主体の論理(11) ジジェク『性と頓挫する絶対』における主体論

高橋一行

 
   「主体の論理(10) 女の主体 ― C. マラブーと円地文子に触発されて ―」を書いてから二か月以上たち、この間にこのテーマ、つまり文学を題材に、身体と主体というテーマで書きたいと思って準備をしてきたことがあるのだが、それは後回しにして、先に書きたいことがある。連載物なので、こういう書き方から始めることを許して頂きたい。
   先日『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』(ミネルヴァ書房、2021.12) (以下『思弁的実在論』)という本を出し、読んで下さった方から好意的なコメントを頂いている。ありがたく思う。拙著を出したばかりで、その意図するところの弁護をしたいので、先にこの拙著について書きたいのである。
   同時にジジェクの新しい本の翻訳を手にする機会を得た。『性と頓挫する絶対』(中山徹+鈴木英明訳、青土社)(以下『性と頓挫』)である。原文は2020年に出て、訳本が2021年10月である。
   この本を読んで私は驚いた。まさしく拙著で展開されたことをジジェク自身が言っているからである。拙著は、題名にある通り、カントとヘーゲルを分析して、その考え方を基に、この20年くらいの間に出て来た思弁的実在論や加速主義を批判するものである。その際にジジェクを参照している。ジジェクに全面的に依拠して拙著を書いたと言って良い。そのジジェクの考えが、ジジェク自身によって深められ、練り上げられていたのである。
   ジジェクは今までに何十冊も本を出していて、そのテーマは幅広い領域に亘っているのだが、拙著では物自体を巡るカントとヘーゲルとラカンの精神分析についてのジジェクの考えを取り挙げ、それを詳述している。そしてジジェク自身が、この『性と頓挫』でこのテーマに絞って議論をしている。
   このジジェクの本を拙著と併せて読んでもらいたいと思う。つまり以下はジジェクの本の書評であると同時に拙著の宣伝でもある。本屋さんにジジェクのこの訳書と拙著を並べておいてほしいと切に思っている。かつまた本稿は、その作業の上でジジェクの主体論を確認するものでもある。
 
   まずはジジェク健在、すこぶる元気であると言うことができる。本稿の最後に書くが、ジジェクはここのところ毎年のように本を出している。しかもこの数年は、ヘーゲル論が中心である。今回の訳書もそうである。
   また原書が2020年に出て、わずかその1年後に訳書が出ている。訳は正確である。すでにジジェクの本邦での訳書は30冊を超えるが、その蓄積を踏まえ、かつていねいにジジェクの引用先も調べている。
   具体的に見てみたい。拙著『思弁的実在論』の中で、「現実界を巡る前中期のラカンから晩年のラカンへの進展は、物自体を巡るカントからヘーゲルへの展開である」というジジェクの説を紹介したが、以後、これを私はジジェクテーゼと呼びたい。この数年のジジェクは、このジジェクテーゼをさらに推し進めているのである。そしてその中で本書が決定版というべき位置にある。
   ただ私がこれらの本を読んだのは、拙著の完成稿を提出したあとのことで、拙著の中にはまったく引用することはなかった。しかし論点はすべて取り入れている。つまりジジェクテーゼは、それ以前の本の中に断片的にあったものを私が拾い集めて体系化したものである。しかしそれをジジェク自身がこの数年で、自ら体系化しているのである。
   また2012年に出たLess Than Nothing (この本はまだ翻訳がされていない。また私はこの本を『無以下の無』と訳すが、『性と頓挫』の訳者は『無未満』と訳している。今後、訳語がどちらで定着するのか、分からない)はヘーゲルとラカンというテーマの集大成になるものだと思われ、拙著でも随分参照し、引用もしている。しかしジジェクはそののちにさらに進んでいるのである。
   ジジェクは進歩している。そう言おう。カントからヘーゲルへという、拙著『思弁的実在論』でのテーマが進展している。ラカンとの絡み具合が深まっているのである。またそこではメイヤスーやハーマンが批判される。要するに私が取り組んだテーマが深められているのである。
   一見すると、記述はすべて今までどこかで読んだことがあるものばかりで、使われる単語も言い回しも同じだ。しかし確実に議論は深まっているのである。そのことを示したい。
 
   この『性と頓挫』は、24の長短様々の節で成り立っている。主題は反復される。4つの定理がある。
   定理Iでは次のことがテーマである。ヘーゲルはカントの超越論的な地平に留まりつつ、カントの行った認識論的な制限、つまり物自体の不可知性を存在論的な不可知性に変換する。物はそれ自体において頓挫しており、根本的な不可能性を刻印されており、存在論的に不完全なのである(p.42f.)(注1)。これがまさにジジェクテーゼの前提になる。
   その後拙著が思弁的実在論として扱ったもの、または新実在論と呼ばれている考え方が批判される。とりわけメイヤスーが取り挙げられる。メイヤスーは物自体の存在の認識は可能であるとしている。しかし彼は先を急ぐあまり、存在論的な誘惑に屈している。つまり懐疑を徹底しながらも、最後に絶対的なものに容易にアクセスできると考えたのである。しかしそこでは否定性は徹底されていない。これがまさしく拙著『思弁的実在論』のテーマである。
   定理IIは「人は性を通じて絶対に触れる」ということがテーマである。超越論的な次元は性的なものと密接に結び付いている。ここでカントのアンチノミーが紹介される。まずはこれがラカンの性別化の式が結び付けられる。アンチノミーは不可能性を示す。それは失敗という否定的なやり方を通じ、カントの言う崇高を通じてのみなされる。この不可能な「物」への執着と、「物」に到達できないという失敗が、性に関する人間の経験を構成しているのである(p.156f.)。
   そこからヘーゲルに話を進める。カントからヘーゲルへという文言は、この本の中で何度も繰り返される。カントのアンチノミーはあくまでも認識論上の話である。これをヘーゲルは存在論の領域に移すのである。カントのアンチノミーという画期的な発見に基づいて初めて、現実それ自体に内在する破壊的な力としての否定性というヘーゲルの概念を理解できる。つまりカントの言うところを理解して初めてヘーゲルの概念を理解できるのである。ここではカントからヘーゲルへの移行が、つまり超越論的なものの捉え方の進展が、ラカンと密接に結び付けられている。これこそがジジェクテーゼであり、しかもなぜカントからヘーゲルへの移行が性的なものとの関わるのかということが詳述されており、つまり、ジジェクテーゼが深められていると言うべきである。
   定理IIIにおいて、ヘーゲル論理学が詳細に分析される。その冒頭に展開される存在-無-生成の論理などに見られるように、ヘーゲルの議論は行き詰まり、それは閉塞、失敗の連鎖に他ならない。ヘーゲル論理学は、挫折を解決策に変えようと試みる。事物は自らの不可能性によって存在する。主体も自らの不可能性そのものであり、言い換えれば、自らを表象することに失敗することこそが主体なのである。
   ここで「無以下の無」という概念が、Less than Nothingにおいては、ヒッグズ場であっさりと説明されたのだが、ここでは量子力学を使って詳しく展開され直す。その無からさらに否定の否定へ、無限判断へと話が展開される。最初の創造行為は、空間を空にすること、無の創造である(p.402)。これがフロイトの死の欲動のパラドックスと結び付けて議論される。
   定理IVにおいて、次のように言われる。ヘーゲルがフーコーよりも先にフーコー的な言葉を使って指摘しているように、狂気は人間精神の偶発的な逸脱、歪み、病気ではなく、個々の精神を存在論的に構成している基盤に書き込まれた何かなのである。人間であることは潜在的に気が狂っていることを意味している。
   ここで狂気、性、戦争というトリアーデが論じられる。狂気はまず正常に先立って存在する。そして次に来る性も、狂気を表す特定の形象である。そして3番目に来るのが、社会の狂気としての戦争である。この3つが、人間の持つ抽象的否定性の過剰を表す。ここで3つが並べられているが、これはトリアーデをなすものではない。つまり最初のものが否定され、さらにそれがもう一度否定されるという形式で進行するものではない。ただ抽象化のプロセスが現実そのものに内在し、執拗に現れるのである。そしてこれがヘーゲルの言う和解であり、否定性それ自体という解消不可能な過剰との和解である。
 
   これらの定理は次のように言い換えられる。
   定理Iは予備段階である。ここでは今日の新しい存在論(ontology)が反脱構築的転回をし、表舞台に出て来たことを扱う。いずれの存在論も脱構築の終わりなき自己反省の探求から抜け出して、現実をポジティプに洞察し始めている。しかし本書はこれらを退ける。つまりあらゆる存在論が頓挫する。この頓挫は、存在の全体の現実と、私たちの現実との接触を媒介する超越論的地平との間のギャップに原因がある。つまり、存在の秩序における裂け目が記述され、それが超越論的次元によって補われる。私たちはこのギャップの向こうに踏み込めるか。
   定理IIは、定理Iの袋小路に対する回答が与えられる。これが第一段階である。性的なものは、存在論的体系を粉砕する否定性の力である。性的差異は二項対立を擦り抜ける回旋状の空間である。カントのアンチノミーを通じて理論が練り合わされる。カントは純粋理性を性的なものにしているのである。ここでは我々と絶対的なものとの接触が性的な経験であることが説明される。
   定理IIIは本書で一番長い。上述の回旋状の空間は、メビウスの輪、クロスキャップ、クラインの壺に対応し、それはそのままヘーゲル論理学を構成する3つの部門に対応する。すなわち存在論、本質論、概念論である。存在論が記述するのはカテゴリーの移行であるが、これはメビウスの輪で表現される。本質論では反照の原理が説明されるが、クロスキャップは対立するカテゴリーの間にある純粋な差異を導入する。クラインの壺によって導入されるのは主体性である。概念とは主体性の言い換えである。ここにおいて反照の円環運動は絶対的なものに達する。ただしこの絶対的なものとは、ジジェクが言う意味でのものである。これが第二段階である。
   定理IVは第三段階で、執拗に残り続ける抽象的否定性の現われである狂気、性、戦争が取り挙げられている。哲学は否定性というモチーフを繰り返すが、これはこの3つの形象によって再現される。
   この本の4つの定理は、まさしくジジェク得意のグレマスの正方形をなす。先に書いたことを繰り返せば、定理Iではカント理論の超越性が論じられ、カントからヘーゲルへということが示唆される。それがIIでラカンの理論に対応する。このふたつの定理がジジェクテーゼである。さらにそこから、ヘーゲルの論理を扱ったのがIIIであり、それを狂気に対応させるというのがIVである。4つで物事を考えるジジェクの性向を確認したい。
   ジジェクはトリアーデを嫌う。物事を二極的に考え、それを組み合わせて4項の正方形を作る。これをグレマスの正方形という。
   ここでも4つの定理は、IからIIへ、IIIからIVへという進展があり、かつIとIIIが対応し、IIとIVが対応する。これがジジェクの発想である。
 
   再度上述のことが言葉を変えて繰り返される(p.89ff.)。以下順に追うのは、定理I – IVにそれぞれ対応するもののではなく、4つの定理全体を貫通するものである。
   まず、超越論的なものはそれ自体矛盾を抱えており、その内部に敵対性を抱え込んでいる。そのことをカントが最初に述べたのである。超越論的次元は存在論の失敗を含意しているだけでなく、それ自身アンチノミーを必然的に生み出すものである。
   次にカントからヘーゲルへの移行が論じられる。アンチノミーは理性とその超越論的空間だけに関わるのではなく、現実それ自体の特徴であり、私たちは自らの欠陥を現実それ自体に刻印された欠陥と同一視するのである。
   そしてそこにフロイトとラカンの精神分析が関わってくる。この欠陥こそが性である。労働でも言語でもなく、この性こそが私たち人間を自然から切り離す。
   最後はこの性の問題を現実全体に広げることである。量子力学を参照して、「無以下の無」が論じられる。それは「まだ何かになっていないもの」から無が生み出される。それは現実が自己関係を起こす仕組みのモデルとなり得る。そしてその論理と性とが結び付けられる。性は目標に達するのに繰り返し失敗する、その過程そのものによって満足が得られるものだからである。主体は不可能な対象に固執する。これはヘーゲルの論理そのものであり、同時にラカンのものでもある。
 
   かねてから、ラカンの現実界とカントの物自体は対応すると言われている。私はそれはそのまま認めた上で、しかし晩年のラカンは現実界を重視し、それは物自体の理解がカント的な段階からヘーゲル的な段階に移ったことと対応するという、拙著の中で書いたジジェクテーゼを強調してきた。ただ前提として、ラカンはまずはカントの考え方に対応するのである。
   その際に拙著では、カントにおいて構想力の役割が重要で、カントはこの構想力で以って物自体に迫ることができると考えていたという説を開陳した。このことについてもジジェクが興味深い指摘をしている。カントにおいて超越論的構想力が果たしている重要な役割を考えると、想像的なものというラカンの概念を敢えて再検討することも必要だろうと言うのである(p.469f.)(注2)。IRS(想像的なもの、現実的なもの、象徴的なもの)という3つの組において、想像的なものは概して幻想の場として貶められているが、しかし実はこの概念が重要であるとジジェクは言う。
   ここから言えることのひとつは、ジジェクは案外構想力を重視しているのではないかということだ。つまりまずはカントの用語でラカンを捕らえている。物自体=現実界、構想力=想像界と言うことができる。
   しかしその後ラカンが現実界を重視するようになると、この想像力(構想力)は物事を総合する力としてではなく、否定的な力として機能するようになる。こうなると「カントからさらに離れて」、ヘーゲルの考え方に近付いて行くのである(p.470)。
 
   実際「カントからヘーゲルへ」という文言は何度も繰り返される。少し拾ってみよう。
   カントは絶対的なものと私たちの世界との絶対的なギャップについて語る。ヘーゲルが言うのは、カントの言うギャップは、すでにそのギャップの解決であるということである。存在自体が不完全なものである。主体とは存在の体系の亀裂に付けられた名前である(p.102)。
   このことは簡潔に言って次のように言うことができる。カント的現実界は現象の彼方にあるヌーメナルな「物」であり、それに対してヘーゲル的現実界は現象とヌーメノンの間のギャップそのものであり、つまりそれは自由を維持するギャップなのである(p.99)。これがジジェクテーゼをジジェク自身の言葉で表したものである。
   またヘーゲルの観念論の基本的なテーゼは、思考の規定は同時に存在の規定であるということである。不可知の物自体と私たちの知とを分かつギャップは存在しない。さらにそこから、思考の限界、つまりカントがアンチノミーとして提出したものは、存在自体の限界でもあるのだ(p.34f.)。このヘーゲル観は正しい。
   ここからさらに、そもそもなぜカントからヘーゲルへという移行がラカンの考え方の変遷に対応するのかということが説明される。今まで断片的にしか言われなかったことが、ここでは主題として、繰り返し説明される。超越論的なものは性的なものに関わるからである。
   結論として、否定的なものとしての主体が確立する。それは性的なものに纏わり憑かれている。
   以下ジジェクの本から、この主体についての議論を拾っていく。
   まず、主体は常に超越論的な態度と結び付いている(p.51)。
   また、主体は自らが抱える他者性の中に自身を認識するというヘーゲルの考え方は、自分自身を自分にとって疎外された客観性として現れるものの中に認識することである。さらに主体は自分自身の欠陥や欠如を、宇宙の秩序の持つ欠陥や欠如に基づくものとして認識する。この秩序それ自体が不完全であり、そこには不可能性という亀裂が走っている(p.83f.)。
   主体は不可能な対象に固執する。つまり手の届かない対象を得ようと努力する。主体自体がヒステリー的なのはこのためである。ヒステリーの主体とは、まさに享楽を絶対的なものとして措定する主体なのである。この主体は満たされない欲望という形を借りて、享楽という絶対的なものに応答している(p.92)。ここがこの本の結論になる。
   さらに主体は現実の裂け目であり、主体自身がトラウマであるとか(p.479)、物自体との特権的な接触そのものが主体であるとか(p.507)、現象界としての現実に対する物自体の過剰は、私たち自身、つまり主体性というギャップそのものであるとジジェクは言う(p.515)。
   精神はそれ自身が癒そうとする傷そのものであり、その傷は自分が付けたものである。・・・主体とは、計り知れない、絶対的な否定性の力、・・・有機体的統一体の一部として現実に存在しているものを差異化し、抽象化し、引き裂き、自立したものとして扱う力である(p.567)。
 
   付言すれば、ジジェクも私も進化論が好きである。ダーウィニズムは、「諸要素の無目的的な相互作用から目的性が現れることを科学的に説明するものである」という簡潔な定義があり、そこからもしカントがダーウィニズムを受け入れたらどういうことになるかと問う(p.115f.)。その場合、物自体は神に由来する諸目的から成る高次の宇宙というヴィジョンではなく、現実は自由のない、カント自身の言葉で言えば、「人形芝居のようによく身振りをするであろう」が、「何ら生命も見出せない」機制から成るというヴィジョンになる(カント『実践理性批判』第1部第2編第2章第9節)。しかしジジェクは、それ以上は問うべきではないとしている。カント『実践理性批判』では、その進化論的な偶然性や事後的な必然性を説明できないからである(注3)。
   また性的なものもまた進化する。まず無性生殖の段階があり、続いて植物においては、単体の中に両性がある。さらに動物においては性が分割して、現実的なものとなる。それが人間においては、性的なものの不安定性を許容する象徴秩序という事実に二重化される。これは例えば生物学的に男性である人が、意識の上では女性のアイデンティティを持つことがあるということである。最後にポストヒューマニティの段階では、ふたつの性は崩壊するとジジェクは予言をする。子どもはすべて科学技術によって人工的に作られるかもしれない。性は無効になるかもしれないというのである(p.223)。
 
   最後に以下のことを付け加える。拙著で参照したLess than Nothing(2012)と今回の『性と頓挫』(2020=2021)の間に、3冊のヘーゲル論が出ている。いずれも未邦訳である。『性と頓挫』の「訳者あとがき」に、これらの本についての簡単なコメントがある。これを参考にする。それは以下の本である。
1. Absolute Recoil : Towards a New Foundation of Dialectical Materialism (2014) = 『絶対的な跳ね返り – 弁証法的唯物論の新たな土台作りに向けて -』
2. Disparities (2016) = 『不等性』
3. Incontinence of the Void : Economico-Philosophical Spandrels (2017) = 『自制の利かない空無 – 経済的哲学的スパンドレル -』
   これらを読んだ印象では、新しい概念は出て来ないし、用語も今までジジェクが使っていたものである。具体的に言えば次のようになる。
1.recoilは、跳ね返りという意味である。ヘーゲルの論理は、相手にぶつかって行ったものが自分に跳ね返ってくるというループ構造をしている。
2.disparities は、不等性と言う意味である。ジジェクがしばしば使う「実体は主体である」というヘーゲルの『精神現象学』の文言がここで使われている(注4)。ここで主体と実体は不等な関係にある。
3.ここではspandrelという概念が使われる。これは「三角小間」と訳される建築学の用語で、隙間といった程度の意味である。進化生物学が好んで使う。生存の上で意味のない副産物として生じたものが、意外な機会に予期せぬ役割を果たすことがある。建築上に生じた隙間が、意外なまでに役割を持つことがあるという話である。先に言ったように、ジジェクも私も進化論が好きである。
   これらの本でも、そのヘーゲルとラカンが融合している。これは進展と言って良いのではないか。ジジェクは進化する。馴染みのある単語、何度も見た言い回し、繰り返される概念がそこに見られる。しかしその反復を通じて、確実に議論は深められている。
   またこの『性と頓挫』の「訳者あとがき」には、この本は、上述の1.2.3.の本の作り出す一連の系列の最後に位置するので、これらのまとめになっており、そのためにこの本を出版社の判断で選んで訳したということが書かれている。
 

1. 本稿でのページ数を示した引用はすべて『性と頓挫』からのものである。
2. 英語表記で、カントとヘーゲルが使う構想力はimaginationであり、これは想像力と訳すのが一般的だが、カントとヘーゲルの訳語としては構想力が定着している。一方、ラカンの想像的なものは、これも英語表記でimaginaryであり、こちらは想像的なものという訳語が定着している。ジジェクが使うimaginationについて、『性と頓挫』の訳者は構想力(想像力)としたり、想像力(構想力)としたりしている。
3. 拙著で私は、カントの歴史理論において、道徳理論とは異なる目的論的な見方が展開されていると書いた。しかしジジェクはこれらの著作に言及しない。
4. ジジェクはこの「実体は主体である」というヘーゲルの文言を誤解して使い、しかし正しくヘーゲルを解釈している。このことについては次回に書く。
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x8379,2021.12.20)