は〔メソフィジカル・バース〕に位する。古典的科学では、物理学でなく心理学系がその対応関係にある。それでもペンローズが量子力学との連携を模索すること、それ自体には意味なしとしない。ただ、実現には多難な紆余曲折がまっている。かりに私が追いかけるとするならば、交互的に住み分ける方法を採用したい。そこで威力を発揮するのがフィジカル(自然)とメソフィジカル(半自然)、メタフィジカル(超自然)を行き交う〔バースマシン〕であり、その開発である。とば口では、文理工芸心身複合諸科学の共同研究が望まれる。
   「複合科学」とか「複合領域」とかは、幾つかの類型を総合した領域ないし概念であり、大別すると、以下の五類型に分かれる。
 

(1)人文社会系内での学際・複合――哲学・文学、芸術学、歴史学、政治学、経済学、社会学などの諸学問が相互に横断して研究を深めるもので、人間複合科学、人間生活科学などがその代表。
(2)理工医自然系内での学際・複合――物理学、化学、医学、農学、生物学、地学、自然地理学、天文学などの諸領域が相互に協力して研究を推進するもので、航空宇宙学、先端ファイブロ科学、森林総合科学、生体工学などがその代表。
(3)人文社会系分野の理工医自然系への応用――特に情報系諸科学、コンピュータ工学への認知系ないし心理学系諸理論(認知科学、認知心理学など)の応用としてクローズアップされてきた。コンピュータ工学、マルチメディア工学などがその代表。
(4)理工医自然系分野の人文社会系への応用――建築・情報・機械工学などの諸分野で研究された技術の社会福祉や医療、社会生活諸領域への応用。教育工学、生命工学、人間工学、ロボット工学などがその代表。
(5)文理一体不可分の概念・領域への再統合――これは、一見、学問が元来哲学として一つであった時代にもどる印象を受けるが、そうではない。一度細分化された諸領域ないし諸学問を前提として、その上に新たな統合的科学の領域をうち立てようとするものである。応用レベルでの複合でなく、基礎理論からの複合・統合を特徴としている。生態心理学、人間科学、身体科学などがその代表(☆16)

 
   この第五類型こそ、意識と量子力学とを連携させうる複合研究なのである。生身の人間の場合、心=精神を筆頭に、未知だったり不確定だったりする部分があまりに多すぎる。その意味で、人文社会系からせまる人間科学には、常にある種の限界ないしリスクがつきまとっている。ところが、現に開発されたヒューマノイド・ロボットならすべて解明されたデータしか持ち合わせない。そこで、とりあえずは家庭でのコミュニケーションに活用するべくロボットを限りなく人間に近づけていき、その結果として、生身の人間、心身をそなえた人間そのものがしだいに解明されていくことになる。人に優しい機械と機械に寄り添う人との連携である。そのような将来を展望した場合、まずもって人間工学や身体科学、人間科学といった複合科学的な研究・教育の進展が待ち望まれる。これらの学問を通して私たちは、人間の心理的ないし生理的な特性および身体的な特性を分析し、認知主体でありつつ認知対象ともなっている人間精神(意識)を研究し、人々が正確かつ安全で容易に操作できる機械・器具を開発することができる。さらには、複合の領域をたんに機械と人間といったモノ対応に限定せず、たとえば医療と人間、情報と人間、都市環境と人間、それらの総合といったマルチ的な対応にまで拡張していく。そこにこそ、〔バースマシン〕――BMIは筆頭マシン――を経由する意識と量子力学との連携が必要度を増していくのである。ただし、連携であって統合や融合ではない。それは、〔存在圏(バース)の3類型〕がけっして統合されたり融合されたりしないのと同様、永久にありえない。
   ただし、人間は〔フィジカル・バース〕と〔メソフィジカル・バース〕の双方に位している。物質・生身の人間身体は前者に、観念・意識を懐く人間精神は後者に、である。その際、意識は〔メソフィジカル・バース〕からさらに〔メタフィジカル・バース〕へと飛翔することがある。キリスト教やプラトン主義への飛翔のことである。キリスト教の唯一神やプラトン哲学のイデアは〔メタフィジカル・バース〕に生まれ、そこを基盤に〔メソフィジカル・バース〕へとベクトルを伸ばす。受肉(Incarnatio)のイエス・キリストがその象徴である。イデアからのベクトルはとりわけ幾何に象徴される。人間は意識・観念を有するのだから、生活――すなわち存在――はフィジカルだが意識――すなわち情報――はメソフィジカル、いや人によってはメタフィジカルでさえある。その事態を〔もつれ〕とか〔重ね合わせ〕と表現するならば、言いえて妙であり、人間であれば生存そのものなのだ。それはちょうど、原寸大の物質がナノスケールに至る途上で被るミクロ大の変化と同類の変化である。〔バースマシン〕を経由すると、そのような構想が生まれ出る。しかし、意識が身体を永久に離れることはありえない。
 
五 ポジティヴ・フェティシズムとしての量子物神
 
   ペンローズに逆らうようであるが、意識が計算不可能であることは、火を見るより明からかである。ジークムント・フロイトを始めとしてこれまでの精神分析者たちが達成した業績を見ればはっきりしている。それは心理学の限界なのではなく、心理学の扱う対象がそもそも自身の守備範囲を超えているからである。人間精神のフェティシズムをめぐる私のフロイト批判はそこを問題にした。フロイトはこう記している。
 

我々の知るかぎりでは、古代の民族(die alten Völker)はみな夢に大きい意義をあたえており、夢を実生活に応用できると考えていました(sie für praktisch verwertbar gehalten)。夢から未来のお告げをとりだし、夢の中に未来の前触れを求めたのです。当時のギリシア人や東洋人にとっては、夢占い師を伴わない出征は考えられませんでした(☆17)

 
   ギリシア人のような古代人(文明人)でなく、先史人や非ヨーロッパ的野生人にとっては、「夢(der Traum)」は、フロイトの思うような無意識ではなかった。もう一つの現実だった。夢物語でなく身体から遊離した外魂の実体験だった。私にすれば、意識の世界、あるいは目覚めている世界、それは私が提起している〔メソフィジカル・バース〕に関係し、文明的現象世界である。また、無意識の世界、あるいは眠っている世界、それは私が提起している〔フィジカル・バース〕に関係し、先史的・野生的心象世界である。彼らにメソフィジカルな世界は存在しないのだから、すべからくフィジカルな世界で観念を構築する。それを私は「感念」と称している(☆18)
   現代人の日常生活において、フィジカル世界はメソフィジカル世界の背後か足下に沈潜し、無意識の世界を形成している。それは、時と場合によっては、意識の世界に割って入る。その一例が物神崇拝(フェティシズム)である。量子の振舞いは物質から生まれる霊魂(アニマ)のそれと、動きに限定すれば同類である。違いは、霊魂は森羅万象の中を圏域とするのに対して、量子は宇宙の果てまでを圏域に含む、という点である。両者とも物理的に移動するのでない以上、共通性は充分に考えられる。さてもとにかく、霊魂は物質なくして存在できない。その際、霊魂を伴う物質は物神(フェティシュ)である。また、商品としての量子技術は途方もない交換価値を実現しており、マルクスが「商品の物神的性格」(『資本論』)で説いた物神である。こちらはネガティヴ・フェティシズムである。
   物神崇拝(フェティシズム)は、フランス人啓蒙思想家シャルル ・ド=ブロスの造語である。もともと宗教学の分野でアフリカ等の原初的自然神(フェティシュ)信仰を説明するのにド=ブロスが造った語で、「呪物崇拝」とも訳す。その後マルクスが経済学の分野で商品の性格を分析するに際して用い「物神崇拝」と訳す。さらには、20世紀になってフロイトが精神分析学の分野で性の倒錯を説明するのに援用した。この分野では片仮名でフェティシズムと記す。これは本来の宗教以前のもので、本来の宗教の出発点である偶像崇拝(Idolatrie)が存在するよりも古い。宗教でないフェティシズムと宗教の一形態である偶像崇拝との相違は決定的で、例えば前者においては崇拝者が自らの手で可視の神体すなわちフェティシュを個物(自然物)の中から選びとるが、後者において神は不可視のものとして個物(偶像)の背後に潜む。つまり前者では個物それ自体が端的にフェティシュ神であるのに対し、後者において個物はいわば神の代理か偶像かである。また、フェティシズムにおいてフェティシュは、信徒の要求に応えられなければ虐待されるか打ち棄てられるかするが、偶像崇拝において神霊は信徒に対し絶対者なのである(☆19)
   フェティシズムの命名者であるシャルル・ド=ブロスは、信徒がある時は神に従属しある時は神を攻撃するという、人(信徒)と神(フェティシュ)の間に存在する交互性をフェティシズムの特徴とみなした。それに対して私は、神への屈伏一辺倒となってしまったキリスト教=イドラトリ(偶像崇拝)とても、たえず神への攻撃へと反転する要因を孕んだフェティシズムであることを論証してきた。キリスト教における聖像崇拝(その中には十字架像跪拝や聖者遺骨崇拝なども含まれる)はその傍証だろうし、中世カトリック教会における聖像盗みもその傍証だろう。そこへもってきて私は最近、商品としての量子技術をフェティシュに加え、前作「仏教(倶舎論)の極限微粒子と物神的振舞いの量子(素粒子)」で論じてみたのである。
   人間の意識は、最近はめっぽう信頼を喪失している心理学者アブラハム・マズローの五段階欲求説を蘇らせる。五段階欲求とは、人間の欲求をフィジカルな段階からメタフィジカルな段階まで垂直的に五つに区切ったものである。最下位から①生理的欲求→②安全の欲求→③社会的欲求→④承認欲求→⑤自己実現欲求へと連なり高まる。そのうち、①と②はフィジカルに、③と④はメソフィジカルに、そして⑤がメタフィジカルに対応している。⑤へと向かうとき、人間はAIを搭載した存在となり、シンギュラリティー(人間をを超える知性の獲得)に向かって先を進んでいるAI搭載ロボットと行動をともにするようになっている。AI搭載ロボットは人間にとって、さながらルートヴィヒ・フォイエルバッハが説いた〔もう一人の私(他我)〕である。こちらはポジティヴ・フェティシズムである。
   フォイエルバッハ思想のキーワードに「他我」がある。ラテン語で〔alter ego(もう一人の私)〕となる。このalter egoに対応するギリシア語にheteros autos(もう一人の自身)がある。これはアリストテレス『ニコマコス倫理学』に読まれる(☆20)。アリストテレスでは「自身(auto=self)」だった箇所はラテン語では「自己(ego)」に代っている。それはそれで重要な問題を含んでいるが、フォイエルバッハは、この語の概念を、アリストテレスに発するギリシア的、隣人愛的なコンテキストから、人間と非人間の交互を特徴とする非ヨーロッパ的なコンテキストに置き換えた。〔他我〕には自然も神も含まれたのである。私にすれば、量子もまた〔他我〕だろう。フォイエルバッハは『宗教の本質』(1846年)の中で、元素についてこう書いている。
 

自然信仰の意味では神聖な水もたしかに合成された存在、水素と酸素に依存している存在であるが、それにもかかわらず同時に新しい存在、もっぱら自分自身に等しい存在、独自な存在である。そしてこの独自な存在においては、両元素の特性はそれら自身としては消滅し廃棄されている(die Eigenschaften der beiden Stoffe für sich selbst verschwunden, aufgehoben sind)」(☆21)

 
   物質は、単体の元素としては水素だったり酸素だったりするものの、それらが分子に合成されると別の物質、水などになる。では量子(素粒子)はどうなるだろうか。複数の元素で構成される化合物でなく、一つの元素を限りなく微小にしたものだ。じつは、ナノスケールではもとの元素の性質や機能は消滅し、新たなそれらに転化している。フェティシュとは、人間には実現不可能な力を具えたパートナーである。ドッペルゲンガーと称すると過度に霊的に響くのでふさわしい呼び名ではないが、とびきりの交換価値を有した存在であることは間違いない。
   さて、量子が〔メソフィジカル・バース〕におかれる理由は、量子がフィジカルとは思えない摩訶不思議な、因果不明の振舞いを見せるからである。それから、量子の物神化がみられる根拠は、量子が莫大な富を産出する〔極微の財神〕だからである。そのうち、前者は変えられないが、後者は変えられる。それは商品の物神化をストップするのと同じ処置を講じればいいのである。
   繰り返すが、私は特に神を攻撃するフェティシズムの積極的な意味を見出しポジティヴ・フェティシズムと命名した。さらには、ド=ブロスがイドラトリ(偶像崇拝)と称してフェティシズムから区別した方の神への屈伏を、私はネガティヴ・フェティシズムとしてフェティシズムの中に含めた。量子商品がそれである。それに対して崇拝と攻撃の交互性によって特徴づけられるフェティシズムを、ポジティヴ・フェティシズムと呼ぶことにした。〔他我〕がそれである。さて、本稿で特記している量子は、交換価値(高値の商品)としてはネガティヴだが、使用価値(使い勝手のいい利器)としてはすこぶるポジティヴである。これほど生活を潤すものは滅多にない。よって、量子技術を無償の公共財――社会インフラの一つ――とすることが待ち望まれる。さすれば、ポジティヴ・フェティシズムとしての量子物神が未来社会を明るく照らすことになるだろう。
 
むすびに
 
   とにかく、フェティシズム(物神とか呪術とか)という言葉に接すると、誰もが魔術まがいを連想する。しかし、私が2004年から編集継続中のフレイザー『金枝篇―呪術と宗教の研究』(全10巻)には、農耕儀礼や生活習俗としてのフェティシズムを思わせる事例がふんだんに収録されている。そのことを承知しているレヴィ・ブリュルは、『原初的社会における思惟』にこう記している。
 

例えばフレイザーの『金枝篇』は、原初的社会の(dans les sociétés inférieures)殆ど到る処に広まり、また我々の社会にも(dans notre propre société)多くの痕跡を残している信仰や風習の多くをアニミズム(l’animisme)がどのように見ているかをよく示ししている。この仮説は二つの段階に分解されることに人は気づくであろう。第一に、先住民は夢――そこで彼らは前に死んだ人や不在者と会ったり、話をしたり、喧嘩をしたり、その話を聞いたり、また触ったりする――に現われた姿に驚き感動して、これらの現われの客観的実在性を信じ込む。したがって先住民にとっては彼自身の存在もまた不在者や死者と同じように二重である。先住民は生活し意識を持つ個人としての限りに於ける現在の存在を認め、同時に外部的となり幻影(fantôme)の姿で顕われ得る分離可能な霊魂として(comme âme séparable)のその存在をも認めるのである。これは先住民の間に普遍的な信仰(une croyance universelle chez les primitifs)と言える(☆22)

 
   ブリュルは、フレイザー『金枝篇』を参照しながら、先史社会や非ヨーロッパ的野生社会、それに現代人の社会にアニミズム的信仰・風習が普遍的に存在することを認めている。文中にある「アニミズム」は霊魂(アニマ)に関連するが、私はそれを物神に関連させて読みかえる。いずれにせよブリュルの発想は、私が強調する〔文明を支える原初性〕に即応する(☆23)
   さて、18歳の浪人時代、WIN.P(ウィンピー)談論を楽しんでから60年ほど経過した。その間、2001年に私は、所属する東京電機大学の研究振興会から「特定研究費」の配当を受け、課題「身体をめぐる主客コミュニケーション論――subjectとしての身体objectとしての身体――」の研究に着手した。2003年6月、東京電機大学神田キャンパスで行われた「情報学講座 ヒューマノイドのいる社会」第4回で、私は「ロボット・フェティシズム」と題する公開講座を担当した。本稿は、長年にわたるそうした身体科学研究を下敷きにして、その上にペンローズの「意識と量子力学」という課題に対する応答をかぶせて成立している。隠し種に挟み込んだフェティシズムは、あなたも私も心に潜ませている、まぎれもない現代思想なのである(☆24)
 

01 〔量子物神8月3部作〕とするのは、私はすでに量子概念研究上で幾篇かの類似論文を公開してきており、それと区別したいためである。また、この3部作をもってわが量子概念研究に一区切りを設けたいと思うからである。
02 ダリル・アンカ、喜多見龍一編集/島田真喜子訳『BASHER 2017―世界は見えた通りでは、ない』ヴォイス出版事業部、2017年、15頁。
03 同上、95頁。
04 同上、119頁。
05 「共感呪術(Sympathetic Magic)」はイギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーが理論化したもので、それはさらに「類感呪術もしくは模倣呪術」と「感染呪術」とに区分される。前者は〈類似の法則(Law of Similarity)〉を原理とし、後者は〈接触または感染の法則(Law of Contact)〉を原理としている。フレイザーは、呪術と科学とは進化的に類比しうるものと考える。呪術は霊的、神的ないし人的なものを介在させて対象=自然と向かい合うが、科学は客観的法則を介在させてダイレクトに対象=自然と向かい合う。その違いを理解してなお、しかしフレイザーは、『金枝篇』第一部第四章で次のように述べて自説を擁護する。「純粋な形で共感呪術が行われる所では、自然界における一つの出来事は、霊的あるいは人的作為の介入がまったくなくても、必然的に一定不変の形をもって他の出来事を伴うと想定されている。かくして呪術の基本的概念は近代科学のそれと同一である。すなわちその全体系の基礎をなすものは、自然の秩序と均一性についての潜在的ではあるが現実的で確固とした信念である」(James George Frazer, The Golden Bough, A Study in Magic and Religion, part1, The Magic Art, vol.1, p.220.フレイザー『金枝篇』第1巻、国書刊行会、158頁)。引用の冒頭「霊的あるいは人的作為の介入がまったくなくても」を読めばよくわかることだが、フレイザーは理論の土俵を近代主義者・科学主義者たちと同一にしている。こんにち、先端技術は信仰の対象になり、また自然は人格化の度合いを回復しつつあり、環境倫理学は「自然もまた原告」の立場を打ち出している。近代科学のパラダイムは近代という歴史的過程で成立したのだが、ひところの勢いを減じたいま、前近代や非文明のパラダイムとまったく無縁というわけでなかったことが判明した。「人的作為の介入がまったくなくても、必然的に一定不変の形をもって他の出来事を伴う」という表現は量子の振舞いに当てはまる。
06 〔存在圏(バース)の3類型〕を最初に記した原稿は拙著『原初性漂うハビトゥスの水脈―量子世界・地中海・ゲルマン・クルド』社会評論社、2024年、に収録されている。)
07 水澤謙一「昔話を追って―昔話の個別研究」、日本口承文芸学会『口承文芸研究』第2号、1979年1月号。
08 中澤英輔「ブレイン・パイオニアの研究倫理―ブレイン・コンピューター・インターフェイスを例に」、『科学哲学』57-2、2024年、23頁。
09 2011年から数年間、新潟県上越市での実験を重ねた水車発電の経緯を紹介したい。以下の拙稿を参照のこと。「くびき野水車発電プロジェクト活動報告」、『東京電機大学総合文化研究』第11号、2013年12月。
10 ロジャー・ペンローズ、竹内薫/茂木健一郎訳『ペンローズの量子脳理論』徳間書店、1997年、67-68頁。
11 Roger Penrose, The Emperor’s New Mind, Concerning Computers, Minds, and the Laws of Physics, Shadows, Oxford, 1989, p. 331. ロジャー・ペンローズ、林一訳『皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則』みすず書房、1994年、289-290頁。
12 Penrose, ibid., p. 384. 同上、336頁。
13 拙稿「量子力学に対する文明論的疑義―アインシュタインとシモーヌ・ヴェイユ」、拙著『原初性に基づく知の錬成―アインシュタイン・戦争・ドヤ街生活圏』社会評論社、2023年、第1章、参照。
14 Penrose, ibid.,p.viii. ペンローズ『皇帝の新しい心』冒頭、ii頁。
15 Penrose, ibid.,p.526. 同上、458-459頁。
16 拙著『複合科学的身体論―21世紀の新たなヒューマン・インターフェイスを求めて』北樹出版、2004年、参照。
17 Sigmund Freud GESAMMELTE WERKE, Vorlesungen zur Einfuhrung in die Psychoanalyse. Copyright 1940 by Imago Publisting Co., Ltd., London. By permission of S. Fischer Verlag GmbH, Frankfurt am Main, XI, S. 81-82.
18 理性知に一致する思念を「理念(Idee)」とするならば、身体知・感性知に一致する思念は「感念(Sinn)」となる。理念が精神に発するとすれば、感念は身体に発する。例えば理性派のヘーゲルには「理念」は理性・理性知とセットになる。しかし芸術家ミロのように、理性以上に感性を生きる指針とする非理性的な人々には「理念」でなく「感念」が意味をもつ。文字をもたないケースもある非ヨーロッパ諸民族の数千年にわたる文化活動、それは理性知ではなく、感性知・身体知と一致する。外国語と比べるならば、ドイツ語の“Sinn”には、当たらずとも遠からずの概念が備わっていると思っている。それらを連合させれば「感念」を表現できるだろう。精神(文明)に発する理念に対する、身体(先史・野生)に発する感念という捉え方の重みは「感」にある。
19 拙著『脚フェティシズム―フロイトを蹴飛ばす脚・靴・下駄理論』廣済堂出版、2002年、参照。
20 「そんなわけで、よきひとにおいてはこういった諸相がことごとく自分自身への関係において見出だされるということ、しかるに彼は友をみること自分自身をみるごとくである(すなわち友は「第二の自身」であるἜστι γὰρ ὁ φίλος ἄλλος αὐτός)ということに基づいて、「愛(Φιλία)」とは以上のような態度の何ものかであると考えられるにいたるのであり、また「親愛なるひと」「友なるひと」とはこういった態度の見出だされるようなひとにほかならないと考えられるわけであろう。」『ニコマコス倫理学』第九巻第四章1166a30、岩波文庫版、下巻、2004年(初1973年)、121頁。
21 Ludwig Feuerbach Gesammelte Werke, hg. v. W. Schuffenhauer, Berlin, Bd.10, 1969, S.8. なお、フォイエルバッハの他我思想について、以下の拙著に詳しい。『フォイエルバッハの社会哲学―他我論を基軸に』社会評論社、2020年。
22 Lucien Lévy-Bruhl, Les fonctions mentales dans les sociétés inférieures, Paris, 1922, p.7-8.
 https://archive.org/details/lesfonctionsme00lv/page/n1/mode/2up本書は、邦訳(岩波文庫)では『未開社会の思惟』と題されているが、私は「未開」という概念に賛成できない。 なお、訳文は同書(22頁)をベースにしている。
23 文明を支える原初性について、私の発想を記しておく。19世紀の文化史家ヤーコプ・ ブルクハルトに事例を拾うと、彼の言う古典古代の「文化(die Kultur)」は、私の概念では「文明(die Zivilisation)」である。それに関連して興味深いのは、先史文化や野生文化について、ブルクハルトがどのような概念で括っているのか、その点である。彼の眼目はギリシアとイタリア・ルネサンスの両文化をダイレクトに連携させることである。だが、その連携に一つの秘儀が隠されている。多くの識者は古典古代の文化に潜伏する先史文化を看過している。私が、古典古代の儀礼典礼文化から近世近代の価値消費文化への転変を重視するのは、先史(潜伏)文化とギリシア文化間ですでに転変が生じていたからである。儀礼典礼文化は先史にこそ原型があった。ペラスゴイほか先住諸民族のドローメノンは農耕の一環であって見世物(演劇)ではなかった。のちに移住してきたギリシア人によってようやく、それは劇場で演じられる見世物となった。その事態をさして、儀礼典礼文化から価値消費文化への転変には、両者を支える原初的文化が潜在しているのである。石塚正英「ブルクハルト史観の批評」、『バロック的叛逆の社会思想―ニーチェ・フロイト・ブルクハルト批判』社会評論社、2023年、第5章、参照。
24 拙稿「フェティシズムと現代思想」、拙著『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年、第1章、参照。

 
(いしづかまさひで)
 

(pubspace-x15993,2026.08.23)