高橋一行
旅行記と言えば、どこでおいしいものを食べたとか、珍しいものを飲んだといった話になる。私はそういう話は好きで、自分でも書いたことがある(注1)。しかし今回は趣向を変えて排泄の話をしたいと思う。
まず旅にあっては、トイレをどこで確保するかということは重要な問題だ。ホテルを出て、次のホテルに着くまで、どこにトイレがあるかということを考えて、旅の予定を組むことになる。
例えば次のような思い出話を披歴したい。1990年代後半、私はしばしばロシアを訪問した。あるとき夜行列車でモスクワを出て、サンクトペテルベルクに着く。朝方、便意を催すが、列車内のトイレを使うのはどうも落ち着かないと思い、我慢して列車が到着するのを待ち、やっと駅のトイレに入ることができる。しかし驚くべきことに、大便用のトイレにドアが付いていない。両隣の個室とは壁で区切られているが、前が開け放たれている。しかもトイレは通路の片隅にあり、部屋として仕切られていないから、用を足しているそのすぐ前を多くの人が通り過ぎていく。もちろん皆気を使って、こちら側に目をやらないのだけれども、恥ずかしいことこの上なく、つくづく列車の中で用を済ませておけば良かったと思う。
対照的な話をもうひとつ書く。ドイツの列車の駅には、多くの場合、有料のトイレと無料のものとがある。清潔さと安全性を考えれば、絶対に有料のものを使うべきである。ただし小銭が必要で、釣りは出ないし、札はそもそも使えない。カードも無論使えない。従って、旅に出る際には、小銭は常に用意しておかねばならない。
私が2000年代前半にドイツ滞在していた折に、はるばる遠くから友が来ることがあった。駅まで迎えに行き、友が列車を降りる。その時に友が真っ先に発した言葉は、トイレはどこかというものだった。恐らく列車の中で便意を催したが、狭く揺れる列車のトイレよりも駅の方が安全だと思ったのであろう。そういうこともあると思って、私は小銭を用意しておいたのである。ドイツではこういう配慮が必要である。どこにどういうトイレがあり、それを利用するにはどういうことが必要かということを頭に入れておかねばならない。
実際私はコロナ禍の前までは、年に数回海外に出掛けて行った。まずは多くの場合はひとり旅なのだけれども、その場合、大きな荷物を持ったままトイレを使用することが困難なことがある。トイレが狭く、汚く、大きな荷物を持ち込めないということもある。またふたり以上の旅では、自分がトイレを使用している間、相方に荷物を見ておいてもらえるのはうれしいが、連れが私よりもトイレに行く頻度が高い場合、常にどこにトイレがあるか、考えなければならないのは煩わしいと思う。
またあるとき、空港でチェックインの手続きを終え、離陸までの間に時間があって、空港内のパブで酒を飲んでいた時、隣に座っている女性が私のことをずっと見ている。まさか私に気があるのではあるまいと思っていたら、声を掛けてきて、トイレに行きたいから、この荷物を見ていてくれないかと言う。結構大きな荷物を機内に持ち込む気らしく、大型鞄が椅子の脇にある。またトイレはパブから少し離れたところにあり、かつパブは混んでいて、一旦席を離れたら、ほかの客に取られてしまうだろうという状況下での話である。彼女は私が信用するに足る人物かどうか、品定めをしていたのであろう。そういう経験は何度かある。
もう少し下の話を続ける。旅に出ると、珍しいもの、いつも食べているものとは異なるものを口にすることになる。この経験が旅の楽しみの大きな部分を占める。そして異なったものを食べれば、それは排泄物にも影響する。自分の排泄行為を意識せずにはいられなくなる。
2017年に半年ほどケンブリッジに滞在したことがあった。家具の付いている部屋を借りたのだが、鍋も食器もなく、どこにそれらが売られているのかも分からない。町中を歩き回って、買い集めるのに少々時間が掛かる。
そのために朝食は何も食べず、昼はカフェでスコーンと紅茶を頼み、夜はチーズとワインだけという生活を3日ほどしたら、便秘になる。生れてはじめてのことだ。妻や娘が便秘勝ちで、その辛さをかねてから耳にはしていたが、自分が体験するとは思わなかった。しかしバナナとトマトを買い、雑穀の入った黒パンを買ってくれば、問題はすぐに解決する。その後はフライパンが手に入って、肉や鮭を焼くときに、付け合わせにブロッコリーやアスパラガスも用意する。野菜スープも作る。そうすれば快適に過ごすことができる。あとにも先にも便秘になったのは、その時だけだ。
この程度で体験談を終えようか。食べ歩き録は山のようにあるが、排泄を書き綴ったものはない。そんなものは誰もあまり読みたくないだろうと思う。しかし排泄は旅に出れば、誰もが意識することなのである。
S. ジジェクは食卓を巡る団らんではなく、排泄を巡る団らんについて語っていた。それはL. ブニュエル『自由の幻想』という映画で展開される光景である。人々はテーブルを囲んで便器の上に座り、談笑している。用を足しながら、人びとは交流する。逆に食事の方は、皆、人目につかない所でひっそりと済ませるのである。これは断片的に奇想天外な話が次々と展開される映画の中のごく一部のシーンにすぎないのだが、こういう逆転劇に比べれば、私の排泄旅行記など、控えめ過ぎると言うべきだ。
さらに後述するレヴィ・ストロースの「料理の三角形」をジジェクが茶化す。レヴィ・ストロースは「料理の三角形」として、生のもの、火にかけたもの、腐敗させたものと三つを挙げる。自然と文化の二分法を前提に、それぞれの文化がどのような料理を作るのか、つまり自然に対して働き掛けるのかを決定する。この図式はそのことをうまく説明する。
それに対してジジェクは次のような三角形を提出する。ひとつは伝統的なドイツに良くあるトイレで、排泄物が消えていく穴が前にある。便は水を流すまで残っている。典型的なフランスのトイレは、穴が後ろについているので、便はすぐに姿を消す。アメリカのトイレは、トイレの中に水が満ちていて、便は水の中に納まる(ジジェク p.38f.)。これでレヴィ・ストロースの三角形に対応するものができ上がる。それぞれトイレは自然に裏打ちされて作られているのではなく、どれも文化の問題なのである。
「そこには、主体は自分の内部から出てくる不快な排泄物とどう関わるべきかについての、ある種のイデオロギー的知覚がはっきりと見て取れる」とジジェクは言う(同 p.39)。
この「イデオロギー的知覚」について考えねばならない。つまり料理をし、食事をとることは、それぞれの社会の中での文化とされていて、つまり一定の価値観に支配されて、そのもとで人々が営んでいるものである。しかし食事をするということは、食べたものを体内で分解、消化して、排泄するという作用がそのあとに接続している。それもまた論じる必要がある。本稿では時間を逆に遡り、まずは排泄の話をし、次は分解、消化の話をし、最後に料理の話をしたい。そこに考えるべき論点がいくつも含まれている。
まずD. モントゴメリの『土と内臓』を参照する。そこで主張されていることは、腸の内部は外部であるということである。この意味を考えていく。
まず腸は身体の一部である。人がものを食べると、その食べたものは腸の内部を通って、やがてその大部分が外に排泄される。口に入れたものは最後まで身体にとって異物であり、それは時間を掛けて腸内を移動し、その間に小腸の腸絨毛という無数の突起がそこから栄養を吸収する。そういう仕組みになっている。それはモントゴメリの言い方を借りれば、「ヒトの消化管をひっくり返すと植物の根と同じ働き」ということになる。根は栄養を求めて土中を突き進む。人間は食べ物を体内に取り込み、消化管がその体内にある土壌から栄養を吸収する。つまり腸内には土壌があり、そこは身体にとって外部なのである。
また根が広がっていく土壌と腸内とそれぞれにとって、微生物が大きな役割を果たす。私たちは土壌に住むのと同じ微生物を体内に住まわせているのである。このことがモントゴメリの主張の要である。この微生物が土壌の健康と人間の健康の両方に果たしている役割に注目すべきなのである。
続いて桐村里紗『腸と森の「土」を育てる』という著書も引用したい。彼女はモントゴメリを受けて、人は森であり、腸内に土を持つと言う。人は消化管で外部の自然と繋がっているのである。その腸内の土壌を作り上げているのが腸内細菌である。私たちは意識的にこの腸内の有用な細菌を活性化させていかねばならない。
桐村はさらにそこから、心身の病と腸内環境との関係を考察する。ここがこの本の興味深いところで、腸内という土壌の悪化がもたらす心身の不調を論じ、その対策を求めていくのである。
主体というシステムの外部と内部という問題がある。腸内は身体システムの外部である。身体はその外部から栄養を吸収する。食べたものは腸で分解されて、その大半は排泄物となり、体外に排出される。しかしその過程はすべて身体にとって外部でなされるのである。その外部が心身の健康に影響する。
もうひとつは、如何に栄養を吸収するかという問題よりももっと根本のところで、食べ物の分解に注意が払われるべきである。それは腸内土壌に微生物がたくさんいて、それらが働いて食べたものが分解されるということである。その根本を押さえねばならない。ここでも分解の能力の衰退が心身の不調を招くのである。
さらに藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』という本を使いたい。彼は脳と比較して、腸の方が生物にとって根源であることを説く。まずは進化論的に考えて、最初に神経系細胞が出現したのは脳ではなく、腸である。しかしそののちに哺乳類は脳を肥大化させてきて、私たち人間が生まれる。すると私たちにとって、脳が人間が人間である根拠となってしまって、そのために腸の働きが身体にとって根源的であることを忘れてしまっている。しかし人間の感情を決定する物質は腸で作られるし、腸内細菌が脳の発達を促している。人間の精神生活を規定しているものは腸であるということを忘れてはならない。藤田が説くのはそういう腸の根源性である。
実は消化と思考の同型性というヘーゲル的な問題もここには隠れている。この問題は次に論じたいのだが、先にもっと徹底してこの分解するという側面に力点を置く論稿を紹介する。
藤原辰史は『分解の哲学 – 腐敗と発酵をめぐる思考 -』という本の中で、そのサブタイトルにあるように、腐敗と発酵を巡る思考について書いている。藤原は、分解すること、消滅することを重視する。何事においても腐敗が根源的である。そしてまた腐敗の一種である発酵も併せて論じられるのである。
藤原はこの観点で、ネグリ&ハートの『<帝国>』を解読していく(以下、藤原 第1章)。まず藤原によれば、ネグリ&ハートは帝国とそれを支える諸制度が、腐敗を前提に、分解と生成を繰り返すこと、また家族、企業、国家がコモンを腐敗させていると論じている。しかし彼らはせっかく腐敗を論じ、その担い手としてのマルチチュードを論じてもなお、マルチチュードに生産や建設の主体というイメージを与えている。
それに対して必要なのは、帝国を腐敗死させることであると藤原は論じる。その際にマルチチュードが腐敗させる役割を担う。マルチチュードは土壌に生息する生き物のように、解体と分解を遂行すべきこと、また農業に従事するマルチチュードは土壌の腐敗作用を最大限生かすこと、そして第三にマルチチュードは食べる主体となって、腐敗、消化、排泄にもっと時間を掛けねばならないと藤原は言う。彼らは生態系の一部であることを自覚し、「自然の腐敗力を借りた食べ物に移行する」(同 p.64)。そうやって帝国を瓦解させるのである。
ネグリ&ハートを論じる章の最後は次のように締め括られる。「食べて、消化して、排泄する存在として、つまり分解者としての自分と自分以外の人間を認めること、それで十分なのである」(同 p.70)。
言われていることは間違っていない。ただそこから藤原は、「労働を称揚し、物質代謝を高めることは、テクノロジーの介入する余地を広め、逆に生を制御してしまうだろう」と言う(同 p.65)。そこでは徹底して主体化に向かう概念は嫌われている。
主体/脱構築、生成/分解、摂取/排泄、労働/腐敗と対立する二項を立てて、前者を批判し、後者を称揚するというのは、よく使われる手であるが、それでは議論が単調になる。批判すべき議論の持つ枠組みを自ら超え出ることがない。重要なのは、前者には後者が必然的について回り、それが根源であるという指摘である。主体化を拒否するのではなく、それをきちんと論じ、そこに腐敗が根源的について回ることを指摘することである。
私はここで労働、所有、思考、消化は同義なのだと言いたい。それらは獲得して自分のものにするという面ばかりが強調され、そのために藤原のように闇雲にそれらに反発する人が出てくるのだが、しかしそのどれにおいても実は、否定作用が根源であり、かつそれが先行するのである。そこを押さえれば良い。
ヘーゲルは『自然哲学』で、消化を定義して、「主体と外面的なものとの対立である」と言っている。当時の科学の水準を反映して、段階的に栄養物を自己のものにしていく、その順をていねいに追っている。まずは食べたものは胃液と膵液に溶け、次いで胆汁となって「自己の内へ還帰した存在」となる(364節)。そうしてヘーゲルに親しんでいる人にはお馴染みの表現なのだが、「有機体は、その外面的な過程で自己が自己自身と合致し」、栄養摂取がなされる(365節注及び補遺)。
このように消化を論じたあとで、ヘーゲルは排泄にも言及する。「自分を自分自身から抽象的に反発すること」が排泄である。これは同化過程の完了である。それは「抽象的に他なるもの」となるである((365節補遺))。つまりヘーゲルは消化を論じ、同時にその際に分解と排泄という否定的な作用を強調する。こういうところにヘーゲルの面白さがあるのである。
話を更に進める。食べたり飲んだりという行為は、栄養のあるものを摂取して、それを快感だと思うということだけでは論じ尽くせない。そこにおける否定的なものを見ていかねばならない。
檜垣立哉は『食べることの哲学』という本で、様々な魅惑的なテーマを取り挙げる。まずはそれらをふたつのラインに沿って論じていこう。
ひとつは人が食べるものはたいていが生物であり、つまり人は何かを殺して食べているということである。これは菜食主義者であっても、植物を食べているのであり、何かしらの生物を殺して食べているということに変わりはない。そしてどの動物は食べるけれども、何は食べないのかといった議論はあり、つまり牛は食べるが、鯨は高等生物だから食べてはいけないとか、犬はペットであって食用ではないといったことがある。それを決めるのは文化なのだが、ここで重要なのは、どういう理屈を付けようが、何がしかの生物を殺しているのである。そこに後ろめたさを感じるべきではないかということである。
そこからさらにどの文化でも食人はタブーであるということが指摘される。動物の中には仲間を食べるものもいるから、この食人のタブーは自然的なものではなく、これは人類の多くに見られる文化に他ならない。しかし著者はここで、人は他の生物を殺して食べているのであり、「食べることはそもそも生命のカニバリズムである」と言う(檜垣 p.173)。そう論じた上で、生き物を殺すことに人は快楽を見出しているのではないか、それは人間の本性なのではないかと問い掛ける。食人については次回、短いものを書くつもりである(注2)。とりあえず先に進む。
もうひとつの話は、人は何をうまいと感じるかという問いを立てた場合、発酵食品を人は好んで食べるという事実にぶつかる。納豆、味噌、醬油、漬物、ヨーグルト、酒と言った食べもの、飲みものがすぐに思い浮かべられる。これらは言ってみれば、腐敗したものであり、さらには毒と言って良いものでもあり、つまり人は毒を食べるのである。
このふたつは繋がっている。殺すことの快楽が食の中にはある(同 p.177)。「もう一歩踏み込むなら、それは他の生き物を殺していることと引き換えの快楽につながっている旨さ」である(同 p.176)とも言う。
つまりここで言えるのは、人は自分とは異なったものを食べるということであり、他なるものを体内に入れるということである。このことと毒を体内に入れるということは繋がっていないだろうか。
これはまた毒という少々有害なものこそが、人にとって美味であるということでもある。これが人の嗜好を形作る。そしてこれは他の生物を殺すことの快楽に繋がる。言い換えれば、食べるという行為は、自らの命を長らえさせるためのものなのだが、そのためには一方では他の生物を殺さねばならない。そしてそこから得られる快楽を享受する。また他方で人は自らを殺しかねない食べ物を人は好む。酒や麻薬がその代表的なものだが、身体に悪いことが分かっている砂糖を好んだり、先の発酵食品も、身体に良いとされるが、しかしそれは管理された限りでぎりぎりそうだということに過ぎない。
つまり他の生物を殺して食うということと、毒を食らうということは繋がっている。それが料理という文化の核にある。
先に挙げたレヴィ・ストロースの料理の三角形が引用される。つまり「料理の三角形」として、生のもの、火にかけたもの、腐敗させたものと三つが論じられたのだが、それらは自然と文化という二分法のもとにある。生のものは自然の側にある。一方で文化の側にあるものの内、火に掛けたものは空気に曝されており、腐敗させたものは水が使われて、それは発酵でもある。つまり料理という人為的な行為には、火と水という自然が使われる。料理は自然と文化、人間の持つ生物の側面と精神のそれとがせめぎ合う場である。
この図式はもっと複雑に読み込んでいくことが可能なのだが、ここはそれを省いて、藤原の結論に進む。それは料理においては、この図式の中の腐敗したものが、発酵が極めて重要だということである。それは時間的な長さも要求されて、最も文化の側面を持つのである。そうしてそこから、先の毒を食らうという話になる。
檜垣は料理とは自然と文化の矛盾の統合だと言い、自然への働き掛けだと言う。その限りで料理は労働の一種である。ここで檜垣の言いたいことは、生きるために他の生物を殺さねばならないという矛盾にあるのだが、その言いたいことを汲み取れば、料理とは特殊な労働だということになる。もちろんこの本は、料理は労働だというところを言いたいというのではなく、自然=他の生物を殺すという、この特殊性の強調にポイントがある。そこは理解した上で、あえて料理を労働の一種だと言っておく。つまりまずは自然と精神の交互作用なのである。
社会の制度とその中における個人の行動に対して性がどのような意味を持っているかということを前回考えてきた。その前提として言えるのは、性欲は本能ではなく、異性愛であれ、同性愛であれ、性を拒否したいという欲望であれ、どれもが屈折していて、精神が自然から離脱する際に刻印された捻じれを持っているように思えるということである。今回の食についても同じことが言える。つまり私たちは本能に従って、物を食べているのではない。それは文化と言っても良いのだが、精神の持つ複雑性が食を巡る諸問題に作用している。つまり精神は自然に規定されつつも、そこから離れ、それを超えようという志向性を持つ。
ヘーゲル哲学において、消化と思考は同じものである。それは他者を否定することから始まる。他者を否定して、それを自分のものにする。普通はその自分のものにするということに力点があるのだが、しかしそもそも他者は自己の中に他者性として残る。食べ物の大半は排泄物なる。それは腸という肉体の外側にあって、やがて完全に外側に出すことになる。体内に取り入れられたものも、運動すればエネルギーとして使われて、最終的には身体の外に出ていく。ましてそれが余分な脂肪となれば、積極的に分解して体外に出す努力をすることになる。また酒は体内に取り込まれて、長い間有害な作用を及ぼす。そして人はその有害な作用を快楽として受け止める。ここに他者の否定を根本に置くべきだということを確認したい。
以下のように今回の話をまとめる。人は他の生物を殺して物を食べる。その否定的な行為に食は支えられている。また人は殺りくに快楽を覚える。否定的な行為こそが快楽の源である。さらには自らを否定しかねない毒を食らう。
毒は快楽である。強い否定性こそ、快楽である。否定性が根本である。
食べ物を消化吸収するためには、まずは分解という否定的な作業をしなければならない。ここがむしろ消化吸収の根本である。
さらに食べたものの大部分は排泄される。そのことにももっと関心が払われるべきである。
言い換えれば、腸と脳は同型であると言うこともできる。腸の働きは分解、排泄といった否定作用にこそ注意が払われるべきである。すると思考の方もまた、他者の考え方を分解し、それを外に出していくことが重要だということにもなる。またそれは、自己自身への否定にも繋がる。さらに分解は発酵作用に拠る。それは腐敗でもある。創造とその裏腹の関係にある腐敗に力点を置く。
さらに食について考えるということは、拒食や過食についても考えねばならないということを意味する(注3)。
今回、食について書きたいと言って書き始めて、しかしいきなり排泄の話をした(注4)。また排泄以外に体験談は書いていない。酒についてならいくらでも書けるのだが、それについては以前書いている。過度に酒を飲むことは、緩慢な自殺だという自覚はある。そのことだけ書いておく。
注
1 以前「世界の酒」という連載物をネットに出していた。久しく忘れていたが、一旦ネットに出したものは容易に消えないから、探してもらえばすぐに見つかると思う。2006年4月から2015年8月までのほぼ10年間で全67回連載した。世界のあちらこちらで酒を飲んだという、ただそれだけの話である。ドイツとアメリカを多く取り挙げている。
その後今日まで7年経つ。この間専ら私はワインに親しんできた。当然ワインについては格段に知識が増えたとは思うし、出掛ける先もフランスやイタリアが多くなった。しかし今、この連載を続ける気になれないのは、こういった類の話は世間に山のようにあり、そこに私のオリジナリティは何もないと思うからだ。
2 檜垣は雑賀恵子から示唆を受けている。彼女には『空腹について』『エコ・ロゴス』、『快楽の効用』という3冊の本があり、存在と食というテーマで思索を深めている。
『空腹について』は空腹論から食人論に進む。つまり食人も極度の空腹のもとで起きる。しかし争いで敵の人肉を食うとか、罪人の肉を食うという話を出したのちに、食人の禁忌と、その根源にある殺人の禁忌に触れる。そこから生理的な嫌悪、おぞましさの所以を問う。さらに肉食が考察される。人は他の生物とともに生きる。ともに生きるということは、他を汚すことでもある。他とぶつかり、傷つける。そういう他者とともに生きるのである。
『エコ・ロゴス』でも食人は論じられる。小説『野火』と『ひかりごけ』が論じられ、食人忌避の生物学的根拠が批判される。
『快楽の効用』は、嗜好品に対する欲望を扱う。タバコと砂糖が論じられる。また肥満も取り挙げられる。
3 拒食症、過食症についてはすでに書いている。当サイトの拙著「身体を巡る省察2 身体の戦略」( 2019/02/09) http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6355
4 前回と同じく、ラカンを論じて話を閉める。排泄物はラカンの言葉で言えば、対象aである。「肛門的なものから理想へ」(『不安』(1962-63セミナール10))においてラカンは次のように論じる。糞便は対象aである。「対象aは恐らく我々にとって、主体の中に原因の機能が作り出される根源の点である」と言う。「原因の原初的な形式は欲望の原因である」と言い、「この嫌悪される対象の欲望の経済における決定的な機能を浮かび上がらせたことこそ、思想史における精神分析の恩恵である」と言うのである(ラカン p.217)。
さらにラカンは、排泄物は他者の要求を介して、主体化の中に登場すると言う。これはどういうことかと言えば、幼児にとって、排泄物はまずは身体の一部であり、身体の一部として保持しておきたいものなのだが、親からそれを排泄せよという声が掛けられ、この身体の一部としてあった排泄物は、特別の価値を持つものとなる。つまり排泄物はこの他者の要求に満足を与えるものとなる。そして幼児は排泄行為のあとに、大人からていねいに世話をしてもらえる(同 p.224f.)。
この間の経緯を、松本卓也は次のようにまとめる。対象aは享楽の痕跡である。幼児は言語の世界に入る前は、十全な満足と呼び得る享楽を得ている。しかしシニフィアンの導入によって、それは喪失されてしまう。この時に残されたものが対象aである。対象aの定義は「大他者の場への主体の到来の全体的操作の中で還元不可能なものとして残ったもの」である(松本 p.283)。対象aは欲望を支え、それは様々な病態において顕現する。
またラカンがこの対象aの把握の仕方を巡って、その思想を進展させてきたことについては良く知られているが、そのことを向井雅明を参照して簡単にまとめると、以下のようになる。すなわち、対象aは、前期ラカンにおいては想像的対象であったが、後期では現実界を表すものとして扱われる。この対象aを把握するためには、対象の想像的次元と象徴的次元を抽象しなければならず、その結果、残されたものが対象性のない対象となる。失われた対象とは廃棄物としての対象aを示す。それは象徴界の外に現実界があることを表す。それは剰余である(向井 p.322ff.)。
参考文献 (五十音順)
アタリ, J., 『食の歴史 - 人類は何を食べてきたのか -』林昌宏訳、プレジデント社、2020
桐村里紗『腸と森の「土」を育てる - 微生物が健康にする人と環境 -』光文社、2021
雑賀恵子 『空腹について』青土社、2008
—– 『エコ・ロゴス - 存在と食について -』人文書院、2008
—– 『快楽の効用 - 嗜好品を巡るあれこれ -』筑摩書房、2010
ジジェク, S.,『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳、紀伊国屋書店、2008
ネグリ&ハート『<帝国> - グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 -』水嶋一憲他訳、以文社、2003
檜垣立哉『食べることの哲学』世界思想社、2018
藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』三笠書房、2019
藤原辰史『分解の哲学 – 腐敗と発酵をめぐる思考 -』青土社、2019
ヘーゲル, G.W.F., 『自然哲学(下)』加藤尚武訳、岩波書店、1999
松本卓也『人はみな妄想する - ジャック・ラカンと鑑別診断の思想 -』青土社、2015
向井雅明『ラカン入門』筑摩書房、2016
モントゴメリ, D., &ビクレー, A., 『土と内臓 - 微生物がつくる世界 -』片岡夏実訳、築地書館、2016
ラカン, J., 『不安(下)』(1962-63セミナール10)小出浩之他訳、岩波書店、2017
レヴィ・ストロース, C., 「料理の三角形」西江雅之訳、『レヴィ=ストロースの世界』伊藤晃他訳、みすず書房、1968
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x9102,2022.10.25)