親鸞の妻恵信尼関連史跡フィールド調査20260411  

石塚正英

  
・調査実施にあたって、まずは事前に、NPO法人頸城野ドキュメントライブラリー理事長(上越市)の藤野正二氏から多大な配慮をうけた。また、現地の上越市板倉区栗沢では、同地区で活躍する板倉郷土史愛好会メンバーの安原義一氏、吉原勇氏、永井清氏に案内と説明を賜った。
・今回の調査で一つのテーマにしているのは、五輪塔であれ五重塔であれ、恵信尼がなぜそれを望んだのか、その心を知りたいということである。恵信尼研究者はどうしても浄土真宗の儀礼や親鸞の教えを尊重するので、恵信尼が石仏を愛好する心を懐くということは親鸞の信仰や信念に反すると考えてしまいがちである。けれども、人の心は往々大なり小なりアンビバレントなものである。内面的に信心する内容や対象と、眼前でつい追いかけてしまう内容や対象とは微妙に異なる。あるいは、公的な場では親鸞を意識しながら正信偈(親鸞の教え)を唱和し、私的な場では先祖代々の流儀でもって賑々しく弔いの儀礼を全うする。
   しかし、その態度は阿弥陀信仰の親鸞を念頭にしてであって、夫と離れて子どもたちの暮らす上越後(かみえちご)で晩年を過ごした恵信尼に対するものとは異なる。その最大の根拠は、京都に暮らす末娘の覚信尼に送った手紙に記した恵信尼の思い、すなわち七尺の五重塔建立の思いである。恵信尼が生きた時代、近隣の妙高山麓では弥勒や観音など地涌菩薩を形にした埋け込式関山石仏の造立が、修験者によって励行されていた。恵信尼の祖先三善氏が管理した九条氏荘園(笹倉荘)に存在する関山権現は、妙高山を神体と仰ぐ山岳信仰の拠点だった。親鸞を観音菩薩の化身と見る恵信尼が、晩年に及んで自然信仰の象徴である石塔の造立に心を寄せて何ら不思議はない。
   恵信尼は、娘の覚信尼に書き送った手紙では「五重塔」としている。原文は以下のようである。「五ぢうに候たうの七しゃくに候いしのたう」(☆今井雅晴『現代語訳 恵信尼からの手紙』法蔵館、2012年、78頁)。その点に注目すると、恵信尼は親鸞の墓碑が多重塔ないし笠塔婆であったことを意識していたのかも知れない。そうであれば菩薩信仰よりも仏舎利信仰に引き寄せられたことになる。塔は仏舎利を収めたストゥーパに起因するからである。板倉区東山寺には、丈ヶ山の山中に山寺薬師堂が存在している。そのお堂には、如来三体が坐している。中央に薬師如来、向かって右に釈迦如来、左に阿弥陀如来である。千数百年前に紀の躬高(きのみたか)によって開かれ、その後「山寺三千坊」と称されるに至っている。また、薬師には一三九五(応永二)年、京の仏師筑後法眼(ちくごほうげん)作、三善讃阿(みよしさんあ)寄進の銘が墨書されている。そのうち三善讃阿は恵信尼(三善氏)の後裔にあたると推測される。在地の三善氏にすれば、丈ヶ山こそ古来の山岳神であって、薬師や釈迦は渡来神だが、親鸞とともに仏教徒だった恵信尼にすれば、釈迦や阿弥陀と一神同体となった自然神すなわち多重の石塔に思いが至り、五重塔建立を覚信尼に伝えたかったのだろう。
・ちなみに、頸城野ドキュメントライブラリー(KDL)理事長である藤野正二氏によると、先月私が上越タイムスに掲載したKDL関連記事「恵信尼さんの供養石塔を調査して」(上越タイムス、2026年3月9日)について読者から電話で応答があり、板倉区総合事務所に四重塔が保存されている、とのことだった。事後、総合事務所に問い合せたところ、存在は確認されなかった。
・空風火水地の五要素から成る五輪塔は、それが建立され出した平安時代期には、お墓でなく自然・宇宙を象徴し崇拝する一つの形象、自然神だった。また、その形象がストゥーパ(塔)つまり仏舎利塔を前提にしていると考えるならば、五輪塔は釈迦を象徴するものだった。いずれにせよ供養塔の一種であり、それがやがて墓標に転用されていった。親鸞は伽藍や墓標を認めなかったものの、死後には弟子たちによって墓標が建立されたが、それは多重塔か笠塔婆かだったと言われる。必ずしも五輪塔とは限らない。
・恵信尼がなぜ五重塔ないし五輪塔を求めたか、その背景には恵信尼が生まれ育ったかみえちごの精神風土、埋け込み式石仏群の造立と地涌菩薩信仰が絡んでいると思っている。恵信尼を外部から考察した資料は多くあるが、内部に入り込んでそうしたものは滅多にない。親鸞の妻だとか尼僧としてではなく、とりわけ晩年にかみえちごに帰郷して、京の九条家由来の所領や下人を管理し、三善家の刀自として一族を養った恵信尼を考察した研究者は、平野団三を除いてまずいない。その平野氏は、恵信尼が大日如来の種字が彫ってあるような五輪塔を建てたがったはずはない、と考えている。そのことを安原氏に話したところ、安原氏は、「私らもそう思っています」と明快に答えた。それでも恵信尼が五重塔を欲しがったことは確かだ、との私の説明に対して、「それは間違いないです」と答えている。一面では恵信尼は五輪塔を求めたはずがないとし、他面では五重塔を求めたことは間違いないという一見して矛盾した2つの捉え方を総合すると、恵信尼が求めたのは五輪塔でなく五重塔(多重塔)だったということである。そのまとめ方を、私は調査前にすでに持論としていた。今回のフィールド調査はそうした恵信尼の心、内面の思想を恵信尼の里でもって探究することを目的としていた。ただし、地元の方々が私と完全に同意見だったとは、思いもよらなかった。
・五輪塔でなく五重塔なら実物かも知れないとして、そのような石塔は果たして存在するのだろうか、と同行の永井清氏が安原氏に問うたところ、推測、推定ではあるが「耕地整理のときに埋めてしまったという話はあるんです」と安原氏が答えた。
・安原氏の話によると、恵信尼でドラマをつくりたいという企画があって、いいところまで行ったが、他宗派からのクレームがあって実現しなかったという。それに対して私は、浄土真宗の恵信尼という位置づけだったからにすぎず、自然神の象徴である多重塔を崇敬する恵信尼、北陸の寒村で耕地と耕作民を切り盛りする女性という立ち位置で捉え返せば問題ないのでは、と参考意見を述べておいた。
・同行の永井清氏は、平野団三著『越後と親鸞・恵信尼の足跡』(柿村書店、1971年)に記されている以下の箇所に注目する。「ただ書簡に現われてくるのは、末娘にたいする下人の譲状と、越後にある孫達の様子だけである。結局恵信尼は三善家の惣領のうちから一期分として与えられた領地があった。その財産と下人の整理と孫達の面倒を見る為に越後に下ったというのが大方の見方のようである」(148頁)。「一期分」とは中世の女性に与えられた一代限りの所領で、死亡後には返還する土地を指す。恵信尼はそこの維持のためだけに親鸞の住む京から故郷に帰った、そのことを永井氏は大いに評価する。元来は九条家の荘園だった笹倉荘は妙高山麓まで含んでいたので、耕作地はそう広くはなかった。その点も考慮して、平野氏と永井氏の地元感覚は優れている。
・恵信尼顕彰公園に建てられている五輪塔はずいぶん大きく、また風輪あたりが幾何学的な造形になっている。とてもゑしんの里記念館に置かれている実物のレプリカとは思えない。身長170センチの私が横に立って計ると、約210センチに相当する。それで同行の吉原勇氏に質問したところ、こちらの石塔には見本となった五輪塔が、大きさは並だが同区久々野の福因寺にあるとのことである。そうであれば、こちらの模造石塔はサイズでは恵信尼の手紙にあわせ、造形では福因寺に合わせたことになる。由緒と美観が統合されたフォルムになっている。総じて、地元の文化を誇ってみせる虚飾文化の一例と言えよう。その前例として、開府三百年を記念して高田市が発行した高田城の絵葉書がある。本来は石垣をもたない高田城が立派な石垣の上に築かれている。実は京都の二条城の写真を借用したのだった(☆「高田開府三百年記念「石垣の上の高田城」写真」、石塚正英『地域文化の沃土 頸城野往還』社会評論社、2018年、118頁)。
・これは調査終了後の余談であるが、永井氏によって虎御前の五輪塔に話題が及んだ。春日神社から谷浜方面へ向かう途中の後谷に、廃村になっている集落の一角に五輪塔のお墓がものすごくたくさんあり、その一つが虎御前の墓だとされている、ということである。その地は謙信が上洛の際出帆した郷津(国府津)への道沿いに当たるらしく、永井氏としては簡単に一蹴していいものか、という思いのようだった。虎御前は上杉謙信の母であり、事実、春日山城の北西に位置する宮野尾に五輪塔の墓が存在する。その地もまた郷津への途上にあたる。そうした伝承は歴史文化の一つであり存在を疑ってはならない。ただし、五輪塔の像容は鎌倉から室町にかけての印象で、苔むして幾星霜といった趣であり、戦国時代のものでなく、後世に至って転用された石塔である。私にすれば、宮野尾や後谷の五輪塔逸話は謙信物語にあやかった口碑の証拠(無形文化)であって無礙に葬り去ってはならず、五輪塔はその有形文化である。
・これも調査終了後の余談であるが、恵信尼遺跡は他所に存在する、との説を安原氏が紹介した。あるところの住職が以前しょっちゅう栗沢を訪れ、安原氏宅に宿泊したこともあるくらい熱心に説明を聞いてくれたが、その方によると恵信尼の史跡は板倉でなく清里の方に遺っており、七割がた清里が正しい、とのことだった。10年くらい通ってきたが、その後亡くなったようだ。その話は参考として忘れずにいたいと思う。なぜなら御当地争い、本家争いの類は、先ほど述べた歴史文化としての伝承に関連するからである。
・今回の調査で明らかになった事項として、以下の二点が指摘できる。
① 平野団三氏は、恵信尼が大日如来の種字が彫ってあるような五輪塔を建てたがったはずはない、と考えている。そのことを安原一義氏に話したところ、安原氏は、「私らもそう思っています」と明快に答えた。それでも恵信尼が五重塔を欲しがったことは確かだ、との私の説明に対して、「それは間違いないです」と答えている。
② 恵信尼顕彰公園に建てられている五輪塔はずいぶん大きく、また風輪あたりが幾何学的な造形になっている。とてもゑしんの里記念館に置かれている実物のレプリカとは思えない。身長170センチの私が横に立って計ると、約210センチに相当する。それで同行の吉原勇氏に質問したところ、こちらの石塔には見本となる感じの五輪塔が近隣の福因寺にあるとのことである。そうであれば、こちらの模造石塔はサイズでは恵信尼の手紙にあわせ、造形では福因寺に合わせたことになる。由緒と美観が統合されたフォルムになっている。
③ けっきょく、地元民の心に恵信尼は篤き敬心を寄せる対象であるから、立派な顕彰碑を用意したいと念じてきた。その結果、②のような虚飾石塔が誕生した。そうであるから、親鸞の妻である恵信尼が真宗教義に反するような大日如来種字の刻印された五輪塔を欲しがったかどうかはさして関心がない。
 
☆参考 感性文化online講座12回「かみえちごと恵信尼の五重塔―文明を支える原初性―」You-Tube:https://www.youtube.com/watch?v=D8xOgne9_Uw
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x15175,2026.05.13)