高橋一行
伊藤亜紗と村瀬孝生の共著『ぼけと利他』を読む。まず村瀬は、ぼけという言葉を意識的に使う。意識的と書いたのは、ややもすればこの言葉は差別用語だと言われるかもしれず、認知症という言葉を使うのが一般的だからである。しかし村瀬は、認知症と呼ばれる現象は加齢とともに現れる自然な変化であり、病気ではないのに、認知症と呼ぶと、あたかも病気であるかのように扱われることになる。これは病気ではなく、自然なことであるというニュアンスを込めて、彼はぼけという言葉を使うのである。
ここにはいろいろと考えねばならないものがたくさん出てくる。まず病気も、これは私の考えでは自然なものであり、人の生の営みの中の一過程であると思う。しかし病気の中には治療が可能なものもあり、治り得るのであれば、治すべきだと考えるのが妥当である。それに対して、ぼけは老いが深まったときに現れる現象であり、治すべきものではなく、それはただそういうものとして周りが受け止めるべきものである。村瀬は、赤ん坊が歩けないからと言って、誰も赤ん坊にリハビリをしようとは言わないだろうとも言う。自然の過程は自然なものとして受け止めるべきなのである。
このことは本シリーズの第3回において、老いと病気の違いとして書いたことである(注1)。病気もまた自然な過程であるという根本的なことはあらためて指摘したいが、しかし治る可能性があって、治療したり、リハビリをしたりする病気と、治る可能性はなく、死に向かう自然な過程であるとして、それをそのまま受け止めるべき老いとは、やはり区別すべきなのである。
さてそういう訳で、以下本稿では私もぼけという言葉を使うのだが、このぼけというのはなかなか興味深いものがある。伊藤は私の前著『身体の変容』でも多くの刺激的な示唆を与える研究者として取り扱ったが、今回もまた興味深い指摘をしている(注2)。特別養護老人ホームに勤務し、豊富な経験を持つ村瀬から巧みに具体例を引き出して、考察を加えている。
以下、いくつかその例をここに挙げていく。
具体例1
あるお婆さんは、お茶を飲もうと湯飲み茶わんを口元に運ぶと、そのお婆さんの頭の中で、茶碗が瞬時に電話の受話器になってしまい、もしもし、もしもしと言い出す。その、もしもし、もしもしを何回か繰り返したのちに、電話の受話器は再び元の茶碗に戻り、無事お婆さんはお茶を飲むことができる。それは介護者の笑いを誘う。年寄りが計算して、人を笑わせようとしたのではない。その笑いは狙ったものではない。そこには目論見がないと、村瀬は書く(伊藤・村瀬 p.30)。
具体例2
あるとき、施設の中で葬式が行われる。お坊さんがふたり来て、大きな声でお経をあげる。するとひとりのお婆さんが、そのリズムに乗って、手拍子を打つ。それが本当に楽しそうで、周りも手拍子を打ち始める。するとすべての参加者が手拍子を打ち始めて、さながらその寄り合いは、お坊さんと老人が一体となったコンサートホールになる。
お坊さんは感動して泣きだす。喪主である家族も、参加した地域の人たちも皆、良かったと言う。
これもまた目論見がない行動である。誰かの意志で物事が始まらない。結果が想定されないまま、偶然に起きた営みに巻き込まれていく(同 p.32f.)。
具体例3
家に帰ると言って施設を飛び出す老婆がいる。職員が付いていくのだが、すぐに老婆は戻ってくる。職員に、なぜこんなに早く老婆が戻ったのかということを聞くと、職員は、老婆が自分で帰ってきたと言う。老婆が言うには、「この子が私に付いてくるのだけれども、どうやら自分の家が分からないらしい。可哀そうだから、ここに連れてきてあげた」と付き添う職員を指して言う。家に帰りたいと思っていた老婆は、いつの間にか、職員を世話してあげたいという気分になったのである。
ここに利他の原型がある。アナーキーの秩序がある。職員は、何とか老婆を説得しようとか、強引に連れて帰ろうとはせずに、ただ単に一緒に歩く。何の計画もせず、一緒にいる。介護する側と介護される側はいつのまにか、反転する。そして勝ち負けのない合意に至る(同 p.121f.)。
介護はいつもアナーキーである。介護する人からも介護される人からも、想定外のことが引き出される。
ここでアナーキーが具体的に可能なのだということが示されている。それは利他でもある。利他は、自分がやっている行為の結果は、自分にも分からないということから始まる。自分が勝手にやっているだけの話である。というのも、自分は相手にとって良いことをしてあげているのだと考えると、それは相手を自分にとって都合の良い道具にして、その相手を支配していることになるからである。利他はアナーキーなものでなければならない。
そもそもぼけを抱えた人はアナーキーなのである。「八十年、九十年かけて育んできた自分らしさをいかんなく発揮して、ズレまくりながら調和している感じ」ということになる(同 p.31)。
この本は、本質的にアナーキーな世界を、例を挙げて説明し、アナーキーな社会は十分成立することを説く。そこで取り挙げられる具体例はどれも衝撃的である。それらを読んでいくと、私自身がほぐされていくという感覚がある。
ここからいくつもの考察が得られる。まず先に私自身の話をすれば、私はもう自分がぼけても怖くないと思う。ぼけることで、きっと新しい境地が開けてくることになって、それはそれで面白そうだと思う。
そして今回一番言いたいことは、これはアナーキーな社会のモデルとなり得るのではないかということだ。
先の注1で示した本シリーズ第3回において、私は、C. マラブーの言うところの破壊的可塑性という概念は認知症を考えると良く分かると書いた。さらにそこからマラブーはアナーキーのイメージを語る。しかしそこのところで、そのアナーキーな社会は、果たして実現可能なものなのか、良く分からないと私は書いた。今回、そこから一歩先に進むことができる。認知症をぼけと言い直して、そのぼけた人々の世界を描いた伊藤・村瀬の本は、ぼけた人たちと、彼らを介護する人たちの間で、まさしくアナーキーな世界が現実的に創り出されているということを示している。
つまり今まで、マラブーの言うアナーキーな世界が果たして実現可能なものなのか、という疑問が私の頭の中にはずっとあったのである。しかしここには具体的にアナーキーな世界が成り立っている。
またマラブーの言うところの新しい秩序は、元の秩序に戻ることではない。そこでは完全に新しい秩序が創られている。それは今までに哲学者たちによって構想されたことのない社会であり、一度も実現されたことがなかったものだ。
そこでは、支配/被支配の関係がないだけでなく、そもそも所有/被所有の関係もない。ぼけた老人は何物も所有しない。
そもそも人は死ぬときには、すべてを手放して死ぬのであるのだが、ぼけは生きながらにして、所有していたものをすべて手放していく。私たちはここから、自分自身の存在について捉え直すことができる。そしてここからマラブーのアナーキー論も理解できるのである。
ただ、それは限定された領域でしか成り立たないものである。そういう限定的なものを、理想社会だと見做してよいのか、またそこにはどういう意義があるのかということが問い質されねばならない。以下、そのことを考察していく。
まずマラブーの展開する世界については、何冊も彼女の本が日本では翻訳されていて、またそれらの多くには詳細な解説が付されていて、それらを読むことで了解できる。彼女の主張は今や、以下の観点から高く評価されている。
ひとつには、その男性中心主義批判が最も先鋭的であると言われる。そこでは水平的な社会の相互扶助やケアが社会を成立させる原理になっているということが主張される。
またそれは、マルクス主義批判を含意している。資本家階級を倒して、労働者階級が社会を支配するという構図は批判される。マラブーの提示するアナーキー社会では、人びとはヒエラルヒーとは異なる秩序に生きているから、彼らは人を統治せず、また人から統治されることはない。彼らは見返りを求めることなく、他者に手を差し伸べる。
アナーキーは、かくして国家や権威を否定する。国家は不要であり、そんなものがなくても人は生きて行かれるというのが結論になる。
さてそうなると、次の問題は、このマラブーの理論は本当に社会改革に役立つのか、多くの人が納得するものなのかという問題が出てくる。多くの人にとって、アナーキーのイメージがどうのこうのという話よりも、現実的な経済政策の方が重要なのではないか。つまり情報化社会で、どうやって自分の雇用を確保し、金を稼いで、生活していくということが重要なのではないか。
この「重要なのは経済だ」という指摘は、かつてはビル・クリントンの標語であり、またカマラ・ハリスが焦点化し得なかった観点である。それはS.ジジェクもしばしば主張するところのものである(注3)。そしてマラブーも、そんなことは百も承知というところであろう。しかしその上で彼女は、経済を語らず、アナーキーの理論を精緻なものにすべく、情熱を傾けている。
しかしこの間に世界で生じているのは、弱者の見方を標榜する政治集団が、しかし実際には裕福なエリート集団に過ぎないとみなされて敬遠され、逆に露骨なまでに経済的利益を追求し、勝つことに異常なまでこだわる政党が、選挙では勝つという事態である。それはアメリカだけの話ではなく、世界的にそうなりつつあるのではないかと思う。そういう時に、確かに戦略的であることは分かるが、アナーキーにこだわり、原理的な話をし続けるマラブーに対して、私は、嫌悪の気持ちすら出てきてしまうのである。要するに、そんな話ばかりしていても、多くの人は明日の生活の不安の中にいるのであり、そんな話に関心を持たないだろうということである。
だから私はまずマラブーに対して、経済が重要だと言うべきなのである(注4)。しかしマラブーはそんなことは分かっているはずだ。
しかし左派が、経済という根本について語らなくなり、代わって、人権だの、少数者への配慮だの、環境問題などという話ばかりを語り始めたことが、結局はトランプを生み出したのだろうという、型通りの、しかしかなりの程度当たっている批判がある。
もちろんそういうことを言うと、今度は、人は経済的利益を追求すべく、規定されているという考え方は、理論的にはとっくに克服されている。そんな経済至上主義は過去のものだという批判が出てくる。しかし現実的にはますます多くの人がその考えに囚われているのではないか。
ではどうやって、その経済至上主義から脱することができるのか。それは決して人間の本質に属するものではなく、歴史的に創り上げられたものに過ぎない。しかしだからと言って、そのことを指摘することで、そこから脱することができるのか。あるいは先のマラブーのように、アナーキーの理論を展開することで、克服できるのか。
むしろ逆であろう。エリートと見なされる人たちが、あたかも経済を軽視しているかのように見えることが、人を反エリートを標榜する経済至上主義者の支持に向かわせてしまう。だからまずは経済が重要だと言うことが必要なのである。そして多くの人は、実際経済至上主義者ではない。多くの人は単に、日々の暮らしに不安を持つということに過ぎない。
すると経済を重視した政策を打ち出すことがまずは重要で、その上で経済至上主義を超えるために、アナーキーの理論を打ち出したり、またぼけのイメージを強調したりすることが、やはり重要なのだということである。そしてその際に、忘れてならないのは、老いを保証するためにも、つまり老いを健やかなものにすべく、諸制度を整えるためにも、経済が重要であるということなのである。
ここで私がぼけを取り上げるのには、戦略的な意図がある。つまりこれは単なるユートピアではないということである。アナーキーな世界がぼけた人々の間で成り立っているとして、それを私たちの社会のモデルにできるのかということが問われる。つまり、言いたいのは簡単なことで、すべての人がぼけてしまったら、世界は成り立つのかということである。しかしそういう問いに対して、ぼけは自然な生の一過程であり、原理的には誰にも訪れる境地だということである。だからぼけの世界は単純なユートピアではない。ぼけはすべての人が関わる生の一部であり、それは当然、生のすべてではないが、生のすべての問題を考える際の必須の課題であり、そこに生の本質があると思うべきなのである。
もう少し厳密に言えば、誰でも死ぬ瞬間は、今まで持っているものをすべて手放して死ぬ。つまり死ぬ瞬間は誰もがぼけの境地に達する。ぼけている人たちは、その境地に早くから入っていくことができた特権的な人たちである。そしてアナーキーな世界は、一瞬なのか、長い時間なのかという違いはあれ、誰もがそこに辿り着くものである。そこを大事にすることが生全体を大事にすることに繋がらないか。
繰り返すが、ぼけは原理的に誰にも訪れる可能性のある境地である。そう考えると、このぼけの世界は圧倒的なリアリティーを持って、私たちに迫って来る。誰でも死ぬときは、アナーキーの境地になるのである。地獄に財産を持っていく訳には行かないというのは、昔から言われていることで、誰もがそう思っている。そしてぼけという形態をとって、アナーキーな世界は実在する。そして誰もがその世界に入る。死ぬ前の一瞬か、長い時間に亙るのかという違いがあるのだが。そうして老齢化社会とは、多くの人にとって、そういう幸せな時間が段々と長くなり、それを享受する人が次第に増えていく社会のことである。
とすれば、私たちのやるべきことは、そういう世界を制度的に保障していくことなのである。そういう世界が保証される程度に、私たちは富を稼ぐべきである。それは個人としてもそうだし、社会全体としてもそうである。
もっとも誰もが経済至上主義者だと思っている人には、私が何を言っても、私自身もまたそのひとりに見えるのだろう。また実際私は、経済が大事だという発言をするから、やはり経済至上主義だということになる。一方でしかし私が、ぼけの世界のすばらしさを力説すると、今度は経済を疎かにするエリートのひとりとみなされる。
何度でも書くが、私は、極貧の家に育ったので、貧乏でも何とかやって行かれるという自信を持っている。つまりある程度の貧乏なら耐えることができると思っている。それは安い食材を買って来て、自分で工夫しておいしく食べることができるという程度の話である。だからある程度は頑張って稼ぎ、それ以上は要らないという判断することができる。そして実際、極めて幸運だったお蔭で、ある程度の生活ができることが保証されたので、それ以上のお金は要らないと思い、早期退職をした。しかしこのことも、人から見れば、金持ちの左派の自己満足である。そのように私は見なされる。そこは承知しておく必要がある。
もうひとつ、そこから派生する問題を書く。つまり人は嫉妬で動くということである。
私は、利他の反対概念は嫉妬だと思う。利己と利他は正反対の対語ではなく、両者は重なる。つまり利他的だと思われた方が、社会的信用が得られて、自らのエゴイズムを通しやすくなると考えたり、他人のために何かしているのだと思うことで、強い自己満足が得られたりするのである。しかし本当の利他は、そういうこととは遠く掛け離れていて、見返りを求めず、計算もせず、そもそも人のために何かしようということすら考えないのである。すると嫉妬から最も離れた概念が利他であるということになる。
そういう利他の概念をここで提示することは意義がある。しかし多くの人は実際には、嫉妬に突き動かされて生きている(注5)。
まずは経済の不安がある。さらにそこに嫉妬が加わる。これが今の社会の現状である。
先にも書いたように、左派が人権やらアイデンティティ政治やら、環境問題などに熱心で、経済政策を疎かにしているという批判がまずはある。ここで、最も大きな問題は経済格差である。以前はそれなりにやっていかれたのに、今やかなり苦しい生活を与儀なくさせられていると感じる人たちがたくさんいる。一方で、情報化社会でうまく稼いでいる人たちがいて、彼らと自分たちの格差がどんどん大きくなっているのである。そこが根本的な問題で、さらにそこから嫉妬も出てくる。つまり裕福な生活をしている人たちに対する嫉妬だけでなく、移民や貧困者が優遇されていることに対する不満が募る。自分たちはこの国のマジョリティーのはずなのに、どうしてマイノリティーばかりが福祉の恩恵に与っているのかということだ。
しかしそういう嫉妬をどう乗り越えるのか。
先に言ったように、経済政策を具体的に掲げつつ、しかし同時に人生の豊かさに目を向けるよう、様々な試みや人の生き方を示していくことが重要なのではないか。
別の言い方をする。金持ちは人から羨まれる。また自分よりも貧しかった人が、福祉の恩恵を受けて、自分と同じ程度の生活水準になっても、人は面白くないと思う。しかし人がぼけて、そのぼけた人が幸せそうに暮らしていたら、ひとはそのぼけた人を嫉妬するだろうか。自分もやがてそうなるのである。ぼけた人が生き生きと暮らせる社会こそが良い社会だと思うべきではないのか。
嫉妬を押さえるために、経済政策を重視せよということになるのだが、このこととアナーキーな世界のイメージを提示することとは矛盾しない。両方やれば良いのである。
そもそも強い理想は語るべきでないと私は思う。ユートピアほど窮屈な社会はない。平等な社会では嫉妬が充満する。しかしぼけのユートピアを、私は歓迎する。病気や事故で死ぬことがなく、うまくぼけが始まるほどに長生きできたのなら、その人たちは幸いである。その際に、経済はぼけた人たちの生活が保障される程度にはほしい。
だからアナーキーの世界のイメージを語り、アナーキーが原理的に可能であることを示すだけでなく、老いは誰にでも訪れ、そして原理的に誰でもぼける可能性はあり、そして医学の進歩によって、私たちが長生きするようになれば、ぼける人はますます増え、自分がそうなる可能性もどんどん高くなるということは力説すべきである。それを恐れる必要はなく、むしろ素晴らしい世界がやって来るのだという話をするとともに、老いの世界を充実させるためには、経済がうまく行かねばならないということも同時に力説されるべきである。
もう少し続けたい。伊藤・村瀬の本に戻る。
具体例4
ある老婆に、新年を迎えるにあたって、あなたの抱負は何かと聞いたら、そういうことはもう、人に預けたと答えたのだそうである。老いて、自分ひとりではできないことは、すべて人に預ける。無理はしない。自分の身体を手放していく。そういう感覚がここで語られる。
しかし私は耳が遠いから何も分からない、何もできないと言いつつ、ぼけた人は、自分の好きなことだけはちゃんとできる。自分で自分をお役御免にしつつ、都合の良い時だけは、しっかりと対応する。そういう老婆がいて、村瀬はそういう人を「カッコいい」と言い、自分もそういう老婆のようになりたいと言う(同 p.271)。
具体例5
まず荒ぶるぼけのある人がいる。介護をしようとすると抵抗する人である。そういう人は、一般には介護がしにくいと思われるが、村瀬は、むしろ介護しやすいと言う。介護者に対して抵抗するというのは、意志表示がはっきりとしているということで、介護者がその荒ぶりに恐れおののいて引き下がれば良い。そうすることで相手を尊重できるのである。そしてそこから新しく彼らとの関係を創っていくことができる。
むしろ荒ぶりのないぼけの人の方が、介護が難しい。ぼけが深い人は、抵抗しないから、ややもすれば、介護者は相手を思い通りに動かしてしまうことになる。そこでは人間としての付き合いが十分にできない。またそういう人に対して、存在する価値を見出せなくなることもある。そういう時に、食事、排泄、睡眠という身体の営みを通じて、その人と関わっていき、その人の身体が示す意思表示を見ていくことが重要になる。
私が興味深く感じたのは、次の話である。荒ぶるぼけの人と、荒ぶらないぼけの人とが同時にトイレに行かねばならなくなったとき、介護者は荒ぶるぼけの人を優先する。危機を回避するためにはそうせざるを得ないからである。しかしそのときに、村瀬は、荒ぶらないぼけの人に、許しを請う。協力を請う祈りをする。あなたを後回しにして、申し訳ないと言い、荒ぶらないぼけの人にお詫びを言いつつ、同時に感謝をする。ケアの先に祈りがあるという言い方を村瀬はする。そこに利他が見出される。それは、すべてを手離したかのように見えるお年寄りが、そういう力を持っているからではないか(同 p.13ff.)。
先に、介護する側と介護される側が入れ替わるという話をした。ここでは介護される側がすべてを放棄することで秩序が成り立ち、さらに介護する側に影響を与えていくという話が展開される。
意味のない世界に生きていると思われるぼけの人が、極めて有意味な世界にいる。
最後にもうひとつ、マラブーに対する批判を挙げておく。
アナーキーということで、マラブーは意味から解放された世界を考えている。支配と非支配がない世界。所有しないし、所有されもしない世界。そういう世界を考えている。しかし実際にそういう意味を超えた領域にどう入っていくのか。相手を支配しようとまったく思わないで、相手に対しての正確な認識ができるのか。
ここでマラブーは、フロイトやラカンやジジェクらが依拠する精神分析学を批判する。それは過剰なまでに意味付けをしたがる学問領域である。しかしアナーキーの世界は意味付けを超えている。それは徹底的に偶然に晒された世界である。
ところがここで批判されたジジェクは、今度はマラブーを再批判する。マラブーは、「意味のある関わりの地平の中で、意味のある関わりが端的に存在しない世界を考えたり、自由気儘な無関心を考えたりすることができるという間違い」をしているというのである(注6)。
ジジェクは次のような皮肉を言う。「悪いニュースがあります。そちらから先に話します。あなたは深刻なアルツハイマー症です。しかし次に、良いニュースがあります。あなたは深刻なアルツハイマー症なので、家に帰るまでにそのことを忘れてしまうでしょう。」
これは以前から、認知症当事者が自らの状況を分析できるのかと私が問い質している問題である。アナーキーの世界に入ってしまった人は、その世界の内部から、自らの姿を分析できるのか。私たちの現実の世界との関わりを示し得るのか。
それに対する私の答えは、以下のものであった。つまり本シリーズ第7回で取り挙げたの認知症の老婆は、自らが小説を書いている訳ではなく、あくまで小説家が、その老婆の内面を想像しているのである(注7)。人は、アナーキーな世界の内部から、その分析をすることができないが、アナーキーの世界に入っていくことを想像できる。
新しい秩序がそこにある。そのことは確かなのである。
この問題は、いずれ別稿で書く。本シリーズがジジェク研究の余技として生じたものであって、とすると、いわば本業で、ジジェクのマラブー批判、ないしはマラブーのジジェク批判を書きたいと思っている。
注
1 拙稿「老いの解釈学 第3回 マラブーの破壊的可塑性について」 (2024/12/18, http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12389 )。
2 拙著『身体の変容 メタバース、ロボット、ヒトの身体』(社会評論社、2024)の第1章で、伊藤を引用した。
3 S. ジジェク『ポストモダンの共産主義』(栗原百代、筑摩書房、2010)では、リベラル左派が批判され、経済を根底に置くコミュニズムの再興を願って、「重要なのはイデオロギーなんだよ、お馬鹿さん」という表題が逆説的に掲げられる。
4 相馬千春は、「現代の“デモクラシー”は「一般意志」を代理しているのか?――この間の選挙結果を見て考える」( 2024/12/05, http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12283),)をはじめとして、議論の整理と有効な経済政策の提言をしている。
5 拙論「政治学講義第四回 嫉妬の充満、またはリベラリズムの衰退」( 2024/05/15, http://pubspace-x.net/pubspace/archives/11386)。
6 S. Žižek, “Descartes and the Post-traumatic Subject”,(Filozofski vestnik, Vol.29, No.2, 2008)。
7 拙稿「老いの解釈学 第7回 小説の中の認知症(1)」(2025/01/16, http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12571 )。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x112797,2025.03.07)