続 身体の変容5 内田樹の「老い」論

高橋一行

   内田樹は1950年生まれである。2025年に『老いのレッスン』という本を出す。その本における内田の告白は衝撃的であった。
   それまで私は内田の経歴をただ単に羨ましいと思っていた(注1)。彼は25歳で合気道を始める。大学院生または助手として、昼間は大学で研究をし、夕方は毎日道場に通って武道に励む。そういう生活を10年続けたと彼は書いている。大学と道場(公共の体育館ではなく、師匠の主宰するものだったと聞いている)と自宅(アパートを借りていたという話もある)が近くにあったということも、それを可能にした要因であろう。その後大学教員となってからも、教員生活と武道の稽古を両立させ、早期退職をしたあとは、母の実家の土地に大きな道場を建てて、弟子を集めて、武道に明け暮れる毎日だそうで、こんな理想的な武道人生を送れるなんて、最高だと思っていたのである。
   しかし実際は話が大分違うのである。彼は50代初めに膝を悪くして、一時は武道を断念するつもりであったと言う。しかし幸い良い医者に恵まれて、何とか今まで、膝を宥めながら、武道を続けてきたのである。また2025年に出した本の中の表現で言うところの「昨年」に、いよいよ歩行が困難になって、人工関節の手術をしたのだそうである。また50代の終わりに歯が悪くなって、半分くらいをインプラントに入れ替えたことや、目も悪いということも本に書いている。また41歳で鬱になって苦しんだということも本には書かれている。こういったことを今回私ははじめて知ったのである。
   昔ならば自分はもうとっくに死んでいる、今の人生はボーナスであると内田は言う。こういうことを知ると、恵まれて、理想的な人生を送っているのだと思っていた人が、実は私と同じような気持ちで生きているのだということが分かって、親しみを覚える。今回はそういう話である。
   私は20代前半で少しだけ空手を習ったのだけれども、前回書いたように、小説は書けない。いくつも掛け持ちしているアルバイトは忙しい。怪しいセールスをして、却って借金をしてしまう。そこにまもなく長女が生まれるということになって、もうどうにもならない。さらにもう一度大学に入るべく、共通一次試験という名だったか、センター試験だったか、とにかくそういう名前の試験も受けなければならないということで、間もなく空手は止めてしまったのである。そういうことがあって、30代半ばを過ぎて、大学の専任教員になって、再び空手の稽古を始めることができたときは、念願が叶ったと思う。しかし大学教員の仕事は猛烈に忙しく、思うように稽古はできない。おまけに私の道場の本拠地は沖縄で、稽古のためにそこまで通うのも大変だ。結局60歳になって、大してものにならないで、止めてしまう。このリベンジをしなければということもあって、63歳で居合を始めて、現在4年が経ち、何とか3段まで取ったが、身体はあちらこちら、もうボロボロで、いつまで続けられるか不安である。具体的な話はあとで書くが、とにかくこれが今の私の状況である。
   まるで私だけが大変であるかのように今まで考えてきたけれども、しかし内田樹も大変なのだという話である。彼は25歳から50年以上武道を続けてきたので、身体のあちらこちらが痛むのは、当然と言うか、自然な話である。因みに私の居合の師匠も、内田とほぼ同じ年で、10年前に腰の手術をして、今も膝を痛めている。それでも技の鋭さに衰えはなく(もっとも本人は若い時に比べれば、著しく衰えたと言っている)、師に対しては尊敬を覚えるのみである。
   内田に対しても、老いてなお稽古を続けることは称賛したい。前回の高橋源一郎と並んで、常に気になっていた年上の思想家内田樹の「老い」論を今回読むことができて、私もまたこのテーマで続きを書きたいと思ったのである。
   私自身の話は、すでにあちらこちらで何度も書いてきているのだが、以下、少しだけ繰り返しておく。
   私は職場を早期退職して、その2か月後、欧州旅行に行くのに、飛行機の席はエコノミークラスで出掛け、いつものように向こうでは飲んだくれて、帰りの飛行機で倒れる。3人掛けの窓際のシートで、ずっとトイレにも行かれずに座っていたら、成田に着いて動けなくなってしまった。エコノミー症候群である。目がかすみ、頭痛がする。医者に行き、右目に眼底出血があることが分かり、大学病院で網膜静脈閉塞症と診断される。
   今、その病は落ち着いているけれども、完治はしない。治療費はかなり高い。目に直接注射するという治療がこの2年間必要だった。ようやく大学病院に行く頻度を減らすことができた。そのほか緑内障が進んで、地元の眼科には月に一度出掛けている。また昨年の秋に歯の手術をして、これも保険が効かず、大変な失費であった。さらに血圧が高いと、目にその影響が来るから、内科に通って、薬を飲んで、血圧を抑える。
   これからもうエコノミー席には乗れない。その席よりも数センチ幅があるプレミアムエコノミー席は、エコノミー席の2倍費用が掛かるのである。私は老後は世界中を放浪したいと思っていたけれども、そういうことはできない。これももう何度も書いてきたことだけれども、身体的な理由のほか、日本経済の凋落と円安のために、海外で暮らすには、以前の3倍のお金が掛かるので、退職金と年金で、できることではない。そのことを実感させられる。
   さてそこに新たなアクシデントが加わる。先日居合の師匠からは、まだまだ3段の実力ではないと叱られ、特訓をしていたら、膝をやられた。正座の姿勢からそのまま膝を曲げて前進するという動きを何度も繰り返していたら、膝が動かなくなった。そのあとは、階段の登り降りにも苦労する。単なる筋肉痛ではなく、老化によるものだろう。結構これは深刻で、いつまで稽古を続けられるか、焦り出す。
   その後医者に診てもらい、レントゲンも撮ってもらう。年相応の膝の擦り減りは見られるが、大きな問題はなく、今度痛みが出たら、またいらっしゃいと言われる。それで居合の稽古を再開する。しかしとりわけ私の習っている伯耆流居合道は、正座をして足を踏み出したり、そこで飛び跳ねたりという型を売りにしており、膝に良くないことこの上ない。そういう型を何十回も繰り返す稽古のやり方ではまた膝を痛めてしまう。それで量より質を求め、ひとつひとつ丁寧に型を身体に沁み込ませていく。そのほか、散歩は短くし、酒量は減らし、体重は増やさないよう心掛けている。
   とにかく計画的に、十分計算して居合の稽古をする。それでも膝と目と肝臓が悪化して、もう居合はできないという日が来るかもしれない。その覚悟はしておく。つまり無理をせず、しかしさらに昇段して、高段者になりたいと思っているから、その希望は持ちつつ、尚、ある日いきなり身体が動かなくなるかもしれないのである。それはそれで仕方ないと思うしかない。
   実は膝が悪くなる前から、日々筋力が落ちていくのを感じている。激しい稽古はそもそもできない。しかしできる範囲で、身体を宥めつつ、刀を振る。元々手首の柔軟性がなく、肩の可動域も狭い。足の指を曲げるのも困難だから、正座をして、その姿勢で足を踏み出したり、急に立ち上がったりするのが苦手だ。師匠から、なぜできないのかと言われる。そう言われても困る。なぜできないのか、それは私が知りたいことなのだ。空手を以前稽古していたから、筋力はある方なのだが、身体にしなやかさがない。動きがぎこちない。
   問題は、そういう柔軟性は、今後ますます失われるだろうということだ。訓練をして、身体能力そのものが上がることはもうないのである。これ以上劣化するのを、できるだけ遅らせたいと思う。しかしそれでもまた、いつ身体が動かなくなるか。とにかく身体が動ける限り、上手に動かしていく。そして身体が動く幸せを感じる。武道によって、老いを自覚させられ、しかしそのことで老いを受け入れる。
 
   さて内田の本の話に戻る。この本は、読者から来る質問を編集者がまとめて、それに対して内田が答えるという形式を取っている。質問は多岐に亙る。親の老いについて、友だちについて、人間関係について、結婚や子育てについてなどの問いがあり、内田はていねいに答える。概ね、それらは常識的な答えだと思う。
   またこの本については、若い人を読者に想定していると内田は言う。私もまた1年半前にこのサイトで「老い」論を始めたときに、若い人に読んでもらえればと思ったけれども、実際は難しい。「老い」という単語を表題に出して、どこまで売れるのか。内田のネームバリューで、この本が実際どのくらい若い人に売れたのか、出版社からデータが出てくればうれしいと思う。
   しかし実際に売れるかどうかということはともかくとして、この本は良書である。それは内田の若い人に対する思いが良く出ているからである。先に「今の人生はボーナスである」と内田が言っていることを紹介した。つまり自分が今生きていられるのは医療の進歩のお陰であると思い、それはもうありがたい話であって、それで内田は「今度は私たちが若い人が愉快に豊かに生きていられるような世の中を遺してあげることがお返しだ」と言う。それはもう本当にその通りだと思う。
 
   以下、もうひとつ、この本から示唆を受けたことを書いておきたい。この本では、墓がひとつのテーマとなっている。前回も書いたが、「老い」の話に墓は不可欠である。
   まず内田個人の話がある。内田家は東京と山形に墓がある。かつて父親に連れられて、山形の先祖累代の墓を尋ねたときの記憶を彼は辿る。そこで墓参りという儀礼は良いものだと彼は思う。また先祖が伝えてきた家風が自分の中にも流れていると感じたのだそうだ。その後父が亡くなって、しかし定期的に墓参りをするのは、残された人にとっての慰めであり、救いであると書く。
   そのこと自体について私は、良い家柄の人はそう思うのだろうとしか書けない。しかし墓参りは大事であると私も思う。さて興味深い話はこのあとである。
   まず内田は武道の道場を主宰している。大きな道場で、弟子もたくさんいる。彼は大学退職後も、道場で座卓を並べて、週に一度寺子屋ゼミを開いている。大学院の社会人ゼミの延長だそうである。そのゼミの話の中から、道場が主催して、墓を建てるという話が出て来たのだそうである。つまり道場生の要望から話が始まる。内田本人も含めて希望者が入れる墓を造るという話である。
   それはまず「生きている人たちをひとつの共同体にまとめるという考え方から出て来たもの」だと言う。そして少子化の現在、自分が死んだら誰が自分の墓を守ってくれるのかという不安を持つ人がたくさんいるという現状がある。その点、道場は学塾だから、「僕が死んでも塾頭が跡を継いでくれます」と内田は書く。「道場が続く限りは門人たちが供養をしてくれるはずです」とも書いている。
   実際に墓にはまだ誰も納骨されていないけれども、年に一度皆で集まって、墓見をする。寺の住職に法要をしてもらい、法話を聞き、あとは「シャンペンを飲んで、おいしいものを食べて歓談するという楽しい行事」だと内田は書く。
   彼が主催する合気道の道場と勉強会が基になって、墓を造ったというのは面白い試みだと思う。かねてから私は思想共同体があちらこちらで創られることは良いことだと思っていたし、そこで墓を造るのは、あり得る話だと思う。
   現実に人が集まりやすい場所に道場があり、実際に多くの人が集まってきて、そこで勉強会も開かれる。そして自然にその中でそういう話が出てきて、墓が造られる。しかし私がそのまねをしたいかと言われれば、そういう場を創るだけの力はないという答えになる。
   実は私は、2年半ほど前に武道のための道場を造っている。那須の、駅から遠い雑木林の中に、その建物はある。私自身は、週に一度出掛けて、1泊か2泊する。またそこに友人や親族が来てくれるけれども、東京から遠くて、そう頻繁に来客がある訳ではない。ここで親族というのは、私にはふたりの娘がいて、それぞれ孫を連れて夫婦でたまに遊びに来てくれるということである。要するに、別荘として活用されているに過ぎない。
   普段の居合の稽古は、師匠の家の近くの足立区の中学校の体育館を借りて、毎週土曜日に行われる。稽古は週に一回だが、私の事情があったり、師匠に用ができたり、また中学校の側の都合で、しばしば稽古ができない。月に二、三回の稽古である。師匠も私も、東京で道場を建てるだけの土地を用意することはできない。他の道場も多くは、公共の体育館を利用していて、実は稽古の場所を確保するのは大変なのである。
   そもそも公共の運動場は極めて少ない。また小中学校の体育館を借りる際には、その学区に住んでいる人を5人以上集めて名簿を作って申請しなければならない。これは絶望的に困難である。
   以前空手の稽古をしていた時も、道場を確保するのは大変だった。葛飾区や足立区の公共の建物が使いにくいということで、隣の県の松戸市や市川市まで出掛けるということもあった。
   また稽古が足りない分は、自宅で補うしかないのだが、刀を使う居合は、天井が高くないといけないので、普通の家ではできない。私は時々、東京の家の玄関先で刀を振り回すのだが、近所の人は怪訝な顔をして、家の前を通り過ぎていく。
   また東京では、ゼミや勉強会を開きたいと思っても、これも場所を探すのが大変である。大学も辞めてしまうと、大学の教室を借りることができなくなる。在職しているときは、学部2年生、3年生、4年生と別々にゼミがあり、また修士や博士の大学院生も抱えていて、学外の人を集めて何かゼミ開く時間的余裕がなかったのだが、今そういうことが可能になったときに、今度は場所を用意することができないのである。
   結局私はひとりで那須に行き、そこで居合の稽古をし、今の時期ならば、夕方蝉の鳴き声を聞きながら、ひとり酒を飲む。朝は早く起きて、涼しい内に本を読む。週に二日ほど、そうやって過ごす。これはこれで快適である。
   しかしもう少し武道に親しみたいという人を集めたいという思いもある。つまり内田が実践しているほど本格的なものでなくても良い。実際、空手も居合も、町の道場はどこでも人が減っている。武道の催し物に行くと、高齢の指導者と、あとは教わる方は、高校生と大学生ばかりである。
   そもそも日本では、中学、高校、大学にいる間に、クラブやサークルなどで、多くの人が武道やスポーツに関わり、そこで多くの時間を割き、かつ華々しい成果を出す人もいるのだが、しかし大抵は学校を終えると止めてしまう。これはもったいなく、生涯、武道やスポーツを続けるにはどうしたら良いかという、具体的かつ実践的な制度設計の提案を私はしたいのである。つまりもっと多くの社会人がスポーツや武道に親しめたら良いと思うのである。そして今までも、公共の体育館をどう活用するかということで、ずいぶんと苦労してきたが、その解決策も探したいのである。
   ここでとりわけ私は、老人に武道の稽古を勧めたいと思っている。それは現実的に可能だし、私自身は実践している。そこで老いを感じ、その老いを見詰め、できればその老いを楽しみたいと思っている。それが今回の論稿の結論である。そしてそのためには場所が必要である。
   これも空手の稽古していた時の経験だが、稽古の場所が決まって、どこどこの公共の体育館で毎週いつ稽古があるという掲示を出すと、参加希望者は結構いる。ただ私たちの場合、実際には場所を確保するのは大変で、時に稽古の時間が変わったり、場所が変わったりすることもあると、新人は入りにくい。
   つまり老人に武道の勧めをしておいて、しかし場所の確保という現実的な問題があり、それが一番大変であるという指摘をしておく。
   補足として、以下のことを書く。
   まず老人と若者が武道を通じて交流をするのも良いことだと思う。
   老人の側から言えば、世の中で、老人は自分のことを偉いと思っていて、周りも良識があれば、老人を立ててくれる。それは居心地が良いかも知れない。家父長制はまだ残っていて、男は威張っていられる場合も多い。それがまったくの初心者として武道を始め、自分よりも若い人たちに教えを乞うというのは、実は良い体験である。へりくだる必要はなく、というのは本当にこの分野で自分は初心者なのだから、最初から人に教えてもらわないと何もできないのである。偉そうにしてはいけない。
   私の場合、師匠は私よりも10年近く年上で、それはありがたかった。しかし諸先輩は皆私よりも若い。彼らに教えてもらいながら、何とかここまでやってきた。それは繰り返すが、良い体験であった。
   またこれは若い人たちにとっても良いことなのではないか。まず、若い人の方が身体が素直で、教えたことをすぐに吸収して、伸びていく。老人は頑固だから、教えてもらっても、すぐに身体が言うことを聞かない。何で身体が動かないのかと、これは本人も周りも思う。それを何とか乗り越えて、ゆっくりと進歩していく。もちろん若くても、身体能力に恵まれない人もいる。そういう人も武道はすべきである。いろいろな人が実際に身体を動かして、体験してみるということが良いことなのである。多様性を学ぶというのは、そういうことである。
   私はとにかく、老人が威張らない社会が良いと思っている。老人の経験は尊重すべきである。しかし若い人の挑戦を最大限優先することも必要だ。老人は老人で新しいことを始めて、そこで若い人に教えを乞うというようなこともあって良い。
   またもうひとつ最後に言いたいことがある。私はかつて、年老いた江戸時代の武士がどういう生活をしていたのかということを書いたことがあり、そこはもう少し資料を集めて、さらに考察してみたいと思っている。年老いてもなお武士であるためには、武道の稽古は欠かせなかったはずで、彼らはどうやって生活の中に稽古を取り込んでいたのかという関心はある(注2)。そういうことも参考にして、自分の老いを見詰めていきたい。
 

1 「身体の所有(1) 武道について」(2022/05/03)と、「続 身体の変容2 居合、または刀を使いこなす身体」(2026/05/19)。
2 「老いの解釈学 第11回 武士道とは長生きすることと見つけたり」(2025/03/19)
 
参考文献
内田樹『老いのレッスン』大和書房、2025
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x15765,2026.07.18)