2DKのかくれんぼ

森忠明

 
 前立腺を煩っている父が、しきりに便所を使うので、ゆっくり用を足せない私は、パレスホテル立川のトイレをしばしば借りに行く。シャワレット付きの伊勢丹のも重宝しているが、開店まで待てないことが多い。
 五月の日曜の朝。パレスへ向かう途中、私の頭髪の中に一匹の花潜ハナムグリが飛びこんできた。
「こんな虫でも俺が”花のある男”だと分かるんだな。立川だけにモグって三十年も立川と自分のことだけ書いてきた俺はさしずめタチカワムグリか……」
 そんな馬鹿をつぶやきつつ用をすませ帰宅すると、立川二中(我が母校)の一年生になったばかりのらん(豚児の名)が、ウィンドウズの画面を見ながら「パパ、世の中にはキトクな人がいるねえ。ほら、ここ」
 指す部分をのぞくと、〈いくさたくみ〉なる三十二歳の旭川在住の青年が、〈好きな作家〉として――澁澤龍彦、中勘助、山田風太郎、スティーブン・キング、森忠明――としているではないか。照れかくしに「シブイ選択じゃんか」と言ったら、常にスーパークールな娘は「シブ過ぎる」とか小声でコメントして他の検索にうつった。
 くだんの花潜は、パレスホテルの玄関から中央図書館の方へ優雅に飛空して消え、
「いいなあ、自由で、羽のあるやつは」
 また私に独りごとを言わせた。
 生まれ育って五十五年、この街しか知らないが、ここは比較的自由感のある地点なので、どうしても羽が欲しいとは思わない。
 私のもとで六年間童話を勉強しているANA国際線客室乗務員の洋子ようこさんは、「世界のどこへも行ったことがないのに、人間世界を深く知っている森センセイを尊敬しています」などとのたまう。
「俺を慰めるな。大金と、あんたみたいな美形が付きそいなら世界のどこへだって行きてえんだぜ」
 やや野卑な話法は、昭和三十年代、疾風怒濤のタチカワで少年時代をすごした者の特長なので、ご寛恕を願う。
 
 ゆうべ、NHKテレビの『独立時計師たちの小宇宙』というのをみていると、スイスの超複雑時計製作者が「(直径30㎜の中に)無限の広がりがあるのです」としゃべった。
するとすぐ、私の脳味噌は四方谷よもや馬翔(『えくてびあん』前編集長立井啓介氏の俳号)の秀句に連絡した。
 

秋霖や二DKのかくれんぼ

 
「そうさ、そうなんだ――子どもの無限の想像力は、2DKやタチカワの狭さから宇宙へ溶融して果てしなく遊ぶのだ――」
 またまた独りごち、パレスホテル2Fの『ロイヤル・オーク』へおもむき、オンザロックの丸氷まるごおりに地球全体の行く末を想い、『ホーン岬まで』(拙作品名)と名づけられたカクテル(九百円)を味わいながら、南アメリカ南端の海波に想いをいたしたのである。
 
(もりただあき)
 
この記事は「タチカワ誰故草」(『えくてびあん』平成15年8月号より平成18年7月号まで連載)から著者の許諾を得て掲載するものです。
 
(pubspace-x5180,2018.07.29)