高橋一行
ここのところ、カントや数学の話を書いてきて、書いている私自身も結構辛い作業が要求されて、また読者にも相当な労力を要求してきたように思う。今回は少し軽いものを書こうと思って、書き始めたのだけれども、しかし書き始めると、いろいろと難しい話になってしまう。ただ今回は、ジジェク入門編にしたいという意図もあり、そこは何とかうまく行ったように思う。
2012年に出た、ジジェクの代表作と呼んでも良いLess Than Nothing(私は『無以下の無』と訳したいと思う。まだ邦訳はされていない。私の属する研究会で訳そうかという話も出たのだが、大部過ぎて歯が立たない著作である)に、漱石の『草枕』が引用されている。ジジェクによって、この小説の粗筋が簡単に紹介され、最後の山場の箇所が引用される。
まず『草枕』の粗筋は以下の通りである。30歳の画家の主人公が、ある温泉宿に宿泊し、宿の「若い奥様」の那美に出会う。彼女は出戻りであり、主人公はその彼女を、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする」女だと思うのである。またその女に「ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得た」と思う。その那美から主人公は自分の画を描いてほしいと頼まれるのだが、しかし彼は彼女には、何か絵にするには「足りないところがある」と思って、描かなかったのである。ある日、彼は那美と一緒に出掛けて、そこで「野武士」のような容貌の男と出会う。彼は満州に行くために「御金を(彼女に)貰いに来た」別れた夫であった。そのとき那美の顔に浮かんだ前夫に対する「憐れ」の感情を主人公は見て取るのである。そして主人公は「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と「那美さんの肩を叩きながら小声に云った」のである。「余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである」という文言で小説は終わる。
さてここからジジェクは、「パララックス」のシフトを見て取る。それはジジェク自身の説明に拠れば、対象物の積極的な特質において何の変化もないのに、そこに見られるシフトのことである。それはA. バディウの言う「最小の変化」でもあり、J. デリダの言う「差延」でもある(注1)。対象が、少ししか、あるいはまったく変化していないのに、大きな違いが出ることである。これはまた、そこに生じているのは、J. ラカンの言う対象aの加算または減法でもあり、対象への主体の欲望や視線が刻み込まれているということを表しているとジジェクは言う(p.616f.)。
これがパララックスである。ジジェクの2006年の著書『パララックス・ヴュー』によれば、「パララックスな見方は、そもそも総合や媒介が不可能なふたつのポイントの間を移動して、絶えず視点を変化させる」ことである(p.14)。先の小説で、那美さんは何も変わっていないけれども、主人公の彼女に対する見方が変わったのである。それでこれなら彼女の絵を描くことができると主人公は思う。
ここでジジェクは、生じた変化を遡行的に理解しようとしている。まさに那美さんは、絵の題材として最もふさわしい人になった。彼女との出会いは、画家としての主人公にとって必然的なものとなったのである。
こういった話の持っていき方は、いつものジジェクのパターンである。
ただ注意すべきは、ここで対象は変わらないと言いつつ、実は変わっているのである。ジジェクにとって、過去は変わり得るものである。解釈が変わることで、事後的に過去そのものも変わる。過去は創られる。主人公と那美さんは、この温泉宿で、出会うべくして、出会ったのである。
ここでジジェクはうまく、自分の主張を示す具体例を見付けてくることに成功したと思う。しかしこれは漱石論ではないし、ジジェクが『草枕』以外の漱石の小説を読み込んでいるという訳でもないだろうと思う。ただジジェクにとっては、ジジェクの自説を展開する上では都合が良いものをうまく見つけたということなのである。ジジェクはいつも、こんな風に、小説や映画から題材を取ってくる。
ここで余談になるが、ジジェクがなぜ『草枕』に辿り着いたのかということを考えてみたい。The Three-Cornered Worldは、A. ターニーが「草枕」の英訳に付けた題名である。ターニーは序文で「草枕は直訳すると The Grass Pillow になるが、それでは意味をなさないので、この作品のテーマと考えられる一部分を題名にした」と書いている。これは「三つの角の世界」という意訳が、「して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」という漱石の文言を踏まえたものである。四角四面の世界を三角にすると、居心地が良くなるという話である。
これが欧米人に受けたのだと思う。またとりわけジジェクは、三角形と四角形に拘る。例えばジジェクは、レヴィ=ストロースの料理の三角形について論じている(注2)。それでいて三角形が好きなのかと言えば、話は逆で、ヘーゲルのトリアーデを嫌って、二項の議論をする。つまりヘーゲルは、世間で良く正-反-合と言われるように、何でも三つに分けるのだが、ジジェクは、対立するふたつの項を無理やり結び付ける。またしばしばこの二項を組み合わせて、四角形にする(注3)。
さてこのパララックスの考え方も、ヘーゲルに拠っている。これは真理ではないという否定をずっと繰り返していると、ある時、ふと納得がいく瞬間が訪れて、これこそが真理だと思える。ヘーゲルはそれを真無限と言う。対象の方は変わっていないのに、認識が変わる。そしてそのことによって、実は対象もまた姿を変える。
この考えをジジェクと共有するのは、柄谷行人である。
先の『パララックス・ヴュー』を読むと、このパララックスという考え方そのものが、柄谷との意見の交流の上で彫琢されてきたものであることが分かる。そこでは柄谷の著書『トランスクリティーク カントとマルクス』が引用される。その影響は相当に大きいと言うべきである。
ここで柄谷の方は、パララックス概念を、次のふたつの議論から得ている。
ひとつは、『資本論』を読解する際に、価値の根拠を労働に置く労働価値説からではなく、商品の交換の現象に見られる裂け目から理解する考え方があり、するとそこでは、価値は交換から事後的に生まれるということが分かる。価値が予め実体的に商品に内在しているのではない。交換という作業があって、そのことを通じて価値が生み出されるのである。その理解がパララックスに繋がる。
もうひとつはカント理解に拠っている。カントは現象と物自体を峻別する。ヘーゲルは現象の世界の運動の屑として物自体を捉える(注4)。柄谷はそこで、カントに依拠しつつも、カントの理解を超えて、物自体を現象の世界の運動の挫折として捉える。つまり物自体を現象とは別の世界に実在するものとして考えるのではなく、現象の運動の中に見出す。それはジジェクの理解と似ている。
そしてこの考え方こそが、先に漱石の小説において扱われたパララックスである。
ここで柄谷は、ヘーゲルを読み込むことなく、それを毛嫌いし、カントに依拠するのだが、そのカントは従来のカント理解を超えて、ジジェクの言う意味でのヘーゲルに近い。
逆に、ジジェクはカント的な手法では限界があるとして、独特のヘーゲル読解をして、そこに依拠するのだが、しかし案外カント的な面が残っていると私は思う。
ふたりは結局同じことを言っている。柄谷はヘーゲルを排して、カントとマルクスを結び付け、ジジェクはヘーゲルに拘るという単純な話ではない。
しかしジジェクと柄谷は、手法は似ていても、その主張するところは大きく異なる。柄谷は、地域通貨とくじ引きによる代表制とアソシエーションを、未来社会において実現すべきだと主張する。ジジェクは資本主義が人類を滅亡させるのを防ぐことを強調する。柄谷はカント的な統制理念としての未来像を創る。ジジェクはユートピアに繋がりかねない未来像は拒否する。そして社会から排斥された人々に依拠する。この排除された人々こそがプロレタリアートであり、ジジェクは彼らに依拠して、資本主義社会を転覆しようと考えるのである。
さてジジェクは、この社会から排斥され、排除された人々に拘る。彼らを排泄物に例えることもある。ここでジジェクは、住井すゑの『橋のない川』を取り挙げる。
この『橋のない川』については、説明するまでもないだろう。この大部の小説は英訳されて、早くから世界中で知られている。
ジジェクは『厄介なる主体』という著書で、次の様に言う。「この部落民を題材に取ることで、日本のピラミッド状の身分制度全体が、如何に無意味なものなのかを暴露している」(p.337f.)。このように言った上で、住井の原初体験に触れている。それは彼女の親戚が、天皇が軍の演習で彼女の地元に来たときに、天皇の糞便を「まるで聖遺物の様にしまい込んだのを目撃」したのである。それは実際に、『橋のない川』の中で、主人公の体験として描かれている(第1巻の第8節にある)。
ジジェクはさらに、住井は次のような了解に達していると書く(原注18 p.433)。すなわち、王にはふたつの身体がある。つまり王は生身の身体を持ち、もうひとつは社会という身体を、王は体現している。そして王の排泄物は、社会という身体の排泄物、つまり部落民に対応する。この両者の構造的な相同性を、住井は良く理解しているのではないかとジジェクは言う。そしてこれをジジェクは、この排泄物=部落民を「低次の対象物の永遠なるイデア」と呼ぶ。
ここにジジェクの、最も高貴なものと低次なものが合体するという、無限判断論が隠されている。それはまた、例外において普遍が宿るという、具体的普遍論でもある。
このどちらもヘーゲルに由来する論理を使って、ジジェクは、社会から排斥されたものが、社会を転覆する主体となり得るという革命論を展開する。彼らこそが普遍を体現しているからである。
まず住井自身は、差別の大元は天皇制にあると思っている。これがこの本を彼女に書かせた所以である。小説の中では、「天皇はんは糞でも宝物にされなはるし、こちとらは・・・くさいの、汚いのときらわれる」と登場人物のひとりに言わせる。
住井の意図に即せば、この差別構造こそが問題とされるべきなのだが、ジジェクは、その点で話を深めることなく、自説を展開する。つまりここでジジェクは過激な転覆を考えている。それはこの排斥された人々に依拠するしかない。革命が明確に志向されている。
ジジェクは排斥された人々に依拠するが、しかしそこに具体的な像は見えてこない。一体、彼らとどう連携するのか。ジジェクは未来像を語らない。資本主義批判をするだけである。
ここでジジェクの主張を見るために、もうひとりの日本人を取り挙げる。彼もまた資本主義を批判する。ジジェクの近著『「進歩」を疑う』(原著2024=訳書2025)では、齋藤幸平が参照され、議論になっている。
齋藤幸平はすでに有名人と言って良いかもしれない。彼はアメリカの大学を出た後、ドイツに渡り、ベルリン自由大学で修士課程を終え、2014年にフンボルト大学で博士論文として、マルクス論を提出して学位を得ている。2017年にその論文の英訳が出版され、翌年ドイッチャー記念賞を受賞する。『大洪水の前に』は、それをさらに書き足して日本で出版したものである。柄谷行人と同じく、世界に通用する日本のマルクス主義者として、ジジェクが取り挙げている。
ジジェクは斎藤に対しては、根本的な批判をしている。
斎藤はマルクス主義の、際限なき成長という共産主義の展望への代替案として脱成長コミュニズムを提唱する。ここで斎藤が着目しているのは、マルクスによる資本主義の環境破壊への批判である。そして資本主義の制度の下では、環境に配慮した持続可能な成長はできないという結論に辿り着く。そこで経済活動を減速し、労働時間を短縮し、生活の質を高める。労働過程を民主化する。地域の協同組合や地方自治体主導の取り組みを奨励する。このように斎藤の主張を簡潔にまとめることができる。
しかしまず、資本主義は機敏で、変幻自在で、脱成長モデルでは敵わない。資本主義は人間の欲望を取り込み、変革を続ける。資本主義は健在であり続ける。
また、斎藤の思い描く未来は人々に快楽を約束してくれるのか。それはまるで仏教経済学であって、人びとの欲望を制約し、制限する。それは欲望から過剰性を取り除こうとする。しかしこの過剰性こそが人を人間的にするのではないか。精神性はそもそも無限を求めるのではないか。その傾向に反して、不必要な自己犠牲に人を駆り立てるのは、ソフトファシズムに他ならない。
ジジェクの斎藤批判を見ていると、まるでジジェクは資本主義を肯定しているかのようだ。しかし資本主義の利点は最大限尊重しないことには、それを超えて行かれない。多分ジジェクはそう考えているはずだ。だから資本主義の利点を十分考慮しないで、安易に代替案を出して、資本主義を乗り越えられると考えることを批判するのである。
しかしそのために、先に書いたように、資本主義を肯定しているのではないかとか、見方を変えれば、すでに資本主義は越えられると考えているのではないかといった批判がジジェクに対して寄せられる。
私もそこのところで、あえて明確な未来像を描かず、人の批判はするが、積極的な自説の説明をしないジジェクに対しては、不満を覚える。
以下、補足として、ジジェクの述べる日本についての印象をいくつか書く。
先に取り挙げた『「進歩」を疑う』には、齋藤幸平をはじめ、日本のことが話題になっている。分析はいささか物足りない。ジジェクは斎藤を若者のアイドルだと思っているのかも知れない。しかし齋藤は確かに最近はテレビにも出てるが、その主張が若い人に受け入れられているようには見えない。ジジェクは彼の考えが日本で支持されていると思っているようで、斎藤のことを「大人気の日本のエコマルクス主義者」と書いている。しかし日本にいれば、斎藤が若者の間のオピニオンリーダーではないことは明白だ。
その本では、日本人は脱政治的な生き方をしているとジジェクは言う。これは日本と韓国に共通していて、「その日何を着るか、夕食に何を食べるか、ゆったりとした週末をどう過ごすかといった、特に意味のない選択肢の間の選択」をする。若者は、人権とか、自由や戦争の脅威といった大きな問題にはほぼ全く関心を持っていないとも言われる。北朝鮮からの脅かしがあっても韓国の若者はそれを無視しているという具合だ(p.150f.)。2024年に書かれた著書で、私の感覚では、ちょっと前までの日本はそうだっかもしれないと思うのだが、昨今は中国の脅威が叫ばれて、必ずしもそうではないような気もする。
ひとつ考えるべきは、ジジェクは韓国で客員研究員をやっていたということだ。ジジェクは2013年から韓国の慶熙大客員教授に任用されている。そのときに釜山の教育センター「インディゴ書院」のスタッフによってなされたジジェクへのインタビューが本になっている。それが『ジジェク、革命を語る -不可能なことを求めよ-』である。
つまり彼は韓国と日本を似ていると思っているのかも知れない。残念ながら、日本には一度しか来ていない筈だ。それは1991年、東大で開かれた「ミシェル・フーコーの世紀」というシンポジウムに出席したときの話である。そのときの論文「フーコーとラカンにおける主体の概念」は『ミシェル・フーコーの世紀』という本に収められている。
そうすると、正直な感想を言えば、ジジェクは日本についてあまり知らないようだし、韓国と変わらないと思っているのではないか。
もうひとつ、日本に言及している著書『人権と国家』も使う。これは日本人のインタビュアーに答えたもので、当然日本に対して肯定的な言及が多い。ジジェクは結構サーヴィス精神旺盛だという気がする。今から20年前、2006年に、当時21歳の、岡崎玲子がスロヴェニアに押しかけてインタビューしたものである。岡崎が英語ですべてやり取りしたのか。彼女は、幼少時をアメリカで過ごし、高校で再びアメリカに行き、日本に戻って早稲田大学を出て、再々度アメリカに行き、弁護士になるという経歴の人である。
そこでジジェクは、岡崎に問われるままに、自由に日本観を語る。
ジジェクは、自分でも思い込みがあると言っているが、西洋人の持つステレオタイプの日本像を持っている。それは記号や中心がない、ポストモダンな日本というイメージである。
実はこの本にも、また先の『「進歩」を疑う』にも、A. コジェーブの日本人観が出てくる。ここでは「日本が真のヘーゲル的ポストモダン社会だと」という発言を取り挙げ、それに賛成すると言っている。また先の本では、コジェーブは、「歴史の終わり」、つまり至上の社会秩序を日本に見出したと言っている。
以下、ごく短いまとめをしたい。
今回、日本及び日本人についてジジェクが言及しているところを探したのだが、思ったよりも少ない。私たち日本の方は、ジジェクの本を30冊以上も翻訳をしているのに、これは片思いと言うべき状況なのか。
またジジェクは先の2冊で、武士道について言及している。それは欧米人が一般的に日本人に対して持つイメージ以上のものではない。しかし例えば私が思うに、刀は対象aではないだろうか。対象aは、人によっては異常な程に固執するものである。もちろんそれは人によってその程度は異なる。お金もまた対象aだが、それに拘る人と、頓着しない人とがいるだろう。私は居合を稽古しているのにもかかわらず、刀に対しては、後者である。しかし周りに、刀に対して執着する人をたくさん見ている。
実は対象aについて重要な観点は、それに愛着が強くあるということだけでなく、人を何かに駆り立てるということにある。刀の場合、それは妖刀と呼ばれる。時代劇のひとつの定番だが、その刀を持つと、異常な程に人を切りたくなるという話である。刀が人を狂わせて、殺人鬼にする。そういう話だ。
例えば徳川家康が祟りがあると恐れた妖刀村正を思い浮かべたら良い。それは「血を見ねば納まらぬ」と語り伝えられている(本間)。
こういう話をすれば、対象aの持つ二段階の特徴が良く伝わると思う。つまり人を虜にするという面と、人を狂わせるという面である。
またジジェクはバーチャルを論じるのは大好きだが、メタバースにジジェクは言及しているか。彼は新しいものが好きだが、必ずしも最先端のものに飛び付くというのでもない。日本では、メタバースは美少女に変身するというものが多いのだが、これは日本に人形浄瑠璃の伝統があるからだという説もある(注5)。金森修の『人形論』という名著もある。ジジェクが興味を持ちそうな話題はいくらでもある。
本稿の結論は、ジジェクに頼らず、面白いテーマがあれば、自分で探求して、文章にせよということだ。つまり私がジジェク風に日本を語ったら面白いと思う。天皇制、刀、人形浄瑠璃などといったテーマのほか、漫画やアニメも、日本発で、今や世界中に知られている。それらを論じてみたいと思っている。すでに、山田夏樹にはジジェク風のサブカルチャー論がある(山田)。そういうものも参考にしたい。
注
1ふたつの要素の間に、迂回、遅延、滞留、制限、中断などが見られ、それが強引に結び付けられることである。拙稿「デリダ理論を参照してジジェクのヘーゲル論を吟味する」『政経論叢』vol.92, no.3.4, 2024を参照せよ。このテーマもいずれ、この「公共空間X」で公表したいと思っている。
2 ジジェクの著書は『ラカンはこう読め!』である。また拙稿「身体の所有(5) 毒を喰らう、または消化と排泄」(2022/10/27)を参照せよ。
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9102
3 これが無限判断で、この無限判断こそ、ジジェクの主張の根本だと私は考えている。
4 拙稿「S. ジジェクを巡る思想家たち 第7回 カント論」( 2025/12/14)。
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14430
5 拙稿「身体の所有(7) メタバース、または共有する身体」(2022/12/14)。
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9332
参考文献
本間順治『日本刀』岩波書店、2019
金森修『人形論』平凡社、2018
柄谷行人『定本 柄谷行人集3 トランスクリティーク カントとマルクス』岩波書店、2004
齋藤幸平『大洪水の前に』堀之内出版、2019
住井すゑ『橋のない川(一)』新潮社、1981
山田夏樹『<私>の拡大と物語の現在 戦後日本の近現代文学、サブカルチャー』ひつじ書房、2025
ジジェク, S., 「フーコーとラカンにおける主体の概念」(1991)『ミシェル・フーコーの世紀』蓮實重彦他編、筑摩書房、1993
—– 『厄介なる主体』(1999)鈴木俊弘他訳、青土社、2005
—– 『人権と国家』(2006)岡崎玲子訳、インタビュー、集英社、2006
—– 『ラカンはこう読め!』(2006)鈴木晶訳、紀伊国屋書店、2008
—– 『パララックス・ヴュー』(2006)、山本耕一訳、作品社、2010
—– 『ジジェク、革命を語る -不可能なことを求めよ-』(2013)中山徹訳、青土社、2014
—– 『「進歩」を疑う なぜ私たちは発展しながら自滅へ向かうのか』(2024)、早川健治訳、NHK出版2025
Žižek, S., Less Than Nothing, Verso, 2012
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x14606,2026.02.14)
