安川寿之輔
『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(以下、『戦争論・天皇論』)「終章」に次ぐ「補論」後半の366頁12行目から371頁の記述は、水澤壽郎からの「天は人の上に人を造らず・・・」の出典が『東日流外三郡誌』であるという古田武彦説の教示を受けて執筆した内容である。ところがその後、水澤自身を含む四人もの読者から『東日流外三郡誌』の偽書説が寄せられ、仔細に検討した結果、『東日流外三郡誌』の偽書説を否定できないことが判明した。
本書の二刷の際に、この五頁足らずの記述において、『すすめ』冒頭句の出典が『東日流外三郡誌』であるという「古田説を基本的に支持する意向を表明」したことを誤りと自己批判し、その意向を撤回する意思を付記することで、高文研の了解を得た。残念ながら二刷に至っていないので、その趣旨を次のように付記させていただくこととする。
1. 古田武彦が「天は人の上に人を造らず・・・」の出典が『東日流外三郡誌』であると主張している五つの論拠のうち、第二の「・・・と云へり」という伝聞態表現、第三の亜米利加独立宣言などに直接「天は・・・」の「原文」がみられないこと、第五の「天は・・・」の「冒頭の一句は、福沢の思想になじまない」という三つの根拠については、「積極的に同意できる」と書いた通り、訂正は不要である。
2. 問題は、「天は・・・」の出典が『東日流外三郡誌』であるという古田武彦の主張を前提にして、「なぜ生涯、福沢がその出典の由来その他を語らなかったのかという『謎』」について、「西欧文明の精神」こそを価値としていた福沢にとって、「明治以前の日本の文明」に帰属する『東日流外三郡誌』が出典であることは自慢・広言の対象にならなかったという解釈をふまえて、本書が「天は・・・」の出典について、(従来の)定説的解釈を私が踏襲することを止めたことについては、誤りとして撤回したい。
3. ということは、福沢が「天は・・・」の出典に生涯触れなかった理由については、以下のような常識的解釈に戻すことになる。
つまり、福沢が「天は・・・」の出典に言及しなかったのは、『三郡誌』が出典だったからではなく、『すすめ』初編(全)執筆の時点において、福沢は、アメリカ独立宣言にヒントを得たことと、「天は・・・」の「天賦人権」思想に同意・同調していない、という二つの重要な事実を表現するために、「・・・と云へり」と『すすめ』冒頭の句を結んでいたからである(つまり、釈明の必要性はもともとなかった)。
それに加えて、『福沢諭吉と丸山眞男』Ⅱ、Ⅲ章でくわしく論証したように、『概略』終章を転機として、(『時事小言』において)「権道」の「人為の国権論」を選択し(未発の課題としていた「一身独立」を結局、生涯凍結し)、アジア蔑視・侵略の方向へ保守化して以降の福沢は、天賦人権思想に積極的に反対する思想形成を推し進めていったのであるから、彼にとって、「天は・・・」の出典・由来を語ることは、結局、生涯、自負や自慢の対象とならなかったからである。
4. 『戦争論・天皇論』執筆の時点で、十数年来の『東日流外三郡誌』をめぐる真偽論争の情報の存在に、私がまったく無知であった事実は反省している。しかし、本書で古田武彦の研究に論及しながら、「天は・・・」の由来を再論したこと自体については、悔いていない。なぜなら最後に書いたように、この問題をめぐる「一番の問題は、・・・『「天は・・・」の句が『すすめ』全体の精神の圧縮的表現』という(戦争責任意識の希薄な)福沢美化の『丸山諭吉』神話が創作・継承されてきたことが、本質的で重要な(誤った)戦後日本社会の歴史意識の問題だからである」。
つまり古田は、偽書『三郡誌』を依拠史料として利用した点で誤りを犯したとしても、日本の戦後民主主義を代表する丸山の「福沢諭吉」神話とその追従者の誤りは見事に克服して、「福沢の場合、それはしょせん、「借り物」であり、福沢思想の全体系」に「決してなじまない」という貴重な結論を、解明・主張していたからである。
備考:本稿は、安川著『福沢諭吉の教育論と女性論』(高文研)の275~277頁に収録した「『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』についてのお詫び」に若干手を加えて転載するものである。なお、転載にあたっては、高文研の了解を頂いた。
(やすかわじゅのすけ 近代日本思想史研究家)
(pubspace-x3689,2016.10.27)