S. ジジェクを巡る思想家たち 第1回 見通し

高橋一行

 
   S. ジジェクはまず、J. ラカンの解釈者として知られている。これは確かにジジェクの第一の功績として挙げるべきものである。またそのラカン解釈の上で、ジジェクはヘーゲルを独自に読み込む。ラカンの中にヘーゲルを読み取ると言っても良いし、ヘーゲルの中にラカンを見出すという風に表現しても良いだろう。そして私は今まで、そのジジェクのヘーゲル読解の是非について、いくつかの論文を書いてきた(注1)。
   さて、ジジェクはフランスを中心とした現代思想家たちに対して、様々な批判を繰り広げている。ジジェクのラカン受容とヘーゲル解釈を前提にして、本稿ではラカンとヘーゲル以外の様々な思想家をジジェクがどう批判するのか、それらを追うことで、ジジェクの全体像を示したいと思う。またジジェク思想の全貌が明らかになるとともに、その思想の面白さが伝えられると思う。まずは、L. アルチュセール、E. ラクラウ、A. バディウ、J. ランシエール、É. バリバールを取り挙げる。さらにそのあと、E. レヴィナス、G. ドゥルーズ、M. フーコー、J. デリダ、C. マラブーにも触れたい。
   ここで私事を少しばかり書きたい。まず、この6月まで連載していた「老いの解釈学」は一旦休むことにしたい。この間の経緯は以下の通りである。
   私は2024年9月から2025年2月までリヨンに滞在し、そこでジジェクがフランスでどう評価されているかということを調べていた。またジジェクが言及するフランスの思想家についても、できるだけ資料を集めたいと思っていた。しかし渡仏前に身体を壊し、不安を抱えてひとり暮らしを始め、そこでは知り合いがまったくいないし、医療機関に近付く術も知らず、ヨーロッパの寒く、暗い冬を過ごしていたのである。そこで書き始めたのが、この老いというテーマである。まず私はレヴィナスとマラブーを読んだ。もちろんこのふたりとジジェクとの関係を求めての話である。しかしそこに展開されている彼らの主張を、老いという観点で読んでいくと、妙に生々しくその思想が理解できるように思えてきたのである。彼らが描いているのは、この老いの世界なのではないかと思い、私自身の老いの自覚とともに、このふたりの哲学に嵌り込んでいったのである。
   具体的に言えば、レヴィナスのキーワードである他者は、老いた人ないしは、老いた顔を持つ死者である。またマラブーの言うアナーキーは、痴呆の老人の世界において、最もその特質が良く現れる。
   思想はそもそも自らの身体が体感したものに基づき、その経験を深めたものである。私にとって老いこそが、私の身体が日々感じ取って、そこから私の思想を創るものであった。
   しかしこれは私の短期間のフランス滞在の、云わば副産物と言うべきか、裏メニューなのである。それはそれで今後も展開していきたいのだが、ここで本来の、つまり表のテーマに戻って、ジジェク研究について書きたいと思うようになった。帰国して半年が経ち、ようやく気持ちの整理が付いたということもある。この半年は、経済的な理由と身体の問題と、そのふたつのためにもう生涯外国に出掛けることがないだろうということを深く悲しんでいたのである。しかしいつまでも落ち込んでいても仕方なく、日本でやれることをやっていくしかない。そう観念して再び研究に取り組み始めたのである。
   そしてジジェクを語ることは、老いを論じるのと同じく、私にとって極めて重要で、それは私の身体に刻み込まれた問題意識から来るのだということをあらためて自覚する。そう考えて、このシリーズを始めたい。
   まずは私自身、どんな風に今までヘーゲルを読んできたのか、またジジェクをどのようにして知ったのかということから書き始める。
   私は10代の最後の年に、『小論理学』を読み、牧野紀之氏に師事する。牧野理論は、ヘーゲルから現代思想的な雑念をすべて取り払い、必然的に発展する歴史と、その中で生きる私たちの主体性という、純粋に古典的なヘーゲル像を打ち立てた。当時私はそれに猛烈に違和感を覚えたのだが、その違和を突き詰めるだけの学力がなかった。それで数年が経ったのち、一旦ヘーゲルから離れて、まずは文学をやり、次いで物理学を勉強し、さらに政治学を学んで、それで大学に職を得た。それから再びヘーゲルに戻り、ジジェクを知る。これは2000年に入ってからである。ジジェクから、こんな風にヘーゲルを読んで良いのかということを教わった。そしてこれこそ、実はそれまで私がぼんやりと感じていたことなのではないかと思う。また同時に、つまりジジェクとは別個にヘーゲルの所有論と身体論に取り組んで、そこから無限判断論に行き着く。そしてそれはまさしくジジェクのキーワードであることに気付く。かくして所有論と身体論を展開しつつ、ジジェクのヘーゲル理解について、いくつかの論文を書いてきたのである。
   次にジジェクの伝記を書いておく。
   ジジェクは1949年、スロヴェニアの共産党員の家に生まれる。マルクス経済学を学ぶことが親から期待されていたのに、10代後半は映画に嵌る。ジジェクが現在人気を保っている理由のひとつは、哲学的な記述の中に様々な映画への批評が混ざっていたり、あるいは逆に映画を語ることで、自らの哲学的主張をしたりするところにある。その素養はこの頃から創られている。さてその後、彼はリュブリャーナ大学の哲学科に進み、ハイデガー、ドゥルーズ、フーコー、デリダの影響を受ける。1972年の学部の卒論は、本人の言葉を使えば、「ハイデガーとデリダを混ぜ合わせたもの」であり、その後の修士論文は、デリダやラカンやフーコーなどを扱いながら、「象徴的実践に関するフランスの理論」について書いている。さらに、1981年の博士論文はハイデガーだと言っている。とりわけそこでデリダの影響は強く、デリダを通じてハイデガーから抜け出せたと言っている。
   1973年から1977年までは無職だったが、その後共産党の原稿執筆者を2年間務めて、リュブリャーナ大学社会学の研究者として就職する。1979年から1990年までの話である。本人曰く、教員ではなく、また哲学専攻ではなかったことが不満であった。給料がどのように支払われていたのかは分からないが、この間に、2回パリに赴いている。1981年と1985年で、助手という資格で出掛けている。そしてJ-A. ミレールの下での博士号取得が1986年である。1988年にその博士論文を改変して、『もっとも崇高なヒステリー者 ラカンと読むヘーゲル』という題の本を出す。その出版で、思想界の寵児になったと言われることもあるが、私の読んだ「なぜジジェクはフランスで失敗し、イギリスで成功したのか」という英文論文では、その本はフランスではあまり評価がされなかったとされている。ミレールはジジェクの博士号は通したが、出版には協力しなかったと言われている。それで翌1989年に2冊目の本を、今度はラクラウの助けを借りて、ロンドンから英語で出す。それが『イデオロギーの崇高な対象』である。これは評価され、ジジェクは世界的に有名になった(注2)。因みにこの2冊目の本は、1冊目のそれと、3分の2の内容が重なっている。すでにジジェクは40歳である。元々早熟の秀才で、この時点で思想は完成していると見られるが、一般的にはこれがジジェクのデビューとなる。
   その後故国のスロヴェニアで最初の民主的な選挙が1990年にあり、その共同大統領職に、立候補して落選している。この落選はしかし、ジジェクに取って良かったと言うべきものであり、以後ジジェクは著作の執筆に専念するのである。またしばらくはいくつもの大学に研究者や客員教授として籍があったが、無給で、かつ学生に教えることもなかったので、著述の時間はたっぷりあったと本人は言っている。それから35年が経つ。著作は数十冊ある。すべてを押さえきることができない(注3)。翻訳も30冊以上出ている。また英米圏のメディアに多く登場し、映画評論から時事問題など、様々な発言をしている。現在はリュブリャーナ大学社会学研究所教授である。なおこの伝記を作る際に、ふたつの参考文献に依拠している(注4)。ひとつはジジェクの翻訳の訳者解説であり、もうひとつはジジェクのインタビューである。
 
   ここでラカンとジジェク本人を入れて、本シリーズで取り挙げる16人の生没年を書く。
J. Lacan 1901 – 1981
A. Kojève 1902 – 1968
J – P. Sartre 1905 – 1980
E. Levinas 1906 – 1995
J. Hyppolite 1907 – 1968
L. Althusser 1918 – 1990
G. Deleuze 1925 – 1995
M. Foucault 1926 – 1984
J. Derrida 1930 – 2004
E. Laclau 1935 – 2014
A. Badiou1937 –
J. Rancière 1940 –
É. Balibar 1942 –
J – A. Miller 1944 –
S. Žižek 1949 –
C. Malabou 1959 –
 
   先に、ジジェクの最初の本はフランスであまり評価されなかったと書いたが、どうもその後もジジェクはフランスで人気がない。その間のことをまず書いておく。
   檜垣立哉は、フーコー、デリダ、ドゥルーズをグローバルな思想家だと言い、ランシエール、バディウ、ジジェクを、格は落ちるがと断った上で、そのあとに続く思想家だとした(注5)。私は、ジジェクはこの6人の中で異色だと思うが、それ以外は概ね同意する。彼らは皆、フランスで評価されて、そののちに著作が英文化され、グローバルな思想家になった。ここでグローバルというのは、単に英米圏で評価されているからということを意味していない。その著作は、今やアジアや中南米でも読まれ、ハングル、中国語、スペイン語などにも訳され、彼らに対する評論が英語でたくさん出ているという事態を指す。そしてそのあとに、マラブーが続いている。
   日本からはまさしくこのように見える。つまりジジェクもフランスから出発してグローバルな思想家になった一群の人たちの内のひとりなのである。しかしどうもフランスではそのように見なされていない。段々とそういうことが見えてくる。というのも、上述のジジェク以外の人たちは、まずフランス語で論文を書き、フランス内で評価されて、それからグローバルな思想家になった。それに対して、先に書いたように、ジジェクは最初の論文をフランス語で書いたが、あまり評判が良くなく、2作目は英語で書き、それで評価された。以後、著作の大部分を英語で書いている。つまり、ジジェクはフランスで評価されることなく、グローバルな思想家になったのである。
   ここが今回問いたいことである。フランスの思想を受容して、フランスで博士号を取って、フランスの思想家になったと見做されるジジェクがなぜフランスで評価されていないのか。
   このことは次の3点から考えることができる。
   まずジジェクは精神分析家ではない。何の資格もないのに、精神分析について好き勝手に論じている。同じく分析家ではないフーコーやドゥルーズやデリダが、慎重にかつていねいに精神分析学を参照するのに対し、ジジェクは、それを政治や映画評論に無造作にと言って良いくらいに気軽に適用する。それは勝手放題にそうしていると言って良く、些か羽目を外し過ぎではないかという批判は当然ジジェクに向けられている。かつて私は分析家ではない人がどう精神分析を論じるかという問題について論じたことがある(注6)。その結論は、慎重にかつていねいに論じないとならないというものである。ジジェクに対しては、どうしても議論が乱暴だという印象が付き纏う。
   第2点目は、先に書いたように、フランスで出版した最初の本はそれほど評価されず、ジジェクが売れた最初の本は、フランスの思想家ではなく、アルゼンチン生まれで、長くイギリスの大学で教鞭を取っていたラクラウの紹介で、ロンドンで出したものである。つまりフランスの思想家として売り出そうとしたのに、それには成功せず、フランスとは別のところで評価されたのである。
   このふたつの点に、ミレールが関わっている。ジジェクはラカン理論を忠実にミレール経由で学んだが、ミレールの方はジジェクをあまり評価していない。そのために、ジジェクはラカンの正統な後継者としての地位を占めることができず、フランスで本が売れない。
   3点目は、そのヘーゲル理解である。フランスの思想家はヘーゲルを、A. コイレ、A. コジェーブ、J.イポリットから教わっており、また彼ら3人は、ハイデガーのヘーゲル論から強い影響を受けている。そのあたりのことは、マラブーが詳しく書いている(注7)。私のこのシリーズでも、コジェーブとイポリットについて少々扱いたいと思う。ただ、今ここで言えるのは、彼らの提出したものは、私から見るとかなり特殊なヘーゲル像である。『精神現象学』読解に特化したヘーゲルであると言って良い。ジジェクもまた、そのフレンチヘーゲリアンの影響を受けているが、しかしそもそも渡仏する前に、オーソドックスなマルクス主義を身に付け、そこからヘーゲルをある程度理解していたのではないか。また、カント、フィヒテ、シェリングからヘーゲルへの流れも理解している。つまりカント、フィヒテ、シェリングへの夥しい言及もある。また初期のころは、D. ヘンリッヒやC. テイラーを参照している。そののちは、R. ピピンも良く引用する。それから最近(2012年以降)、特に強く『大論理学』に拘るようになっていると思う。
   つまり、私がここで言いたいのは、ジジェクはフレンチヘーゲリアンの枠の中にいないということである。またデリダやマラブーは、ヘーゲルを戦略的に議論して、自説に取り込んでいる。常にフランス思想の伝統の中にヘーゲル解釈を組み込んでいる。ところがジジェクは、ラカンを参照軸にして、ヘーゲルを強引に解釈するのだが、その解釈そのものがジジェクの説を形作っている。そしてそれは、フランス思想史の中に納まるものではない。
 
   先に本シリーズでは、ラカンとヘーゲル以外で、ジジェクの取り挙げる思想家を扱うと書いた。それは冒頭に書いたように、ジジェクはまずはラカンの分かり易い解説者として知られ、そして私にとってはヘーゲルの独特な解釈者として登場したのだが、しかし実際には、そのふたつの観点に加えて、ジジェクはアルチュセールやアルチュセール門下生を批判し、マルクス主義に新しい風を吹き込んだ思想家として評価されたのである。それからさらに、様々な現代思想の思想家たちを論じ、その論じ方がユニークだと言われるようになったのである。
   しかしここで考えるべきは、アルチュセール以下の人たちの主張に対し、ジジェクが彼らを扱う際の基軸は、ラカンとヘーゲルにある。あるいは彼らのラカンとヘーゲル理解を問うているということである。つまり彼らの思想とジジェクのそれが異なる所以は、ラカンとヘーゲル理解なのである。
   するとここで私は、ジジェクの取り挙げる、ラカンとヘーゲル以外の思想家を取り扱うつもりなのに、結局はジジェクのラカンとヘーゲル理解に問題が行き着く。もっと正確に言えば、ジジェクはラカンの主張の核心をヘーゲル哲学に重ねているから、アルチュセールたちを批判する際の拠りどころは、まさにジジェクのヘーゲル理解であり、このシリーズでも結局は、ジジェクのヘーゲル観が問題になるのである。
   具体的には、アルチュセール、ラクラウ、ランシエール、バディウについては、結局、彼らとジジェクの間の、ラカン=ヘーゲル解釈の違いが問題になる。さらにレヴィナス、デリダ、フーコー、ドゥルーズについては、その主張はジジェクに言わせれば、すでにヘーゲルが言っているものだということになる。しかもそのヘーゲルはラカン的に解釈されたものである。要はすべてラカン=ヘーゲル解釈の問題になる。
   さてこういったことを、今度は20世紀後半の歴史の中で再度考察してみたい。そうすると、ここにもミレールが絡んでくる。
   以下、N. フルリーのミレール論を参照する(注8)。ミレールは元々アルチュセールの弟子である。そして彼にラカンを読むように勧めたのは、この師匠なのである。まもなくミレールはラカンの弟子になって、今度はラカンとアルチュセールを結ぶ役割を担う。アルチュセールはラカン理論をマルクス解釈に活用する。そのことにミレールは随分と寄与している。ミレールはまた、フーコーやデリダの影響も受けたと言われている。
   そのミレールはサルトルの中にラカン理論を見出す。それは欠如としての欲望の主体である。人は自分とは異なったものであることを欲望する。私たちは常に他者に付き纏われている。人はこの欠如という概念を拠りどころに、無意識の主体を構成している。ミレールは、このようなラカン理論をサルトルの中に見出す。
   つまり、ランシエールやバディウが特にそうだが、この時代のフランスの思想家は、まず若い時にサルトルに惹かれる。サルトルが20世紀真ん中のフランスで、最大のスターである。サルトルはさらに実存主義とマルクス主義をも結び付けるのである。そしてそこから、そのサルトルの実存主義が批判されて構造主義に移り、さらにそののちにポスト構造主義に進む。
   しかしサルトルの主体性を重視した実存主義的なマルクス主義から、アルチュセールによる主体性を拒否した構造主義的マルクス主義へという、世間の評価とは別に、アルチュセールの弟子であったミレールは、サルトルの中にラカン的な主体を見出す。世間はさらに、構造主義はフーコーやデリダによって脱主体性を主張するポスト構造主義に移っていくとされるのだが、そこには一貫してラカンの影響があり、ミレールはそのすべてに関わっている。そしてそのミレールの弟子がジジェクである。
   ジジェクはミレールの弟子であるという点で、まさしくフランス現代思想の申し子のように、少なくとも日本人の私には見えるのだが、しかしフランスではどうもそう見られていないということが、先ほどから私の書いていることである。つまりジジェクはフランスの思想家ではないということになる。これが本シリーズ第1回目の結論である。
 
   本シリーズでは、次回にアルチュセールを論じ、その次にラクラウに進む。ジジェクを有名にしたのは、まずはそのラカン理解であり、次いでヘーゲル解釈であるのだが、さらにはそのアルチュセール批判もずいぶんと与かっているのではないか。さらにアルチュセールを批判したラクラウ、ランシエール、バディウといった面々も批判したことがジジェクをジジェクたらしめたのではないか。
   これらの思想家を、1回分でひとりずつ、この順に取り挙げる。またそののちに、バリバールをどこまで取り挙げる余裕があるか、書きながら考えていきたい。またその際に、A. ネグリ、柄谷行人、J. バトラー、G. アガンベンについても、少しだけ言及したい。
   さらにそののちに、レヴィナス、デリダ、フーコー、ドゥルーズ、マラブーを扱う。これらの思想家については、今まで私は結構書いてきたので、それらを再編成して提出したいと考えている。
   また以下の2点も補足的に扱う。まずハイデガーがジジェクに与えた影響について、すでに私は書いている。またラカンとの結び付きという点では、ヘーゲルよりもシェリングの方が適切ではないかという考えもある。シェリングについても、可能な限り考えて見たい。
   ジジェクは自らの積極的な思想について、体系的に語るということはなく、上記の思想家を批判しつつ、その中に自分の思想を混ぜていくという記述のスタイルを採っている。上記思想家を扱うことで、ジジェクの思想が見えてくるはずである。
 
 
注1 高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021、同『脱資本主義 S. ジジェクのヘーゲル解釈を手掛かりに』社会評論社、2022
注2 ‘”If at First You don’t Succeed”: Why Žižek Failed in France but Succeeded in England”, Br J Sociol. 2021, 72, wileyonlinelibrary.com/journal/bjos, 2021
すでに日本では1992年に、ジジェクへのインタビューがある(『批評空間』第1期 No.6, 1992)。これも参照した。
また、より詳細な伝記は、「こんこん」という著者によるネットの記事「概念を孕むこと」にある。
https://conception-of-concepts.com/philosophy/zizek/zizek-negativity/introduction-chapter3/
なおその著者は、ジジェクをハイデゲリアンであると断定している。
それからジジェクの最初の著作とその次のものは邦訳されている。
『もっとも崇高なヒステリー者 – ラカンと読むヘーゲル -』鈴木國文他訳、みすず書房, 2016
『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳、河出書房, 2000
注3 科学研究費助成事業「スラヴォイ・ジジェク思想基盤の解明:ヘーゲル、ラカン解釈を中心に」(代表 : 大阪大学 野尻英一)では、可能な限りジジェクの著作を集めている。本稿は一部、その資料を利用している。
注4 このジジェクの自伝を語っているのは、次のふたつの参考文献である。
訳者解説『厄介なる主体 – 政治的存在論の空虚な中心 – 1.2』鈴木俊弘他訳、青土社, 2005, 2007、デイリーとの対談『ジジェク自身によるジジェク』清水知子訳、河出書房新社2005
注5 檜垣立哉『生命と身体 フランス哲学論考』勁草書房、2023
注6 「老いの解釈学 第13回 精神分析理論は老いの解釈に役立つのか」(2025/04/11)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12997
注7 C. マラブー『真ん中の部屋 ヘーゲルから脳科学まで』西山雄二、星野太、吉松覚訳、月曜社、2021
注8 N. フルリー『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』松本卓也訳、人文書院、2020
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x13785,2025.08.16)