全共闘由来の学問論―山本義隆『物理学の誕生』を読む (1)

石塚正英

 
はじめに
 
   学制頒布百周年記念事業の一つとして旧文部省が1972年に刊行した『学制百年史』の第二編第二章第四節七「学生運動と学生活動」に、以下の記述がある。

四十三年度から四十四年度にかけて東大事件や日大事件に象徴される学園紛争は、全国に波及し、四十三年度は六七大学、四十四年度は一二七大学で紛争が発生した。しかし、四十四年度の後半にはいってからは、同年八月、「大学の運営に関する臨時措置法」の施行を契機に学内外の努力によって、紛争はようやく鎮静化の方向をたどるようになった(☆01)

 
   1969年9月5日、大学立法公布に反対する全共闘諸勢力は東京の日比谷野外音楽堂に集結した。その集まりはまた、全共闘連合の結成大会でもあった。当時にあって東大全共闘の議長だった山本義隆は、東大構内での活動を理由に指名手配中であり、それを口実に会場へのとば口で逮捕された。彼は無党派、いわゆるノンセクトだった。当時にあって上条三郎名で活動していた私は、その日、〔学問するノンセクト〕を自認して会場にいた。
   私は、1969年4月、立正大学(熊谷キャンパス)の入学式で、赤ヘル・青ヘル・白ヘル・銀ヘルなど諸セクト(党派)による学生デモの洗礼を受けた。おおいに感動したが、私の場合、その思いは学問と結びついてはじめて思想化するのだった。ヘーゲル観念論かマルクス唯物論か、実存主義者サルトルの〈投企する意志〉か共産主義者マルクスの〈変革する実践〉か、その問いかけが私を大学闘争に駆り立ていった(☆02)。当時、立正大学にはマルクス主義戦線(マル戦派)の残党ほか様々なセクトの活動家がいて、意識のありそうな学生に近寄ってはオルグにかかるのだが、少なくとも私を満足させなかった。前年1月に東大安田講堂に立てこもった党派活動家もいたが、議論は政治に傾いてしまう。大学には浅田光輝(経済学)、岩田弘(経済学)、岩淵慶一(哲学)、清水多吉(哲学)、中村禎里(生物学)ら意識の高い教師たちはいたが、当局から学生部長とかの役職をやらされてまいっていた。
   私は政治闘争をしに大学へやってきたのでなく、学問しにやってきたのである。私にとって大学闘争は、あくまでも学問研究の自立空間を求めるがゆえの、日常生活上の営為だった。そのような私にとって、当時、研究生活の手本のような研究者がいた。物理学の山本義隆とヘーゲル研究の長谷川宏である。想い出深い両人のうち、本稿ではとくに山本の著作『物理学の誕生』(ちくま文芸文庫、2024年)を読んでメモを執るかたちで、全共闘由来の学問論を炙り出してみたい。
 
一 全共闘由来の学問論
 
   山本著作のコメントを開始するに先立ち、まずは長谷川宏に言及しておく。長谷川は、60年安保闘争の経験を有するが、1962年東大卒業後同大学院に進んだ。西洋哲学をベースとする学問へのかかわりは確実に熟していった。やがて1968年結成の東大全共闘(大学院の闘争委員会)に参加した。スト中に、自分から積極的に大学院の仲間を集めて「何かやろう」と提案した。そこでへーゲルの「歴史における理性」をテキストにつかって、ヘーゲル歴史哲学の報告会をするということになった。そこで考えた事柄は、自分の研究のあり方としての方向性を定めてくれる指針になったようである。徹底的に討論しあって、力はいるものの面白いことを自分たちできちんとつくり出す、一日一日の生き甲斐としては楽しい、と感じた。1970年代に入ると官許アカデミズムでの研究生活に見切りをつけて、所沢で学習塾を経営しつつ、生活と学問のための新たな拠点を構築していった(☆03)
   私が知るかぎり、学問・研究の閉塞情況を打開するのに反大学の学問論を自覚的に構築した人物の筆頭は、ヘーゲル研究者の長谷川宏である。私は1960年代末・70年代初、別個に立ってこれを敢行したのだが、長谷川は独自にこれを地道に文章化していた。手書きのパンフレット「学問批判」がそれである。その存在を、私はのちの1976年秋になって知った。拙著『叛徒と革命』(1975年)贈呈のため長谷川宅を訪問した際、筆者本人から「学問批判」を寄贈され今も拙宅(上越市の資料室アトリウム御殿山)に残る。
   彼は、1970年代に至って全共闘運動が分裂し、一部の諸派が政治主義から唯銃主義へと退潮傾向を強めていく木枯らしの季節にあって、突風に吹き飛ばされたり足元をすくわれたりしなかった。職業学者への堕落も阻止しえた。長谷川は、短絡的に政治をすべての領域に優先させるのでなく、知的情熱を貨幣価値に換算する輩を相手にせず、文化の領域に己れの存在基盤を見いだし、そこに立って全世界を眺めやることのできた数少ない思想家の一人である。彼は2008年刊の『生活を哲学する』にこう記している。
 

哲学的な知と思考が、その抽象性と観念性ゆえに現実世界からどんなに離れて非日常的な理論に赴こうとも、その理論の本当の価値は現実世界とのかかわりのなかで見いだされるほかはない(☆04)

 
   現実世界を離れて哲学はないということ、同感である。彼の学問論は後日、ライフワークのごときヘーゲル翻訳群刊行に如実に示された。
   さて、本題の山本に入る。彼は2015年に刊行した回顧録『私の1960年代』で次のように語っている。
 

保釈になってしばらくして、なにかの機会に廣松さんにお会いしたときに、山本君、あなたは立場上、今後いつまでも注目され、いろんな人からいろんなことを言われ、大変でしょうけれど、ひとつだけお願いしたいのは、評論家のようなものにはならないでください、というようなことを言われました。自分でも評論家などになるつもりはなく、またそんな筆耕硯田の能力もないことは十分に自覚していたので、聞き流していたのですが、後で、廣松さんのあの忠告は、まともに学問をやりなさいという意味ではなかったのかと、考え直しました。私にこんなふうな忠告をしてくださったのは、廣松さん一人ですが、現在それを非常に有難く思っています。/だからというわけではかならずしもないのですが、その後、物理学会の米軍資金問題からベトナム反戦闘争、そして東大闘争を経て、その間に考えはじめた科学批判の延長として、近代科学の成立の根拠を穿つ科学思想史の学習に向かってゆきました(☆05)

 
   文中に出ている廣松渉(1933-94)もまた、生涯、徹底した学問の徒だった。彼は4歳の頃から文字を読み始めたという。小学5年の頃にはアインシュタインの時空間像や宇宙像に興味をもち、小学6年の時、1945年敗戦とともに、改造社版『マルクス・エンゲルス全集』を読破したという(☆06)。廣松の晩年(1993年11月7日)、私は彼の物象化をめぐって、ある喫茶店で文字通り口角泡を飛ばしてダイレクトに激論した。廣松はその半年後、1994年5月に亡くなった。同時代を生きた周辺研究者の多くは、廣松とちがって研究を使命(仕事)でなく職業(稼ぎ)とみなしており、退職とともに音沙汰が途絶えていった。全共闘由来ではないものの、鼻カニューラで酸素補給しながら没年まで研究を続行した明治大正生まれの布村一夫(1912-93 民族学)、大井正(1912-91哲学)、暉峻凌三(1915-92 哲学)らは、学問に生きる意味を、全共闘世代に身をもって示唆してくれたのではないだろうか。
 

01 文部科学省ホームページ『学制百年史』第二編第二章第四節七「学生運動と学生活動」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317826.htm
02 詳しくは以下の拙稿を参照。上条三郎「学問するノンセクト・ラディカルズ」、『情況』1999年4月号「〔特集〕70年―総括への階梯」。
03 【学生運動】東大闘争の敗北にどう落とし前を付けたのか?哲学者・長谷川宏【後編】2024/04/25 https://www.youtube.com/watch?v=dXcdt-R27rg
04 長谷川宏『生活を哲学する』岩波書店、2008年、20-21頁。
05 山本義隆『私の1960年代』金曜日、2015年、299頁。
06 吉田憲夫ほか『廣松渉を読む』情況出版社、1996年、年譜。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x15760,2026.07.18)