アウシュヴィッツに消えた女性画家 シャルロッテ・サロモン

人生?あるいは劇場?

 

藤井建男

 
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パウラと幸せな日々

パウラと幸せな日々

ナチスのアウシュヴィッツ収容所で1943年10月、26歳5ケ月の短い命を絶たれたシャルロッテ・サロモンというユダヤ人の女性画家がいたことを知る人はあまり多くない。
シャルロッテ23歳の自画像

シャルロッテ23歳の自画像

1988年の8月末から10月末にかけて東京、大阪、横浜、京都の高島屋デパートで巡回展が開かれているが、その後画集も出版されていない。テレビなどで紹介された話もないから彼女を知る人は少なのが実際のところだと思う。そういう私も横浜に住みながらこの巡回展の記憶がない。したがって、数年前までシャルロッテ・サロモンという女性画家がいたこともその作品も全く知らなかったのであった。
私がシャルロット・サロモンを知ったのは2008年、当時パートで勤めていた文京区本郷の職場の近くにあったドイツ書籍専門店で何気なく手に触れた画集によってである。ドイツ現代美術家の画集が何冊か並ぶ棚に「Charlotte Salomon Leben?Oder Theater?」というぶ厚いハードカバーのA4版の画集が目についた、というより背表紙のカットに使われているドイツ表現主義風の女性の顔に引き付けられたのだった。手に取ってみると巻頭文、解説、経歴の30数ページを除くと残る400頁に、身の回りの出来事だろうか、記憶だろうか、あたりかまわず見たもの、聞いたもの、思ったことのすべてをグアッシュ絵の具でときには美しく彩られた文章で〝描き綴った〝大小770点の絵が刷り込まれていたのであった。絵は全て精魂が込められ、どの絵も生き生きと何かを語り掛けている…。
巻頭のシャルロッテ・サロモンの経歴の最後はアウシュヴィッツ収容所の写真で終わっている。アウシュヴィッツ収容所は第二次大戦でヒトラー・ナチスがユダヤ人を中心にドイツ、ポーランド、オランダのおよそ民主主義者と言われる人々を片端から送り込み凄惨・残虐の限りを尽くし虐殺した絶滅収容所だ。
「人生?あるいは劇場?」の表紙

「人生?あるいは劇場?」の表紙

初めて見る名も知らぬ女性画家シャルロッテ・サロモンがアウシュヴィッツ収容所で命を絶たれたことは確かだと直感した。「Leben? Oder Theater?」の日本語訳は「人生?あるいは劇場?」である。描き急ぐような1000点に近い絵は何を語っているのか。私はためらうことなく画集を購入した。
ナチスのユダヤ人の迫害を逃れて、祖父夫婦の逃れているフランス南部の保養地の隠れ家にいたシャルロッテは1943年の夏の終わり、ナチスの追跡が身に迫ったのを感じて近所付き合いの良かった医師モリディス博士を訪ね「これを大切にしてね。私の全人生なの」と彼に茶色のスーツケースを渡した。その中には1000点に及ぶグアッシュで描かれた絵が入っており「人生?あるいは劇場?」と名前がついていた。
「人生?あるいは劇場?」はシャルロッテの誕生からナチスにとらわれてアウシュヴィッツ収容所に送られる直前までのわが身を包んだすべてを描き綴った自伝的作品だった。しかし自分史という自己の記録ではない。ドイツに起きたナチズムの恐怖が見事に描かれている。文化を捻じ曲げ、家族を引き裂きやがて人間を跡形もなく消してしまうヒトラーのナチズムの嵐の中で、そこに生きた人間の痕跡として描き切ったものであった。第二次大戦を開始したドイツにおけるユダヤ人社会が繰り広げた明日のない生きるための決死の格闘がそこにあり、若い女性画家の筆による目をそらせてはならない現代史といえるものだった。
シャルロッテ・サロモンは1917年5月16日、ベルリンの医師アルベルト・サロモンとその妻フランツイスカの娘として生まれた。家はドイツ社会に同化したユダヤ系の裕福な家庭。当時のベルリンでは最も格が高い地域に住みインテリ、芸術家、実業家などがにぎやかに交流し合う、光あふれる幸せに包まれた家庭に育った。9歳の時母が自死し、父アルベルトは1930年9月に歌手のパウラ・リントベルクと再婚する。パウラの豊かな人間関係、幅広い教養が明るい光となってシャルロッテと家族を包だ。「人生?あるいは劇場?」のこの時期の描写は自由な空気に満ちている。
 
 
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1933年ヒトラー政権獲得を誇示するナチス突撃隊のデモ行進

1933年ヒトラー政権獲得を誇示するナチス突撃隊のデモ行進

1933年3月1日、ヒトラーが政権を握るとサロモン家だけでなく周囲の空気も一変する。この年の2月27日、ナチスは選挙の直前に国会議事堂の放火を演出。共産党の仕業とでっち上げ共産党を抹消し、議席総数を減らし議会を支配すると「全権委任法」を制定してワイマール憲法を改訂、憲法で定められていた基本的人権を停止。多くの共産党、社会民主党員が逮捕され強制収容所に送られた。ヒトラーはドイツ人を優秀人種とする一方ユダヤ人を「最低の人種、除去されるべき悪魔の民」と決めつけ絶滅作戦を開始したのである。
ナチスにおもねて文化協会を設立することを逡巡するクルト・ジンガー

ナチスにおもねて文化協会を設立することを逡巡するクルト・ジンガー

父アルベルト・サロモンはユダヤ人であることを理由に職を追われ医師の資格も奪われる。シャルロッテは絵の裏に書いている。「政府の要職を占めている仕事のできるユダヤ人、彼らは通告なしに解雇された」と。シャルロッテが通うことになった総合芸術大学校の担任教授は妻がユダヤ人ということで職を追われ、ファシズムに反対する教授はナチスの秘密警察(ゲシュタポ)に監視されるようになった。学校ではユダヤ人学生への嫌がらせが強まっていった。ナチスは、印象派、表現主義、ダダイズム、合理主義など、ほぼすべてにわたる近代美術や近代の音楽、建築などをドイツ文化と社会を退廃させるものとして攻撃、廃絶対象にし、少なくない画家、音楽家が強制収容所に送られ命を絶たれた。総合芸術大学のカール・ホーファー、オスカー・シュレンマー、エドヴィン・シャーフといった著名な教職員が次々罷免された。プロイセン芸術院(芸術アカデミー)文学部ではナチスに反対するトーマスマン・などの小説家・詩人が追放され、ドイツ各地で社会主義関係の書物、ハイネ、レマルク、ブレヒト、ケストナーなどの書物を「非ドイツ的な著作物の焚刑」の名で焼き捨てたのである。
ベルリン市立歌劇場の支配人クルト・ジンガーは職を追われたが人脈を使って「ドイツ在住ユダヤ人文化連盟」設立の承諾を得る。ユダヤ人文化人の飢渇をしのぐ道を探り、国際的友人、亡命した学者たちの様々な知恵と力を借り、工夫を凝らしユダヤ人文化人の海外脱出の便宜をはかったのであった。父アルベルト、妻のパウラはこのネットワークで重要な働き手だった。
 
 
 
 
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息詰まるようなナチスの迫害の中でもアルベルト家と友人の間では様々な文化人が集まり交流を重ねていた。物理学者のアルベルト・アインシュタイン、神学者でオルガにストのアルベルト。シュヴァイツアー、画家のゲーテ・コルヴィッツなどが顔を見せては政治や今後の世界について話し合っていた。
そしてこの時期シャルロッテの前に若い男性があらわれる。母パウラのオペラコーチとして雇われたアルフレード・ヴォルフゾーンである。ヒトラーの迫害で公共の場で演じることができなくなったユダヤ人芸術家を救済するユダヤ人芸術家支援協会からパウラのところに送られてきた青年である。労働証明書がなければ即国外退去か収容所に送られる危険があるためパウラが正規の合唱団員に加えたのであった。彼は声楽教育者であったが絵にも関心がありシャルロッテの絵を初めて評価した人物となった。「人生?または劇場?」の中にヴォルフゾーンが集中して登場する時期がある。シャルロッテにとって頼れる助言者でもあり、あこがれの男性であり大切な人となった。シャルロッテ21歳の青春である。
左右 シャルロッテが心を寄せたヴォルフゾーン

左右 シャルロッテが心を寄せたヴォルフゾーン

図7-3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルロッテ「神様、どうぞ私の気を狂わせないでください」

シャルロッテ「神様、どうぞ私の気を狂わせないでください」

亡命の話ばかりになったサロモン家

亡命の話ばかりになったサロモン家

ナチスの迫害が強まりシャルロッテ一の家は父アルベルト・サロモンが逮捕されザクセンハウゼン収容所に入れられる。レジスタンスの力を得てかろうじて救出されたがもはや寸刻を争って身を隠さなくてはならない状況に迫られていた。その頃のサロモン家の話題は亡命のことだけに終始するようになっていたという。そして家族は父アルベルトと母パウラがオランダに身を隠し、シャルロッテは南フランスの保養地に祖父母を頼ることになった。1940年7月、保養地ヴィルフランシュに滞在していた祖父母の友人のアメリカ人オッテイリィ・ムーア夫人の別荘の一隅の小屋を隠れ家にして息を殺して暮らすことになる。
「人生?または劇場?」の制作はこの隠れ家で着手された。「昼夜を問わず、ほとんど睡眠も食事もとらず絵筆を握っていた」という友人の証言もある。ドイツが西ヨーロッパに侵攻開始。フランスが降伏し南フランスはドイツと同盟を結ぶイタリア軍に占領された。「ドイツ人住民はすべて即刻、市ならびに県から退去しなければならない」との布告が出されイタリアの秘密警察はゲシュタポと共謀して密告者に褒章を与えてユダヤ人狩りを拡大していく。一刻の猶予もない、文字通り“生き急ぐ”中での創作であった。
「人生?または劇場?」の最終章は祖父母との厳しい生活が多くを占めている。年老いた祖父母には理解しがたい現実だった。祖母は神経衰弱になって自死、祖父もやがて失意の中で息を引き取りシャルロッテは隠れ家に一人残された。
ここで、シャルロッテは夫になるアレクサンダー・ナーグラーと出会う。ムアー夫人の別荘で働く誠実なオーストリア人でアメリカに帰国したムアー夫人の別荘の管理をしていた。助け合っているうちに双方に愛が芽生え、二人は1943年5月正式に結婚式を挙げるのだがその4ケ月後の10月7日、隠れ家にゲシポが踏み込み二人は引きずり出され直ちにアウシュヴィッツ収容所に移送されたのだった。その時シャルロッテは妊娠4か月。1943年10月12日、到着したその日ガス室で生涯を閉じたのである。
 
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映画の絵コンテのような連作

映画の絵コンテのような連作

画集を手にして私は描かれているテーマの多様さ、全く形にとらわれない自由な表現に驚かされた。時にはルドンのようにまたドイツ表現主義のココシュカ、キルヒナーのようにそしてシャガールのようにテーマに従い自在に画面を構築し筆を走らせている。シャルロッテが芸術大学に通い始めたころドイツ美術は印象派の次の新しい波が怒涛のように押し寄せ渦巻いていた。ベルリン、フランクフルト、ドレスデンなどでは新しい波頭に立つ美術家が相次いで個展を開き美術界の刺激となり、その後のナチスに追われるマックス・ベックマン、オットーディックス、カール・ホーファー、カンディン・スキー、パウル・クレーが主要な都市の美術アカデミー(大学)の教授であり、20世紀のインダストリアルデザインの苗床となったバウハウスが開校していた。舞台芸術でもブレヒトなどが新しい舞台を創り上げて大衆が喝さいを叫んでいた。またこれらの動きにナチスが苛立ち露骨に対決するなどこの時期、ドイツの文化状況は、進歩と享楽と絶望がないまぜになった空気に満たされていたのであった。
文字が描きこまれた作品も多い

文字が描きこまれた作品も多い

シャルロッテがこれら美術史に名を残す作家と作品にどう向き合ったかとなるとそれはわからない。なぜならシャルロッテが絵を描きだしたときはすでにこうした作家と作品はヒトラーによって「退廃芸術」の烙印を押され追放されはじめていたから。しかし総合芸術大学の美術関係の書籍は奇跡的にナチスの「焚刑」を免れていた。シャルロッテの最も多感な時期、時代の暗転のきしむ音と共にこうした空気に包まれていたことは十分考えられる。これらの書籍を開き時代の先端の作品に触れていた可能性は十分にある。
しばしば登場する連作はさながら映画作りの絵コンテのようだ。すでに映画は庶民の生活に浸透していた。情景を遠ざけたり部分をアップしたり明らかに映画の技術が取り入れられている。また、時には文字がびっしり書き込まれただけの作品がある。文字も美である、絵と文字をこれほど合体させ。た作品を私は知らない。日本の文人画のそれとは違う、生を伝えるための記号として文字は刻まれている。シャルロッテには文字と絵画の境界はなかった。1960年代日本で人気を博したベン・シャーンのレタリングと同様、美しい。そして強い。
画集では見ることができないがそれぞれの作品の裏にはシャルロットのその時々の思い、インスピレーション、登場人物の台詞、その場面にふさわしい音楽が書き込まれているという。シャルロッテの作品「人生?あるいは劇場人生?」は表現も色彩もさらには文章で挿入されている音楽も閉ざされた現実の中に生きる彼女の心、すべてだったのである。
シャルロッテの作品を詳細に分析したユダヤ歴史博物館のエディユス・C・E・ベラフォンテ館長が「人生?あるいは劇場?」を「一種のミュージカルである」と述べている。シャルロッテは制作中常にクラシックの音楽をメドレーで口ずさんでいたという。
1988年日本で催された「シャロット・サロモン愛の自画像展」の図録の「コレクションの歴史」は次のように述べている『シャルロッテ・サロモンの作品は過去を主題としている。「人生?あるいは劇場?」は個人的で、自伝的な性格なため人々はしばしば日記という定義をこの作品にあたえている。とりわけその第一印象として、彼女の作品はアンネ・フランクの日記にも比べられる。しかし、これは少女の持つありのままの率直さと熟達した芸術家の創造性とを比べることになり、両者にとっても不相応であろう。
14歳のアンネ・フランクは地下に潜伏する生活の中で起こる日常的な心の問題を記述しているが、抗することによって彼女は、耐え難い緊張感を緩和しようとしたのであった。シャルロッテ・サロモンは「人生?あるいは劇場?」に着手したとき、23歳であり、彼女にはすすでにベルリンの芸術大学で受けたかなりしっかりした芸術家としての訓練がそなわっていた。
アンネ・フランクの場合とは異なり、彼女の少女期はその現在でなく過去であった。すっかり無意味になってしまった彼女の現在を今一度意味を与える一つの方法として取り扱っているのである。」(アド・ベーターゼン)
 
    終わりに
これは一冊の画集から始まったユダヤ人芸術家シャルロッテ・ソロモンと私の心の会話でもある。画集の絵の数は大小1000点に近い。「人生?あるいは劇場?」のほぼ全てと思われる。語学がほとんどダメな私にとって絵が持つ力を今回ほど感じたことはなかった。シャルロッテ・サロモンの展覧会はオランダに始まりドイツ、アメリカと巡回して1988年秋に日本で開催された。幸い手に入った日本語版の図録がこの拙文を書く上で力を発揮した。そこに記されたシャルロッテにまつわる断片を手掛かりにまとめたものであるが、シャルロッテが絵に書き込んだ言葉と文字はほとんど訳せず、残念ながら圧倒的部分が絵柄と色などに加え日本語の図録で想像を膨らませるしかなかった。図録に記されているユディス・C・ベラフォンテユダヤ歴史博物館館長はじめ執筆者の諸巻頭文がなければこの本は生まれなかった。執筆者の方々に心より謝意を表するものである。日本においてシャルロッテ・サロモンの研究はほとんどなされてない。それは「人生?あるいは劇場?」が完結した連作であるということと、これ以外の作品が極めて少ないことによるものと思われる。シャルロッテの作品はオランダのアムステルダムにあるユダヤ歴史博物館が管理していると聞く。ぜひ日本でも本格的な研究がなされ多くの人が手にすることができる画集が生まれることを期待したい。
 
2014年11月9日、多数のユダヤ人が迫害された「水晶の夜(クリスタルナハト)」から75年になるのに合わせて8日、ユダヤ人従業員を強制収容所移送から救うためにたたかったオットー・ワイトさんの元工場(ベルリン)を訪れその英雄的ヒューマニズムを讃え署名するドイツのヨアヒム・ガウク大統領。(AFP11月9日) 

2014年11月9日、多数のユダヤ人が迫害された「水晶の夜(クリスタルナハト)」から75年になるのに合わせて8日、ユダヤ人従業員を強制収容所移送から救うためにたたかったオットー・ワイトさんの元工場(ベルリン)を訪れその英雄的ヒューマニズムを讃え署名するドイツのヨアヒム・ガウク大統領。(AFP11月9日) 

シャルロッテ・ソロモンを思い起こすことの私にとっての動機はもう一つある。それは、戦争を放棄した日本国憲法九条を指して「憲法改正が私の歴史的使命」と公言してはばからない安倍政権のもとで、日本の侵略戦争に対する反省をないがしろにする空気がにわかに強まり、それを助長するような形で首相の靖国神社参拝が行われ、憲法改正論者の国務大臣が「ヒトラーは、民主主義によって、議会で多数を握って出てきた。選挙でドイツ国民はヒトラーを選んだ」と公言。首相自らが憲法九条を葬る集団自衛権解釈について内閣法制局を差し置いて「憲法解釈の最高責任者は私だ」と国会で言い放つ今を、芸術と人の命で見据えシャルロッテの無念に心を寄せたいと思ったからである。
シャルロッテが殺されたガス室の跡。ナチスはアウシュヴィッツ収容所を爆破して証拠隠滅を図った。遠方に写る人物は現代史の学習のため冬休みを利用して訪れたドイツの高校生たち(撮影・筆者2001年1月)。

シャルロッテが殺されたガス室の跡。ナチスはアウシュヴィッツ収容所を爆破して証拠隠滅を図った。遠方に写る人物は現代史の学習のため冬休みを利用して訪れたドイツの高校生たち(撮影・筆者2001年1月)。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(この原稿は「ノー・ウォー美術家の集い」のウエブに発表したものです。)
 
画集「Charlotte Salomon Leben?Oder Theater?」裏表紙カット

画集「Charlotte Salomon Leben?Oder Theater?」裏表紙カット

(ふじいたけお 画家)
(pubspace-x1248,2014.11.28)