高橋一行
アルチュセールは1960年代、実存主義を唱えるサルトルの主体性理論を批判し、構造主義によるマルクス解釈を打ち出して、華々しくフランスの思想界に登場した。またこのあと本シリーズで取り挙げるバディウやランシエールなどは、アルチュセールの筋になる。さらにジジェクは、これは前回書いたように、アルチュセールの教え子であったミレールの下で博士号を取得しているから、アルチュセールの孫弟子であると言える。アルチュセールは、弟子のミレールを介して、一時期はラカンと交流もあった。さらに彼はフーコーやデリダにも影響を与えている。
しかし間もなくアルチュセールは、彼ら弟子たちから一斉に批判されることになる。とりわけ、ジジェクからは痛烈に批判されることになる。これが今回の拙稿のテーマである。一時期一世を風靡したかのように思われたその理論は、たちまちの内に顧みられることが少なくなってしまったのである。時代はいつの間にか、アルチュセール以降と呼ぶべき、つまりこれも前回書いたように、ドゥルーズ、フーコー、デリダの時代になり、さらにはバディウ、ランシエールやジジェクの時代となっていく。
一方、アルチュセールよりもはるかに年上のラカンは、弟子のミレールの尽力もあり、ジジェクの活躍も功を奏して、今日も大きな影響力を持っている。歴史の中に消えてしまったアルチュセールと対照的である。そもそも、アルチュセールはラカン理論から多くを学んで自説に取り込んだが、しかしラカンの方はアルチュセールの影響を最初から受けていないようにも思える。つまり影響を受けた人たちからはのちに厳しく批判され、交流はあったが、結局影響を受けることがなかった人もいるということになる。
現在アルチュセールに対しては、些か厳しい評価が下されているのだけれども、しかしその主張のどこが批判されたのかということを見ると、その限界があらためて明らかになり、それは有益な作業であると私は思う。以下、ジジェクのアルチュセール批判を見ていく。
まずアルチュセールの伝記から書いていく。
アルチュセールは、1918年にアルジェリアで生まれる。そののち、高校を卒業するまではリヨンで過ごしている。1939年に高等師範学校に入学したのちに、兵役召集され、まもなく捕虜になり、以降5年間の虜囚生活を送る。帰国して高等師範学校に復学し、1947年に修士論文(DES)として、ヘーゲル論を提出。高等師範学校の教師として採用され、以後弟子を育てながら、著作物を出していく。
代表作は、『マルクスのために』『資本論を読む』で、それらを1965年に上梓する。またその前年には、「精神分析講義」があり、『フロイトとラカン』も執筆している。「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」は1970年に発表されている。
1980年に、妻エレーヌを絞殺。精神鑑定後、心神喪失による免訴となり、その10年後にアルチュセールは心不全により死去する。
以上がその伝記で、次に簡潔にアルチュセールの主張をまとめたい。
まずアルチュセールは、科学と哲学を峻別する。そしてマルクスの『資本論』は科学的な理論書であると結論付ける。つまりマルクスの思想は、ヘーゲルの持つ哲学的な発想から如何に脱し得たかというところで成立したと考えている。もう少し正確に言えば、マルクスの著作には初期と後期とで断絶があり、『資本論』は断絶後に書かれたもので、ここでは科学と哲学の峻別がされて、マルクスの著作は科学であるとされる。その上で、そこに重層的決定の理論が見られる。それは、社会の一元的な規定原理というものは想定し得ないとするのである。ここではアルチュセールの「矛盾と重層的決定」(『マルクスのために』)を使う(注1)。
この重層的決定という概念は、もともとフロイトのものである。それをアルチュセールはマルクスに結び付ける。そしてそのことによって、マルクスをヘーゲルから切り離す。
ここを詳しく説明する必要がある。つまりアルチュセールは、最初はヘーゲル研究から出発した。そしてヘーゲルの理論においてキーワードのひとつとなる矛盾概念に至る。矛盾は社会全体の構造と切り離すことができず、それは「社会構成体の様々な水準と様々な審級によって構成されるものである」。すると「矛盾は、原理的に言って重層的に決定されると言うことができる」ということになる(p.165)。
しかしヘーゲルの矛盾は実は重層的に決定されていないとアルチュセールは考える。ヘーゲルにおいては、矛盾は重層的決定のように見えるが、それは実際には単一の概念の中で考えられている。それは内的原理の単一性によって可能になるものなのである(p.168)。
アルチュセールはそこで、このヘーゲル的な矛盾概念を拒否する。重層的決定とは、様々な要因が複合的に絡まり合った歴史的状況の、その複雑さを示すものである。これをアルチュセールは、「例外的な状況の例外性」という表現を使って言い表す。そして「我々は常に例外の中にいる」と言うのである(p.171)。
しかしジジェクが批判するのはまさにその点であり、ジジェクによれば、重層的決定はまさにヘーゲル的なのである。このことは本稿でこののちに詳述する。問題はヘーゲルの解釈に係っている。
さらにアルチュセールは次の様に考えている。先にも言ったように、マルクスの理論は科学に他ならないということが前提になる。そこにおいて再生産の過程は、システムとして確立される。そのシステムとはまさしく国家のことであり、それは暴力装置、つまり軍事、警察といった抑圧装置を持つ。そこには人々が生産関係に入っていくための、宗教、学校、家族、法、政治制度、情報、文化的慣行といったものが国家の名のもとにある。そのようなシステムが、国家のイデオロギー装置である。
このイデオロギーに積極的な役割が与えられる。それは人間が主体として既存の社会関係に関わるための保証を与えているものである。人々は他者から呼び掛けられる。それはイデオロギーに参加することに他ならない。このイデオロギーの呼び掛けという概念が、アルチュセールの思想の第二番目に挙げるべきものである。ここは「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」(『再生産について』)を要約する。
ジジェクのアルチュセール批判は、このふたつに向けられる。ここで私は、アルチュセールの思想の全体像を描くこと目的としない。それは膨大なものがあり、すでに多くの解説書も出ている。それに対して、私が本稿で目指すのは、ジジェクのアルチュセール批判がどのようなものなのかということである。またそれが現代において、どのような意味を持つのかということだけを書いていく。
さて先にも言ったように、アルチュセールはヘーゲルをまったく評価しない。ジジェクはその点を批判する。アルチュセールはていねいにヘーゲルを除去して、マルクスとラカンを結び付けた。しかしジジェクはそのアルチュセールの理論の核心がまさにヘーゲル的であると言う。
具体的にジジェクの批判を見ていく(注2)。まず、ジジェクの2冊目の著作である『イデオロギーの崇高な対象』(1989)の「はじめに」において、アルチュセールとラカンの論争が極めて重要なものだとされている。そしてそれなのになぜアルチュセール派が突然姿を消したのかとジジェクは問うのである。さらにアルチュセールの理論には、即座に忘れられ、抑圧されねばならない外傷的核があるかのようだと言う。
それは主体の問題だとジジェクは考えている。そしてその問題を考えるためにも、私たちはラカンを通じてヘーゲルを読むという作業が求められるとしている。ここにジジェクの基本的な立場が出ている。
まずもう一度、重層的決定理論とイデオロギーの呼び掛け理論を見る。これに対するジジェクの批判は次の3点から成る。
まず『為すところを知らざればなり』(1991)において、重層的決定は、ヘーゲルの具体的普遍であると言われる(p.73)。つまりアルチュセールの重層的決定は、反ヘーゲル的なものとされているが、これはまさしくヘーゲル的である。それは「ある全体性がその普遍的な構造化の原理を具現する特殊な要素を常に包含している」からである(同)。ジジェクにおいて、普遍とはそれ自体特殊である。それは全体ではないということを把握することで、この特殊に到達するのであるとされている。普遍的な類はひとつの特殊な種しか持っていないというのが、ヘーゲル弁証法の特徴なのだとジジェクは言う(p.70)。
これは言いかえれば、「構造のある部分が総体を包み込む」ということである。ここでマルクスが参照される。マルクスはこのヘーゲル理論を使っている。マルクスの理論において、生産は自分自身の類、つまり生産、分配、交換、消費の全体性を包含する(p.74)。これは単に全体の中で、諸部分が重層的な構造をしているということだけでなく、また一部分が全体を体現するということでもなく、例外としての一部分がまさしくその全体であるということである。
次に『否定的なもののもとへの滞留』(1993)だと、この重層的決定の説明に、ヘーゲルの根拠論が使われる。
重層的決定とは、ジジェクのまとめでは、「決定付ける審級それ自体が、自らがその決定の役割を果たす場所である諸関係の網の目総体によって重層決定されている」ということである(p.268ff.)。
その際にアルチュセールは、事象の因果性に代えて、表現的因果性という考え方を出す。その内的本質が多様な具体的形態の内に表現されている。これがまさにジジェクに言わせれば、ヘーゲルの考えである。精神的本質は、様々な社会的レベル、つまり宗教、政治、法において現れる。表現、連鎖、重層的決定というトリアーデが使われる。
ここにおいて、決定的審級それ自体が、根拠付けられるもの全体によって、その根拠が遡及的に決定されている。これはまさしくヘーゲルの言う根拠である。
ヘーゲルの本質論においては、根本的敵対関係が根拠と条件の間の関係、すなわち内的本質とその本質の実現を可能にする外的条件の敵対関係に集約される。
ジジェクのアルチュセール批判の3点目は、主体理論に関するものである。主体は重層的決定から出てくる。それは空虚な主体である。この観点がアルチュセールにおいては極めて不十分である。
アルチュセール自身は、この主体について次の様に考えている。
まず呼び掛けとは、先に書いたように、イデオロギー的国家装置によって個人に対してなされる。国家権力がイデオロギー的国家装置を使って、個人を主体に転換させる作用である。
このイデオロギー的呼び掛けは、遡行的なイリュージョンであるとジジェクは言う(p.145f.)。つまり主体は自分自身をイデオロギー的な呼び掛けの内に再認する。その時に、主体は自分がそこにいる自らの姿を認める、その内容を、まさに再認という形式的な行為そのものが創造するのである。その際に主体は、そのことを見過ごしている。主体はそのことに気付いていないのである。これがジジェクの言う、遡行的なイリュージョンである。
主体の象徴的な同一化は、ある先取り的な性格がある。一般に構造主義的な理解では、象徴的秩序は客観的な構造であって、主体はその中に予め決められた場所を占め、そこを満たすものである。この静的な秩序観に対して、ジジェクは、主体は先走り的主体的身振りによって、私たちがそうであるところのものになると考える(p.150)。
主体はこのようにして生成する。アルチュセールは、主体はイデオロギー的再認の結果であると考えている。しかしそのように言うだけでは不十分であり、主体は遡行的に自らをイデオロギー的な呼び掛けの内に再認するというべきである。主体はかくして、ループを形成する。
このことは次のように言い換えられる。『厄介なる主体』(1999)には、ジジェクの主体論が展開される。
まずイデオロギーとしての呼び掛けは、強いられた選択である。主体は当然選ばれるべきものを、自ら選ぶという行為を通じて生成する。主体は呼び掛けられる通りのあり方を、すでに呼び掛けられる前からそうであったと認めている。例えばある犯罪行為をして、その弁護をするとき、自分自身が責任を取り得る自由な主体であることを前提する。しかしその前提は、結果から創り出されたものである。あらゆるコンテクストはすでに遡及的に構成されている。人はそのループの中にいる。このループの中にいるということを自覚することが、このループの悪循環を回避する唯一の道である(上 p.35)。
ここでアルチュセールが慎重にヘーゲル的なものを取り除いて創り上げた概念を、それこそがまさにヘーゲル的だとジジェクは考えるのである。
さて私の関心は、アルチュセールそのものになく、ジジェクにある。ジジェクがアルチュセールをどのように批判するか。そこに私の問題意識があり、その際にジジェクはヘーゲル論理学を使うのである。1993年の時点で、ジジェクがヘーゲルの夥しい著作の中で、最も上手に活用するのは『大論理学』なのである。そしてこのヘーゲル論理学が最も適切にアルチュセールの説を基礎付けるのである。
もちろん問題なのは、アルチュセールの説の妥当性であって、それがヘーゲルに基礎付けられるのか、またはアルチュセール本人が言っているように、ヘーゲルを拒否したところに成り立つものであるのかということは、どうでも良いように思われるかもしれない。
しかしジジェクは、自らの理論をヘーゲルと結び付けることで一歩先に行く。ヘーゲルが『大論理学』で展開したいくつかのアイデアを、ジジェクは活用する。
それは具体的には、個別的普遍は特殊であり、例外であるということであり、主体は空であるということである。
これはジジェクの処女作(1988)から、近年の著作においてまで、一貫して言われていることである。ジジェクの博士論文において、アルチュセールという名前はほとんど出てこないが、具体的普遍の概念は詳述されている。「主体が存在するのは、ただ普遍的なものと個別特異なものとの間の、この不調和においてのみ、つまりこのふたつの出会い損ねられた出会いにおいてのみである。・・・余分な個別特異的なものが個別特異的なものの普遍的なものに対する欠如、空、欠損を埋めるのである。余剰のもの、過剰なものは欠如の出現の形式である。唯一ここにおいてのみ、主体の定式を導入することが正当となる」(『もっとも崇高なヒステリー者』p.76f.)。
それが今回、すでに書いたことだが、ジジェクの著作の2冊目になると、アルチュセールがひとつの主題になっている。そしてしばらくは、ジジェクの本の中では、アルチュセールは重要な位置付けをされて取り挙げられている。それがいつの間にか、アルチュセールという名前はあまり言及されることがなくなる。
2020年の『性と頓挫する絶対』においては、これはデリダの考えであると断った上で、このことは、「普遍的な類が、その類に属する特定の個別的で偶発的な多数の種の中に普遍的な類自身を見出す、という論理」であると言っている(p.514)。
ここでは具体的普遍の説明をする際に、「デリダの考え」という言葉が出てくる。つまりこの具体的普遍の考え方は、アルチュセール批判に用いられるだけでなく、本シリーズのこのあとで展開するが、アルチュセール以後の思想家、それはラクラウに対しても、バディウやドゥルーズやデリダに対しても使われているのである。
以下、ヘーゲルの説明をすべきである。ヘーゲル論理学における具体的普遍については、拙著『脱資本主義』1-5にも説明があるが、ここでは次の論文を見てほしいと思う。拙著「デリダ理論を参照してジジェクのヘーゲル論を吟味する」である。ここで具体的普遍と対立的規定がジジェクにとって同じものであることが、かつそのどちらもがヘーゲル論理学に由来するものであるということが分かる(注3)。
また先に、ヘーゲルの根拠論を取り挙げた。こののちジジェクは根拠論に言及しなくなる。代わりに対立的規定が使われる。そしてこのことと先の具体的普遍は同じ論理であるから、この3者どれもが同じ論理であるとジジェクは考えている。
結論として次のようなことが言えるだろう。アルチュセールは、一般的かつ通俗的なヘーゲルから離れ、ジジェクはジジェクが解釈するヘーゲル像へ、アルチュセールを引き戻す。
アルチュセールは構造主義的な手法を使っていると思われるが、ラカンを活用することで、そこを脱している。ただそれはまだ不十分なものであって、ジジェクはそのことを指摘する。つまりジジェクにとって、ヘーゲルの論理とラカンのそれは同じものなのだが、アルチュセールはそこを理解していない。
さらに前回参照したフルリの『現実界に向かって』をここでも使う(注4)。ミレールは、アルチュセールの構造主義とラカンの主体の理論の両立を可能にする体制を提示したとフルリは言う(p.25)。一般的にはこのように思われている。しかしジジェクは、早い内からかなりの程度ラカンを吸収しようとしたアルチュセールの努力を認めているのではないか。その理解が不十分であったのだが。
また一般にラカンとアルチュセールはどちらも歴史を軽んじて、構造を重視しているかのように考えられているが、ラカンの場合は、70年代後半に、再度歴史を重視し始めたと指摘する(『厄介なる主体』p.297f.)。ラカン理論を構造主義と見なすのではなく、そこを超えるものと見ている。そしてアルチュセールにもまた、以下に述べるように、歴史観の変化がある。
ここで、晩年のアルチュセールの偶然論を参照する。重層的決定理論は、やがてその例外を強調するようになる。そもそもアルチュセールに拠れば、マルクス理論は、マルクスが出会った個人的な偶然の出会いによって創られたのである。要するに、ここでもヘーゲル的な(と通常考えられている)目的論的な、かつ必然性を目指す歴史観が拒否されて、不確定性を重視したいということなのである。
このことは、1982年の「出会いの唯物論の地下水脈」という論文で書かれている。アルチュセールはそこで「この唯物論を差し当り出会いの唯物論と呼んでおこう。それはすなわち不確定なもの、偶然性の唯物論で」あると書いている(p.500)。これは歴史を拒否するというのではなく、偶然性という観点の下で、歴史を考え直そうということなのではないか。とすると、ますますアルチュセールはジジェクに近付いていると言い得るのではないか(注5)。
補足的に以下のことを付け加える。まずアルチュセールの修士論文は翻訳されている。「G.W.F.ヘーゲルの思考における内容について」(1947)という論文で、『精神現象学』や『エンチュクロペディー』について、満遍なくヘーゲル理論が紹介されていて、オリジナリティはないが、しかしその理解は正確である。アルチュセールのヘーゲル理解とその拒否という軌跡が、一時期のフランス思想を形作り、その影響下でジジェクが自説を展開し得たのではないか(注6)。
さて次回取挙げるのはラクラウである。今回のアルチュセールは結局ヘーゲル論に行き着く。次回は、ラクラウと比較することによって、ジジェクの具体的な革命観を話したい。
注1
アルチュセールは以下の2冊。
『マルクスのために』河野健二他訳、平凡社、1994
『再生産について(上)(下)』西川長夫他訳、平凡社、2010
注2
今回使ったジジェクの著作は次の通り。
『もっとも崇高なヒステリー者 – ラカンと読むヘーゲル -』鈴木國文他訳、みすず書房, 2016
『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳、河出書房, 2000
『為すところを知らざればなり』鈴木一策訳、みすず書房, 1996
『否定的なもののもとへの滞留』酒井隆他訳、筑摩書房、2006
『厄介なる主体 – 政治的存在論の空虚な中心 – 1.2』鈴木俊弘他訳、青土社, 2005, 2007
『性と頓挫する絶対 弁証法的唯物論のトポロジー』中山徹他訳、青土社、2021
注3
「デリダ理論を参照してジジェクのヘーゲル論を吟味する」『明治大学・政経論叢』Vol.92, No.3・4, 2024 http://hdl.handle.net/10291/0002000467
注4
N. フルリ『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』松本卓也訳、人文書院、2020
注5
「出会いの唯物論の地下水脈」『哲学・政治著作集I』市田良彦他訳、藤原書店、1999
なお、このことについては、植村邦彦から示唆を受けた。「重層的決定と偶然性 あるいはアルチュセールの孤独」『関西大学・経済論集』Vol.54, No.3・4, 2004
注6
「G.W.F.ヘーゲルの思考における内容について」『哲学・政治著作集I』市田良彦他訳、藤原書店、1999
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x14033,2025.08.29)