森忠明
きのう(十二月三日)、まど・みちお先生からサイン入りの詩集が届いた。うれしくなって「ぞうさん」を大声で歌った。
その詩集「くまさん」(童話屋)の中でいちばん好き、というより、いちばん気になる作品は「もう すんだとすれば」という題の詩だ。第二連はこうである〈一緒にいるときは ひとりぼっちなのだ/やかましいから 静かなのだ/黙っている方が しゃべっているのだ/笑っているだけ 泣いているのだ/ほめていたら けなしているのだ(略)〉。
“黙っている方が しゃべっているのだ” という一行が、口数の多い私への戒めのように思われた。
うろおぼえの上に作者名を失念して申しわけないけれど、新聞の短歌欄で次のような秀歌を読んだことがある。
〈幼より喜捨を受けたる虚無僧が「ぞうさん」のうた喨々と吹く〉
言葉で礼をするのではなく、尺八による返礼。それは感謝にとどまらず、幼児の未来を予祝する心でもあり、どんな言葉よりも小さな “施主” を喜ばせるものであったはずだ。
私は子どものころからおしゃべり。口舌の徒である。講演を数えきれないくらいやってきたが、毎回自分の浅学や品性の低劣さが分かって大いに後悔する。
昔、ジョン・ウェイン主演の映画に「静かなる男」というのがあった。私も哀愁のただよう静かな人間になりたい。
高校時代の同級生Sは、ダビデ像のような、すごいハンサムだった。勉強もすごくできた。発声器官に障害があって、三年間一度も会話できなかった。しかし、私の軽口をいつも笑顔できいてくれた彼の、ノーブルな印象は、三十年以上たった今も薄れず、濃くなるばかり。
Sはなぜか卒業記念文集に一字も書かなかった。その空白部分を見るたびに、彼の沈黙世界をさまざまに想像し、“黙っている方がしゃべっているのだ” ということを実感させられるのである。
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『おしゃべりな口』(モリス・グライツマン・作、青海恵子・訳、中居稔・さし絵、岩波書店、本体一六〇〇円、九七年七月刊)を手っ取り早く紹介するには、主人公の少女が転校第一日目にみんなに配った手紙を引き写すのがいいだろう。〈こんにちは、わたしの名前はロウィーナ・バッツです。もう気づいたと思いますが、わたしは口がきけません。生まれてくるときに、のどのちょっとした部品をつけ忘れてきたからです。(だから、だいじょうぶ、秘密はけっしてもらさない)。あとは、みんなと同じです。〉
手話とメモと奇想天外な行動によって、クラスのだれよりも生き生きと輝いているロウィーナ。そんな彼女を「オーストラリア一のおしゃべり」と言うパパ。健常者には負けるもんか、といったコワバリのない、自由でしなやかな少女の物語に笑い、励まされる。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x16057,2026.08.31)
