高橋一行
ヘーゲルが、今よりは少しだけ、読まれていた時代がある。私よりも年上の世代が、若い頃である。当時、マルクス主義は全盛で、マルクスを理解するためには、ヘーゲル読解が必要だということで、多くの人が関心を持った。文学的関心があると、『精神現象学』から入るのだが、マルクス主義者の大半は、『法哲学』を読もうとし、その読解のためには、「論理学」が必要だということになり、私自身も通ったが、『小論理学』の勉強会などが、あちらこちらにあった。
ここでは、思い出を語ることに主眼を置くのではなく、なぜ、私がヘーゲルに関心を持つようになったのか、そのことを確認することによって、ヘーゲルの意義を語ることが出来ると思う。それはこのシリーズの、最終の節として、ふさわしいものになると思う。
私にとってだけでなく、当時、ヘーゲルを理解するためには、「論理学」の読解が必要だということは、自明とされていた。
「論理学」は、カテゴリーの発展を記述するもので、それは、すべて認識と存在の発展史でもある。それはまた、一個人の発展史でもある。個人の展開に即して言えば、まずは、子どもは無自覚的な自我であり、それは、「存在論」の段階の「対自存在」である。それが「概念論」に至って、「概念そのもの」になると、これが自我の目覚めに当たる。こうして世の中のことを、自分の頭で考えるようになる。さらに成熟して、物事の必然性を理解できようになると、これが、「絶対的理念」であり、歴史を担って、社会を指導する英雄となる。こんな風に、カテゴリーが後に来るものほど、上位のもので、物事は、すべて、「論理学」で扱われる順に発展して行く。と言うより、ヘーゲルが、すべて、認識と存在の発展の仕方をまとめて整理し、それを抽出したものが、「論理学」である。
牧野紀之は、そのように、ヘーゲルを読み、当時、読書会を指導していた。そこでは、ヘーゲル哲学の根本は、次の二点にまとめられる。
認識も、存在も、ともに発展する。
すべては、自我に集約される。
私には、牧野紀之が最もヘーゲルを表していると思えた。いや、ヘーゲルの持つ、雑多なもの、余計なもの(後に、それらこそ、面白いものだと分かったのだが)を、全部削ぎ落として、純粋に、その論理を突き詰めると、彼の主張になる。それは、短い、一連の著作となって、出版されていた。
先の話をもう少し展開すれば、補遺-2でも書いたが、「存在論」の論理は、移行であり、「本質論」のそれは、反照であり、「概念論」の論理は、発展である。この中で、一番重要なのは、「概念論」である。しかし、私がすでに説明したように、「存在論」の定在から、対自存在へ向かう所で、無限の概念が導入され、つまり、ここで、すでに、発展の論理が使われている。それが、再度、「概念論」で、縦横に使われるという仕組みになっている。それで、先の牧野の、「論理学」の発展を、個人の発展と重ね合わせるという議論の時も、最初に、「存在論」の対自存在が出て来て、それが、「概念論」で、さらに発展するという順番になっている。そこのところが、ヘーゲル「論理学」のメインになる。
さて、マルクス主義者にとって、ヘーゲル論理学を読むのは、『法哲学』を読解するためである。そこにも、「論理学」の論理が、使われている。例えば、その第三部「人倫」は、家族、市民社会、国家から成る。愛による、一体感に包まれた家族から抜け出して、欲望の体系である、分裂した状態の市民社会に入り、そこでの諸矛盾を、国家が解決してくれる。人は、その中で、真に自由になれるという訳だ。つまり、対立が未分化な状態から、分裂した段階に入り、それが克服されるという過程が、ここで描かれていることになる。
それで、繰り返すけれども、そういう面はあると思う。しかし、ここにはいくつかの補足が必要だ。人は確かに、国家の下で、ある程度の自由は得られるが、しかし、国家は、人の集団として、最終段階ではない。国家の章は、さらに、国内公法(つまり、国家)と国際公法(つまり、国際関係)と世界史に分かれる。人の集団としては、世界史にまで進むはずである。ヘーゲルを国家主義者と考えるのは、幾分かは正しいが、幾分かに過ぎない。
また、あとで述べるように、最終段階が、それ以前のすべての段階を支配するのでもない。ヘーゲルの面白さは、最終段階の導出にある訳ではなく、それまでの過程の持つ様々なあり様の、詳細な分析にある。
それから、弁証法を、存在論的に考えるか、認識論的に考えるかという問題提起も、当時はなされていた。つまり、事物の発展を記述するものなのか、単に、認識の構造を記述するものなのかということである。しかし、先に、存在と思考がともに発展し、両者の一致こそが、ヘーゲル理解のポイントだということを押さえると、これは問題にならない。弁証法は、自然や社会の発展を扱うものであり、しかも同時に、認識の進展を詳述するものでもある。
この問題を扱った、許万元の『認識論としての弁証法』は名著である。マルクスとエンゲルスの時代は、ヘーゲルの弁証法を使って、社会の解明をしている。つまり、際立って、存在論的である。それに対して、レーニンは、ヘーゲル「論理学」とマルクスの『資本論』を認識論としての弁証法として読もうという、問題提起をした。それは、存在論的な弁証法を踏まえ、主観と客観の同一性を押さえて、対象を変革することで、認識の歩みが、対象自身の運動に合致することを強調したものである。
それに対して、ヘーゲルが観念論で、マルクスが唯物論だという、当時、しばしば両者の大きな違いとして言われてきたことについて、私は、ほとんど、重要だと思うことはなかった。ヘーゲルを読み込めば、労働概念を相当に重視しており、世間がマルクスの功績だとしているものの論理構造は、すでにヘーゲルが全部持っているように思われたからだ。また、これは、前著『知的所有論』にも書いたが、マルクスは、どうでも良いところで、ヘーゲルの名前を出して批判をし、しかし、本質的なところでは、相当にヘーゲルの影響下で、物事を考えていると思われたからでもある。
しかし、すべてが発展するということに対して、私は違和感を禁じ得なかった。発展は、限定的、かつ、いびつなものである。万物は、退歩するものもあり、または停滞する。あるいは、永遠に反復するように思えるものもある。そう言う方が、私の感覚には近い。
また、すべてを自我に集約するのは、あまりにも、人間の傲岸である。事実上、人は、そういう思考法を取らざるを得ないのかもしれず、つまり、人は、どうしても避けられず、そういう思考をしてしまうかもしれないが、しかし、堂々と、そのように表明するのは、如何なものか。人間中心主義に対して、恥じらいはないのか。
しかしとりあえず、その違和感を脇において、牧野紀之や許万元を読むと、ヘーゲルの核心を教わることが多かった。まず、ヘーゲルにあって、自由と無限とは同義である。主体と他者、主観と客観が完全に合致したときが、無限であり、自由である。
また、主体が客体を完全に自己のモメントにする、その機構が観念論である。観念論的というのは、他者を自己のモメントにし得たという意味である。その意味で、ヘーゲルにとって、思考と消化は同義である。そのどちらも、観念論的な作業である。
そういったことを押さえておくと、世に、ヘーゲル哲学を、定立、反定立、総合とまとめたり、さらには、正、反、合と、簡略化して、説明することがあるが、これも間違いではないと思う。例えば、ピアノを弾こうと思う人がいて、その人に対して、思うように、音が出ないピアノは、反定立である。しかし、練習を重ねれば、人とピアノは一体化して、そこに自由の境地が生まれる。そういう、あまりにも通俗的なヘーゲルのイメージは、しかし、うまく、ヘーゲルを捉えている。
ピアノは、先人が、良い音が出るようにと作り上げたもので、人類の労働の結晶である。それは、主体にとって、対象であり、他者であるが、しかし、労働の生産物は、それを作った人々の自己意識が投入されたもので、自己関係的構造を持っており、そのことに、主体、つまりピアノを弾く人が気付けば、つまり、どのように弾けば、ピアノが良い音が出るのかが分かれば、ピアノを上手に奏でることができる。
また、ピアノは道具であり、主体が、まずは、ピアノを上手に弾きたいという目的設定をし、それを指という身体を通じて、道具であるピアノを動かし、客観的な音楽として、外に対象化して、人を感動させる。そういう仕組みは、ヘーゲルが、「論理学」で説明するところである。
以上が、ヘーゲル哲学の社会科学上の応用で、それほど難しい訳でもなく、逆に、そのあまりの分かりやすさのために、私には、ひどくつまらないものに思えていた。そのことの説明は後回しにする。先に以下のことを書く。
社会の発展ということに違和感があったけれども、しかし、私はむしろ、自然が発展するということに関しては、違和感を持たなかった。つまり、宇宙は、ある時に爆発して、発展し、その中に、地球が生まれ、そしてそこに、生物が発生する。その生物は、進化して、やがて、精神を産み出す。神を認めない以上、これこそが自然の発展である。自然は、ただ変化するだけのように見えるが、しかし長い目で見れば、発展してきたことは明らかで、その発展は、ヘーゲルの論理学を使って、解明できると思った。つまり、物質がどのように生まれ、生成したのか、生物はどのように発生し、進化したのか、またその中からどのように精神が生成したのかということは、取り組むべき課題としてあった。
すでに、梯明秀の『物質の哲学的概念』が出ていた。また、物理学者の武谷三男が、著作集を出したのは、1960年代の後半で、その後、マルクス主義の影響を受けた科学者たちの一連の仕事があった。私はそれらに対して、もう少しヘーゲル研究がそこに加わると、大分話が見えて来るのではないかと思った。80年代に入ると、物理学者の町田茂とヘーゲル研究者の有尾善繁の共著論文『現代科学と物質概念』も出た。これは、物理学、とりわけ量子力学を、唯物論的に解釈したもので、刺激的だった。
それは、本格的に、自然の発展を問うものである。すでに、エンゲルスが(補遺-1で扱ったように)、「存在論」の論理である移行、「本質論」の反照、「概念論」の論理の発展を基にして、量質転化、対立物の相互浸透、否定の否定と、ヘーゲル論理学を簡便にまとめていた。そして、自然の中に、それらが見られることを、例証していた。例えば、水は、100度を超えれば、また、0度以下に下がれば、気体や固体に変化する。それは最も分かりやすい量質転化の例である。また、牽引と反発という、これもヘーゲル論理学に出て来る概念を使って、エンゲルスは、長々と、物理学の説明をしている。しかし基本的に、エンゲルスの仕事は、例証に留まるように思えた。唯一参考になるのは、「猿が人間化するにあたっての労働の役割」という論文で、これは、題名の通りの内容で、参考になった。
当時の私の関心は、高分子の集合が、どうなれば、生物となるのか。また、哺乳類は、ある程度の学習能力を持つが、それが、どうなれば、人間の精神となるのか。そこには、つまり無生物と生物、生物と精神との間には、決定的な飛躍があるのではないか。それを解明できるのは、ヘーゲル論理学ではないのか。そこには、高度の想像力と、発展の論理とが必要ではないか。
つまり、自然こそ、発展するのだけれども、一般的には、物質は、発展ではなく、ただ単に変化するだけであり、生物は、ただ単に、生まれて死ぬということを繰り返すだけのように思われる。その中に発展を見抜くのは、確固とした方法論に支えられた研究が要る。また、すでに、生物の中に、潜在的に精神が宿っているのを見出し、物質の運動に、生物の論理を見つけるのも、同様である。それは興味深いテーマではないか。そういう思いはあり、それは実は、今でも、私の中にある。
ここまでが、私が、10代の後半から20代に掛けて、最初に習ったヘーゲルの理解で、今振り返ってみても、それは間違ったものではない。しかし、何といっても、つまらない。面白くない。強烈な違和感がある。
しかしその違和感のために、却って、私はヘーゲルを勉強しようと思った。その違和感を確かめようとしたのである。まずは、デリダやフーコーとヘーゲルを比較してみた。つまり、今回の「ヘーゲルを読む」の大本のようなことをやっていて、しかし、あまりうまく行かない。そのうち、ほかの勉強を始め、それに時間を取られ、また、現実的には、食べて行くのに精一杯で、勉強している暇がないという時代も長く、そのあたりのことは、『知的所有論』の後書きに書いた通りで、繰り返さないが、50歳に近づいて、ようやく、このテーマに戻って来て、『所有論』と『知的所有論』を書いたというのが、私の遍歴である。この数年は、やっと、好きなことができて、面白かったと思う。
さて、問題は、その違和感をどう整理し、解決したのかということである。
つまり、繰り返すが、社会は、事実として発展する。しかも、近代以降、そのことを見るのは易しい。つまり、容易に発展史観は、生まれ得る。しかし、そこで言われる発展は、限定的だし、いびつである。退歩するものもあり、停滞し、反復するものもある。そして社会科学としては、むしろ、そういったものに着目する方が、興味深くないか。また、生物を見れば、明らかだが、人間が精神を持っているからという理由で、一番発達したものだと考えても構わないが、地球は、人間だけで成り立っているのではなく、夥しい種類の生物であふれており、重要なのは、その多様性を見ることである。同様に、社会においても、発展という観点を重視する研究に、面白味は少ない。多様性をどう尊重するか。また、発展史観では見えなくなってしまう物事を拾うことこそ、有意義なのではないか。
そう思って、ヘーゲルを読み直すと、実にまさしく、そういう問題意識に、ヘーゲルは答えてくれる。
ひとつは、補遺-2で書いた、悪無限と真無限の違いには、昔から疑問を持っていた。一体、両者は何が異なるのか。
あるものは自らの限界を克服して、他のものに変化する。その他のものも、さらに別のものに変わって行く。この変化は、しかしまだ、悪無限である。その変化の中で、自己が他のもの中に、自己自身を見出せれば、その運動は、真無限である。このようにヘーゲルは言う。しかし、ここで、何も異ならないではないか。この理解、つまり、真無限と悪無限の違いを理解することは、ヘーゲルを理解する際の、最も重要なポイントである。ここで言われている、否定的自己関係が分かるかどうかということで、それこそが、ヘーゲルを理解できるかどうかの、試金石である。万物は、変化する。しかし、その変化が、発展であるかどうか、そこが問題だ。個体は生まれ、生殖行為をし、やがて死ぬ。世代は次の世代へと変化する。次々と、世代交代は、起きる。それはしかし、悪無限的変化である。しかし、その中に、次の世代が、前の世代の期待を担って、前の世代から見れば、次の世代にこそ、自分の本質が見えて来るような、そういう関係であれば、それは真無限であり、ヘーゲルは、そこに類が宿ると言うのである。しかし、どうしても、私には、その違いが見えてこない。同じことを、別の観点で見ているだけの話にすぎないのではないか。
ヘーゲルはそこで強引に、存在も思考も発展するものとして、体系化するのである。しかしその論理は危うい。自由と無限を求める体系が、実は、誤魔化しの上にできていないだろうか。
私は、はじめは、そういう所から、ヘーゲルの体系は、綻びるのかと思った。しかし、そうではない。最初から、そういう綻びを至るところに持ちつつ、強引に体系化する。いや、体系化せざるを得ない。それがヘーゲルの魅力である。満身創痍の体系が、ヘーゲルの面白さである。
止揚(aufheben, 揚棄とも訳される)という概念にも、それは現われている。このドイツ語は、保存する、否定する。高めると、三つの意味をヘーゲルによって持たされている。まさに、この単語が、弁証法そのものである。しかし、日常的には、このドイツ語は、否定するという意味で使われることが多い。そしてヘーゲルにおいても、また、否定が一番重要なのではないか。つまり、高めるという意味合いは、否定するという作業の中でしか、生まれて来ない。
発展と言っても、高々、そんなものに過ぎない。本来、反復でしかない(悪無限はそういうものだ)のに、また、退歩でしかない(否定の多くは、まさしく否定的なものだ)のに、それを発展(真無限、または「否定の否定」)と言うのである。
そういったことを私は長い間考えつつ、しかし、それを発表するには至らなかった。世に問おうと思ったのは、数年前、所有概念を調べて、無限判断の発想に辿り着いてからである。
そのあたりのことは、今まで、何回も、この「ヘーゲルを読む」で書いてきた。
さらに、そこから、つまり、所有論から、無限判断論に至り、ジジェクの指摘に気付く。ジジェクを知ってから、私は、大分気が楽になった。何だ、こういうことだったのかという思いである。確かに、ジジェクが言う通り、『精神現象学』も、「論理学」も、その「論理学」を含む『エンチュクロペディー』も、失敗の連続である。一度も、成功していない。それが、ヘーゲルの体系だ。
こういった理解は、社会における発展という問題の解明に資するはずである。情報化社会の出現は、なるほど、工業化社会の発展としてある。そこでは、知的財産は蓄積され、それはなるほど、社会が進歩した結果である。しかし、コモンは横領され、富は偏り、格差は拡大する。状況は悪化していると言うべきである。また、それを解決すべく、プロレタリアートの能力が、飛躍的に伸びて、資本主義社会における経営者に代わって、自治が可能になったということではない。
そこのところでは、過度にプロレタリアートの能力を評価する人たちと、また逆に、アナーキズム的に、社会運営の際に、その遂行者の能力を問わず、何とかなると思っている人たちとに分かれるように、私には思える。そのどちらでもなく、さらにはプロレタリアートの概念そのものが、変化していることも、考慮しないとならない。通俗的、ないしは古典的ヘーゲル理解では、限界があり、すでに後の、ヘーゲル批判を全部、想定して、自らへの再批判を用意し、その上で、敢えて、綻びだらけの体系を提出したヘーゲルが必要だと思う。
参考文献
以下、すべて私の手元にあるもので、今は入手困難なものが多いが、図書館を利用すると、何とかなるかもしれない。
牧野紀之 鶏鳴双書というのがあり、氏の著作はすべて、ここから出されている。
許万元の『認識論としての弁証法』青木書店、1978
梯明秀『物質の哲学的概念』青木書店、1956
武谷三男『武谷三男著作集1-6』、勁草書房、1968-70
町田茂・有尾善繁『現代科学と物質概念 -対象性と自立の弁証法-』青木書店1983
エンゲルス『自然の弁証法』、『反デューリング論』(ともに、補遺-1前出)
(たかはしかずゆき 哲学者)
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