世阿弥の『風姿花伝』に歴史知の話題を拾う―読書ノート(上)

石塚正英

  
はじめに 
 
   これからしばらく、世阿弥の『風姿花伝』を相手に読書し、その印象をもとに何か関連する事柄を綴ってみたい。本格的な古典文学評論ではなく、『風姿花伝』をネタ本にして日本文化の基層を歴史知的に探ってみた読書ノートである。例えば、ある村において、架空の存在である天狗やオロチが村人たちの呪術的伝承の中で歴史を紡いできたとする。そうであれば、天狗やオロチを歴史の確かな証拠とみなす。それらが本物であるか否かの真偽のことを言っているのではない。それらになにがしか意味深長な価値を見いだす生活様式・日常文化が形成され現代文化の基層を成している事実に注目すべき、と言っているのである。能楽はある種の呪術的文化に支えられつつ生成した。そして、歌舞と能面に象徴されるように、呪術の効力は現代にも及んでいる。そうした研究対象を探る知的視座を、私は歴史知としている。
   使用テキストは林望『すらすら読める風刺花伝』(講談社、2004年)であり、ほかに出版各社の関連図書を参照している。各節の見出しはテキストに準じ、その下の各項目の見出し、及び下線は私が付けている。[/]は段落を示す。引用文末の数字はテキストの頁数。ルビはテキストのまま。
   なお、能楽愛好者の会幹事の斉藤征雄『世阿弥の能を読む』(幻冬舎ルネッサンス、2012年)には以下の記述が読まれる。「初期に書かれた『風姿花伝』ではそれほど感じないが、中期以降はしだいに漢語が多くなりそれも禅句の引用が目立つようになる。世阿弥の能が禅の影響を強く受けていることはよくいわれるところではあるが、想像以上である。/このようなことから、私にとって世阿弥を読むことは並大抵の作業ではないことがわかった」(12頁)。同書にはまた、『風姿花伝』の執筆時期に関して、「第一から第二までが世阿弥三十八歳頃までに書かれたもの、第四、第五が四十歳頃までに書かれたもの、第六、第七はその後二、三年の間に書かれだといわれており、四十四、五歳の頃には全篇が完成したと考えられている」(23頁)とある。長く秘伝書だったが、歴史学者の吉田東伍によって調査研究され、1909年に公開された。ただし、その奥義は、世阿弥以降において歌舞する身体を介しつつ連綿と受け継がれてきたことは確かである。
   それからまた、『風姿花伝』には世阿弥の父である観阿弥にかかわる内容が織り込まれているので、引用箇所によっては「観阿弥いわく」とするべきなのかも知れないが、そこは考慮しないでおく。
   
第一節 風姿花伝一 年来稽古条々
   
〔1-1〕子どもは遊ぶのが仕事
能楽の稽古は、だいだい七歳の時分に始めるのがよい。このころの能の稽古というものは、ともかく自然にまかせるということが肝心である。どんな子でも、それぞれがやりたいようにやらせておくと、その自然に出てくるやり方のなかに、かならず個性的なありさまが見えてくるものだ。/舞いやしぐさのなかに、また謡いにのせての所作はもとより、さらにはたとえば怒気を含んだ鬼物の所作などの場合であっても、本人が何心もなく思いついて見せる動きなど、みなその子の好きなように、心のままにやらせておくのがよい。/この時分には、「こうするとよい」とか「そうしちゃいけない」とか、事細かに教えるのはかえってよくない。あまり口うるさくあれこれと注意すると、子供というものはやる気をなくして、能なんて面倒くさいなあと思って怠る心ができるから、すなわちそこで能の進歩は行き止まりとなる。13-15頁
★石塚注記:「本人が何心もなく思いついて見せる動きなど、みなその子の好きなように、心のままにやらせておくのがよい」とされるが、それはいわば遊びの一種なのではないだろうか。文中の「舞い」について、馬場あき子『古典を読む 風姿花伝』(岩波書店、2003年、19頁)には、「基本は跳躍のない旋回運動で、俗にいう摺足すりあしで、舞台を運ぶ」とある。摺足と聞くと、私はナンバ歩きを思い起こす。右手と右足、左手と左足を同時に出す日本古来の歩き方である。今でも幼児は時折ナンバ歩きをしてなおされることがある。
   ところで、かつて「子どもは遊ぶのが仕事」と言われた。では、昔の子どもたちはどんな遊びをしていたのだろうか。鬼ごっこや隠れんぼ、石けり、それからブランコなどだ。「遊び」の発祥について私なりの定義を示してみたいと思う。まず強調したい点は、先程紹介した鬼ごっこや虫虐めを含めて、遊びとは元来は大人の真剣な実生活上の儀礼が堕落し世俗化し、子どもの戯ごとと化したもの、というのではないことだ。その逆に、遊びとは、元来大人も子どもも、およそ人間であるかぎり誰もが執り行なっていた神との合一、神との共食(直会)に特徴づけられる儀礼のことである。それは、人が未だ大人と子どもとに分化せず、神と人との固定した境界すら未だ生ぜず、両者間に互酬の原理が働いていた先史の世界における、ハレの儀礼に発祥している。その互酬的な世界から、大人だけが、文明とか合理、分別とかに特徴づけられる別世界に移行してしまい、ついには豊国大明神や東照大権現に象徴されるように、神を超越的に昇華させてこれと隔絶してしまった。その上で、かつての世界を子どもの無意味かつ非合理な、あるいは堕落した戯ごとの世界と規定したのである。だが、大人たちが移行していった世界――自然信仰軽視――のほうこそ、限定的な世界、打算的で利己的な世界なのだった。歴史学者の網野善彦は、民俗学者の宮田登との対談(網野善彦・宮田登『歴史の中で語られてこなかったこと』洋泉社、1998年、90-91頁)でこう語っている。「神や仏、つまり自然に対する人間の敬虔な姿勢がだんだん弱くなってくるときに事態は大きく変わります。年寄りや子供のとらえ方の変化も、そうしたことと関わりがあると思います。私流の勝手な考え方では、それはだいたい十四、五世紀ごろだと考えます」。
   一見すると残酷に響く子どもたちのよわい虫虐めの行為こそ、人間の根原的な行動様式を暗示している。それは遊びを定義する際の本質的内容なのである。ときに上下の役割を転がしてそれを虐める、そのような精神構造・様式=フェティシズムこそ、先史の精神、遊びの本質を特徴づけている。遊びとは本来、労働意欲回復のためのリフレッシュとか休息とか、そのような一面的、従属的、打算的なものではなかった。いまでは子どもの世界に僅かに余韻を遺すだけにすぎないのだが、そもそも遊びとは、大人といわず子どもといわず、人々の行動や思考が文明と非文明、合理と非合理等々に分化する前の全人的な行動様式・思考様式に含まれるのである。発祥の次元でいうと、人はまず遊びから日常生活を開始したのだった。
   ロジェ・カイヨワは、著作『遊びと人間』(1967)において、子どもといわず大人といわず、人々の遊びは二つの極に配置できるとしている。一方は「パイディア」というギリシア語で表現され、「気晴らし、騒ぎ、即興、無邪気な発散といった共通の原理」「統制されていない気紛れ」で特徴づけられる。他方は「ルドゥス」というラテン語で表現され、「無秩序で移り気な性質」を「安易に目標に到達させないため」「恣意的だが強制的でことさら窮屈な規則にそれを従わせ」「一そうの努力、忍耐、技、器用がなければこの目標に到達できない」(カイヨワ、多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社文庫、1990年、44-45頁)ようにする傾向のことである。
   その際、カイヨワが「パイディア」という語を選んだ理由として、「それが子どもを表わす名詞を語源としていて、子どもを連想させるから」(同上、67頁)だ。そのパイディアのみの状態では、人は、ものごとに対して名付けによる概念区分をすることはない。たとえば、ある子どもが一本の小枝をもってそれを嬉々として振り回したとする。そのとき、その行為をチャンバラと認識すれば、それはもはやパイディアがルドゥスと結びついている証拠である。パイディアでは、小枝を振るのは意味のないことなのだ。意味なき行為とそれを介しての快楽にこそ、パイディアの特徴があるのだ。このようなパイディアは、なるほど子ども時代の人間に相応しいと言える。
   しかし、いくら子どもだって、何の意味ももたない小枝より、名刀正宗とか魔女の箒とか名付けて遊んだほうがずっと楽しいこともよくわかっていよう。要するに、カイヨワが言いたいのはおよそ遊びというものには無意識ながらパイディアの状態が潜在していて、それがたとえばチャンバラ遊びと本当の真剣勝負とを区別するものなのだ、ということであろう。
   ところで、遊びにおける他界、といったテーマを想定してでもここで引用しておきたい考えがある。それは松岡心平と多木浩二の対談「分節化の方法―世阿弥と身体」(松岡心平編『世阿弥を語れば』岩波書店、2003年、130-131頁)に読まれる以下のくだりである。「例えば世阿弥の能の中で特に興味深いのは、他界というものの存在をはっきり出しているわけですが、これは宗教的な意味での他界とは別のものに見えてきます。つまり能の主人公は不完全な人生しか送れなかった人間ですね。人生の不完全さに対する補完のような形で他界を置いて、そこからもう一回人生の完全さを取り戻すように描き直すというのが見えてきます。まあその時代のことですから他界は宗教的に考えるのが普通でしょうし、実際なんとなく宗教的な形で結末を迎えるのですが、だけどそれは仮のもので、彼にとっては人生がままならぬ思い――これはおそらく中世人にとってはみなそうたったのではないでしょうか――絶対に完全な人生は持ちえないという、ままならぬ人生を見なおす一つの道具というか、〔装置としての他界〕が登場する。その他界と現世が重層した形で登場するところに能が展開していく」。多木のこの発想は科学的人間感が瓦解しつつある21世紀にこそ妥当するイメージであると、私は感嘆して読んだ。
   
〔1-2〕型を学ぶことの意味
十二・三より
/このくらいの年齢になれば、謡う声もだんだんと能の音階に合せられるようになり、もう内容的なこともちゃんと理解できるころであるから、謡い、舞い、演技とも、順々に少しずつ数多くのことがらを教えてよい。/(中略)とはいいながら、この花はほんものの花ではない。言ってみれば、ちょうど良い年齢ゆえの花であるに過ぎないのだ。かかる花が備わっているからして、この時分の稽古はなんでも容易にできてしまうところがある。だからといって、この時分の稽古で達成したことが一生の芸の格として身につくというわけでもない。したがって、この時分の稽古は、年齢相応のやりやすいところを舞台で華やかに見せるようにして、一方、一つ一つの基礎的な技を丁寧に稽古することが肝心である。すなわち、動作を確実にし、請いは発音を正しく明瞭にするように心がけ、舞いも一つ一つの所作をきちんと守って、大事に大事に稽古しなくてはいけない。18-21頁
★石塚注記:文中の「時分」について、直木賞作家の渡辺淳一は『秘すれば花』(講談社文庫、2004年、31頁)において、こう記している。「時分とは字のとおり、「とき」とか「ころあい」の意味である。そこからさらに、「適当な時機」または「好機」をさすことになる。したがって、この真意は、「この花(美しさ)は本当の芸の力からでたものではなく、たんなる一時の花にすぎないものである」と。
   さて、ここでの教えは、いわゆる〔型を学ぶことの意味〕を諭している。私の経験を記そう。半世紀ほどの昔、友人たちとスキーに行ったときのことだ。スキー発祥の地(新潟県上越市)に生まれた私は、4、5歳のころから滑っていたから、誰よりも得意のはずである。けれども意外なことに、ゲレンデのインストラクターは私にこう言った。あなたは小学生よりも成績がわるい、と。それで、作家のなだいなだの文章だったか、ひとつ小話を思いだした。ある島のトビウオのような小学生たちの水泳が通知表で2かそこいらだという内容の文である。
   今の学校教育では、とにかく型にはまらなければ優れていると評価されない。素潜りでアワビを採れても、クロールがへたなら褒めてもらえない。生活上の山スキーが得意でもシュテム・クリスチャニアのできない人はもうけっして伸びないと烙印をおされる。なんたる転倒だろうか。むかし、おふくろにでっかいにぎりめしを作ってもらい、それを背中にせおって一日中森や峠を越えて山スキーを楽しんでいた私は、今の学校教育では落ちこぼれだ。クロールなんかじゃサザエは採れないと先生にたてつく島のトビウオ君もダメな生徒らしい。
   型とは、かようなものだろうか。なるほど、柔道や剣道にはきまった型がある。あるいは日本舞踊や茶道、花道にも守破離という道がある。なにごともまず、型というものを身につけ守らなければいっさいが始まらない。学校での学習もしかりである。けれども、最も大切なことは、その型を一人ひとりが生活する上で自身に合うよう、創意工夫でもってアレンジしなおすことだろう。それができてこその型なのではないだろうか。型とは、学ぶものではあれ、はまるものではない。しかし文部省を筆頭に今の教育行政は、あまりに型にはまりすぎだ。自身がはまっているだけならいざしらず、子どもたちに型をおしつけすぎなのだ。人はみな、自身の個性や生活環境にマッチした型をつくりだしていくべきであり、教育はその後押しに徹するべきではなかろうか。「一つ一つの基礎的な技を丁寧に稽古することが肝心である」という世阿弥の教えはまさにそのことを言い当てているのである。
   
〔1-3〕武士神道との絡み
十七・八より
/(中略)だから、この時期の稽古は、舞台では指さしして嘲られることがあろうとも、それは気にかけないこと、そして家に帰ってからは、あまり無理な高声など使わずに、そこそこ届く程度の高さの声で、宵には十分に声を出し、朝にはちょっと控えめにして発声を整える。心の中に神仏かけての願力を奮い立たせて、おのれの一生の分れ目はここだ、と覚悟し、これから先、生涯をかけて能を捨てずに精進するということのほかには稽古の方法もないのである。そうして、この時期に諦めてしまったら、もうそれっきり能は行き止まりとなる。25-26頁
★石塚注記:この教えには「神仏かけての眼力を奮い立たせて」(願力を起して)とある。原本の成立は15世紀初頭の応永年間なので、その当時における神仏とは、いったいどんな具合だっただろうか。幕府のおかれた京都を中心に、時宗・法華宗(日蓮宗)・浄土宗・一向宗(浄土真宗)・禅宗などが勢力を拡大していった。そのうち禅宗は武士階層に広まり、その動向は茶の湯や庭園、絵画などを通じて武家文化の形成に寄与した。また、浄土系の念仏(念仏踊り)は民衆の生活様式や芸能・娯楽に浸透していった。その間に日本古来の神道と外来の仏教との習合が進み、神社と寺院が一体となった信仰形態が一般化していった。そのように、室町文化は禅宗や浄土宗など宗教的要因を抱え込んだが、その過程で武士階層において武士神道が確立していった。その先駆は貞永元年(1232年)制定の「御成敗式目」の第一条にみられる。そこにはこうある。

〔原文〕一、可修理神社專祭祀事
右神者依人之敬增威、人者依神之德添運、(以下省略)
〔書き下し文〕一、神社を修理し祭祀を専らにすべき事
 右、神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ。(以下省略)

   ここに記されている神は絶対神・至高神ではない。「海の神」「山の神」「風の神」など、いわゆる自然諸神である。そのような神々は人(信徒)に敬われてこそ神格(神威)を維持できるのである。また、人々(信徒)は自然諸神の徳によってこそ幸運を得ることが出来るわけである。そこに神々と人々との相互依存の関係を読み解くことができよう。このような神人相依は先史の自然崇拝、あるいは民俗神に関連しており、いわゆる原始神道ないし古神道である。御成敗式目はその精神に一致していた。その点を考慮して、私は鎌村室町期の武士精神を「武士神道」称している。世阿弥の『風姿花伝』はその精神の一成果だった。拙稿「武士神道と武士道の類型的相違」、拙著『歴史知のアネクドータ―武士神道・正倉院籍帳など』社会評論社、2022年、第1章、参照。
もう一つ、「神仏かけて」の時代を象徴する事例を見ておきたい。それは神域における商品交換である。日本史家の網野善彦と民俗学者の宮田登による以下の対談が参考となる。「網野 今日の談合は、神が不在だから何をしてもバチが当たらないと思っている(笑)。/宮田 つまり談合は饗応とか接待が必ずともなうわけです。それを認めないような制度ができて、談合が形式的なものになってしまった。もともと饗応というのは、貴人や神をもてなすことです。それがそうではなくなり、別の目的のためだけに行われるようになった。本来の伝統が切断された。いつからそうなってしまったんでしょうか?/網野 これはあらゆる問題に通ずる大問題ですね。今のお話は、市場の問題にも関わります。市場は境に設定され、そこはやはり神の世界に近い場所です。市場では相場を決める談合や饗応、そしてお祭りもやりますし、芸能もあります。それと同時に、これは私流の言い方ですが、市場ではすべてのものが「無縁」になる。つまり「神のもの」になるわけです。このことは中世史家の勝俣鎮夫さんもはっきり言っておられます。だから商品交換ができるわけです。ふつうの場所でものを交換をすれば、贈与とお返しで人間の関係がむしろ緊密に繋がってしまうことになります。ものが「無縁」になる市場だからこそ、初めてものの商品としての交換ができるわけです」(網野善彦・宮田登、前掲書、89頁)。「神かけて」あることにより、現代と当時とで、交換の意味が決定的に違っていたことに注目したい。中世史研究者の横井清は『中世民衆の生活文化(上)』(講談社学術文庫、2007年、59 頁)で次のように書いている。「神の前に誓約を遂げ合う精神は、一方では、民衆自身の自治・自衛の体制を強固に保つ原動力ともなりながら、他方では、領主権力による民衆の分裂的支配のために運用される危険性を一貫して内包していたことを軽視できない」。横井は明記していないが、民衆の神と領主権力の神とは性格や役割が正反対なのである。そうした権力肥大化を風刺して笑劇に仕立て上げたのが狂言だった。横井は同書(71頁)でこう説明している。「人間の「対立」を社会的諸関係のうちに捉え直し、喜怒哀楽の人情を諷刺精神と日常用語をもって素朴に映しだしながら、観る人の共感を独特の笑いへとみごとに集約させていった狂言。そこに現われる民衆の姿の、何という親しさ、多彩さ。わわしい山の神が鬼よりこわい恐妻家も出てくれば、盗賊や素破すっぱなどというペテン師も愛すべき稚気を失わずに躍動する」。
   なお、世阿弥の教えは一子相伝なので、20世紀に入るまでほとんどだれも知らないままだった。そのことに関して、斉藤征雄は前掲書(178頁)にこう書いている。「世阿弥の書いた能楽論は、元雅や禅竹に相伝され、あるいはその一部は弟四郎を通じて音阿弥などにも伝わったかも知れないが、それ以外の能役者には世阿弥が繰り返し注意しているように厳しく秘すべきものだった」。
   
〔1-4〕能の声は神言(カムゴト)で体は神態(カムワザ)
二四・五
/このころ、一生の芸能の位が定まる、ちょうどその分れ目のところに当たっている。だから、稽古もここが肝心かなめのところである。変声期はすでに終り、体も安定してくる。しかるに、能という芸能にとっては、二つの幸いがなくてはならぬ。声と体の二つである。この二つはまさにこの時期に善し悪しが定まると言ってよい。そうして、これから段々に全盛期に向かっていく本格的芸能の生まれてくる時期がこのころなのだと言うことができるであろう。(中略)この時期の花こそ、芸道にとっては、ようや「初心」という程度のことなのであるが、もういっぱし芸を窮めたようなつもりになってしまう者もいて、申楽さるがくを演ずるにもなにやら変則的なやり方で演じて見せたりして、いわゆる名人気取りの様子をすることは、これまことに浅ましいことと言わねばならぬ。31-32頁
★石塚注記:文中にある「申楽」について、馬場あき子はこう記している。「申楽の道を修する根本は「二曲三体」にあるというのが、動かぬ世阿弥の見解である。「二曲」というのは「舞」と「音曲」、「三体」は「老体・女体・軍体」の物まねの基本となる人体のことである。殊に大和申楽の特色は、この物まねにあることが自覚されていた」(前掲書、47頁)。
   この教えには人間形成における心と体の均衡が説かれている。鎌倉から室町時代ともなれば、芸道鍛錬における心身は、武道鍛錬における心身と同様の中世的概念を獲得するにいたった。鎌倉幕府第2代執権北条義時の3男北条重時が書いた北条家の家訓「極楽寺御消息」には、神仏の体には血が流れていると記されている。「出家を誹謗する事あるべからず。愚かに思い誹謗せんは、仏の御身より血を滴らすに相似たり」(平仮名の一部を漢字に変換。山本眞功編注『家訓集』平凡社、2001年、87頁)。仏教では古くから神仏に血が流れていると考えられ、神仏に出血の危害を加えるのは五逆罪の一つだった。例えば、4世紀頃の僧侶バスヴァンドゥ(世親)による『阿毘達磨倶舎論』には、殺母、殺父、殺阿羅漢、出仏身血(仏の身体を傷つける事)、破和合僧(修行者たちの和を乱す事)を指して「五逆」と記されている。「極楽寺御消息」の冒頭にこう記されている。「仏神を朝夕ながめ申、こゝろにかけてたてまつるべし。神は人のうやまうによりて威をまし、人は神のめぐみによりて運命をたもつ」(同上、61頁)。
   引用文中に読まれるように、中世の神は人間と相互依存の関係にあった。武士の神といえば諏訪神や八幡神であり、芸人の神といえばアメウズメ女神や弁才天だが、いずれも信徒とともに生きながらえる神々だった。武士や芸人が心身を鍛錬するということはすなわち神態的所作でもあったのである。世阿弥の言う「能という芸能にとっては、二つの幸いがなくてはならぬ。声と体の二つである(さればこの道に二つの果報あり。声と身なりなり)」には、「声と体(身なり)」と能(芸道)の関係が如実に示されている。その際、声は一種の神言(カムゴト)であり体は神態(カムワザ)だった。
   なお、詩人で評論家の大岡信は松岡心平との対談「モラリスト世阿弥」(松岡心平編『世阿弥を語れば』、16頁)でこう言っている。「僕は『風姿花伝』について言うと、『風姿花伝』を現代語訳したことがあって、それを読み直す形でまた読んでみたんですけれども、例えば二十四、五歳のころのことを言っていて、「初心」というのは、この年ごろのことだと書いてあるんですね。初心というのは、二十四、五歳だということは、今度読んでみて、あれ、こんなことが書いてあったんだなと思ってびっくりしたけどね」。
   
〔1-5〕三十にして立ち四十にして惑はず
三十四・五
/この年ごろの能は、あらゆる意味で全盛を窮める。したがって、この時期に至って、この伝書に書きおく条々をよくよく悟得して、行き届いた芸域に達するならば、かならずや天下(都)の見巧者みごうしゃにも認められて、芸能者として一流の名を得るであろう。反対に、もしこの時期になっても、天下の見巧者には認められず、その結果大した名声も得られないのであれば、一見いかに達者に芸をするように見えても、それはいまだ「真実の花」を会得しているシテ(役者)とは考えがたい。そうして、もうこの年ごろが絶頂の時期在なのだから、もしこのころまでに 「真実の花」を会得し得なかったならば万事休す、四十を越えてからは誰もその力量が衰えていくことが避けられない。したがって、四十を過ぎてからどのように芸が堕ちていくかということを見れば、その者が真実の花を会得していたか否かが分るというものである。38-39頁
★石塚注記:世阿弥はここで「真実の花」と記しているが、観世流の能楽シテ方観世寿夫は、世阿弥の思う花についてこう記している。「自然に咲いたり散ったりする草木の花。その美しさを舞台上で演ずる芸の魅力にたとえて、心と技の両面から深め、究めようとする。これが世阿弥の「花」論である」(『心より心に伝ふる花』角川学芸出版、2008年、9頁)。この教えには、芸の上達は肉体の盛衰と連動していることが示されている。主に机上で深める学究と舞台上で極める芸能の差異は大きい。学問の世界であれば、例えば論語(為政第二)に、「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰えず(こえず)」とある。ここに記された「学」を「芸」に置き換えてもさして違和感はない。学も芸も、年齢とともに拡大し深化する修業は、学や芸といった対象よりも、それに携わる人格修練に対する効果を求めている。その修練は必然的に食の道をも極めることとなる。
   古来、日本の食文化は「精進料理」に代表される。藤井まり「鎌倉の精進料理」(日本調理科学会誌 Vol.58 No.1 2025年)によれば、中国にて修行した「道元は食の大切さと、修行とは何なのか、料理を含めて日常の行いそのものが仏道の実践ではないかと悟った」そうであり、精進料理は「修行する僧侶の命を繋ぐための食事から始まり、鎌倉時代以降には、徐々に庶民にも浸透した」(60頁)とのことである。また、栾竹民「日本における「道」の受容と展開―「芸道」の生成を一階梯として」(広島大学国語国文学会編『国文学攷』第180号、2003年)には、世阿弥の芸道に関して以下のように説明されている。「世阿弥が創出した「芸道」は、自分の正統性、独自性、神秘性を際立たせようとする意識を媒介に、この諸の道という土台の下で、始めて出来たものであろう」(22頁)。以上の引用を参考にするならば、鎌倉時代から庶民に浸透し始めた食文化を世阿弥が芸道に取り入れないはずはないだろうと、私は思っている。「四十を越えてからは誰もその力量が衰えていく」という傾向の中には、むろん身体的要因も含まれていた。論語の「四十にして惑はず」は、はからずも世阿弥の芸道考に一致しているのだろう。
   
〔1-6〕教養の地下水脈
四十四・五
/だから、この年齢になってきたら、むやみと綿密な写実の演技などはするものでない。だいたい自分に似合った風体の曲を、さほどな苦労もせずして、さらりさらりと演じつつ、むしろ若い助演者に花を持たせて、自分のほうがかえって助演者みたいな感じで内端うちわ内端に演じるのがよろしい。もし優れた助演者が得られないとしても、だからといって、年がいもなく、俊敏に動き回り身を砕くような演目をやるべきでない。自分ではちゃんと出来ているつもりでも、観客のほうから見れば、なんとしても見た目の花が無くなっているのだから。/とはいいながら、ほんとうの名手ならば、この年齢になってもなお見どころ魅力が十分残っているはずで、その失せないで残っている花こそが、ほんとうの花であるにちがいない。45-46頁
★石塚注記:渡辺淳一によれば、「四十半ばとなったら、もはや自分一人の力ではかぎられてくるから、自分を引き立ててくれるような脇役を見いだすべきである、という意味である」(前掲書、46頁)。世阿弥の言い分では、現役を引退して演技の助言者(アドバイザー)や指導者(コーチ)になれ、ということである。私は1970年頃から半世紀以上にわたって学問の道を歩んできたので、その体験から世阿弥に従って学問の道に言及してみよう。
   私の場合、45歳は1995年のことだった。1990年からもののけに取り憑かれたようにして、フェティシズムに関する著作を執筆し始めた。「もののけ」というと道具に霊魂が憑いて人を怖れさす付喪神つくもがみのように理解されるが、フェティシュ(物神)は憑き物ではなく、それ自体が端的に神である。普通フェティシズムというと、マルクスの『資本論』にでてくる「商品の物神的性格」か、フロイトの精神分析学にでてくる性の倒錯か、その辺りで知られている。そのどちらもフェティシズムという術語と概念の創始者シャルル・ド=ブロスの定義から逸脱していた。そこでまずは言葉の創始者ド=ブロスの用いた概念を明確にするべく、執筆に専念したのだった。翌年の4月に『フェティシズムの思想圏――ド=ブロス・フォイエルバッハ・マルクス』という書名で刊行された。その後立て続けに以下の著作を刊行した。『フェティシズムの信仰圏――神仏虐待のフォークローア』(1993年)、『信仰・儀礼・神仏虐待――ものがみ信仰のフィールド・ワーク』(1995年)、『「白雪姫」とフェティシュ信仰』(1995年)。その時以降、私は後進研究者のアドバイスに尽力するようになった。その傾向は1999年創立の歴史知研究会の活動で強まった。ただし、「この年齢になってきたら、むやみと綿密な写実の演技などはするものでない」とは観念したわけでなかった。月並みな言い回しだが、若手には私の背中を見ていて欲しかったのである。その考えは喜寿となった今も変わらない。
   ドイツの社会学者ウェーバーによれば、1917年段階のドイツでは学歴は教養と代替可能であったらしい。つまり、学歴の高さや深さがそのまま教養の高さや深さを示していたということである。また、西村稔『文士と官僚』によれば、中世から近世にかけて官僚たちはおおむね、一方では実践的能力があり、他方では教養を身につけていた。しかし20世紀に至ると、ドイツでも、教養と代替可能の学歴でなく、専門知であれ教養知であれ単に威信の拠り所としての「学歴」保持者が登場してきた。西村がそのようにいう「学歴」を、ここでは堕落した形態とみてカッコに入れ、ウェーバーの言う意味での高潔な方の学歴と区別しておく。
   私は、教養とは何よりもまず人間性とか人間形成とかと深く関連していると思う。生まれたての人間は、教養についてはその下地があるだけである。教養があるのではない。ないのでもない。素地として与えられているだけなのだ。それを洗練させて実質的な教養に仕上げる過程がなければならない。その過程では、幼いままの自己や我欲といったものは捨てられるか制御されるようになる。そのかわり、しだいに自己の適正を発見しそれに相応しい専門的知識を自己に蓄積していく。そのようにして自己を研磨することを陶冶といい、それによって完成していく精神性を教養という。そこまで進むと、拠って立つ場はどこか特定の専門的領域であっても、教養の地下水脈では他者との普遍性を獲得している。ただ、その普遍性はけっして抽象的なままで相互認識できるのでなく、各個別々の専門知において獲得されるのだ。いったんこれを獲得しえた教養人同士ならば、たとえ職業や専門が違っても相互理解は申し分ない。高度先端医療技術を駆使する医師と法隆寺を修復する宮大工の棟梁とは、相互に獲得した教養の高処において何かしら意志疎通がかなう。
   その際、医師には学歴があっても棟梁にはそれがない、といえるか? たしかに、建築士の免許がなければ家屋は建てられない。けれども、それは学歴とはいわない。では、棟梁には学歴はないのか? ウェーバー的な観点に立てば、法隆寺を修復するまでに伝統の技術を身につけた棟梁には学歴と代替可能な教養が備わっている。つまり、その棟梁にはしかるべき学歴があるのである。むろん、世阿弥もまた然りである。

〔1-7〕夕暮れに佇む境内の樹々と
五十有余
/こういう年齢になったら、およそ、「何もしない」ということ以外にはこれという手だてもあるまい。「麒麟も老いては駑馬どばに劣る」ということわざがある。それはいかんともしがたい現実ではあるが、とは申しながら、真実奥底深く能を会得した者ならば、次第に演じる曲目も技ももうすっかり失せに失せて、いかにも見どころが少なくなってしまっていたとしても、それでもなにがしかの「花」は残っているであろう。/亡父観阿弥と申すものは、五十二歳という年の五月十九日に死去したが、その同じ月の四日の日に、遠く駿河の国、浅間神社の宝前で奉納の能を奉った。その日の申楽さるがく能は一段と華やかで、見物の皆々身分の高さも賤しきも等しくこれを称賛したということがある。49-50頁
★石塚注記:観世寿夫は前掲書で、「自然の花は見せるために咲いているのではない。自ら然るべきところ――空間――に、然るべき時節――時間――に、花開くのである」(18頁)としているが、そうではないだろう。花の色は昆虫を寄せ付けるために艶やかだったりするのだ。老いた観阿弥の身体もその摂理を辿っているだけである。
   さて、「宝前」とは神仏を祀った神殿・本堂前の境内を指すが、私は20年ほど以前、55歳の頃に、高麗神社(埼玉県日高市)の境内で大蔵流薪狂言を鑑賞して、その醍醐味を味わった。演目の幾つかはおぼつかなくなったのだが、舞台の上空をモモンガがスーッと滑空したのをよく覚えている。夕暮れに佇む境内の樹々と、それをひっくるめた自然の演出に、私は参加していた。世阿弥の思い出に残る観阿弥の能が素晴らしかっただろう、ということは当然に予想されるが、「駿河の国、浅間神社の宝前で奉納の能」となれば、見物人の思いはいや増しに増したことだろう。
   ところで、パルテノン神殿を戴くアテネ市アクロポリス丘の崖下には、現在もなおディオニューソス劇場遺跡が存在している。ギリシア劇を催すために建造されたこの大劇場は、紀元前4世紀の政治演説家デモステネスが、反マケドニアの国威復興の精神的象徴として産み出したものである。この劇場では、アテネ市民の誇りである劇作家アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスの作品が好んで上演された。私は2001年の夏に、アクロポリス崖下の古代劇場(ヘロド・アティクス)でエウリピデス「バッカイ」を観劇した。32段のテアートロン(観客席)をもち5000人収容できるこの劇場に、私はいたく感激したが、その時演じられた「バッカイ」で、バッカイつまりディオニューソスを崇拝する女性信徒たちは、たしかに動物の生肉を引き裂いていた。そこも野外だったので、午後9時過ぎだったが、演技に添えて、楽音でなく野音が我が身を癒してくれた。
   能の場合も野外が似合う。それもそのはず、能の先駆である田楽は、平安時代に農耕儀礼として行われていた。五穀豊穣を祈るこの行事はそもそも田んぼかその畦かで執り行われていた。要するに農耕の現場で行われたのである。それが京都を始めとする都市においては、「申楽(猿楽)」と合体して今度は河原あたりで演じられるようになった。その後公家社会に取り入れられ宮中で挙行されるようになり、中世には劇的要素が加わってしだいにドラーマ化していく。永島福太郎『中世の民衆と文化』(創元社、1956年)によると、寛正5年(1464年)に京都の糺ただす河原で行われた演能(勧進猿楽)では、すでに能と狂言との交互演出が行われていた。
   こうして能楽は、やがて「田楽能」となって武家・僧侶そして庶民にも楽しまれるようになった。起源は農耕=農民にあった田楽は、いったん社会の上層に吸い上げられ申楽と合体し、その後再び民衆のもとに降りていった。また、都市では「町能」とか「辻能」として流行するようになった。その傾向は、平安末から鎌倉、室町にかけて貴族文化が大衆化し、また武家がステイタスのシンボルとして貴族文化を受容していくという相互接近過程でいっそう顕著になっていく。たとえば、東山文化の担い手である同朋衆には芸能に堪能な隷属民出身者がいて、彼らの活動を通じて文化の上下階層間交流が盛んになったのである。同朋衆はまた時宗の門徒が中心だったりした。
   民衆文化と貴族文化の絡み合いについて、中世文化研究者の横井清は『中世民衆の生活文化(上)』(講談社文庫、2007年、131-132頁)で次のように記している。「第一に、民衆文化の内の“よきもの”を支配階級が吸収し、洗練し、完成してゆくにせよ、母胎となった民衆の世界では本来のものを持続し伝達しつづけている。第二に、支配階級内部で洗練され、完成された文化は、けっして支配階級のみのものとして伝達されつづけるのではなくて、長い「時間」をかけつつ、民衆世界に接触を深め、それこそ民衆の新たなる文化創造にとっての活力源の一ともなっているのである。そしてまた、それが支配階級の文化に影響を返してゆく。つまり、私たちは、〈民衆文化〉を〈支配階級の文化〉に対置させて捉えようとするとき、「下から上へ」の路線と併せて、「上から下へ」をいつも頭の片隅におきながら、所詮は柔軟な循環系統において〈文化〉を見、その中で〈民衆文化〉の位置を見さだめ直すことが大切であると思う」。
   一理あるところだろう。けれども、文化は横井が力説する民衆か支配者か、という区分のほか、先史・野生か文明か、という区分もある。室町期には、一方に公家と武家の融合文化が生成し、一方に禅宗に特徴的な中国由来の融合文化が浮上し、もう一方に農耕儀礼と世俗の融合文化が確立した。世阿弥の能芸はそのいずれにも絡んでいるが、出自は先史・野生に起因している。横井はそのあたりの事情を前掲書で次のようにまとめている。「たとえば弓矢や石礫を用いての多様な、しかもすさまじい活力にみちた遊戯の流れの中に、私たちは「仏教伝来-浸透」以前の原始から、封建社会をへて近代にまでいたる歴史の底を、まるで地下水のように湧いては流れてきた日本人の〈野性〉の姿形をしたたかに読みとることができるはずだ」(160-161頁)。
   横井が「野性」とするところを、私は「野生」としている。「野生」は「先史」と同様、文化の独立した一類型なのである。第一類型は、交換価値ないし商品価値を有し、どちらかと言えば高級なもの、先端的なものである。第二類型は、使用価値ないし生活資料としての文化であり、生業としての日常文化である。第一類型の特徴は垂直な統合性・共通性にあり、文明(civilization)を発展させ、近代化、産業化を達成した。第二類型は、近代化されない地域あるいは近代化に適さない地域で、水平的なつながりと思考様式をもつ共同体に相応しい農耕牧畜業を維持してきた。いずれの時代や地域でも食糧生産は不可欠なこともあって、第二は第一を支えるべく今日まで存続している。
   それから、時宗の開祖である一遍は、各地を遊行し念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」を広めたが、この踊り=ドローメノンと念仏=レゴメノンに魅せられた信徒(時衆)には、阿弥陀仏号(阿弥号)を称する人々が多くいた。その一例に室町の親子孫3代にわたる水墨画家能阿弥、芸阿弥、相阿弥がいた。またその一例に同じく室町の能役者観阿弥、世阿弥親子がいた。彼らは室町将軍家に出入りするほどの勢力を有した。能楽(大和猿楽)では興福寺・春日社に奉仕した4つの座、(結崎座ゆうざきざのちの観世座)・宝生座・金剛座・金春座こんぱるざがその代表である。世阿弥の『風姿花伝』が誕生するについては、このような前史が存在していたのである。
   
第二節 風姿花伝二物学条々ものまねじょうじょう
   
〔2-1〕写実の入れ込み方
物学条々
/物まね、すなわち写実の芸の種々相については、なかなか筆には尽しがたいところがある。とは申しながら、この物まねこそが、申楽能の道にとってもっとも大切なところなので、そのあれこれを、どこまでもどこまでも研究するがよい。およそ、何事についても、すみずみまでよくよく写実するということが本来である。そうではあるが、しかし、事によって、どこまで似せるか、自ずから写実にも濃厚なそれと薄いそれとがあることを知らなくてはならぬ。/まず、国王(天皇)や大臣をはじめとする公家衆の御様子、さらに武家(大名)がたの御挙措動作ともなると、私どものような身分の者共には容易に手の届かないところであるから、どうしても十分に写実するということが出来がたい。/しかし、それでも諦めることなく、よく言葉遣いを研究し、動作の品格を調べ求めた上で演じてみて観客席に御来臨の身分高き方々の御意 知見をよく伺って錬磨するにしくはない。/そのほか、こうした高貴な身分の方々の職業的種々相や、また詩歌管弦など風流典雅なる方面は、どれほど精妙に写実してもよろしい。/しかし一方で、農夫や粗野な人々の所作の方面は、卑賎なるありさまや所作を、それほど細かに写実しないほうがよい。たとえば、きこり、草刈り、炭焼き、汐汲みなどの、それなりに風情ある職業については細かに写実するべきかもしれない。しかし、それより卑賤なる職業については、それほど写実しないほうがよい。そういう方面は、上つ方うえつかたのお目にかけるべきでない。もしそういうことをすれば、あまりにも卑しくて、貴顕の方々にはちっとも面白くはご覧にならないかと思われる。このあたりの配慮は、よくよく心得ておいてよい。54-57頁
★石塚注記:渡辺淳一は前掲書(66頁)で、物まね=写実について、現代と比較してこう述べている。「この点で思い出すのはチャップリンで、彼は小さな体で、実に多くの庶民の姿を巧みに真似て笑いを生み出し、大きな人気を得た。/時代や国情の違いはあるが、チャップリンの物真似芸は、申楽のそれと一脈通ずるところがありそうである」。
   さて、世阿弥は写実の入れ込み方について、職業の貴賤に従ってグラデーションを付けている。時代が時代だけに、さもありなん、とは思う。貴賤云々をはずすならば、ようするに経験の濃淡ではないだろうか。見たことも聞いたこともないような事象・現象については、意外性や驚きはあっても味わいは感じられないかも知れない。現代人には、古代中世の都市や農村について想像することは困難だが、その当時の人々にも、社会階層の相違によって想像困難な事態はあったわけである。「写実の芸」にとっての写実とは、見慣れているかどうかではない。芸道に適しているかどうかである。古代中世農村の農耕儀礼が果たして芸の素材になるかどうか、である。研究者としての私の目では、素材になる。例えば人魚姫にもなぞらえられるジュゴンについて、生物学者にとってはジュゴン目ジュゴン科ジュゴン属に分類される哺乳類であり、航海者や信心家にとっては海浜の守護神、漁師にとっては魚の一種、詩人にとっては「海の貴婦人(lady of sea)」や「人魚姫(mermaid)」だったりする。また、自然観について、文化人と科学者と信心家では次のように相違するかも知れない。文化人にとって「沃土・清水・涼風」は、科学者にとって「窒素・炭素・水素・気圧」だろうし、信心家には「地神・聖水・神のいぶき」だったりもする。
   ジェームズ・フレイザー『金枝編―呪術と宗教の研究』に、日本の農耕儀礼に関するフォークローアが記録されている。「現代日本の下層階級、特に女性や子どもにとっては〔お天道様〕は現実の太陽で、性別も神話的性格も有さない、一切の形式的信仰に煩わされない(unencumbered by any formal worship)存在であるが、善人には報謝を、悪人には処罰を与え、その名において行われる宣誓を強化してくれる道徳的存在として崇められている」(フレイザー、神成利男訳・石塚正英監修『金枝篇―呪術と宗教の研究』第6巻、国書刊行会、2012年、143頁。J. G. Frazer, The Golden Bough, A Study of Magic and Religion, part5, vol.1, p.212.)
   引用文中の「一切の形式的信仰」とは、世阿弥が好むような「公家衆」や「身分高き方々」が信仰する神々にかかわる。フレイザーの意図はそうでなく、下層庶衆が好む自然神にかかわる。私もまたフレイザーに共感する。世阿弥はなぜ「きこり、草刈り、炭焼き、汐汲みなど」については「それなりに風情ある職業」としたのか。世阿弥の時代における農村風景だって芸の素材になる。私にすれば田畑で働く農民の所作からときほぐすべきだ。網野善彦は前掲書でこう言っている。「民俗学や民具学は、いま言われたように時代を超えたものをその研究対象としている。縄文時代に使われた延と同じ技法で作られたものが最近まで使われているとか、原始時代のつぶてが今も生きているという発想をするわけですね」(『歴史の中で語られてこなかったこと』155頁)。それに対して対談相手の宮田登はこう応答している。「先ほど網野さんが言われたもので重要なのは、古代・中世……を超えるような、そういう存在をなんていうんですかね。民俗の自律的な展開・発展を説明する概念があればいいんですが」(同上、157頁)。宮田の願望に、私は〔文明を支える原初性〕という概念で答えている。とにかく、縄文や先史が今に生きているのなら、それとて芸の素材になる事柄・事象である。本稿のテーマ「歴史知の話題」に最適なのである。
   
〔2-2〕聖ひじりに通じる存在
女
/概して女の風姿や動作は、若いシテが心がけて身につけるのに似合わしいことである。けれども、これが一筋縄ではいかないのだ。/まず第一に、姿形そして着付けといった外形的なことが見苦しいようでは、まるっきり見どころがない。/ここでもまた、ナニガシの女御、あるいはシカジカの更衣などと呼ばれるようなやんごとなき方々の御着衣、御着付などのことは、たやすくその様子を見るチャンスがないことだから、その世界のお方によくよくお尋ねしておかしなところがないようにしなくてはいけない。(中略)/これに対して、一般の女の扮装のほうは、しょっちゅう見ていることだから、実際にはなにも難しいことはない。ただ普通の小袖に衣を羽織った程度の当り前の服装は、細かなことまではさほど気にせずとも、ああいかにもそれらしいなと見える程度に作っておけばそれでよい。/ただ、クセ舞いを舞う女大夫だの、白拍子だの、あるいは舞い狂う女芸能者などの扮装の場合は、扇であれ挿頭かざしの枝であれ、いかにもふんわりとして、きっちりとは持たずに出るのがよい。そうして衣や袴などもゆったりと裾長に着て足はすべて覆ってしまうようにするのがよい。その上で、腰や膝はすっきりと伸ばして立ち、体全体はやわらかくしなやかに保つよう心がけよ。60-62頁
★石塚注記:「女の風姿や動作」とあるが、役者世阿弥について役者観世寿夫は、前掲書でこう評価している。「見られることへの役者の心おくれを取り除いて、見られる立場でも見せる立場でもない演者のありかたを、世阿弥は打ち樹てようとしたと思う」(43頁)。それから、遊びや習俗について、中世社会における男女の格差は近代ほど隔たれてはいなかった。歴史学者の田端泰子によれば以下のようである。「遊びの世界にかぎっていえば、女の子の遊びと限定されるのは「雛遊」ぐらいであり、他は男女ともにうち興じている姿が史料に残っていた。「胡鬼板」は代表的な男女の性差のない遊びであった。こうした事実から見て、中世の子どもの遊びにおいては、ジェンダーはいまよりもむしろ小さかったといえるのではないだろうか」(田端泰子・細川涼一『女人、老人、子ども』中央公論新社、2002年、94頁)。文中の「胡鬼板こぎいた」とは羽子板のことで、横井清は『中世民衆の生活文化(上)』(講談社学術文庫、2007年、86頁)で次のように説明している。「やがてくる夏の日々に害虫にくわれぬまじないだともいわれたが、とまれそうした消厄除災の祈りが胡鬼子(羽根)の冴えた音色にはこもっていた。この胡鬼板は、正月半ばの「三毯打さぎちょう」(どんど焼き)で、毯打ぎっちょう遊びの竹や正月の飾り物などといっしょに灰となる」。
さて、「クセ舞い」は「曲舞」のことで、世阿弥父子が活躍する以前から室町時代にかけて芸の道でどのようにあしらわれたか、私は定かでないが、脇田晴子『女性芸能の源流』(角川書店、2001年)には、以下のような記述が読まれる。「能楽に「山姥」という曲がある。「山姥」を曲舞で作って当たりをとり、都で持てはやされて、「百万山姥ひゃくまやまうば」とあだ名されている舞女が、善光寺詣でを思い立ち、もっとも難所とされた上路越えで本当の山姥に出会うという話である。(中略)この曲は、世阿弥作といわれ、否定する人もあるが、私は世阿弥作と考えている」(164-165頁)。そうであるとするならば、世阿弥の演目になる「クセ舞い」は芸の道で洗練されていったわけである。
   ただし、私は能の演目でなく巷で演じられる女性の芸能や立ち居振る舞いに関心がある。たとえば瞽女が気にかかる。脇田によれば、以下のようである。「『清涼寺縁起絵巻』の瞽女の絵は清涼寺、すなわち京都の西郊、嵯峨の釈迦堂として知られる寺の門前に瞽女がたむろしている風景である。(中略)おそらくこの寺には、この絵のように、暫女をはじめ、女芸人たちが多く集まったのであろう。暫女は『曾我物語』などを鼓の拍子で語ったのである。持っている鼓は膝に置いて打つ大鼓(大皮ともいう)である。『七十一番職人歌合』でも「女盲」として、/いかにしてさのみたつ名を大鼓 かしらうつまで恋しかるらん/と詠んでいるから、やはり大鼓である。これが江戸時代になると三味線にかわる」(同上、196頁)。私は昭和の時代まで瞽女が芸能生活をしていた新潟県上越地方に生まれ育った。子どもの頃、祭礼の日になるとよく寺社境内で三味線を弾いては参拝客から施しを受けていた盲目の女性たちを見かけた。作家の水上勉はこの瞽女たちに注目して小説を書き、それは映画化されもした。最近になって石川さゆりは「越後瞽女」を歌った。水上自らが感じ入っているように、越後瞽女たちはそもそも聖ひじりに通じる存在だった。マレビト信仰の上では、托鉢の行者ばかりでなく雑多な漂白の民は一種の聖なる存在つまり勧進だったのである。村人は偶然か一定の年月を経てか自村に立ち寄る来訪者を一種の勧進として歓待したのである。
   瞽女と同じように、時代は室町から江戸期に入るが、京の舞妓と江戸の芸者との出立における違い、足袋と素足が気にかかる。京の舞妓はんは足袋を履いているのに、江戸の芸者さんはいつも白粉で真っ白な素足でいる。参考になるのは、平安時代の「田楽法師」と「遊び女あそびめ」である。田楽法師は、田畑で働く農民にとって農耕儀礼の上で大切な神々を歓ばせてくれる聖者だった。裸足に草履を履いている事が多い。それに対して遊び女は、井筒雅風『原色日本服飾史』(光琳社出版、1982年)によれば次のようである。「あそびめ、またはうかれめともいわれ、古い頃の巫子が神性、司祭性を失ってから流浪性、遊行性、娼婦性を発展させたのが奈良時代の遊行女婦であって、平安時代以降はそれをちぢめて遊女と表現された。平安時代の遊女には教養もあり、彼女らの和歌が勅撰歌集に入っているのもある」(111頁)。田楽法師もそうだが、遊び女の方も、やはり裸足だったらしい。
   
〔2-3〕観阿弥と世阿弥が心中に懐いた「色気」
老人
/老人の写実は当道におけるもっとも大切なところである。老人の物まねいかんによって、それを演じた役者の芸の位がすぐに観客にも見えてしまうことだから、これは第一の大事である。/概して能をそれなりに上手に出来るシテであっても、老いた姿はなかなかうまく出来ぬ人が多い。(中略)/老人だからとて、すっかり色気も何もなくなってしまっていては面白いところがないというものだ。およそ老人の立ち振舞いについて、老いた人だからとて、単純に腰や膝をかがめて身を縮めた形に演じるなんてのはまさにこの色気のないやり方で、それではただもう生気なくみすぼらしいばかりである。したがってこんなやり方では面白かろうはずもない。そうではなくて、概して老人の芸のときは、いかにもいかにもおどおどソワソワしたところがないように心がけて、おっとりと落ち着いた様子に立ち振舞うのがよろしい。/なかでも、老人姿での舞いのありよう、これはまた無上の難問である。したがって色気や見どころがあってなおかつ老人と見えるという工夫をばよくよく研究しなくてはならぬ。まさに老木に花が咲くようにということである。68-70頁
★石塚注記:能道において老人を演じるのは並大抵ではないらしい。難問というか難題は、「色気」のありようであるらしい。そもそも世阿弥は、老人にどんな色気を感じたのだろうか。門脇佳吉「世阿弥における気の思想」(人体科学会編『人体科学』第1巻第1号、1992年)には以下の記述が読まれる。「中世文化史の第二期は「風流」から「道」への飛躍を遂げる時代である。中世第一期に生活の理念とされたものは「風流」であった。その中でも「艶」(色っぽいというより、 もう少し上品なもの)が重んぜられ、それをもっと高めたものを「優」と言った。 これら二つを合わせて「優艶」と言い、古典主義ではこの「優艶」が文学・芸能の中心をなしていたが、新古典主義になると和歌や芸の中で「幽玄」が重要視されてくる。それらを受けて観阿弥は、観客を引きつけるのは芸に「花」(魅力)が有るからだとし、 能に新しい工夫を凝らして能の質を高める」(2頁)。
   老人には翁と媼がいる。古代から中世にかけて、老いて生産力を失った人間の価値は自ずと低下した。死ねば無造作に野辺に棄てられた。下層社会における姥捨の民間伝承は現在にまで伝わっている。世阿弥はそうした下層社会に「色気」を見出したわけではない。平安から室町にかけての貴族社会では、源氏物語を地で行くような優雅と優艶は漂ったことだろう。観阿弥と世阿弥が心中に懐いた「色気」とは、そういった中世上流階層の優雅と優艶に近い上品なものだったのだろう。ただし、鎌倉期から室町期にかけて公家や武家の間でも不運は存在し、例えば妻の疾走先として、いわゆるアジール(駆け込み寺)が形作られもした。歴史学者の細川涼一は、その先駆として京都の遍照心院(大通寺)を挙げている(田端泰子・細川涼一、前掲書、253頁)。
   渡辺淳一は「老木に花が咲くように」に関して、前掲書(90頁)にこう記している。「「老木に花」とは、いかにも観阿弥らしい表現で、実際、観阿弥はそういう老人しか演じなかった。/そのことはまた、観阿弥自身が、老いても花を咲かせたい、と願ったからで、それに向かって人一倍努力したからこそ、この独創的な一文ができあがったのである」。なお、細川涼一(田端泰子・細川涼一、前掲書、273-275頁)には「熊野観心十界図」曼荼羅が挿入されており、以下の説明が記されている。「人生の階段は壮年の時期を迎えて頂上に達し、あとは老年の下り坂へと入る。いつしか、女性は尼姿、男性は入道姿となり、しだいに腰も曲がってくる。壮年期の男女の背景には葉の茂った松や杉が描かれ、老いを迎え、尼姿となって孫に手をひかれた老女の背後には紅葉が描かれる」。
   
〔2-4〕自分の顔の自然な佇まい
直面ひためん
/面を付けずに演ずる役柄、これまた簡単なことではない。/およそ、能役者たちは俗世間に身を置く男で、直面で演じられる男も同じなのだから、ちょっと考えると簡単にできそうに思えるのだが、なかなかどうして、よほど能役者としての芸位が上らなくては、この直面ものは見られたものでない。/まずこれは、具体的には、その人物のいかんによってどうするのがよいか考えて真似るというより方法はない。/そしてどんな人物でも顔形をその人に似せるなどということは出来るはずがないのに、中には普通の表情ではなくてあれこれと妙な表情を作ったりする者がある。こんなのはまったく見苦しい芸である。/肝心なのは、その所作や風情をその者に似せることであって、顔の表情はまったく自分の顔の自然な佇まいのまま、なにも繕うことなくまっすぐに保ちたいものである。72-73頁
★石塚注記:馬場あき子によると、「能では面をつけないことを「直面」と呼ぶ。「ひたおもて」という古語があり、(1)顔をかくさないでいること、(2)直接顔を合せてさし向うこと、などを言う。能の「直面」は(1)の意味から出たものだが、決定的に違うのは、「面」が単なる「顔」のことではなく、仮面劇である能では、なま身の「顔」を、一枚の「面」として使わねばならないわけで、「直面」とは、素顔ではなく、やはり一つの「面」であると考えてよいと思う」(前掲書、62頁)とされている。
   さて、役作りは面でなく「所作や風情」だと世阿弥は言っている。そうではあっても、「面を付けずに演ずる役柄」では、おのずと地顔が面のよく割を果たしている。私は韓流歴史ドラマが大好きで、多くの作品を楽しんできたが、同じ役者でも役柄によって真顔の表情が様々に変化、変怪している。そのあたりの努力を指して世阿弥は「その人物のいかんによってどうするのがよいか考えて真似る」としているのだろう。そうした努力をしないのが「直面ひためん」だと世阿弥は言うが、私は「直面」は演技の上では能面の一種ではないかと思っている。努力せずとも自然に役に適した顔面が心中から浮かんでくるのだろう。
先史時代でもごくごく黎明の時期には、仮面は必要なかった。仮面は幾分とも神と人との乖離が意識されるようになった頃に、その乖離を補正するために生まれたものである。顔が、その表情が身体の様々な有り様を自然に表現できなくなったとき、仮面は登場してきた。仮面は、ある時は人の善なる側面を表現し、またある時は人の邪悪な側面を象徴した。そればかりか、仮面は、ときには神それ自身となって人々に崇拝されたのである。諸民族のもとに見いだされる、いかにも原始的な造りの仮面であっても、それは、みずからが素顔のままで神に一致し神に成り切ることのできない程度に文明を築いてしまった人々の創作なのである。
   儀礼において仮面を着用する民族は、それを着用しないで儀礼に興じることのできる民族に比べ、大なり小なり文明人である。どちらのケースも仮面のもつ呪術性を表出させはするが、仮面を着用しないで地顔で儀礼をまっとうできる人たちは、つねに先史を実現している。しかし、仮面を着用しなければ興奮しない人たちは憑依や演技が必要となってくる。前者はつねに神と一体化しているので、自らの体内に神を自覚している。それに対して後者は、毛皮や仮面を着用してはじめて神との一体化を実現できる。世阿弥が言及する「直面」は、演目の一つにおいて初めて直面となるので、演技の一つなのだろうが、起原は先史にある。2014年、シカゴのフィールド博物館で先住民族ハイダ人のマスクに接した時、私は世界各地の先住民族のもとでは、マスクは真実の顔、私の造語で「御面」だと再認識した。仮面が仮りの顔であるとすれば、御面は真実の顔である。先史由来の御面で演技はありえない。世阿弥の言う「面を付けずに演ずる役柄」では、私の言う「御面」が真顔に一致しているのだ、きっと。いずれにせよ、仮面や御面の有する呪術性は21世紀の今日にも引き継がれている。
   
〔2-5〕〔実現の見立て〕から〔想像の見立て〕へ
物狂い
/物狂いは、当道第一の、もっとも見どころに富んだ芸能である。とはいっても物狂いの種類もあれこれと多岐に亙るので、つまり物狂いの芸をよく修めたものは、どんなものを演じても大丈夫ということである。したがって、このところを繰り返し繰り返し、よく工夫を巡らして稽古するがよい。/たとえば、何かこの世ならぬものが憑依するというような種類の物狂い、具体的に申すならば、神仏や生き霊、あるいは死霊の崇り、などというものであれば、その憑いているモノの姿を真似てみせればいいので比較的に容易、つまり手がかりがある。/けれども、親に別れた子、離別した子を探す親、夫に捨てられた妻、妻に死別した夫、などさまざまの悲しみの窮まるところ狂乱する物狂いはきわめて、難しい。/相応に芸のできるシテでも、とかく心のうちにこの両者の区別もなくただ通りいっぺんに舞い狂う所作などをするから、見る人にとっては何の感動もないのである。75-77頁
★石塚注記:馬場あき子は前掲書にこう書いている。「いったい「物狂」とは何なのか、「狂気」「乱心」いずれも精神の異状に身を委ねた状態だが、能の「物狂」は、きわめて短い一時的な興奮状態のものから、憑き物につかれた状態や、かなり長期にわたる異常な心理状態までを含み、まことに幅広い登場人物を用意している」(66頁)。
   さて、古代中世の芸能は、大なり小なり神事と結びついている。江戸期の大衆娯楽芸能とは一線を画している。神事と一体化している段階における憑依は、反面は演技であれ、反面は儀礼である。世阿弥のとく心得はもう神事から離れているので詳しくは述べないが、神事では神と舞手が合一する。古代のギリシア本土やその周辺地域に建設された野外劇場では、しばしば神々に捧げる儀礼が挙行された。それは、劇場があるなしにかかわらず、もともと不要不急の演劇でなく生活儀礼、農耕儀礼だった。日本的に言い換えれば、鎮守の森の儀礼だった。ギリシアの先住民、たとえばペラスゴイ人は、儀礼の場で呪文を唱えつつ円を描いて踊り、身体を通して神々と交信した。その行為をドロメナ(複数形はドローメノン、dromenon)と称する。行為の儀礼=神態的所作であるドローメノンと結びつく語りの儀礼=神語的唱誦が「レゴメノン(legomenon)」である。発声=念誦といってもよい。その場には儀礼を行う住民がいるだけである。他人に見せるものではない。行為は〔実現の見立て〕である。その地に、やがて征服民のギリシア系民族がやってきて、先住民の儀礼を見つめ鑑賞し、やがて自らも神々創出の儀礼を模倣するにいたった。先住の神々そのものをも模倣して取り込んだ。模倣と取り込みから演劇(ドラーマ、drama)は始まった。〔想像の見立て〕である。古代に遡るほど〔実現の見立て〕に帰還する。観阿弥・世阿弥父子が確立した能芸道は、神事の一面と演能の一面とが不可分離の状態ではあるものの、方向としては、演技する人による芸道(演劇)に向かっている。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x16606, 2026.11.03)