北総湿原ドライブ記

西兼司

  
   11月28日のドライブ紀行文を書けとWさんからの要請ですから、久しく文章を書いていない身ながら、一筆啓上致します。まず、前提に石塚さんの立派な紀行文がありますので、それを補足するところから書き始めていこうと思います。
 
(一)
   石塚さんの紀行文で欠落しているのが、(1)の「水の館」と(2)の「日秀観音寺と将門神社、かまくら道」の間、旧井上家住宅見学です。水の館で手賀沼の圧倒的な「手賀大橋」、「雄大な手賀沼の全景」、「富士山」、「スカイツリータワー」を見た後、南面に湖が無くなってから現れた相島新田1番地の手賀沼干拓をリードした広大な名主の屋敷跡です。旧来の手賀沼があったところが一面の田んぼになっており、江戸期享保時代からの延々たる干拓事業の痕跡が見られます。
 
   母屋、旧漉場(きゅうこしば)、二番土蔵、新土蔵、表門、裏門などが残っており、裏門を出たところには「開発済世の碑」がしっかりと建てられていました。丸に片喰、井筒に三ツ星が二つ家紋として使用されていたとのことです。
 
   恐らく1000坪は軽く超えるであろう広大な敷地には、南向きの傾斜地に明治初期に輸入されたものであろう線路のレールも残されており、干拓への費用、情熱への想像力を刺激するものでした。利根川と江戸を結ぶ水運の中継拠点として有名な布佐の名主の底力を感じ取ると云うのが正解なのでしょう。
 
(二)
   それから将門神社へと展開するわけですが、将門神社では笑い話が一つと将門神社そのものの作りの簡素さが印象に残りました。笑い話とは、将門神社門前に掲示してあるポスターで「皇紀2685年」を奉祝する趣旨の公告があったことです。「新皇」を名乗った、別言すれば将門から「旧皇」として革命の対象として措定された現天皇制紀元2685年奉祝と云うのは、将門の心根を裏切る所業でしょう。全国に散在する将門神社そのものは敬慕崇敬する人々によって守られている筈で、様々な現世的な事情の中で存続しているのは当然の事でしょうから場違いな笑い話として心に残りました。
 
   それとは別に将門神社そのものの形式について、極めて簡素な造りであり深く感銘を受けました。鳥居のほかは壁も床もない屋根と柱だけの、中奥に石像が祭られその手前に小さな賽銭棚が置いてあるだけの、比較的新しい(自覚的にこの神社形式を選んだのだということが解る)神社でした。
 
   私は将門神社と云ってもこれが初めての参拝でしたが、再度来てみたい、また、ほかの将門神社も行ってみたいという印象を持ちました。近くの将門の井戸も将門年少期ないしは反乱期に使っていた井戸と云うことでぜひ行ってみたいところでしたが、今回は時間がなく見ることができませんでした。
 
(三)
   西大作遺跡は石塚さんと同じく、私も記憶にありません。また地図で確認してみると西大作遺跡は、新木駅の東側にあるとされていますが、それで云うと新木駅になり次の駅が布佐駅にという関係になりますから、旧井上家住宅の前に車で走っただけということなのではないでしょうか。
 
   長門川水門の印象はこれと比べると鮮明です。川面にSさんが車を止めてくださって、ややゆとりを持って利根川を眺められたのです。正面に筑波山、上流域には若草大橋を眺め、下流域には一切橋などは見えず、茫漠たる利根川河岸が見えるのです。
 
   石塚さんはきゃきゃと土手を降りて行って利根河畔の枯れすすきと葦などの撮影に突撃していきましたが、Wさんは反対側、水門の撮影に長門川の方へと下って行きました。私はと云えば、土手の上でひたすら晴れた空の下での日本一の流域面積を持つ利根川の下流域湿地帯の雄大さと清々しさを堪能しておりました。対岸の常州は筑波山迄まったいらという印象で、上古の縄文海進以前からの鬼怒川など東京湾へ流れていた利根川以外の河川の浸食活動のより本地であった痕跡でしょう。
 
   利根川下流域は、特に下総方面では一面の田んぼではなく、多摩丘陵よりはずっと小さな丘が森を残しながら転々と存在し、水面とほとんど同じ高さの水田迄の傾斜地には畑も多いのだと実感しました。多摩育ちの身では水田を見ることはほとんどなく、畑で稲は育つもの(陸稲)という意識形成をしてしまっている訳ですが、さすがにここでは陸稲ではなく稲は田んぼ、畑では果樹、野菜と云う仕分けが成立しているのでしょう。多摩川水系とは水の量が違う、という実感です。
 
(四)
   龍角寺は、石塚さんの反応がすべてです。付け加えるとすれば、山門の痕跡後も道路敷地境界線を放置したままの歳月が長すぎるという印象です。それでも、どんぐりと公孫樹の実(銀杏)が多かったのが印象的です。金堂跡地を含めても大伽藍という寺ではありませんが、それだけにどうにかならないのかという口惜しさが募る寺でした。
 
   最後は香取神宮です。鹿島、香取は私がこだわったのですが、鹿島は遠すぎるということで、せめて香取は行きたいと希望したのでした。行って正解でした。経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が祭神として崇められていますが、私にとっては飯篠長威斉家直(いいざさ・ちょういさい・いえなお)と云う天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)の祖である、別言すれば中世(室町中期)剣術勃興期の開祖の一人(三代流派である念流、陰流、神道流のうちの神道流の祖)が出た神社である。
 
   神社そのものも参道がゆっくりとカーブを描きながら登っていくその道が、両側に小水路が作られており、伊勢神宮を思わせる雰囲気でした。参道の終わりの地点の神池(ともう一つの池)から流れてくる形式でそこからはいよいよ階段を登って拝殿です。
 
   拝殿への階段を登ってすぐ私はトイレへ行ったのですが、そこでプロレスラーの前田明選手をトイレ脇でお見掛けしました。堂々たる恰幅でもう年齢も還暦に達しようかというお歳だと推察しますが、香取神宮での遭遇はやはり香取神宮は武人の祈りの場なのだ、という感慨を持たせられました。
 
   拝殿そのものは想像していたものよりもやや小さく、豪華ではあったものの黒基調でやはり武力信仰の雰囲気が感じられるものでした。機会があれば、また来てみたいという感慨の湧く神社でした。
 
(五)
   それから、すぐSさんの運転で集合場所の我孫子駅まで1時間45分ほどクルマです。4時ごろから出発して4時20分ぐらいから夕焼けの気配です。利根川沿いの土手道を走ったのですが、はじめ筑波山が見え、間もなく正面に富士山が見え始めたのです。これは綺麗でした。壮麗と云ってもよい。この日の北総湿地帯ドライブを太陽も景観も最後まで祝福してくれている印象でした。
 
   5時には真っ暗になり、Sさん一人ご苦労をおかけし、5時45分ごろには我孫子駅に到着し、後は一杯飲んで、この日の幸せな大団円を迎えたことは云うまでもありません。
(令和6年12月7日)
 
(にしけんじ
 
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