身体論補遺(2) 食

高橋一行

 
   サラ・ウォース『食の哲学』に触発されて、以下、思うところを書いていく。この本は、何度も新聞広告が出ている。結構売れているものなのかと思う。実際、内容は悪くない。
   著者はアメリカの大学で、哲学、美学、環境倫理学を講じている。その主張はまず、食の趣味は、その味わいを心から楽しんでいるかどうかに掛かっているということや、食はそれぞれの土地に根付いているから、その土地に住んでいるとか、出掛けたことがあるといったことが重要だということになる。
   著者はイタリア料理に詳しい。またチーズやオリーブオイルの記述は細かい。その際に、著者はスローフードを提唱する。思想としてのスローフードが賞賛される。彼女はアメリカの大学でスローフードに関する講義を行い、毎年学生をイタリアに連れて行くのだそうだ。そしてアメリカに帰国すると、このスローフードの食事を維持するのに苦労すると嘆いている。著者は料理学校に通い、農産物の直売所で買い物をするのだそうだが、しかしどうしても町の至る所に見られるファストフード店の世話になってしまうと言うのである。アメリカはそれほどにまでファストフードで溢れている。当然のことながら、スローフードの正反対のものとして、こういったマクドナルドのハンバーガーなどが貶される。またマッチョ的なもの、大量生産されたもの、加工食品に著者は困惑の表情を見せる。その上で、あらためてスローフードのおいしさを称賛し、上質の材料とその素材の味を生かせるシンプルな料理を推奨する。産地がはっきり分かる食べ物を礼賛する。スローフードはひとつの生活様式であり、ひとつの世界観なのだと多くの人に気付いてほしいと著者は願っている。
   私はその著者の感性は良いと思う。それでサラ・ウォースに対抗する訳ではないが、私も私のスローフードを論じたいと思う。
   まず最近食べておいしかったのは、玉蜀黍(とうもろこし)と枝豆で、これは、知り合いから採りたてを送ってもらったり、農家が営む直売店で購入する。それら採ってすぐのものを茹でて食べるのが一番おいしいが、玉蜀黍は天麩羅にし、枝豆はすり潰して餡子(あんこ)にしても良い。
   また近所の魚屋の前を通ると、店主から声が掛かり、鰯や鯵が残っているから、全部持っていってくれるか、負けておくと言われる。こういう時は向こうの言うことを聞いておいた方が良い。家族で一回に食べるには多いものでも、開いてかば焼きにしたり、揚げて南蛮漬けにしたり、食べ方はいろいろある。魚屋と良好な関係ができていれば、今度はこちらの我が儘も聞いてくれる。天麩羅にしたいから、メゴチの良いのが入ったら連絡してほしいとか、夜遅く仕事帰りに店に寄るから、魚を取っておいてほしいといった要望も聞いてくれる。海鞘(ほや)も処理されて酢漬けになったものが、マーケットに売っているが、しかし貝殻の付いたものを、魚屋で剥いてもらい、家に帰ってすぐに酢橘かカボスで食べた方が、歯ごたえも良いし、何より香りが良い。
   また私は東京下町地区に住んでいるが、家のすぐ近くを流れる川の土手で、ヨモギ、タンポポ、カラスノエンドウなどを摘んできて、天麩羅にする。おひたしにしても良い。郊外に行き、ウドの若芽が手に入れば、これは最高にうれしい。
   こういう時は日本酒がうまいと思う。まず購入するときは、必ずどこの産地のものかが気になる。そうして飲んでいく内に、いくつか気に入った銘柄が出てくるのである。
   因みに言えば、吟醸酒はかつては香りが強すぎ、一口飲むとうまいが、たくさん飲むと気持ちが悪くなるといったものが多かったように思うが、最近は結構穏やかなものが増えたように思う。しかし酒はたくさん飲んで気持良く酔えるかどうかが重要であると考える私にとって、好んで飲むのは、くせのない純米酒になる。ただ本醸造酒でも、これも最近は随分と味が良くなっているので、人肌燗か日向燗くらいでゆっくり飲むと、これはなかなか行ける。
   このあとに私はワインを論じたい。スローフードと言うのは、そもそもゆっくりとその食べ物を味わい、その食べ物の産地を思い、伝統に気付かされるというものである。必ずしも自分の住んでいる地方の料理と酒を愛するというだけではなく、旅に出掛けたとか、知り合いが住んでいるとか、まだ出掛けてはいないが、憧れているといった土地のものでも構わない。食べ物と飲み物の産地が明確で、その土地に何かしらの親しさを感じることが重要である。そのことさえ守られていれば、実は何を食べてもスローフードになる。
   例えば、先の地元の野草料理には辛口のリースリングかソーヴィニョンブランが合う。また今日はワインがメインだという日は、チーズをふた種類くらい用意して、あとはトマトとスプラウトだけのサラダに、暇な時に作り置きしてある、枇杷か柚子の皮のジャムをパンに付けて食べる。枇杷も柚子もご近所からのお裾分け。食事は簡単なものにして、とにかく今日はワインを楽しもうと思う。こういう時はピノノワールが良いが、時にカベルネフランやシラーが無性に飲みたくなるときもある。
   かつて私は1年ほどドイツに住み、その後度々フランスに出掛けている。この数年思うのは、ブルゴーニュのワインが劣化して、ドイツ各地のワインの水準が上がったことである。これは明らかに温暖化が作用している。フランスにとっては、極めて深刻な危機が訪れていることになる。こういうことは別稿を用意して、きちんと論じるべきだと思うが、そういうことも思いながら、飲食をしたいと思う。
 
   サラ・ウォースはまた、食事が低次の快楽にされてしまうことを批判する。しかし食には思考が必要なのである。それには芸術的な感性と教養が必要である。人間らしさもまた要求される。食の復権を図らねばならないと彼女は主張する。
   そもそも哲学者たちが食についてあまり考えてこなかったのではないかと彼女は批判する。この問題意識が、この著書全体に横たわっている。
   例えばサラ・ウォースは、フォイエルバッハの食論にも言及する。フォイエルバッハに対してはいささか手厳しい。彼女はフォイエルバッハが言ったとされている「あなたは、あなたが食べ物でできている」という言葉を引用する。そしてその言葉は、それが「食事の内容が脳の健康に直接影響を与え」、「ひいては愛国心や政府にも影響を及ぼす」と言い、「貧しい食事からは貧しい思考と感情が生じる」と書く。さらに続けて、虎のペニスを食べれば性力増強に効果があるとする考えが根強く世間にはあると批判している。
   しかしこれではフォイエルバッハが可哀そうである。短絡的な世間の迷信と哲学者の主張とを結び付けて批判すると、このサラ・ウォースの言い分もまた、皮相的なものに思えてしまう。ここで言われていることは、何を食べ、何を好むかということは、その人の性格や経済状態と大きな関わりがあるということに過ぎないのである。
   確かにフォイエルバッハには「供犠の秘密 あるいは人間とは自らが食べるところのものである」という論文がある(注1)。ここで、このフォイエルバッハの言葉を表題に掲げた著作を参考にして、フォイエルバッハ擁護をしようと思う。河上睦子の『「人間とは食べるところのものである」「食の哲学」構想』を参照しよう。
   まず、フォイエルバッハのこの短い論文で彼が言いたいのは、人間は身体という内的自然を以って、自然を改変して生きてきたということである。つまり食という人の営みに着目して、人が如何に世界を創ってきたかということを問いたいということである。これは正当な問いである。
   さらにフォイエルバッハの主張は、この論文の題名にあるように、供犠についてなされたものである。つまり人は食べたものによって、他者と結び付く。さらには神と人、民族同士も結び付く。食という行為を通じて、同じ価値観を共有する人々が、その土地の食べ物を、その民族の神への供物として捧げる。フォイエルバッハの功績は、このように宗教の起源を唯物論的に基礎付けるものであって、食べたものが直接その人の身体や思想を創り上げるという単純な思想ではない。
   そこでは共食という表現が使われる。宗教はまさに共食から始まった。人が集まって、ともに食事をすることこそが宗教の始まりなのである。
   さて、フォイエルバッハに対する誤読はともかくとして、また私たちの身体が食べたものそのものから出来上がっている訳ではないのだが、しかし私たちが食べるものと、その人の思想や人格や境遇が相互に影響し合っているのは確かであろう。つまり先に私は、食には思想が必要だと、サラ・ウォースを援用しながら書いた。ここで食とその人自身は相互作用をする。人は自らが育った土地で、日々食をし、思想形成を図る。その土地の風土と、その風土によって影響される人々の行動様式の中で育っていく。そうして獲得した、ものの考え方や性格や経済状況によって、日々、自らの食を決定していく。さらにはそうして得られた食の経験が、新たにその人の内面や外面の形成に影響する。
   フォイエルバッハが指摘した、民族と食の関係は考察すべきひとつのテーマであるが、ここで考えたいのは、私という個人の趣味判断がどのように食を選んでいるかということと、逆に食がどのようにその人の性格形成や嗜好や行動様式に影響を与えるかということなのである。
   以下、そういう問題意識を持って、私自身の子どもの頃の記憶を書いていきたいが、その前にまず思うのは、私は大人になってから、例えば高級ワインを飲んだり、外国で贅沢をしたという経験があるのだが、こういうことは人生の貴重な体験で、こういう機会があることに感謝したいと思うと同時に、どうしてもそこに多少の罪悪感があり、自分で自分に対して言い訳をしないとならないということなのである。それはどうしてかと言えば、それはもう単純な話で、子どものときに貧しかったから、大人になったら美味しいものを飲んだり食べたりしたいと強く願っていて、人一倍その欲望が強いのに、しかしその欲望が満たされたとなると、しかしそれは本当に願っていたことではないし、私にとって本質的なことではないはずだと思ってしまうのである。あるいは、自らの欲望が露わになることの恥ずかしさを同時に感じてしまう。
   以下、食に関する私の幼少期の記憶を辿っていきたい。
   小学4年生くらいから中学2年生まで、我が家の夕食は私が作ることが度々あり、少なくとも買い物は日々私の仕事であった。まず肉屋に夕方出掛ける。そこでは豚小間しか買わない。肉屋に行って、必ず豚小間200グラムを買う。これで母と弟二人と私と計4人の夕食になる。肉屋のおばさんは、コロッケを揚げていて、破裂して売り物にならないものが出ると、私のためにそれを取っておいてくれる。買い物の帰りに、そのコロッケを食べるのが楽しみであった。
   また八百屋は、店が閉まる頃に行けば、売れ残ったものを安くしてくれる。それで毎日判で押したように、豚肉入り野菜炒めを作る。これが夕食である。
   たまに母親がカレーを作ってくれる。ここでも豚小間200グラムが使われる。玉葱、じゃが芋、人参を一緒に炒める。玉葱を先に色が付くまで炒めるといった芸当はない。しかしそれでも結構うまい。カレーは必ず残して、翌日の朝食にするか、場合によっては翌日の夕食になる。
   そのころ住んでいた家の近くに自衛隊の駐屯所があり、その広い演習所に忍び込むと、大人は中に入れないから、蕨が手付かずのまま、一面に生えていて、それこそ採ろうと思えばいくらでも採ることができた。それを摘んで、近所の家から薪を燃やした竈に残っている灰をもらって、あく抜きをし、そのあと油揚げとともに煮込むと、御馳走ができる。御馳走という言葉で思い付くのは、残念ながら、そのくらいだ。
   その後中学2年生の終わりに、千葉から東京に出て来ると、そこでは鶏肉が安いことを知る。それ以前は、買い物をするのは鶏肉を置いていない小さな肉屋と八百屋に限られていたのである。それが東京では、いくつもマーケットがある。豆腐や卵はマーケットの特売日には驚くほど安くなる。そうなると、そのあたりがおかずの主たるものとなる。あと魚肉ソーセージともやしは定番である。このあたりが夕食の思い出である。
   昼食のことも少々書いておく。まず小学生のときは、給食がうまいと思う。家の食事よりは大分ましなのである。味付けが良いとは思わないが、少なくとも材料は豊富で、品数もある。
   それが中学校に入ると、弁当を持参することになった。これが辛い。おかずは卵焼きだけとか、砂糖と醤油で炒めたひき肉をご飯に乗せただけという弁当が多かった。通学鞄の中で弁当の油が垂れ出して、教科書や辞書が油まみれになるということが何度もあった。それはあまり良い思い出ではない。
   おかずがまったくなく、弁当箱の蓋で弁当の中身が見えないようにしながら、急いで白い飯を掻き込む同級生がいた。当時私の家が最も貧しかったという訳ではなかったのである。
   中学2年の終わりに、私たちは一家で東京の下町地区に越してきた。そこでは給食が出た。それはうれしかった。転入して最初の日に驚いたのは、隣の人とおしゃべりをしながら給食を楽しむ同級生の姿である。前の学校では、食事中は私語厳禁であった。学校によってずいぶんと雰囲気が異なることを実感する。
   高校を出ると、狭い家の中に私のいるスペースはないから、すぐに家を出てアパートを借りる。あとは少なくともその家賃を稼ぐために、アルバイトに追われることになる。食事はほぼ自炊である。ときにすぐ近くにある実家に帰ることもある。あるとき、これはアルバイトの給料が出た日に、牛肉を100グラムほど買って、焼いて食べたことがあった。うまいと思った。
   その頃よく食べたのは、玄米をミキサーで軽く砕いて圧力釜で焚き、牛乳を少し入れて、マーガリンを乗せるというものである。これは結構うまい。それを主食としていた時期もあった。極貧だけれども、自分の稼いだ金で食事ができる。これはうれしい。またひとり暮らしを始めたらすぐに、圧力釜とミキサーを購入する。玄米に黒豆を入れて炊くと、他におかずが要らない。道具に金を掛けてもすぐに元が取れる。
 
   20歳で妻と知り合って、すぐに結婚したから、話はそれまでの時期のことである。
 
   さて考察すべきは、そのときの食が現在の私の思想的傾向と関連があるか、子どものときの食が現在の私の性格に影響を与えているのかということである。
   私は今でも極力金を掛けないで、うまいものを食べたいと思う。となると、自分で作るのが一番良い。ワインを飲むときも、自宅に人を招くか、友人宅に招いてもらうか、そのどちらかが多い。それでいて、ときに、金を掛けるべき時は掛けて良いと思う。思い切って、高級なワインや食材を買うこともたまにはある。そのあたりのバランス感覚は、自分でも良い方だと思っている。あるいはそのように自らを納得させている。また、うまいものはうまいと思う。快を感じる能力はあると思う。
   また若い時に貧乏だったので、私はファストフードに馴染みがない。つまりハンバーガーや牛丼やコンビニの総菜よりも、自分で作った料理の方がはるかに安いからである。そしてそれはありがたいことだと思っていた。サラ・ウォースも口を酸っぱくして、ファストフードの悪口を書いているが、そもそも私はそれらがうまいと思ったことはなかったのである。
   しかし最近、若い人に誘われてハンバーガーを食べると、驚くほどうまいものがある。コンビニのケーキ類もかなりしっかりと作られている。馬鹿にできない。こういうところでのレベルアップは著しいものがある。
   またときに、センベロと言われる店のもつ焼きが無性に食べたくなることがある。それは安い焼酎と良く合う。隣人と身体をくっ付けて、狭く、薄汚い店で飲み食いをするのは、これも快楽だと思う。
   このあたりはサラ・ウォースと見解が異なるというより、アメリカと日本の事情が異なると言うべきかもしれない。日本ではB級グルメの水準は高い。安いものでも、うまいものはうまいと思う。
 
   以上、こういう経験を書いた上で、以下私が展開したいのは、ワインの美学である。子どものときに貧乏であったこと、その後に相変わらず金はないが、美食を求めるようになったことを書いてきたが、その後経済的に余裕ができると、ワインにはまるようになる。それは私の食の遍歴において、必然的な成り行きなのである。
   まずはある経験から書き始める。
   一度ある大手のワインショップの催し物で、きわめて高価なワインを30ccずつ飲むという企画に参加したことがある。値段は書かない。知っている人は知っているということで、飲んだのは、2020 Château Mouton Rothschild Pauillacとか、2020 Château la Mission Haut Brion Pessac Léognan など、数種類である。
   一口飲んで衝撃が全身に走る。これほどまでに複雑で豊かな味の飲み物があるのかと思う。二口目は、ゆっくりとその口の中に広がる味のふくらみを感じ取り、またしばらくはその余韻を楽しむ。三口目は10分くらい置いてから味わう。味は穏やかになり、しかしその強さは失われない。その後は30分置いて、残っているものを飲み干す。これで全部飲んでしまったと思う。束の間の快楽が消え去っていき、あとにははかなさが残るばかりである。
   まずこういったワインは明らかに芸術作品である。そしてそれに金を掛けるのは正当化されると思う。かつ私にワインを味わう審美眼があるかどうかは不安なのだが、こういうことが楽しいと思える程度にセンスがあれば良いのだと、自分で自分を慰める。
   サラ・ウォースの著作に、ワインについての記述は多い。ブルデューを引き合いにして、ワインを楽しむだけの文化資本がある人は限られているということになる。つまりワインは結局のところ上流階級の人の飲み物だということになる。私も人からそう言われたことがある。私がワインが好きだと言うと、「あなたは仲間だと思っていたのに、いつからブルジョアになったのか」と、これは私より年長の友人から言われたことがある。
    しかし今やワインは、普通の人が楽しむことができるものではないか。私は自動車を持っていないし、ゴルフにも行かないし、女の子のいる飲み屋にも行かない。それらにお金を掛けるよりも、ワインを嗜む方がずっと安いはずだ。高級レストランで飲むのではなく、このあとも書くが、例えばワイン仲間を作って、自宅を含めて、順にそれぞれの家でワイン会を開くというような工夫をすれば、結構安上がりに、良いものが飲めるだろう。
   また、ワインを理解するようになるためには、様々な土地の様々な食べ物を味わった経験が必要だとサラ・ウォースは書く。これもその通りである。幸い私は40歳を過ぎてからだが、外国で暮らす機会があり、またしばしば外国に出掛けることが可能だったから、そのことは体験的に理解できる。ワインをその地方の肉料理やパンやチーズや果物と一緒に味わう機会が、舌を鍛えることになる。そしてこれも今や、一部の特権階級のものではなくなっている。私の仲間には、若いときに青年海外協力隊として長く活動をしたり、たまたま外国の友人ができて、その人に現地に連れて行ってもらったりという体験のある人がいる。また私よりも若い人だと、留学の経験のある人は珍しくない。レストランでアルバイトをしていて、ワインを覚えたという人もいる。必ずしも皆、金持ちだという訳ではない。
 
   さらに話を進める。ワインを中心にした、食の趣味判断の美学を私は構築したいと考えている。そのことに関して、サラ・ウォースは、食について哲学者の言及があまりに少ないと嘆くのだが、趣味判断についてのヒュームとカントは、その数少ない例外として、参照されている。その解釈について、私はいささか批判をしなければならないと思う。サラ・ウォースの著作の中で、厳密にどのテキストの何ページを引用したということが明記されていないので、またそれは学術論文ではないので当然だということで、そこまで神経質にならなくても良いのではないかと言われるかもしれない。しかし哲学史の中でのヒュームとカントの位置付けは慎重になされるべきものである。問題は、趣味判断が主観的なものか、客観的なものかということだ。ここではまず、この問題は確かにこのふたりの哲学者が論じたものだということを確認し、それぞれサラ・ウォースがどのように取り挙げているかを見ていく。
   彼女はそこで、ヒュームは客観主義者「だとされている」とし、カントは「ある意味で」主観主義者だと言う。ヒュームは、美は作品そのものに宿っているとし、一方カントは、美的判断の主観的特性が趣味の基盤であると考えていたとしている(サラ・ウォースp.27 – 33)。しかしこれはあまりに単純すぎる区分けであり、不十分な指摘であると思う。私は以下、ヒュームとカントのテキストに即して厳密に論じたい。
   まずヒュームは『道徳・政治・文学論集』に収められた「趣味の基準」 ’of the Standard of Taste’ という論文を使う。またカントは『判断力批判』の第1部「美学的判断力の批判」の、特に最初の方にある「趣味判断」’Geschmacksurteil’ を参照する。
   趣味判断は一般に視覚を中心に考察されているのだが、これが味覚だとどうなるか。そもそも「趣味」を意味する英語はtasteであり、ドイツ語はGeschmackなのだが、それらは、舌を意味し、つまりそれは味覚の問題なのである。ところが哲学者たちは専ら視覚芸術を念頭に置いて議論をしてきたのである。
   私は料理やワインを芸術作品だと思っているので、文字通りtasteとGeschmackを論じて、ここから美学を構築できないかという野心を持っている。そこでは、身体の観点を強く意識した美学が構想できるはずである。
   このあとで検討するが、すでに現在はたくさんの食についての書物が出ていて、それらの著者とは、この問題意識を共有する。そういうことも念頭に置いて、このヒュームとカントという古典を読んでいく。
   ヒュームは、芸術作品の評価はそれを感じ取る個々の人間の所感に依存しているということをまず、当然の前提と考えている。趣味は人によって異なるのである。しかしそれにもかかわらず、「人々の様々な所感がそれによって一致させられる規則」があるとしている(ヒューム p.194)。つまりヒュームは確かに美の評価に関して一定の基準があるとしている。そういう意味で、これを客観的な趣味の標準と呼んでも間違いではない。
   ところが実際には、人びとの間に「想像力の繊細さの欠如」があって、趣味や所感が人によって異なるのである。ここでヒュームは、あるワインの目利きが、正確にそのワインの風味を述べたのに、周りの人はそれをあざ笑ったという例を出す(ヒュームp.197f.、サラ・ウォース p.29 )。つまり極めて繊細な味覚は、多くの人びとが共有するものではない。
   具体的にヒュームはそこから、1.人によって、人格と感性が異なり、生れ付きの感覚の鋭敏さが異なること、2.実践によって洗練さを身に付けるべきこと、3.比較の経験を積むこと、4.偏見から解き放たれて、公平性の感覚を身に付けるべきこと、5.知性と良識を身に付けるべきことと、この5つが必要だとしている。つまり趣味の原理は普遍的であるが、実際には個々人の能力と経験によって異なってくるのである(ヒュームp.p.198 – 202、石川 p.41f.)(注2)。
   一方、カントの『判断力批判』は次のようになっている。
   私たちが美を感じるのは、心の能力である構想力(Einbildungskraft)と悟性(Verstand)が調和しているときに、快(Lust)の感情が喚起されるからである。そのときに対象はこの判断力にとって合目的的であると見做される。目的に適った状態が快である。問題はこの合目的的ということで、これは客観的な自然を指すのでもなく、またそれは主観でもなく、その両者の関係から必然的に生じたものだとされている。このときに自然の対象は美しいとされる。またその能力は普遍妥当的に成立するとされ、それが趣味(Geschmack)と呼ばれるのである。
   つまりカントにおいて、趣味判断は客観的なものではない。その判断は個人的な感情に基づいている。ここでカントは、「このワイン(Sekt)は私にとっては美味である(angenehm)」と言うべきであるとしている(カント 第7節)。
   しかし人は人々の間で、この判断が一致するように、つまり普遍的な妥当性があるべきであると要求する。趣味判断はその評価が他人によって賛成してもらえることを、人は期待するのである。単に主観的に妥当するものではなく、客観的に妥当するものであるべきことが要求される(同 第8節)(注2)。
   すると、ヒュームにおいて趣味判断が客観的で、カントにおいてそれが主観的ということではない。ヒュームにおいては、個々人の能力や感性の差があるが、しかし普遍的な基準があること、カントにおいては、趣味判断は構想力と悟性という主観的な条件の問題なのだが、その伝達は普遍妥当性を備えていなければならないとされるのである。
   私の結論ではヒュームもカントも、実はあまり変わらない。そもそもカントはヒュームの影響を大きく受けているというのは哲学史の常識である。もう少し正確に言えば、まさしくこの主観-客観問題こそ、ヒュームの主張を受けてカントが取り組んだものなのである。
   さらに私は、身体感覚や身体的経験は、主観と客観の二元論を超えているし、他人の考えていることは結局分からないのだという他我問題も解決していると考えている。これはこのサイトで展開している身体論の中で、度々主張しているものである。食における趣味判断の身体性を、ここでも確認したい。人は主観と客観にまたがる身体を持ち、他者とその感覚を共有している。
   繰り返すが、こういった趣味判断の議論は、絵画などの芸術作品を念頭に置いて書かれているが、ワインのことであると言っても構わないはずである。実際、ヒュームもカントも、ワインの例を出している。ここでワインにおける趣味判断の、共同体における普遍性を論じたいと思う。
   例えば今、私の手元にあるワインのチェックシートによれば、ワイン評価をするための、外観、香り、味わいについて、それぞれたくさんの項目がある。外観について言えば、透明度、輝き、濃淡、色調、グラスの壁面を垂れる滴の状態、泡立ちなどが挙げられる。その中の、透明度ひとつをとっても、「光沢のある」、「澄み切った」、「輝きのある」、「清澄な」といった表現が使われる。
   つまりそれらは主観的なものである趣味判断を、如何に普遍的なものとして他人に伝えるかという問題を解決するために、言葉を尽くして説明することが求められるのである。逆に言えば、言葉で説明することで、その感覚は人に伝わるはずだという信念がそこにはある。
   さらに、ワインを格付けする人たちが世にたくさんいる。そして彼らの主張は説得力を持って人々の間で迎えられているのである。
   例えば、2019年に引退したのだが、ロバート・パーカー、Jr. というワインの格付けをする人がいて、彼の判断は世界的に評価されている。世にワインを品評する会はたくさんあり、世界中からワイン評論家が集まって来て、それぞれの評価を出す。重要なのは、彼らの判断は、それが他の評論家の判断と比べて妥当かどうかということが、常に審査されているということである。つまり吟味されているのはワインだけでなく、そのワインの良しあしを見抜く評論家の力量もまた常にチェックされているのである。このようなワイン共同体と言うべき集団の中で、勝ち抜いた人の判断が、まさしく普遍的に妥当する判断として流通することになる。
   実際、私も信頼できる業者が出している評価に基づいて、ワインを購入するのだが、その評価は、私の舌に照らして、確かに当てにして良いと思う。
   また私は何度か書いたことがあるが、月に一度ソムリエの資格を持つ友人たちと一緒に、ブラインドティスティングをしている。そこで様々なワインを、事前に情報がまったく伝えられることなく、ラベルや瓶の色や形を隠してグラスに注ぎ、自分の五感だけを頼りに、その葡萄の品種、生産地域と年度を当てるのだが、そこで劣等生である私はともかくとして、上級者たちは皆正確にそれらを当てていくのである。またそのワインがうまいかどうかという、最も肝心なことにおいても、大体皆の意見は一致するのである。
   つまりワインの味は、主観的でありながら、普遍性を要求し、かつ共同体の中で、妥当性を獲得し得るのである。
 
   先に書いたように、サラ・ウォースは、哲学者たちがあまり食について語らないと言うが、しかし現在、食について哲学的な考察をしている本は世にたくさん出ている。話を先に進めるために、その中から良書を選んで紹介したい。
   まずレヴィ=ストロースが料理について、たくさんの言及をしていることは、以前書いている(注4)。それに触発されたものもずいぶんたくさん出ている。
   例えば玉村豊男は、アルジェリアをヒッチハイクしていた時に、現地の人に羊肉料理をご馳走になったという話から始めて、世界の様々な料理を食べ歩き、また自分でも作ってみたという経験を書き記している。それらを積み重ねた結果、料理の一般原理として、火、空気、水、油という四つの要素を取り出し、これらが火を頂点にした四面体を構成しているという主張をしている。
   直ちに分かるように、これはレヴィ=ストロースの「料理の三角形」を下敷きにしている。レヴィ・ストロースは「料理の三角形」として、生のもの、火にかけたもの、腐敗させたものと三つを挙げる。その分類は興味深いものだが、三角形という平面図よりも、四面体という空間図の方が、より説得的に食を論じられると思う。
   また私もかつてレヴィ=ストロースについて、初期の近親婚のタブーと後期の食人のタブーを並行させて論じている。さらに言えば、実存主義は性を扱い、構造主義は食を扱うと言っても良く、20世紀後半から今に至るまで、レヴィ=ストロース以降、ずいぶん食に関する本は出ており、さらには近年、若い研究者も出始めている。
   それら近年書かれた食についての本の中で、とりわけ興味深かったものとして、源河亨を挙げ、本稿のまとめとしたい。飲食の美学がこの本の問題意識である。
   まず味覚は舌だけで感じるものではなく、五感全部を使うと源河は指摘する。これはその通りで、ワインで言えば、その評価について、先に書いたように、外観、香り、味わいと、視覚、嗅覚、味覚を総動員しなければならない。
   視覚は最初に来るもので、ブラインドティスティングでは、最初の判断がここでなされる。この薄い赤色は、ピノノワール特有のものだと、まずは思う。また、匂いはとりわけ過去の記憶を喚起する。ワインをまだ口に含む前の、ワイングラスに鼻を近付けたほんの数秒の間に得られる感覚は至極のものである。これは前に飲んだことがあると、記憶を辿って、しかし思い出せないもどかしさと、しかしこれは間違いなく以前に飲んだことがあるものだという確信とが交差する。そういう手続きを経て、やっと、ワインを味わうのである。
   さらに高級ワインを紙コップで飲むことほど味気ないものはなく、グラスを手に持ち、口に付ける、その感覚もまたワインを味わう楽しさのひとつである。また例えばシャンパンをグラスに注いだら、そのはじける音を聞くべく、私は耳をグラスに近付ける。つまり触覚と聴覚も、ワインを味わうためには不可欠である。
   こういう話で必ず出てくるのは、tasteの語源はtouchであり、味覚と触覚は繋がっているということである。実際、グラスから口の中にワインが入ると、それは冷たいか、ぬるいか、さらっとしているか、少しどろどろした感覚があるか、ときに発生した泡が舌を刺激する。また苦さや辛さも舌への刺激として現れる。それは生理学的に言えば何かしらの化学反応なのだろうが、しかしそれは苦みや辛みを感じさせる物質が舌を圧迫しているという感覚として現れる。程よい酸味や甘さは、舌を撫でていくかのようである。
   ブラインドティスティングのひとつで、グラスが黒く小さなものを使い、ワインの色が分からないようにして、舌だけで判断させる場合がある。これは一時的に他の感覚を絶って、舌の判断力に集中させるための手段なのだが、しかし私はこれが嫌いで、色が見えないと味が分からないと思う。またグラスが小さ過ぎて、匂いが嗅げないものも面白くない。
   話を飲食全般に広げれば、聴覚、触覚も、例えば肉の焼ける音はそれ自体快楽だし、おむすびがうまいのは手で食べるからで、手に取ったときの触覚は、おむすびの味わいの一部である。寿司も手で食べたいと思う。またドイツにいたときに、固くなったパンを手でちぎって食べるのは快感であった。ドイツ人は、丸パンの上に薄くスライスしたハムとチーズを乗せて、ナイフを突き立てて切っていく。そのサクサクとナイフを進める感覚が、私にとってのドイツの朝食の象徴である。
   もうひとつの観点は、味覚は情報によって左右されるということである。ひとつには、先に述べたように、ワインに対する評価は、ワイン愛好家によって尊重され、その権威はワインの世界で確立しているということが挙げられる。つまりワインを好む人たちの間で、普遍性が認められている。
   あらかじめ値段が高いとか、評判が良いといった先入観を持って、ワインを飲むのは良くない、ひたすら自分の主観を信じるべきであると考える人もいるだろうが、しかし次のようなことを考えてほしい。
   例えば、完全なブラインドティスティングをしてみる。どれもピノノワール100%のワインだと決めておいて、格付け評価の異なるものを3つ用意する。それは大体の場合、値段の差になるであろう。例えばボトルの値段が1500円と3500円と7500円という違いがあるとしよう。そしてその違いを当てさせると、これはこの程度なら、私でも大抵は当たる。しばしばテレビで、芸能人に、1本5000円のワインと50000円のそれとを当てさせるという趣向の番組があり、しばしば味にうるさいとされる芸能人が外すのだが、私の経験では、5000円以上のワインはどれも高級感があって、あとは好みが強く作用する。しかし世に一番多く売られている2000円以下のワインと、ティスティングで使われる3500円くらいのワインと、私が高級だと感じる5000円以上のワインと、この3種類の違いは明確である。
   つまり、一方でそういう訓練をしていると、情報が遮断されていても、自分の感覚だけでワインの判断ができるという自信がある。そういう自信があれば、情報に踊らされることはあるまいと思い、そして多くの場合、情報はたくさんあった方がありがたいのである。
   一般的に言って、これは値段が高いワインであると聞いていると、それだけでおいしく感じられることはある。このことを私は否定的に考えない。つまりそういうことがあって良いと思うのである。また苦労して手に入れたものは美味しく感じるということもある。こういう先入観や情報を排除することはない。それらが付加価値になるのである。
   こういった飲食の趣味判断を、とりわけワインの美学を、ヒュームやカントの美学に接続させることはできる。これを本稿の結論としたい。
 

1 この論文は、独文フォイエルバッハ全集の第11巻にある。
2 ヒュームの解釈には石川徹を参照した。
3 カントの解釈には、志水紀代子と小田部胤久を参照した。
4 レヴィ=ストロースの「料理の三角形」については、当サイト「身体の所有(5) 毒を喰らう、または消化と排泄」を見よ。http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9102
 
参考文献(五十音順)
石川徹「「趣味の基準」に関する若干の考察」『香川大学教育学部研究報告 第Ⅰ部』No.145, 2016
小田部胤久『美学』東京大学出版会、2020
河上睦子『「人間とは食べるところのものである」「食の哲学」構想』社会評論社、2022
カント, I.,『判断力批判(上)』篠田英雄訳、岩波書店、1964
源河亨『「美味しい」とは何か 食からひもとく美学入門』中公新書、2022
サラE・ウォース『食の哲学 「食べること」に潜む深い意味』永瀬聡子訳、バジリコ、2022
志水紀代子「美学的判断力と目的論的判断力 自由実現をめぐって」浜田義文編『カント読本』法政大学出版局、1989
玉村豊男『料理の四面体』中央公論新社、2010(初出は1999)
ヒューム「趣味の基準」『道徳・政治・文学論集』田中敏弘訳、名古屋大学出版会、2011
フォイエルバッハ, L., ‘Das Geheimnis des Opfers oder Der Mensch ist, was er ißt‘, Gesammelte Werke, Ludwig Feuerbach 11; herausgegeben von Werner Schuffenhauer, Akademie Verlag, 1967 = 「犠牲の秘密、または人間は彼が食べるところのものである」『後期哲学論集』 船山信一訳、 福村出版、1974
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x10402,2023.09.06)