石塚正英
本サイト「公共空間X」(2026年3月3日)に「歴史知の視座でカント思想を読解する(一)」を掲載した。カント『純粋理性批判』(篠田英雄訳、岩波文庫、上分冊 Kant, Kritik der reinen Vernunft, Leipzig Verlag von Felix Meiner, 1919)を読んで〔引用〕し、それに〔注記〕をつけるものである。その中に以下の原稿が記されている。
〔引用②〕つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象(Gegenstande als Dinge an sich selbst)ではなくて、感性的直観の対象(Object der sinnlichen Anschauung)としての物――換言すれば、現象としての物だけである。上40頁、S.34.
〔注記②〕先史人や野生人の思考・思想は、動物や奇岩など、物それ自体が端緒(Anfang)にして実体(Substanz)なので、「物自体」と「対象としての物」との区別はありえない。彼らにすれば文明人・理性人カントの考えは転倒した発想、フィクションにあたる。カントが言う物自体は認識できないが存在する。その存在圏域は超自然であり、私が定義する〔メタフィジカル・バース〕にあたる。
引用文中にある〔メタフィジカル・バース〕に関しては本稿に添付する〔存在圏(バース)の3類型〕を参照するとして、「感性的直観」について、もう少しコメントしたい。例えば冨田恭彦『カント入門講義―超越論的観念論のロジック』(ちくま学芸文庫、2017年)に以下の記述が読まれる。
〔引用〕物自体というのは、カントによれば、私たちにはどういうものかわかりませんよね。でも、私たちは感性という能力を持っていて、それによって、こんなふうにいろんなものが見えたり聞こえたりしていますよね。物自体ではありませんけど、物が私たちに対して、私たちに現れる際の固有の仕方で、現れています。つまり、「現象」として現れています。それって、ああだこうだと考えてそうなっているようなものじゃありませんよね。直接見て取れるという具合ですよね。カントはこれを、「対象が直観において与えられている」というふうに捉えます。繰り返しますけど、この場合、対象は、物自体としてのあり方で現れているわけではなく、私たちを触発して、私たちがそれを感覚的に受けとめる場合のあり方で、つまり「現象」として、私たちに現れているのです。「直観」というのは、そのように、感覚能力としての感性の働きによって、私たちに感覚とか現象とか表象とかさまざまな言い方で言われるものが与えられるとき、そこに現れているものを表すのに使われます。感覚を通して与えられる直観ですから、これをカントは「経験的直観」と言います。
「感覚を通して与えられる直観ですから、これをカントは「経験的直観」と言います」が腑に落ちない。日常語の「直感」ならば、「ピンときたら110番」といった経験的なものであり、「直観」とは違う。日ごろ指名手配かなにかの顔写真を見ているからピンとくる。何も見ていないのに生じる既視感(フランス語の「デジャヴdéjà vu」)はその裏返しの現象だろう。感覚的な現象にかかわるのが直感であるのに対し、直観は思念にかかわるのだろう。「突如あるアイデアが湧いた」という場合のように、ものの観方に変化が生じるのである。私が定義する「直観」は身体知としての「感念」に関係する。ここに示す「感念」はわが造語で、以下の意味を有する。理性知に一致する思念を「理念(Idee)」とするならば、身体知・感性知に一致する思念は「感念(Sinn)」となる。理念が精神に発するとすれば、感念は身体に発する。例えば理性派のヘーゲルには「理念」は理性・理性知とセットになる。しかし芸術家ミロのように、理性以上に感性を生きる指針とする非理性的な人々には「理念」でなく「感念」が意味をもつ。文字をもたないケースもある非ヨーロッパ諸民族の数千年にわたる文化活動、それは理性知ではなく、感性知・身体知と一致する。「感念」を外国語と比べるならば、ドイツ語の“Sinn”には、当たらずとも遠からずの概念が備わっていると思っている。それらを連合させれば「感念」を表現できるだろう。精神に発する理念に対する、身体に発する感念という捉え方の重みは「感」にある。
詳しくは、ただいま執筆中の拙稿「存在圏的存在論Existenzielle Ontologie―ハイデッガー・サルトルを参考に」に記す予定でいる。要旨だけ以下の石塚個人ブログ「歴史知の百学連環」にアップしてある。
https://ogamachi.livedoor.blog/archives/41986682.html
(いしづかまさひで)
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