高橋一行
ジジェクの著作『厄介なる主体』(1999)の第3章では、バリバール、ランシエール、バディウ、ラクラウの4人が取り挙げられる(注1)。すなわち、バリバールは、アルチュセールのお気に入りの弟子であったが、次第にアルチュセールから離れ、今やヘーゲルを取り挙げたりしている。またランシエールは、硬派なアルチュセール主義者だったが、のちに「粗暴にもアルチュセールから距離を取る」ようになったとされている。さらにラクラウは、アルチュセールの理論体系を脱構築的に焼き直している。そしてパディウは、アルチュセールと親密な関係を持ち、その考えは、アルチュセールのそれと「不気味にも類似してくる」と言われている。
続けて第4章では、次の様に書かれている。すなわちバリバールは、アンチ・ハーバーマス主義を掲げているハーバーマス主義者で、ランシエールは、アンチ・リオタール主義を掲げているリオタール主義者である。バディウは、アンチ・コミュニタリアンを掲げているコミュニタリアンであり、ラクラウは、アンチ・シュミット主義を掲げているシュミット主義者である。共通しているのは、自らが足場にしている論理の中にある自己矛盾に正面から向かい合っているのだとジジェクは言う。
さて今回から、この4人を取り挙げるが、最初は最も年長者のラクラウである(注2)。
前回書いたように、ラクラウがジジェクをプロデュースしたのである。ジジェクがグローバルに有名になる最初のきっかけはラクラウである。実際、1989年の『イデオロギーの崇高な対象』の謝辞にラクラウの名が挙がっている。すなわちラクラウとC. ムフに感謝し、また『ポスト・マルクス主義と政治』のお陰で、ラカンの概念装置をイデオロギー分析の道具として用いることができたとジジェクは書いている。
また、翌年ラクラウが出した『現代革命の新たな考察』の付録をジジェクが書く。これについては、このあとていねいに分析したい。ここでは両者は、こういう付き合いがあったと言っておく。のちに考えの違いがはっきりして、ふたりは別れることになる。
まずラクラウの伝記を簡単に書いておく。ラクラウ(1935 – 2014)は、アルゼンチン出身で、1969年にイギリスに亡命し、オックスフォード大学で学び、エセックス大学で博士号を取得する。その後同大学で長く教鞭を執った。
ラクラウはしばしば、従来のマルクス主義理論を批判的に継承し、A. グラムシのヘゲモニー論に依拠した政治理論を提唱したと言われているが、しかしそれはマルクス主義を復権したのか、それともそこから次第に離れてしまったのか。
以下に詳細に見ていくが、ジジェクとラクラウのやり取りにおいて、ジジェクは階級闘争を重視し、コミュニズムに固執する。それに対して、ラクラウは、マルクス主義者からポスト・マルクス主義者へ、そしてラディカルデモクラシー論者へと立場を変えているように見える。
このヘゲモニー理論がポイントとなる。それは、それまでマルクス主義においては支配的であった階級性から解放されて、社会のアイデンティティを固定化すべく繰り広げられるものである。
まず、ムフとの共著『ポスト・マルクス主義と政治――根源的民主主義のために』(1985)において、グラムシのヘゲモニー論が詳細に検討されて、自らの主張はそれに依拠しているということが明確に述べられる。そこでは歴史的必然という考え方はすでに批判されるべきであり、それに代わって、偶発性が重視される。プロレタリアートという普遍的な階級が特権的だと見做され、共産主義社会になれば、敵対性が消滅すると考えるのではなく、ラディカルで自由で複数的な民主主義のための闘争こそが常に求められる。そこにこのヘゲモニー概念が寄与する。
ここですでにラディカルデモクラシーという言葉が使われる。それはマルクス主義の中にあるものなのか、それをはみ出るものなのか。
さらにその5年後に出された著作を見ていく。すなわち『現代革命の新たな考察』(1990)を使う。先に書いたように、ジジェクが付録を書いている。この時点でジジェクとラクラウは近い考えなのだろうか。
そこでジジェクはまず、ラクラウのヘゲモニーは社会的敵対性という概念に結晶化されていると書く。それは象徴化され得ない裂け目を巡って構造化されている。ここで敵対性という概念を、不可能なものとしてのラカンの現実界に結び付ける。ここで現実界の概念が出ているということが重要である。そしてまたこれは、欲動の概念とセットになっている。
ここで欲望と欲動について簡単に書いておく。まず欲望は象徴界に属するもので、主体の奥底にある根源的な無意識の痕跡から生じる。それに対して欲動は、欲望と結び付くが、完全には充足し得ないものである。それは現実界と結び付く。ジジェクは簡潔に、「欲動たる現実界は、欲望することの作用因、駆動力である」と言う(例えば、『仮想化しきれない残余』1996, p.153)。
そしてラクラウの試みを、現実界の倫理に基づいた、幻想の横断という政治的プロジェクトの輪郭を、どのような理想によってもカバーしきれない不可能なトラウマ的核と直面する倫理と重ね合わせているとする。
結論は、「現実界の倫理に向けて」であり、それは熱狂的な諦念で終わる。諦念という不可能性の経験が熱狂を駆り立てると言うのである。
ここでジジェクはかなり深読みをしていないか。ラクラウを完全に自分の理論に近付けて論じている。
一体に、アルチュセール論には欲動概念は出てこない。ラクラウ論ではこの概念を重視する。しかしこれがラクラウ論なのか、つまりラクラウが意識しているものなのか、ラクラウの概念をジジェクが解釈するとこうなるというものなのか。
しかしここでは、現実界と欲動という言葉は使われても、まだその関係が明確ではない。のちにジジェクはラクラウをカント的であると言うのだが、ここでラクラウを十分に自分の主張に引き付けていて、露骨にラクラウをカント的だと非難はしていない。
ここでジジェクが、のちにラクラウや、このあと扱うバディウやデリダに対してカント的であると言う時にどういうことが考えられているか、整理しておく。
まず、物自体と現象が峻別されているというのがカント理論で、これに対応するラカン理論において、現実界と象徴界を明確に切り離す考え方を、ラカンにおけるカント的段階と言う。これがラカンの前期だとされる。ところがラカンは後期になると、現実界を象徴界の裂け目にあると考えるようになる。これはジジェクに言わせると、カント的段階からヘーゲル的段階に進んだということになる。ヘーゲルは物自体を現象の向こうにあると考えず、現象の運動の間隙に生ずると考える。
しばしば誤解されるように、ヘーゲルにおいてカントの物自体が批判されて、しかしそれがなくなるのではない。物自体は現象の世界の滓として残り、かつそれが現象界に作用を及ぼしている。これはヘーゲルの「論理学」の物自体論から来る。『小論理学』44節「物自体は空虚なものであり・・・蒸留の残滓」であるという文言を引用して、私はカントからヘーゲルへの物自体論の進展を描いている(高橋2021 4-1「物自体とは何か」)。これがジジェクの『性と頓挫する絶対』では、ラカンの現実界の理解に転回があったと言われる。
この辺りのことをさらに整理するために、高橋若木「ジジェクの転回」を読む(注3)。この論文によると、初期のジジェクは、ラクラウのヘゲモニー論に依拠して、欲望の倫理に支えられる民主主義論を主張していたが、1999年の『厄介なる主体』において、ラクラウを批判し、欲動のより不可解な主意性に焦点を当てるようになったと言う。コミュニズムという奇跡的変化を求め、それを貫徹する原理が欲動であるのだが、まさしくジジェクは、欲望を重視とする段階から、欲動を重要なものと見る段階に移ったのである。
ここから高橋若木は、欲動理論に基づくコミュニズム論を展開する。私自身もこのあとで、直接ジジェクに当たって、それをまとめる予定だが、まずは彼の言うことをここに紹介する。
すなわち、欲動の政治の具体的な名前はコミュニズムである。そこでは社会から排除された主体が論じられ、この主体に拠ってコミュニズムが論じられる。彼らを社会に包含しようというのではなく、彼らを排除した社会とは異なる社会を構築する。
ここに民主主義論とは決定的に異なった、ジジェクのコミュニズム論が完成する。
さて私は、この意見に半分賛成する。しかし半分しか賛成しないのは、初期のころからジジェクは、すでに書いたように、具体的普遍の概念を持っていて、それは論理的なレベルでは社会的に排除された人々によるコミュニズムという観点に繋がると思うからである。具体的普遍とは例外を意味するのである。ジジェクの処女作『もっとも崇高なヒステリー者』(1988)から具体的普遍の考え方が現れていることは、すでに前回書いた通りである。ただこの時はまだ、プロレタリアートの独裁だとか、社会から排除された人々ということは言われていない。しかし明らかにある時期からジジェクはこの考えを戦略的に強調するようになった。これは確かである。そのことを以って、ジジェクが転回したと言っても構わないと思う。ただこれも繰り返すが、論理的なレベルでは、すでに処女作からジジェクは一貫している。
高橋若木のまとめは簡潔でかつ適切である。ただ具体的普遍という概念に言及しない。それがないと、ラカンとコミュニズム論は結び付けられるが、それらはヘーゲルと結び付かず、そうなると、ジジェクの良さが十全に理解され得ない。
また、ジジェクが民主主義からコミュニズムへ転回したのかどうかは、それは戦略の問題だと思うのだが、しかしラカンの方は、こちらはもう確実に転回したとジジェクは考えている。先に書いたように、『性と頓挫する絶対』では、このことが強調されている。
ここで明確にジジェクがラクラウと決別する著作を挙げる。『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(2000)である。
この本は、J. バトラー、ラクラウ、ジジェクの3人が交互に互いの投げ掛けた問いを受けとめながら、反論していくという形式で書かれている。ここでバトラーは参照しない。ジジェクとラクラウの論理展開を見ていく。
ラクラウはここで、ジジェクのヘーゲル解釈を問題にする。ヘーゲルはどうしたって、汎論理主義なのに、ジジェクはそこを捉え損なっている。絶対精神という閉じた全体性は、偶然性を排除する(p.86ff.)。ラクラウは、ジジェクのヘーゲル理解がおかしい、ジジェクはヘーゲルが分かっていないと言い出す。
それに対してジジェクはここでも、具体的普遍と対立的規定といったいつもの言い分を繰り返す(p.129, p.134f., p.311f., p.413ff.)。あるいは「前提を措定する」と、これもお決まりの言い方に終始する(p.153, p.299f.)。そしてジジェクに言わせれば、これこそがヘーゲルの真意なのである。
またもうひとつの論点として、階級闘争という古典的なマルクス理解に基づくジジェクをラクラウは批判する。ラクラウがここで掲げるのはヘゲモニー概念であり、それは普遍と個別の二分法が乗り越えられていて、個別が普遍を表象できるようになっている。普遍性は個別性に依拠する(p.276f.)。
それに対して、ジジェクの具体的普遍は、例外的な特殊が普遍を担う。また偶発性が遡及的に自らを必然性へと止揚する。偶発性こそが根本であり、しかしラクラウはあくまでも、ヘーゲル理論においては、偶発性は必然性の外的な見せかけだと思っている。
両者のヘーゲル解釈の違いが、両者の戦略の違いに帰結する。
続けて、ラクラウの2005年の『ポピュリズムの理性』を読む。ラクラウはこの時点で、左派ポピュリズムに集合的アイデンティティ形成の本性を見出す。それは政治的なものを構築するひとつの仕方である。
さてこの本は最終章で、結論をまとめたあとで、ジジェクとランシエールが批判される。ジジェクに対しては、ジジェクはラクラウをまったく以って誤解していると非難し、ジジェクの反資本主義闘争は何ら具体性がない、ジジェクは、ジジェクの考えるシステムが自ずと成果を出すまで、ただ単に待っているだけの政治的ニヒリズムであると言う。
このジジェクに対する批判は、結構本質的なものである。私はこのあとで、ジジェクを擁護するが、しかしジジェクの言い方には、結構シニシズムが感じられ、また何も具体的な行為をせずに、悟りの境地を求めているのかと言いたくなるようなところもあるので、それをそのまま読み取ると、ラクラウの批判は適切なような気がする。
結局ここでラクラウは、ジジェクはラカンよりもヘーゲルに近く、自分自身はヘーゲルよりもラカンに近いと言っている。しかしジジェクにとっては、ラカンとヘーゲルは同じである。
もう少し具体的にジジェクのラクラウ批判と、ラクラウのそれに対する再批判を見てみよう。まずジジェクはラクラウを次のように見ている。
まず、ラクラウはカント主義であるとジジェクは言う。それから、ラクラウは社会変革を断念しているとジジェクは批判している。また諦念の気持ちで資本主義を容認しているとも言う。そのように、これはラクラウが、ジジェクがこのように自分を非難していると言っている。
この内、最初のカント主義云々ということは、これは先に書いたように、ジジェクはバディウにも後期デリダにも向けられているもので、要するに、ヘーゲルとラカンを結び付けて理解しないと、皆こうなるのである。
またそのあとの批判については、これはそのまま今度はラクラウからジジェクに向けられる。つまり社会変革を断念し、資本主義を容認しているのはジジェクではないかとラクラウは考えている。
実際、ジジェクの反資本主義闘争が具体的でない。何の事例も与えてくれないとラクラウは批判する。ジジェクの態度は、「火星人を待ちながら」というものではないかとラクラウは言う。
ラクラウの見るところでは、ジジェクは、システム全体はそれ自身の法則で動くので、その法則の進展を受動的に待つだけの政治的ニヒリズムである。またジジェクはヘゲモニーの概念を拒否するので、袋小路に入ってしまうのである。
またジジェクは、古典的左翼さながらに、階級に固執している。それに対してラクラウは、ラディカルデモクラシー論者として、人民に期待している。
さてラクラウはそのようにジジェクを批判したあとで、今や階級闘争を超えて、人民の集合的アイデンティティと社会的敵対性について新たに概念化することが必要だとしている。
以上がラクラウのジジェク批判である。
さて私の見るところ、事実として、ジジェクの革命観がこの時点では具体的ではないのは確かである。ここでジジェクの階級概念は、例外としての具体的普遍であるということは明記されているが、しかし具体性を持たないのである。
ここでジジェク自身の積極的な革命観を書く。『ポストモダンの共産主義』(2009)を使う。
この本で明確にされているのは、ラクラウのヘゲモニーに対応する、ジジェクの敵対性概念である。この敵対性は、具体的には4つある。すなわち、①環境破壊の危機、②知的所有権に関連した私的財産の問題、③遺伝子工学などの科学技術に纏わる社会的問題、④新しい形態のアパルトヘイトである。
この内の最初の3つは、現代社会におけるコモンズの問題である。
このことは、私が「所有論」4部作で、現代社会を考える上で、一貫して重要な観点であると見做してきたことである。つまり資本主義社会は私的所有に基づき、社会主義では国家所有に基づくのだが、コミュニズムは私的所有と共有が、ないしは所有することと所有しないこととが同時に成り立つコモンズに基づくのである。それは高度に発達した資本主義社会が、情報化社会と呼ばれる社会になって、そこで実現されたものである(注4)。また知的生産物に限らず、自然も科学技術もコモンズである。
そしてそこにおいては、搾取が問題にはならない。それはあくまで労働者が私的所有しているものを資本家に取られてしまったという話であり、しかし現代の情報化社会においては、生産物は十分あり、ただしかし、それが偏っている。つまりグローバル化したIT産業などの一部の人たちが、その富を独占している。その偏りをどう是正するかということが問題になる。そしてこの偏りは、マルクスの考えた搾取よりもたちが悪いのである。
因みにここで、A. ネグリ批判がなされる。ネグリは、情報化社会の中で、労働者が教育されることが重要だと考えていた。しかし高度に発達した資本主義に適応するよう、労働者を教育することが本来必要なことなのか。労働者はこのままですでに解放の主体なのではないのか。
さてジジェクが最も重要だと見做すのは、最後の問題、つまり社会に包摂されず、そこから排除される人々の問題である。それは貧困層であったり、スラム街の住民だったり、移民であったりと、いずれにしても新しい社会に適応しない人々のことである。彼らを社会的政治的空間に入れること。排除されるものの普遍性の次元に如何にして私たちは入っていかれるのか。
ここに具体的普遍の概念が使われていることは容易に見て取れる。社会から排除された例外的な存在こそ、社会の普遍性を担うのである。この人たちを主体とするのがコミュニズムである。
ここで議会制民主主義は無力であるとジジェクは考える。それは民衆の直接政治の自己組織化とは相容れない。議会制民主主義は民衆の受け身化を伴う。政治を私的利益の交渉事に還元してしまう。
ここで3つのプロレタリアートの連帯が求められている。すなわちリベラルで多文化主義的な知的労働者、ポピュリズム的原理主義の昔ながらの労働者、過激なイデオロギーを持つ社会的追放者。今の社会はこの3つの集団で、完全に分断されている。この3つ目の集団を核にして、プロレタリアートは連帯できないか。
ここで3つの集団の連帯を求めるのも、排除された人々に依拠するのも、どちらも現実的ではないように思われる。現実は右派ポピュリズムの世界的な興隆といった事態に陥っているからだ。しかし注意すべきは、ジジェクは選挙を通じて改革をしようとは考えていないということである。選挙を否定する訳ではないが、混乱に乗じた暴力革命など、状況に応じて必要なことは何でもすべきであると考えているはずである。
さらにジジェクは私たちに絶望せよと言う(『絶望する勇気』(2017)、高橋一行2022第3章)。そして私たちに必要なのは、新しい運動を起こすよりも、現在支配的な運動を中断させることであると言う。歴史的な発展の持つ強制力は、放っておけば大惨事へ、破滅へと向かっている。これを食い止めるのは、純粋な主意主義、歴史的必然に対抗する自由意志だけだ。
ここでテロは肯定される。行為を起こさせる確信は、知識ではなく、信じることだ。大惨事について十分な知識を持った時点ではもう遅いのである。真実の行為は、知識の空白を埋める。
またテロも具体的普遍の論理である。つまりテロという例外的な運動が現状変革に必要だと見做される。
先に高橋若木を参照して書いたように、奇跡的変化を求め、それを貫徹する原理がコミュニズムの欲動である。
さてここまでくると、大分具体的になったと言うべきなのか、それともまだ抽象的過ぎると考えるべきか。つまりこれは、チャンスを待てということか。しかしチャンスが来ない内はどうするのか。ただただ待つしかないのか。
最後にもうひとつの論文と著作を見たい。まず「初めからやりなおすには」(『共産主義の理念』2010所収)を読む。
ここにはジジェクの革命論がまとまっている。上記の4つの敵対性もここに繰り返されている。ここで言われているのは、共産主義(民主主義もそうだ)は統制的理念ではないということである。現実の国家に働き掛けて、その国家を非国家的に機能させることが必要だ。
必要な運動を、資本主義と国家というふたつの観点から考える。結論は、資本主義に焦点を絞ることである。現在の資本主義は、ダイナミックに既存の秩序を破壊し、それを再秩序化する。これが敵であるということを認識すべきである。
一方で、国家に対しては、「国家から距離を取ることに引き籠もるのではなく、国家そのものを非国家的な様式の下で機能させること」が重要であるとジジェクは考える(p.371)。革命的暴力の目的は、国家権力を引き継ぐことではなく、それを変革し、その機能、土台とその関係を根底的に変えることである。
さらにここで重要なのは、国家を利用するということと並んで、偶然性を活用することである。これが『パンデミック論』(2020)に繋がる。
ジジェクはコロナ禍が起きたときにすぐに本を書いている。そこでジジェクが提唱するのは、戦時共産主義である。実際、多くの国でベーシック・インカムは配られたのである。不可能なことが可能になったのである。危機においては、私たちは皆、社会主義者であるとジジェクは言う。コロナパンデミックの下、一種の共産主義は実現されたのである。
一部の論者は、コロナ禍を利用して、国家権力が人々の自由を抑圧していると言っていたが、ジジェクはそのような人々を馬鹿にする。私たちは命の危険に曝されていたのである。こういうときは国家に従うべきである。そうして国家の機能を変えていくことができるか、チャンスを伺うべきである。
これで大分具体的にジジェクの戦略が見えてきたのではないだろうか。
注1
今回使うジジェクの著作は以下の通り。
『もっとも崇高なヒステリー者 – ラカンと読むヘーゲル -』(1988)、鈴木國文他訳、みすず書房, 2016
『イデオロギーの崇高な対象』(1989)、鈴木晶訳、河出書房, 2000
『仮想化しきれない残余』(1996)、松浦俊輔訳、青土社、1997
『厄介なる主体 – 政治的存在論の空虚な中心 – 1.2』(1999)、鈴木俊弘他訳、青土社, 2005, 2007
『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』(2009)、栗原百代訳、筑摩書房、2010
「初めからやりなおすには」『共産主義の理念』(2010)、ジジェク他編、長原豊監訳、水声社、2012
『絶望する勇気 グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム』(2017)、中山徹他訳、青土社、2018
『性と頓挫する絶対 弁証法的唯物論のトポロジー』(2020)、中山徹他訳、青土社、2021
『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウィルス』(2020)、中林敦子訳、Pヴァイン、2020
注2
ラクラウの著作は次の通り。
ムフとの共著『ポスト・マルクス主義と政治――根源的民主主義のために』(1985)、山崎カオル他訳、大村書店、2000
『現代革命の新たな考察』(1990)、山本圭訳、法政大学出版、2014
バトラー、ジジェクとの共著『偶発性・ヘゲモニー・普遍性 新しい対抗政治への対話』(2000)、竹村和子他訳、青土社、2002
『ポピュリズムの理性』(2005)、澤里岳史他訳、明石書店、2018
注3
高橋若木「ジジェクの転回」『社会思想史研究』No.46, 2022
注4
拙著は次の通り。
『所有論』御茶の水書房2010
『知的所有論』御茶の水書房2013
『他者の所有』御茶の水書房2014
『所有しないということ』御茶の水書房2017
『脱資本主義 S. ジジェクのヘーゲル解釈を手がかりに』社会評論社、2022
(たかはしかずゆき 哲学者)
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