「福沢諭吉神話」解体の道のり① 

安川寿之輔

 
はじめに―福沢諭吉研究のきっかけ
 今からちょうど半世紀前、1964年に私が初めて『学問のすすめ』を読んだのは偶然のきっかけによる。水田洋 (当時名大経済学部教授、現、学士院会員) から『日本の知識人』という企画書の分担原稿として、「日本の知識人の人間形成史」の執筆を依頼された (企画は実現に至らず) 。日本の知識人といえば、まずは福沢諭吉と考え、この時、生まれて初めて福沢の文章を、とりあえず『学問のすすめ』から読むことにした。戦後民主主義教育第一世代に育った者として、福沢が日本の偉大な民主主義の先駆者であることは、当時の私にとっても自明の常識であった。 
 ところが、「初編」冒頭の「天は人の上に人を造らず、・・」が「と云へり。」という伝聞態で結ばれている事実に、まず驚いた。第二編では「明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従ふ可しと条約 (契約) を結びたる人民なり。」という明白な虚偽の記述が気になった。我慢して、第三編「一身独立して一国独立する事」まで読み進めて、ここで決定的なブレーキがかかってしまった。
 丸山眞男は、この定式において「一身独立」と「一国独立」の二つの課題の「内面的連関というものが、最も鮮かに定式付けられ」ており、両者が「全く同じ原理で貫かれ、見事なバランスを保って」おり、これは「デモクラシーとナショナリズムの結合」した日本の「明治前期の健全なナショナリズム」を象徴する見事な定式であると、最高度に前向きに解釈しており、この丸山の解釈が完全な定説となって、 (丸山福沢論に批判的だった) 服部之総を含めて、先行研究者全員を支配していた。
 しかし何度『すすめ』第三編を読み返しても、丸山眞男、家永三郎、遠山茂樹らの解釈に私は納得できなかった。『すすめ』第三編において福沢は、「一身独立」を可能にする条件はなにも論じておらず、論じているのは、もっぱら「一国独立」を支え可能にする国民個人の「独立の気力」のことだけである。決定的な問題は、福沢が主張している「一身独立」「自由独立の気風」の中身は、丸山が読みこみ的に解釈する「個人的自由」「個人の自由独立」とはおよそ関係なく(NHK「坂の上の雲」の場合は、主人公秋山好古が「人、ひとりひとりの「独立」」と解釈)、ズバリ「国のためには財を失ふのみならず、一命をも抛(なげうち)て惜むに足ら」ない国家主義的な「報国の大義」のことであった。
  
 『すすめ』第四編以降を見れば、先学らの解釈を可能にする論理が記述されているかもと考え期待して、結局、第一七編まで読み通したが、疑問はかえって深まるばかりであった。『学問のすすめ』だけで、初期啓蒙期の福沢のナショナリズム、「個人と国家」観の結論を出すことに無理があるのではと考え、結局、大学院時代以来まったく別のテーマにとりくんでいた当時の私が、以来、初めて思想史研究の分野に足をふみこみ、『福沢諭吉全集』21巻を相手に、半世紀の福沢研究にのめり込むこととなった。
 その成果は、当時の勤務校の紀要論文―1966年「福沢諭吉の教育思想Ⅰ―『学問のすすめ』を中心に」、1967年「同Ⅱ―福沢における政治・教育・経済」(市邨学園短大『社会科学論集』1,2号)、1968年「同Ⅲ―学問・教育独立論を中心に」(『宮城教育大学研究紀要』2号)となり、それらの成果をまとめて、1970年に旧著『日本近代教育の思想構造―福沢諭吉の教育思想研究』(新評論)を刊行した(同書を、事後に名古屋大の学位請求論文として提出)
 
Ⅰ『福沢諭吉のアジア認識』の衝撃
 性格・適性からいっても正真正銘の「書斎派」であった私(それでも学生時代には学生運動のデモの後尾に並び、院生時代の1960年の安保闘争では、皆のカンパで2回東京に足を運んだ)は、日本の反戦平和運動の退潮におし出される形で、1990年前後から「わだつみ会」(日本戦没学生記念会)、「不戦兵士・市民の会」、「ノーモア南京・名古屋の会」などの市民運動に参加するようになった。
 その時期はまた、1991年12月の日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)キム・ハクスン(金学順)の東京地裁提訴に代表されるように、アジア諸国から日本の戦争責任、植民地支配責任をきびしく告発・糾弾する声が高まった時代である。日本の社会にもこうしたアジアからの問いかけを、真剣に受けとめ「心に刻」もうとする運動や動きが弱いながらも始まった。その一環として、論壇にも「日本国民の戦争責任論」問題が浮上した。
 「わだつみ会」でも、学業半ばで「学徒出陣」を迫られ、わたつみの涯で非業の死を余儀なくされた悲劇の「わだつみ世代」学徒兵も、アジアとのかかわりでは総体としての侵略戦争の担い手であり、その限りでは加害者でもあったという見解が表明されるようになった。1994年からわだつみ会の執行部に入った私自身も,「『わだつみ世代』の戦争責任論」「国民の戦争責任再論」(『わだつみのこえ』第101,110号)、『日本の近代化と戦争責任』(明石書店、97年)、「『日の丸・君が代』法制化と戦後民主主義教育」(季刊『中帰連』第12号)、「名古屋大学の戦争責任」(季刊『戦争責任研究』第28号)などで、日本国民の戦争責任の理論化の一翼を担うようになった。
 『旧著』刊行の1970年から30年のブランクを経て、私は『福沢諭吉のアジア認識』を刊行した。以上の記述は、同書の誕生を促した当時の日本の時代の流れである。執筆の直接的な契機は、教科書検定による福沢の「脱亜論」削除等の是非をめぐって高嶋伸欣(当時、筑波大付属高校教諭)が提起した「高嶋(横浜)教科書訴訟」において、原告側証言 (97年9月、横浜地裁) を依頼されたことである。
 しかし、より深い理由は、アジア太平洋戦争の日本の戦争責任やそれ以前からの植民地支配責任を批判・告発する1990年代のアジア諸国民の声に応えて、私自身も自分の過去の福沢研究を見直す必要性を認識し始めていたからである (だから同書は、キム・ハクスンに謹呈) 。丸山眞男を筆頭とする数多の先行研究によって、近代日本の「民主主義」思想の偉大な先駆者ともっぱら称賛・美化され、最高額面紙幣の肖像にもなっていた福沢諭吉が、じつは日本のアジア侵略とアジア蔑視思想の先導者であったという事実を、『福沢全集』の福沢自身の言説によって実証・解明した『福沢諭吉のアジア認識』は、多くの読者に衝撃を与えた (Ⅳ『教育論・女性論』2頁参照)
 また同書は、梅原猛、斉藤貴男、石堂清倫、高橋哲也、岩崎允胤、星野芳郎など多様な思想的立場の人によってそろって評価・紹介され、各種の新聞・雑誌・ミニコミ誌などからも図書紹介の対象にとり上げられた。そのため、同書は学術書であるにもかかわらず、出版不況期に初版3500部が3か月で売り切れる事態となった (目下、4刷)
 そうした「異変」のその後の余波については、Ⅱ『福沢と丸山』の「あとがき」に記したが、個人的に一番嬉しかった出来事は、福沢諭吉の思想について、同書ほどきびしく批判的に考察した著書はないのに、その著者の私が、ほかならぬ慶應義塾大学 (日吉) の講義に (2001年と06年の二度) 招かれたことである。マスコミの目ではこれは「事件」ということで、2001年の場合、「朝日新聞」東京本社の3人もの記者が別々に取材を申し込んできた (結局、2人の記者が講義室を訪れ、5月26日の小さな記事になった)
 
 
<以後の連載の予定目次>
Ⅲ NHK「坂の上の雲」放送批判の講演活動
Ⅳ 『週刊金曜日』の刺激的なインタビュー記事とその波紋
Ⅴ 「朝日新聞」<文化の扉・歴史編>への再登場
Ⅵ 『福沢の教育論と女性論』の刊行
 
備考:本稿は、安川寿之輔氏が発行しているミニコミ誌『さようなら!福沢諭吉』創刊準備1号に掲載された論考を安川氏の了解を得て転載したものである。なお、安川氏が発行する無償提供のミニコミ誌を希望される方は、「公共空間X」の「窓口」によりお問い合わせください。
 
(やすかわじゅのすけ 近代日本思想史研究家)
(pubspace-x1869,2015.04.17)