老いの解釈学 第4回 映画の中の認知症

高橋一行

  
   短い間奏を挟む。
   先だって、「大いなる不在」という映画を見る機会があった。近浦啓監督のもと、森山未來と藤竜也が親子役で共演している。2024年の作品である。映画としては良くできていると思う。
   主人公の青年は子どものときに父母が離婚して、それ以来父親とは滅多に会うことがない。その父親が認知症になったという連絡を受けて、彼に会いに行くという話である。父親は再婚して、25年間、その再婚相手と幸せに暮らしていたが、認知症を発症して、妻が誰だか分からなくなり、心臓病で倒れた妻を看病することもできず、妻は親族を頼って、夫のもとを離れる。老人は警察に保護されて、施設に入る。
   主人公の青年の父親探しというのがテーマになるが、私には認知症になるとどうなるのかということが関心事である。映画としては、青年が父親との数少ない接点を思い出しながら、目の前の認知症の老人にその思い出を重ねて、父親を発見することに主眼が置かれている。それは良く練られた構成で、面白く映画を見ることができる。しかし私としては、こういう複雑な設定にしないで、例えば長年仲良く暮らしてきた子どものいない夫婦で、夫が認知症になり、妻は心臓病で入院して、その後は自宅で療養するという場合を考えたら良いと思う。夫婦どちらも相手の世話をすることができない。それぞれヘルパーや数少ない親族の手を借りるか、または施設や病院に入るしかない。そういう状況を設定して、しかしそういう話なら、実際にいくらでもありそうである。そこで妻が、長年夫と連れ添ってきたのに、私のことを覚えていないとぼやいても仕方ないだろう。あるいは映画の中で実際に出てくるシーンなのだが、妻の側の親族が、今まであれだけあの男に尽くしてきたのに、すっかり忘れられてしまって、それはひどい仕打ちだと嘆く。そういうことはもちろんあり得る話で、状況を考えれば、妻の親族のそういう発言は理解できるが、しかし認知症とはそういうものなのである。つまり今までどれだけ仲良くしてきたとしても、その相手を忘れてしまうというのが認知症の特徴ではないか。
   子どものときに父母の離婚ということで父親に捨てられたと感じている青年と、夫が認知症になってから夫から見放されたと思っている妻と、そのふたりの立場から、認知症老人が如何に自分勝手なのかと非難されているように私には思われ、それは映画を見ていて切ない。つまり再婚したり、認知症になったりすることは、そんなに身勝手なことなのかと思う。
   そこで私はずいぶん前に見た別の映画を思い出す。
   それは、荻原浩による小説をもとに、2006年に堤幸彦が監督を務め、渡辺謙と樋口可南子が夫婦訳で演じた、「明日の記憶」という映画である。主人公は49歳の広告代理店の営業マンで、仕事も家庭生活も順風満帆に見えたのに、突然若年性アルツハイマー病という診断を下される。まず彼は、受け止め難い現実に直面して、自暴自棄になり、自殺まで試みるが、医師や家族の説得で何とか思い留まるという粗筋である。それはもう感動的な話で、俳優たちの名演技もあって、実に美しい作品になっているのだが、しかし私はどうもそれが美し過ぎて、ちょっと茶々を入れたくなる。
   映画の最後の方は、男は妻と知り合った時代に戻って、その思い出の中に生きている。ある日男は妻との思い出の地に赴く。妻はそのことを察知して、男のあとを追いかける。それは映画のクライマックスで、見る人を揺さぶるが、しかし極めて非現実的な感じがする。実際、私はこの映画を見たときに、恐怖を覚えたのである。もし私が認知症になり、妻が看病してくれるとして、しかし私はきっと妻以外の女性の名前を叫んでいるかもしれない。現在のことが分からなくなって、昔の記憶を遡ることになったとして、それが妻と知り合った頃の美しい時だとは限らない。私の話としてではなく、一般論で言って、昔の記憶に遡ってある時期の記憶に行き着き、そこでその記憶の中で生きていくことになった場合、確率論的に言って、それが妻と知り合った時期であるとは限らないのである。それは無理と言うべきで、認知症老人はきっと妻とは別の女性の名前を連呼するに違いない。これは笑いごとではない。
   先の映画で、妻から私のことを覚えていないのとぼやかれるくらいなら、まだ良い。なんで私がこんなに苦労して世話をしているのに、この男は別の女との思い出の中に生きているのかとなれば、それは妻にとって辛い話であるだけでなく、そういうことを考えてしまうすべての人にとって、不幸な話ではないか。
 
   認知症をテーマにした映画作品はいくつかあるが、ここではもうひとつ、「恍惚の人」を取り挙げる。これは古典と言って良いものだ。1973年の製作で、監督は豊田四郎。老人を森繁久彌が論じている。また同名のテレビドラマが、その後3本作られている。
   さて私は確かにこの映画は見ているはずだし、テレビドラマの方も見ているのだが、記憶が断片的で、原作を読んだ記憶の方がまだ明確で、以下、その記憶に頼って少し書いてみたい。
   原作『恍惚の人』は、有吉佐和子の長編小説で、1972年に出版され、ベストセラーになった。私は当時中学生で、暇を持て余していて、多分母親が知り合いから借りてきた本が家に置いてあったので、それを読んだのである。家にはほかに本がなく、活字に飢えていたのだと思う。一気に読んだ記憶がある。
   粗筋を一言で言えば、妻を亡くした老人が認知症になり、その息子の方はまったく父親を介護することがなく、専ら嫁が世話をするという話である。如何に嫁が苦労したかという話を中心に、老人の孫や近所の人との人間関係が細かに描写されている。
   この作品は今から50年も前の話で、老人の介護はすべて嫁の仕事だという意識が強くあり、また高齢者の介護について制度的にまったく整っていなかった時代に、世に大きな問題提起をしたという意義はあった。その功績は押さえた上で、しかし話が「恍惚の人」に振り回されるということに終始していて、私は当時から、ではこの主人公の老人は一体どういう気持ちなのかということが気になって仕方がなかった。一体に認知症になったら、何を考えるのだろうか。また自分もいつかはそうなるのだろうかということが、少年の心に引っ掛かったまま、50年が経ったのである。
   つまり認知症ということになると家族が大変という話だが、自分が認知症になったらどうなるのかと心配する男の物語は書けないだろうか。あるいは認知症になってからの自らの心象風景を書くことはできないのだろうか。認知症老人は、家族や親しい友人から、今まであれだけ付き合ったのに、私のことを覚えていないのかときっと言われるのだろう。そういうことを了解しつつ、しかし認知症そのものをもっと理解してもらっても良いのではないかと、世間に物申したい気持ちもある。もっと認知症に即して、事態を考えたいのである。
   先の「大いなる不在」では、老人は施設に入って外出が許されないために、自分は外国の防諜機関に捕らわれているのだと思っている。何か闇の組織に狙われている、そこに捕らわれているというのは統合失調症のひとつの妄想のパターンで、それ自体はあり得ると言うか、こういう事態になれば当然出てくる妄想に過ぎない。文学作品なら、良く取り挙げられるテーマである。また「明日の記憶」の主人公がそうであるように、数十年前の記憶に退行するのも、小説では良くある話である。タイムマシーンに乗って過去に行くというパターンだけではなく、記憶の中で過去の世界に向かうというのも、これは最近のSFのひとつの手法である。どちらもそういう世界で生きていくというのなら、それはそれでひとつの人生のあり方だと思うし、それを文学化して世に問うことが必要なのではないか。
   前回書いたように、認知症の世界もまたひとつの秩序であり、それはそれで尊重されねばならない。また今後多くの人がそういう新たな世界で過ごすことになるということもまた確実な話である。繰り返すが、長年尽くしてきた妻のことを忘れてしまうのかとか、妻以外の女と付き合った昔の思い出に浸るのでは妻が可哀そうと言ったところで仕方ない。認知症そのものを肯定することはできないのだろうかと私は思うのである。
   また、語り手がすべてを見通して読者に語るというスタイルが望ましい小説だという訳では決してなく、認知症になった人を主人公にして、その人の朦朧とした意識を語るという試み自体も、なされて良いと思う。それはS. ベケットの「名づけ得ぬもの」のように、延々とモノローグが続く小説になるかもしれない。しかしそういうものも含めて、現代文学は、そういう試みをしてきたのである。
   実際、調べるとすでにいくつも認知症を扱った文学作品はある。認知症本人が書いているというスタイルのものもある。家族の視点から書かれたもので、「私のことは忘れても良いから、気にしないで」という視点が貫徹しているものもある。私の不満は、実はすでに解決されているのかもしれない。それらについても、いずれこのシリーズで取り挙げたい。
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x12405,2024.12.23)