高橋一行
永井みみ『ミシンと金魚』を読む(注1)。これは認知症の老婆が一人称で語る物語である。壮絶な人生を送った女性が、自分の人生を振り返り、やがて死が近付いてきたことを悟って、穏やかな最期を迎えるという物語である。
まず主人公安田カケイは、生まれてすぐに母親が亡くなり、犬の乳を飲んで育つのである。また継母からは毎日薪で頭を殴られ、小学校に通わせてもらえず、独学で文字を覚える。そうして大人になって結婚して、長男が生まれたらすぐに夫に逃げられ、その後は残された小さな子どもを背負ってひたすらミシン縫いの仕事をする。さらに性的虐待に遭って、そこで生まれた子どもは3歳で病死し、育て上げた長男もまた自殺し、そして今は認知症になって、最期はひとり寂しく死ぬのを待つばかりというところである。
カケイはそういう生涯を振り返る。ヘルパーと一緒に病院に出掛けたり、またデイサーヴィスに通ったり、長男の嫁と会話をしたりという日常の生活が、その老女の目を通してまずは描写され、同時に彼女は自分の過去を思い出そうとする。物語において、この日常の叙述と過去の想起と交互に話が展開されて進んでいく。
特筆すべきは、これは認知症の老婆が一人称で語る物語であるということだ。本シリーズ第4回に書いたように、こういうものが果たして成り立つのかどうか、つまり認知症本人の目から世界はどういう風に見えるのか、それを記述するのは可能なのかということを私は考えていたので、この小説に出会ったときは、まずはやられてしまったという感じを受ける。老人の目から現在の生活がどう営まれているか、また過去の記憶とどう向き合うか、それを老人本人が語っていくことが果たしてできるのかと思う。しかしこの小説は見事にそれをやってのけている。
ただこの老婆が小説を書いている訳ではない。何しろ認知症なのだし、元々知的能力は低いという設定で、短い遺言書を書こうと思っても、文字を書くのに困難を覚える老女である。この小説はその老女が語っているという体裁を取っている。こういうことは小説の手法としては、あり得て良いものだと私は思う。
登場人物をすべて三人称で描き、話者は神の視点を持っていて、つまり登場人物の心の中に入り込んで、それを語るというスタイルの小説がある。また登場人物の会話や行動だけを描写して、彼らの心の中のことは読者に推察させるという手法もある。また日本の私小説のように、一人称の小説で、主人公は話者であり、同時に小説家でもあって、主人公の目から見た世界が展開され、それが読者には、その小説家自身の話なのだと思わせるという手法のものもある。この小説はしかし、そのどれもと異なって、主人公=話者ではあるが、話者は小説家ではない。認知症の老人が小説を書ける訳はなく、特に最後に老婆は死ぬのだが、話者=主人公は今から自分は死ぬということが分かって、実際に死んでいくのである。それを誰が見ているのかということだ。そこは小説家の想像力が働いているということになる。
そういう小説の形式にまず着目した上で、その内容に入っていくと、再び書くが、まず読者は主人公の、その壮絶な人生に圧倒される。そういう人物像を創り上げたということが、まずこの小説の魅力であると言うことができる。
しかし重要なのは、主人公がその人生を認知症になってから正確に思い出して、自分で再構成しているということなのである。もともと知的能力が高くない人なので、年を取って周りから認知症だと思われてしまっただけの話で、知力は十分最後まであったのかもしれない。ただ小学校も行かせてもらえなかったので、言語能力も十分ある訳ではない。しかし生きる力は凄まじく、そのために死ぬ間際まで、自らの生の意味を探求し得ている。物事を理解する力は、実は相当に高いものがあるのかもしれないと思う。あるいは死を受け入れる準備ができていて、そのために、自らの人生に積極的な価値を見出せるようになったのかもしれない。
小説はまずは日常生活が描写されたあとで、ヘルパーに、カケイさんは今まで幸せでしたかと聞かれ、そこから過去の探求が始まる。彼女は実は極めて聡明で、最近のことはすぐ忘れるが、昔のことはよく覚えていると言う。
しかし実際に過去に向き合うと、主人公は、自分は損ばかりしていたと思う。例えば、彼女の世話をしてくれた数少ない人物のひとりである兄は非業の死を遂げる。すると「兄貴の女だった、広瀬のばーさん」と主人公に語られるところの女は失踪する。彼らに捨てられたと主人公は思う。しかしそうではなかったのである。小説の後半で、実はこのふたりにはしっかりと守られていたということをあらためて知って、カケイは彼らに感謝する。「広瀬のばーさん」と仲直りをする。ここで過去の記憶が再編成されたのである。カケイは言う。
損した。
と、おもったけど、なにかにつけ、自分は損した、自分だけが損した、と、おもったけど、それは、おもいあがりだった。
広瀬のばーさんをこころん中で煙たがってた自分に、いままでの自分に、うんと、ううんと、腹が立った。
先にも言ったように、この小説に価値を与えているのは、主人公が自ら記憶を組み直して、そこに意味を見つけていくというその経過を、一人称で語っているということである。一般に、認知症の老人の家族が死に向かっている老人との人間関係を反省し、新たな関係性を見出すという、そういう小説はある。これはこのあとで取り挙げる。しかしこの小説はそういうスタイルではない。認知症の老人本人が周りとの人間関係の意義付けをし直していくということが課題であり、本人が昔を思い出しながら、そういう作業をし、そこで考えたことをみずから読者に語っている。
老いとは過去の再編成をすべきときである。過去を変容させ、過去の記憶を新たなものに創り替えるのである。それを本人がすべきである。それが老人の仕事であり、認知症になってなお、人は自分の過去に向かう。それを修正し、他の記憶と結び付けて、新たに配合すべきなのである。そして残りの人生を全うすべきである。この認知症の老婆は見事にそれをやってのけている。
ここで他の認知症を扱った小説を取り挙げて比較をしたい。
まずは中島京子の『長いお別れ』を読む(注2)。
かつて中学の校長を務めていた男が主人公である。彼はアルツハイマー型認知症と診断され、病はその後少しずつ進行していく。妻が専ら主人公の介護をし、またその夫婦には3人の娘がいて、さらには孫もいて、彼らもまた老人と関わっている。妻、娘たち、孫たちはそれぞれがそれぞれの人生を持っていて、小説家はその日常を細かく描写する。彼らはその日々の営みの中で、夫、父、祖父と自分の関係を見つめ直していく。家族それぞれが持っている無数のエピソードが展開される。中島京子は力のある作家で、日々の細かな出来事をていねいに書いていく。
もうひとつは川村元気の『百花』である(注3)。
主人公は37歳の男で、彼はシングルマザーの母親によって育てられる。その母が認知症になる。男には妻とやがて生まれて来る子どもがいる。また仕事も充実して忙しい。その中で、母の介護に取り組む。実は男と母の間には、ある謎があった。男が中学生の時に、1年間母親と別居していたのである。男はその時の真相を母親の口から直接聞くことなく、母親は認知症になってしまった。しかし母親の荷物を整理しているときに、日記を見つける。それは母親が、その謎の1年間、ていねいに記したものであった。細かいことは、いわゆる「ネタばれ」になってしまうので書かないが、男はその日記を読むことで、事の真相を知る。また小説の中には、その日記が織り込まれる。
ふたつとも良くできた小説で、完成度は高い。ふたつともベストセラーにもなり、映画化もされている。そのことを十分評価した上で、敢えて言うのだが、これらの小説には『ミシンと金魚』の持つインパクトがない。
このふたつの小説では、認知症老人と家族の人間関係が再編される。つまり認知症の老人を巡って、夫婦、親子の関係が見直される。中島の小説では、男が認知症になり、その妻と3人の娘たちと孫たちが暖かく彼を見守る。日々、介護のトラブルが生じるが、家族はそれを乗り越えていき、新たな関係がそこで創られるのである。川村の方はもっと劇的で、息子は、本当は母親の口から直接聞きたかったであろう過去の話を、母親の日記を読むことで、真相に至る。そしてそれから自らの記憶を修正していき、母親に新たな気持ちで臨むのである。ここでは日記が挿入されることで、部分的に一人称の小説になっているが、日記では、その日に起きたことが記されていて、過去が反省される訳ではない。
しかし過去を振り返ることで、最も劇的に変わるのは、認知症の老人本人の心的風景のはずである。ただそれを記述するのは不可能だと一般には思われよう。認知症の当時者が、自らの言葉で以って自らの心境の変化を語るのは絶望的に困難なはずである。ところが永井みみはそれを描いて見せたのである。
小説のハイライトは、主人公が3歳の娘道子を死なせてしまった事件を思い出す時である。彼女はそれをもの凄く後悔している。自分の不注意で病気になったのだが、これは自分が殺してしまったようなものだと思っている。しかし自らの命が尽きようとするとき、道子と会えて良かった。道子が生まれてきて良かったと心の底から思う。カケイの心の中で、過去の全面改定がなされ、自らは安らかに死んでいくのである。
カケイは道子にあらためて感謝をする。死ぬ間際にそういう作業をきちんと終えて、みずから安らかに死を迎える。そのことを本人が自覚して、一人称でそれを語る。
死に行く人の意識をどうして一人称で語れるのかと言われそうではある。しかしそこは小説というジャンルの持つ可能性の問題で、長い伝統の中で創り上げられた小説という形式は、それを可能にする。そして一人称で語ることの迫力を、読者である私たちは味わうべきである。
けど。
あたしは、道子にあえて、よかった。
たとい。
どんなめぐりあわせであろうと、道子にあえて、ほんとに、よかった。
・・・
うんと、ううんとしあわせだった。
あたしには、しあわせな時期が、たしかに、あった。
そんなことはないとおもうけど、今までだってなかったけど、なんかの折に、だれかに
しあわせだったか? と、聞かれたら、そん時は、
しあわせでした。
と、こたえてやろう。
つべこべ言わず、ひとことで、こたえてやろう。
「花はきれいで、今日は死ぬ日だ」と老婆は言う。
日々の生活においては、ミシンを踏み続けたために不自由になった足を引きずらないと、彼女はどこにも行かれない。排尿するときは、ズボンとモモヒキを脱いで、おむつを取って、やっと便器に座ることができる。不自由極まりない。時に糞便にまみれ、息子の嫁に頭をひっぱたかれる。意識は常に身体に縛られて、しかしそこから飛躍したいと願っている。自我は常に身体に捕らわれている。死のみが、そこからの飛躍を可能にする。死を意識した時、人は自由になることができる。
注
1 永井みみ『ミシンと金魚』集英社、2024。文庫本には、巻末に酒井順子が解説を書いている。それは秀逸である。
2 中島京子の『長いお別れ』文藝春秋、2015。2019年には、蒼井優、竹内結子、松原智恵子、山﨑努といったキャストで映画化された。
3 川村元気『百花』文芸春秋、2021。菅田将暉と原田美枝子の主演で、2022年に映画化された。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x12571,2025.01.16)