老いの解釈学 第13回 精神分析理論は老いの解釈に役立つのか

高橋一行

 
   精神分析理論は老いの解釈に役立つのかという問いを立てる。
   その際に、臨床家でない私が、とりわけ哲学的関心から精神分析を論じることの是非がまず課題になるだろう。つまり、事実の問題として、精神分析それ自身の有効性は、フロイト以降の様々な臨床例によって実証されているのか、またそれを臨床家でない人が理解できるのか、議論して良いのかということがある。そのどちらも是だということになって、つまり、精神分析の有効性が確認され、かつ私のような素人が精神分析を論じることに正当性が認められて、その上でやっと、では精神分析は老いの解釈にも有効なのか、また、そのことを私が論じても良いのかという話になる。
   以上の議論をするために、先にカテゴリーの整理をしておく必要がある。
   まず精神科医という医者の資格を持つ人の多くが、必ずしも精神分析を評価している訳ではないということから話さねばならない。例えば「精神分析家、精神科医」という肩書を持つ藤山直樹は、「私の人生もそういうものだった」と振り返りつつ、「日本で精神分析を精神科医がやることは、たとえば、医学部で精神医学の教授にはなれないことをほぼ意味するし、大半の精神科医とは違う生き方をすることを受け入れることなのである」と言っている(藤山 p.35)。「大半の精神科医」は、いわゆる通常科学で使われる実証という考え方を重視し、薬物療法という治療法を取る。それに対して、彼らと区別される、ごく一部の精神科医が精神分析に関心を持つのである。するとまずここで、藤山の表現を借りて、①「精神分析をやっていない普通の精神科医」と、②「少数の、精神分析を行う精神科医」がいることになる。
   その上で、S. フロイトの「素人分析(Laienanalyse)の問題」という論文を読む。
   ここで「素人」(Laien)とは、フロイト自身によって、医師以外の人であるとされている。フロイトは、医師であっても、非医師であっても、精神分析の訓練を受けることが非常に重要であると考えていた。とりわけ医師でないが精神分析に関心があり、精神分析家になりたいという人を擁護し、さらにどう彼らを教育するかということを考えて、この論文を書いたのである。さらには、精神分析に関心がある医師に対しても、精神分析の訓練を受けていなければ、分析を行ってはならないと、フロイトは考えていたのである(フロイト「素人分析の問題」 p.169)。
   具体的にはフロイトは、専門の教育施設で、2年間程度の研修を受けることを提案している。精神分析は特殊な技術が必要であり、医師であれば誰でもすぐに精神分析ができるという訳ではなく、つまり医師でも専門的な訓練を受けねばならず、逆に精神分析を医師たちに独占されてもならず、とりわけ非医師が専門的訓練を受けて、精神分析の臨床家となることが奨励されるのである(同 p.163)。
   フロイトが治療の対象としていた神経症患者について、彼らを正しく理解し治療することに、当時の医学が何の貢献もしていないと、彼は断言するのである(同 p.165)。また精神分析が医学の中に飲み込まれていくことに対しても、フロイトは強い警戒心を持っている(同 p.186)。
   するとここで、②「少数の、精神分析を行う精神科医」にほかに、③「医師ではない、精神分析家」が成立し、この両者が精神分析の仕事を担うことになる(注1)。現在、精神分析家の資格は、民間の団体が認定する資格である。これも藤山によれば、フロイトの創始した国際精神分析協会が認定した精神分析家が今では12000人ほど世界にいて、その他の団体が認定した分析家も少なからずいるということである(藤野 p.20f.)。
   さてそういう訳で、フロイトは精神分析家になるための教育を論じるのであるが、ここで私の論に特に関わる論点として、彼が精神分析家に、人文系の学問や芸術の研究を奨励していたことを挙げたい。フロイトはここで、精神分析と人文系との繋がりを重視し、人文系の専門家との交流も積極的にすべきであるとしていたのである。
   そうなるとここに、精神分析家ではないが、④「精神分析に関心のある人文系などに関わる人たち」というカテゴリーが出てくる。
   もちろんここで、この④の人文系の研究者が行う研究それ自体が、フロイトの議論の中心的なテーマである訳ではない。またフロイトが、彼らに対して、精神分析をどう学ぶかというアドバイスを詳しく展開している訳ではない。つまり人文系の人たちが精神分析の議論をして良いのかという、私の問題意識にフロイトは直接答えない。しかし精神分析の訓練の中に、人文系の人たちとの交流を挙げており、また、人文系の諸科学に「精神分析はもうすでにかなり役に立っている」とも言う。そしてさらにフロイトは、この人文系の人たちに、精神分析を受けてみることを勧めている。つまり治療のためではなく、知的関心から精神分析を受けることを奨励するのである(フロイト同 p.186)。  
   ただこれも、患者が治療のために精神分析を受けるだけでなく、自分の研究や興味関心から精神分析を受ける人が増えると、先の医師でない精神分析家の需要が増えるということになり、さらに人文系の人たちとの交流もできて、精神分析が活性化されるのは良いことだというところにフロイトの関心がありそうである。
   さて、フロイトはこのようなアドバイスを人文系の人たちにしているのであるが、実はJ. デリダやG. ドゥルーズは、精神分析を受けた経験を持っていない。それなのに彼らは、精神分析について多くの言及があり、優れた考察を残している。ここから哲学者の國分功一郎は次のように考察を進める(國分 p.4ff.)。つまりこれも事実として、臨床の場を持たない哲学者が精神分析について発言をし、理論的功績を挙げているということになる。しかし繰り返すが、彼らはフロイトのアドバイスに従っていないのである。そうすると、精神分析を受けた経験を持たない人が、そもそも精神分析を論じて良いものなのだろうかという問いが出てくるのである。ここで國分は、④の人文系などの専門家であって、かつ精神分析を受けた経験のある人ではない、それ以外の人が精神分析を論じて良いのかという問題をあらためて指摘し、デリダやドゥルーズの業績を考えれば、当然そのことは認められるとして、しかしでは誰でも自由にかつ安直に精神分析を語って良いのかという疑問を提出するのである(同)。
   そしてその問いに対する答えとして、國分は、自分には明確な答えを出す能力はないと言いつつも、精神分析の現場は臨床だけではないという、暫定的な結論を出すのである。
   さて國分の問い掛けはまだ続くのだが、この続きは後回しにして、先に以下のことを見たい。というのも、この問いに対して、精神分析家であり、かつ精神科医である十川幸司は、もう少し厳しい見方をしているからである。それは精神分析と人文系との間には、乗り越えることのできない閾があり、臨床から離れて精神分析を論じる者は、ややもすれば精神分析をひとつの哲学にしてしまうという批判をする。デリダやドゥルーズは、この閾に自覚的だから良いのだが、例えばS. ジジェクのように、安易に精神分析を他分野に応用することに対しては、慎重にならねばならないと釘を刺している(十川 p.226f.)。
   私は二か月前までフランスにいて、如何にジジェクがフランスで人気がないのかということを痛感させられたので、これは是非論じておきたいことである。つまりジジェクに対しては、カントやヘーゲルやマルクスの理論を分析するのに、アクロバティックにフロイトやラカンを援用しているという非難があり、そのことがしばしば批判され、かつそのためにジジェクが敬遠されているという事態がある。
   しかし同時に、如何にジジェクがフロイトやラカンを読み込んでいるのかということも私は実感している。ジジェクの擁護はいずれまた別の機会にすることにして、ここで十川は、人文系の人たちが精神分析を語ることについては、相当に慎重にならなければならないということを指摘していて、それは十分深刻に受け止める必要がある。
   その点を押さえた上で、さらにこの問題を議論していきたい。ここで先に取り挙げた國分功一郎が提出する、当事者研究という概念を検討してみたい。当事者とは、病気や障害などを抱えた本人が、自らその問題に取り組んで研究することである。私も以前自分の考えをまとめて書いている(高橋 補遺1)。
   またここで、当事者であるということと同時に、研究ということが重要であると國分は考えている。研究とは、「自分が生きてきた歴史や自分が生きている環境や他者との関係を理解しようとする営みであり、そしてまた、言うまでもなく、自分を理解しようとする営み」である(國分 p.13f.)。そして研究する存在としての人間が行う研究を忘れずにいられたならば、精神分析の現場と接触したとき、私は私なりに責任ある研究を行うことができるのではないか」と、國分は書く(同 p.15)。
   私もまた老いを感じ始めた当事者であり、その問題を自分で研究したいと思っている。老いに差し掛かった自分自身を、その置かれた歴史や環境や他者との関係の中で理解したいと思っている。これが本シリーズを始めた理由である。そしてそのために、精神分析理論を活用したいと思っている。
   十川が注意を促しているように、精神分析は哲学のひとつではない。哲学のひとつのスクールにしてしまってはならない。そのことは十分注意すべきである。しかし精神分析は臨床に収斂していくものでもなく、臨床の場を持ちながら、人文系と接触をするものである。とすれば、人文系の側からも、精神分析に近付く権利はあっても良いと私は思う。
 
   ここで暫定的にまとめをしておく。まず次の分類が可能である。
① 精神分析をやっていない普通の精神科医
② 少数の、精神分析を行う精神科医
③ 医師ではない、精神分析家
④ 精神分析に関心のある人文系などに関わる人たち
 
   まず①の立場から、精神分析に対する批判はあり得る。例えば、精神科医の岩波明は次のように言う。すなわち、「現在までに、精神分析の概念に科学的根拠はないことが明らかにされ、さらに治療面での有効性も否定されている。それにもかかわらず、精神分析の信奉者はわずかではあるが精神医学の内部にも存在しており、人文科学においては理論的な支柱として当分すたれることはなさそうである」(岩波 p.8)。こう言われると、身も蓋もないのだが、多くの精神科医は、実際こう考えているのだということは、押さえておくべきだと思う。
   しかし科学的な根拠がなくても、事実の問題として、フロイト以降、様々な具体例が積み重なっている。それを否定することはできない。そしてすでにフロイトが言っているように、医学の中に精神分析学は吸収され得ないで、固有の領域として存在するのである。そのことは、②と③の人の活躍が実証している。
   つまり、①の人たちからの嫌味があっても、少数だが②の専門家がいる。そして民間団体から承認される、③の立場の人もいる。そういう人たちに支えられて、私たち④の人文系の人たちが精神分析について議論することの正当性が得られる。
   私たちが精神分析を語って良いのかという問題に対して、フロイトの言うように、まずは精神分析を受けてみるというのも、ひとつの解決方法だと思う。また十川が言うように、精神分析と哲学の間の違いを十分自覚し、慎重に論じるということも必要である。そして國分が言うように、研究する精神を以って臨むことが必要である。
   実はこの三者は言っていることは異なっている。しかしいずれも、臨床家でなくても精神分析を語ることが可能だという点では共通している。十分な注意を払って論じるべきであるということを、この三人の指摘から得られる結論として受け止めておきたい。
 
   さて何とか正当性が得られて、これから精神分析理論を使って、老いの解釈を始める。参照するのは、B. ヴェルドンの『こころの熟成 老いの精神分析』という本である。この本は老いを解釈しているものであるが、同時にフロイト理論の解釈もしている。私は本シリーズで、今まで何人もの思想家を老いという観点で解釈してきたが、ここでも膨大なフロイトの著作を老いという観点から読み込んでいくことになる。私に、フロイトの全貌を解明する力はないが、老いという観点でフロイト理論に切り込んでいくと、少し見えてくるものがある。
   まずフロイトは、老人に精神分析を実施するのは困難であると考えていた。人は50歳に近付くと、精神的材料を支配できなくなり、回復に要する時間は長くなり、精神過程を過去に遡行させる能力も麻痺し始めるとフロイトは言う(「フロイトの精神分析の方法」p.12、ヴェルドン p.18)(注2)。
   しかしフロイト自身は、1939年に83歳で亡くなる直前まで、亡命先のロンドンで、毎日患者の分析治療し、執筆活動をしていたのである。つまり精神分析を実施するのが困難であるという年齢になっても、なお自らは精神分析という新しく生まれた治療法を先に進めていたのである。
   ヴェルドンはここから積極的に老人の精神分析の可能性を探っていく。フロイト自身が老いてなお理論的に彫琢していった精神分析の考え方が、そもそも老いを排除する訳がないのである。老いは心の柔軟性や可塑性に欠けると一般化には考えられるかもしれない。しかし老いは自らの人生と妥協する時間であり、人生を構築する時間、考案する時間、さらには生き延びるために越境する時間であるとヴェルドンは言う。そこにおいて、心的リソースは動員され得る。死を迎える前に、何かが見出されるはずだと、彼は言う(ヴェルドン p.21)。
   では老人は何をすべきなのか。結論を先にここで言っておけば、人は老いて、過去を変化させ、過去についての語りを刷新すべきなのである。そして究極的には、過ぎ去ったものを現在形で生きることによって、それを自分自身のものとすべきである。精神分析はその作業に役立つはずである(同 p.45f.)。
   さて精神分析のポイントとなる観点であるのだが、精神分析の発想では、自我をどう守るかということが重要視される。まず人は死をどう受け入れるかということが問われる。そこで過剰に脱備給しないようにすべきである。備給(Besetzung)とは、精神分析の議論でしばしば出てくる言葉であるが、リビドーまたは欲動のエネルギーが、特定の対象または観念に投入されている状態のことである。またここでリビドー(libido)とは、日常的には性的欲望または性的欲動のことである。さらにこの欲動( Trieb)とは、 精神分析学で、人間を行動へと駆り立てる無意識の衝動のことであるとされている。因みにこれは本能と同一視されるべきではない。一方で、欲望(Begierde)とは、基本的に他人の目で喚起されるもので、他者を経由して感じられるものである。
   また、その場合の自我とは、まずもって身体的自我である(「自我とエス」 p.223, ヴェルドン p.56)。赤ん坊は授乳や糞便の排出といった身体の作用を通じて、親と接触し、自我を形成する。老人もまた、その身体の変化は他者との関係の変化に繋がる。日々、身体の緊張と興奮を通じて、人は他者と関わるが、その中でうまく対処ができず、様々な支障が生じることがある。ナルシス的な次元での満足が得られなくなることが生じる。そこでどう、自我を守るのか。
   ここで喪の作業がなされる必要がある。人は老いると、身体的な能力が失われ、それによって、他者との間にもつれが生じがちである。しかし老いは不可避のものであって、失われた能力に対して、過度に苦悩したり、意気消沈をしても仕方がない。断念が必要な場合もある。そして断念とは放棄をすることではない。そこでは、脱備給と備給のバランスを取ることが求められる。要するに、少しずついろいろなことを諦めていくことが必要で、しかしできることはやっていくというスタンスで、人はものごとに対処するしかない。過去を振り返って、その穴埋めが必要であれば、それをしていくのである(ヴェルドン p.58f.)。
   以下、フロイトからふたつ引用する。
   まず、子どもは遊ぶことが好きである。しかし大人になると、その遊びを断念する。ここでフロイトは言う。「人間にとって、ひとたび味わった快楽の断念くらい難しいものはないということを知っているであろう。元来、私たちは何も断念することなどできはしないのである。私たちはただある物を他のものと取り換えるに過ぎない。断念と見えるものは、実のところは元のものの代用あるいは補償構成物なのである(フロイト「詩人と空想」 p.82、ヴェルドンp.68)。青年に求められるのは、子どもの遊びを断念し、空想の世界に入ることである。こうして詩人が生まれる。老人に求められているのも、この詩人と同じく、ものごとを断念し、リビドーを別のものに振り替えていくことである。
   しかしこれが必ずしもうまく行かない。私たちは、断念した対象との結び付きを切り、そこに向けられた「すべてのリビドーを解き放つべきであると認識する。しかしこの欲求に抵抗が起こるのは良く理解できることだ。そもそも人間は、自分のリビドーのポジションを変えたがらないものだ。新たな対象から誘われたとしても、抵抗しようとすることは、良く観察されることである」(フロイト「喪とメランコリー」p.103f.)。これがもうひとつの引用となる。
   すべての物事を断念することはできないし、またする必要もない。代用できるものはそうすれば良い。夢を補修しつつ、それを叶えていく。そしてその代用された欲望、補修された夢の実現もまた、必ずしもうまく行かないかもしれない。すべては相対的なものでしかない。諦めを伴いつつ、どう安心感を得られるのかということが重要なのである。
   ここでナルシシズムの問題が出てくる。ナルシシズムは精神分析にとって要となるテーマであり、当然老いにとっても中心的な課題となる。加齢によって能力が衰える。または何かを失う。喪に服さねばならないこともある。そういうときに人は自我が傷つき、ナルシシズムが満たされない。そこであらためて、ナルシシズムこそが欲動の運命であることが認識されねばならない。
   具体的には次のようなことが考えられている。例えば孫が生まれ、彼らの笑顔を見ることでナルシシズムは回復する(ヴェルドン p.117f.)。あるいは、自らの子ども時代を思い出すことで気持ちは満たされる。あるいは、亡くなった母親の思い出の品に触発されて、記憶を総動員することなどを、ヴェルドンは挙げている(同 p.122ff.)。人は過去を他者に語り、それによってアイデンティティの感覚を支えることができる。
   再びヴェルドンは、記憶の再生、修復の重要性が問われると言う。事後性という概念がここに出てくる。自分を理解してくれる人が現れ、その人に向かって過去の記憶を遡って語っていくと、過去は書き換えられ、意味が練り直される。過去は新しく創られるのである。事後性とは、過去の再編成や再組織化による変容のひとつの可能性である(同 p.153)(注3)。
   かくして人はいよいよ生を終えるときが来るだろう。人は断念の内にそれを受け入れる。自分の人生は必ずしも不十分なものであった訳ではない。「それは夢見た人生ではなかったかもしれないが、少なくともいくばくかの夢があった人生なのである(同 p.159)。
   以上、ヴェルドンの本から、興味深いと思われる論点を拾い出してきたが、この作業によって、フロイト理論の重要な観点を多少なりとも説明することができたように思う。
 

1 臨床心理士という資格があるのだが、ここでは議論を簡略化して先に進めるために、このカテゴリーは省いている。
2 「フロイトの精神分析の方法」は、はじめ著者名を明らかにせずに発表をされたが、のちにフロイトの書いたものであることが分かり、『フロイト著作集』に入れられている。
3 前回、未来は変えることができないが、過去は変えられるというジジェクの主張を取り挙げた。これがフロイト理論から得られた知見であることは明白だろう。
 
参考文献
フロイト, S., 「詩人と空想すること」『フロイト著作集3』高橋義孝訳、人文書院、1969
—-     「フロイトの精神分析の方法」『フロイト著作集9』小此木圭吾訳、人文書院、1983
—-  「自我とエス」『自我論集』中山元訳、筑摩書房、1996
—-  「喪とメランコリー」『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』中山元訳、光文社、2008
—-  「素人分析の問題」『フロイト全集19』石田雄一・加藤敏訳、岩波書店、2010
藤山直樹「精神分析はどこにあるのか、精神分析家とは誰か レイ・アナリシス論文を素材にフロイトと対話する」『精神分析のゆくえ』十川幸司・藤山直樹編、金剛出版、2022
岩波明『やさしい精神医学入門』角川書店、2010
國分功一郎「素人が精神分析理論を論じることの問題 フロイト「素人分析の問題」から出発して」『精神分析のゆくえ』十川幸司・藤山直樹編、金剛出版、2022
高橋一行『脱資本主義 S. ジジェクのヘーゲル解釈を手掛かりに』社会理論社、2022
十川幸司「<討議の後に>精神分析と人文学の閾」『精神分析のゆくえ』十川幸司・藤山直樹編、金剛出版、2022
ヴェルドン, B.,『こころの熟成 老いの精神分析』堀川聡司他訳、白水社、2021
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x12934,2025.04.11)