森忠明
四月七日、小学校の入学式を終えて帰宅した新一年生の我が娘が「わたしたちの先生すごい美人で優しそう。よかったあ!」と報告したので、「ボクも生徒になりたい。美人の顔を拝みたいな」と言った。すると娘は「さっそく先生におたより書こう」。机で何かしたためはじめた。それを検閲しなかったのは失敗だった。〈パパがせんせいのびじんがおをみたいそうです〉と書いて渡してしまったのである。
先生の返信―〈らんちゃん おてがみありがとう。じが とてもじょうずなので びっくりしました。これからいっしょにあそんだり、おべんきょうしたりしようね。よろしくおねがいします。おとうさんに、いつでもがっこうにいらしてくださいとつたえてね。くまもとより〉。赤面するほかなかった。
私も好きな先生にはよく手紙を書いた。小学時代、先生から来た郵便はがき十七通を大事にとってある。四十年前のはがきは五円だった。一年生の夏休みに、担任の松日楽敬治先生からもらった絵はがきの消印は、昭和三十年八月三日。私の人生で最初の受信。爽やかな達筆だ。温顔がなつかしい。
十七通を久しぶりに読み返したら、きらいだった先生のが一通混じっているのに気づいた。好きでもないその先生に媚びるような気持ちで書いたことを、ちょっと思い出した。
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九年前、広島で暮らしていた時、大きらいだったT先生(高校の担任)から電話。二十年ぶりの声は元気がなく、
「森センセイには色々と無礼な振るまいをいたしましたので、お詫びしたいと…では、ごきげんよう」。
狐につままれた感じ。しばしポカンとしていた。以来、T先生に対する評定は”いやな奴”から”不思議な人”に変わった。
俳優の石橋蓮司氏(森家全員この人のファン)によく似ていたU先生は、中学の新聞委員会顧問。二年生の二学期に委員長となった私は、ある日の放課後、U先生に呼ばれて職員室へ行った。
一時間以上、くどくどねちねち叱られた。文芸欄に寄稿した理科担当のF先生が、文末のカッコ内に、自分の担当科名を化学と記したのを、編集長の私が(理科)と直さなかったのを怒っていたのだ。「中学の教科に化学というのは無い」。そればかり繰り返した。
後年、U先生はアルコール中毒が原因で免職になる。そして毎夜乱酔し、町外れの地下道にへたりこみ、鼻で笛を吹いている、という噂が流れた。鼻笛とは乞食の真似だ。妙な癖である。
「陶庵夢憶」(張岱・作・岩波文庫)には〈癖なき人と交わるべからず、その深情なきを以てなり〉とあるが、U先生には深情がありすぎたのかもしれない。町外れの地下道を通るたびにU先生を思いだし、” 怨讐の彼方に”といった気持ちになる。
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『ぼく先生のこときらいです』(宮川ひろ・作、長野ヒデ子・絵、偕成社、本体七九六円、九六年九月刊)は、転勤してきた女の先生と馬が合わず、悲しみ続ける中野正夫くん(小三)の物語。
名門といわれる小学校からやってきた三田文子先生は、何事にも潔癖みたいで、正夫くんが手紙を渡そうとすると「めだつことは、しないのよ」とツレナイし、給食の割烹着は洗濯の上手なお母さんにしか頼まないし、黒板ふきが不充分な日直にはキビシク当たるし、国語の本を張りきって朗読すれば「耳にひびきすぎてうるさい」と難癖をつける。
涙に沈む正夫くんを「あわない先生とどうやってつきあっていくか、そこを練習する年にすればいいさ」と励ます父。「先生はきちょうめんすぎてきゅうくつだけど、(自分の子で)苦労しているおかあさんなら安心だ」と慰める母。よくある話、と軽く扱ってはならないだろう。共通了解の可能性を探る、というのは古いようで新しく重いテーマだから。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x11312,2024.04.30)