ヤケになってはいけないよ

森忠明

 
   去年の春には僕の小さな家にたくさんの五年生が遊びにきてくれました。
   僕が書いた物語が教科書に載って、その最初の授業の時、ある先生が「この作者はまだ生きています」とおっしやったので、じゃあ遊びにいってみようか、ということになったらしいのです。
   みなさん実に立派な少年少女で、貧乏作家の僕をいたわってくれた上に、現代学校事情などを懇切丁寧におしえてくれました。
   帰りぎわ「森さんは世の中を地獄っぽく見すぎてるみたいだけど、ぼくらがひいきしてるから明るい気持ちでがんばりなさーい」と言ってくれた少年もあり、「わたしは将来、森さんのようにあまりちやほやされない作家と結婚したい」と嬉しがらせを言ってくれた少女もおりました。
   秋田県大曲市立第二小学校の五年生全員から「健康に気をつけてがんばれ」という手紙や感想文集を送っていただいたりもしました。
   そんなぐあいに僕はこの一年間、五年生の方々に激励されつづけてきたのです。
   今、「新五年生がんばれ」というテーマで原稿を書くことになった僕は、激励する側にまわったわけですが、少々とまどっています。僕にがんばれと言ってくれた少年少女は、作品などを通してこちらをある程度は御存じなので励ますかい・・や手応えがあったと思われますが、僕の場合、顔も名前も知らない新五年生を一緒くたにして「がんばってください」と言ってもむなしい感じがするからです。新五年生が百万人いるとしたら、それぞれの方にふさわしい百万種類の伝言を用意しなくてはならないでしょう。
 
   五年生の頃の僕は、かなり重く暗い心の嵐にみまわれて登校できず、精神科病棟や山奥の温泉で静養していました。その時いちばん耳ざわりなのは「がんばれ」とか「元気をだせ」とかいう言葉でした。
   何もかもが面倒くさく、がんばらなくてはならない理由がわからなくなってしまった混乱と低迷の日々には、言葉による励ましよりも、淋しいことこの上ない風景(たとえば青葉がくれの廃屋、星のまたたき、凍った湖)などが無言の慰めであり、真の励ましだったように思います。
   当時、落ちこみきっていた僕に、たった一人ですが幼なじみの男友達がいました。
   彼は学校を休みつづける僕をただ見ているだけで、力づけるようなことは全く言いませんでした。「今日は遊びたくない」と言うと彼は黙って帰り、「今夜は泊まっていけよ」と言うと必ずうなずいてくれるのでした。
   僕が行く所にはどこへでもついてきて、僕がぼんやりしていれば共にぼんやりしてくれるのでした。彼がそばにいてくれるだけで心なごみ、一時的にではあっても人間らしい晴れやかさをあじわうことができました。
   その静かな存在が、どれほど有難いものだったのかを本当に知ったのは、彼が二十三歳で事故死してしまってからでした。
   彼、ありあけあきいちという名前の人間と、この地球上で出会うことができただけでも生まれてきてよかったなと思い、彼と過ごした子ども時代の思い出を書き残しているうちに、僕は作家と呼ばれるようになっていました。
   あれは中学生になる年の正月のことです。五年、六年と休学していた僕は落第を覚悟してはいたものの、自分の一生はもうメチャクチャだ、どうにでもなれとふてくされ、やぶれかぶれなことをわめいていました。
   そこへ彼から二通めの年賀状が届いたのです。
   早朝、彼自身が配達したという五円はがきの最後には「ヤケになってはいけないよ」と、すごくへたくそな字で書いてありました。
   それから二十七年がたちますが、僕は今でも時々、うす茶色になったそのはがきをとりだしてながめながら、
   「ヤケになってはいけないよ――ヤケになってはいけないよ――」
   自分に言いきかせるようにつぶやいたりするのです。
   どうか新五年生のみなさん、この先どんなにつらくみじめな時があっても決して自棄やけを起こさずに、明日のよろこびと人間の素晴らしさを信じて、なんとか生きていってください。
   幸せ多いことを祈っております。
 
(初出、『小五教育技術四月号』一九八七年・小学館)
 
(もりただあき)
 
(pubspace-x6799,2019.06.26)