【原発いらない!3.11福島県民大集会】(震災から1周年目)

若生のり子(NORIKO WAKO)

 

2012年3月11日郡山の「開成山野球場」で開かれました

曇天、最低気温マイナス2度、最高気温4度、時折微かに粉雪が舞う3月中旬にしてはたいへん厳しい寒さでした

 

 

野球場には溢れんばかりの各国各地から1万6000の人々が結集しました

マイナスの寒さも何のその昂揚した雰囲気に包まれました

(内野席が埋まり、急きょ外野席も開放されました)

 

 

呼びかけ人の一人、福島大の清水修二副学長は、
「きょうは鎮魂の日だが、福島は災害が進行中で魂を鎮めるゆとりがない。“原発いらない”の声は、
痛恨の思いを込めた福島県民の叫びだ。この声を全国の心ある人に届けるのは、県民の使命であり義務だ」

国や東電に対し、事故収束や補償に全力をあげるよう求めました

 

 

あの広島ノート・沖縄ノートを著され、「九条の会」の発起人の一人でノーベル文学賞作家大江健三郎さんも
都内で30度を超える盛夏のデモに引き続き真冬日の福島にも登壇されて「反核・反戦」を訴えました
「原発事故を絶対に起こさない方法は原発をなくすことだ。私は、政府が原発の全廃を宣言し、子ども達が歓喜する姿を想像している。
それは必ず出来る。政治的、経済的責任よりも、人間が生きていく上で倫理的責任を重んじないといけない。」

1000万人署名の協力も呼びかけました

お元気でダンディーなお姿でした
(残念ですが23年3月3日老衰のため亡くなリました、88歳)

 

 

現在福島市で避難生活をおくる菅野哲(かんのひろし)さん
「事故直後に毎時44.7マイクロシーベルト(3月15日)もの放射線量であった。その高い線量のなかで飯舘村村民は放っておかれ、
その期間、被曝させられた」「美しかった飯舘村は放射能まみれ、そこには暮らせない」
と、

放射能の心配のない、安心して安全で暮らせる「新しい避難村」の建設を訴えた。

 

 

9カ所の避難所を転々として、現在本宮市の仮設住宅に暮らす橘柳子(たちばなりゅうこ)さん
自らの中国引き揚げ体験から、「国策により2度も“棄民”にされた」
「第二次大戦終結後に中国大陸を徒歩で逃げた記憶がよみがえった。原発事故の避難は、徒歩が車に変わっただけ。
いつの時代でも、国策で苦しみ悲しむのは罪のない民衆だと思った」
「すべてに打ちひしがれ、喪失感のみ心をおおっていて声も出ない。展望が見えないなかで夢や希望の追求は困難」

「もう少しのあいだ寄り添ってほしい。傷はあまりにも深い」

「脱原発・反原発の実現のために生きていくことが唯一の希望かもしれない」

 

asahi.com(朝日新聞社):避難準備区域縮小「8月にも開始」 政府が自治体に打診 - 東日本大震災 朝日新聞社

 

 

 

 

 

 

せまい日本・そんなに原発つくってどこに住む!

一度(ひとたび)事故れば全国放射能まみれ

(水、米、野菜、肉など全て!)

アブねえ~~~~~~

 

 

 

原発いらない

憲法を活かす会

パトリオット・ミサイル反対!

 

 

寒空に累々と長く続くデモ行進でした

 

わこう のりこ (Artist)
(pubspace-x14558,2026.02.20)

 

大会に先立ち前座のように加藤登紀子さんが、小一時間熱唱され、盛り上げました。

この場に記しておきます。

あの時の開成山野球場の外野席3塁側の端からの撮った写真「全国自然保護連合」より
これで全貌の大きさと盛り上がりが分かります。

ちなみに、わたくしは内野席中央のやや左寄りに陣取りました。