私が政党を批判する尺度とは?――立憲民主党を例にして

相馬千春

一、はじめに
   このところ日本のリベラル・左派は退潮が著しく、立憲民主党は政党支持率で維新に抜かれ、共産党も4月の統一地方選挙で議員数をずいぶんと減らしてしまいました。リベラル・左派の退潮はそもそも戦後「民主主義」が抱えている問題にその淵源があるように思われるのですが、「淵源」についてはまた別に機会に論じることにして、今回はリベラル・左派の政党を批判の俎上にのせてみましょう。私は各野党の党員・支持者と話をする機会があるのですが、政党によっては「聞き上手」とは思えないところもある。それで、そういうところを批判するのは御遠慮申し上げて、今回は批判を言いやすい立憲民主党を取り上げることにします。じっさいここに書いたことのほとんどは、既に地元の立憲民主党に申していることです。
   さて、立憲民主党を批判すると言っても、私になにか新しい批判の視点があるわけではありません。私が批判の尺度とするのは、先哲・先賢が示しているもので、私はその尺度を拝借して批判をするにすぎない。そういう次第で、私の批判が本来的に「古臭い」ものである点はお許しください。
 
二、「智・仁・勇」はあるか
   じつは数年前の立憲民主党のアンケートに「なぜ立憲民主党の支持率は上がらないのか?」という設問があったのですが、この問いに対して私は当時――今もですが――つぎのような回答をしています。

多くの国民が「自民党の政治は酷い」と思っているが、だからと言って、「立憲民主党に政権を任せよう」とは思ってはいない。それは立憲民主党の「政権担当能力」に疑問があるからだ。
それではどうすれば政権担当能力があると思われるのか?いや、どうすれば「政権担当能力」が身に付くのか?
東洋では「智・仁・勇」ということが言われる。「智」がなければ政策を立案できないし、「勇」がなければ政策を実現できない。しかし智と勇だけでよいかというと、それでは足りない。なぜなら政権を担当するに足るだけの「智」と「勇」を結集をするには、その結集の核になる人々の「仁」(=「思いやり」や「偽りがないこと」)が不可欠であるから。立憲民主党には「智」も「勇」も足りないが、何より「仁」が足りないのではないのか。

   我ながらずいぶんと失礼なこと言ったと思いますが、本当のことなので仕方がありません。さて、最初にお断りした通り、「智・仁・勇」などと言うと「古臭い考え」だと言われるのは必定なので、ここでヴォルテールの言葉を引用して、すこしは言い訳を試みてみましょう。

「自然はあらゆる人間に教えています。『……私はお前たちが大地を耕すために二本の腕と、その身を処するために理性のささやかなひらめきとを授けた。私はお前たちの心のなかに、この生涯を堪えうるためにお互いに助け合うように憐欄の情[compassion]の芽を植えつけておいた……』と。(1)」

   ここで「二本の腕」が「勇」に、「理性のひらめき」が「智」に対応するものであることは見易いでしょうが、「コンパッション」が「仁」に相当するものであることを見落としてはならないでしょう。日本のリベラル・左派からは、「理論」や「実践」という言葉を聞くことはあっても、「コンパッション」や「仁」と言う言葉を聴くことはほとんどない。しかしフランス革命を準備した思想家は、「コンパッション」すなわち「仁」を重視していた。こう申すと、「ヴォルテールなんて古臭い」と言われるかもしれませんが。
 
三、政治の要諦は「食、兵、信」である
   「政権担当能力」という視点からすると『論語』の次の一節も重要でしょう。

「子貢 政を問う。子曰く、食を足らし、兵を足らし、民 之を信ず、と。(2)」

   ここでは、「食を足らす」は「国民の生活を保障すること」、「兵を足らす」は「国民の安全を保障すること」、「民 之を信ず」は「国民が政治を信頼すること」と理解しておきますが、政治の要諦は「食、兵、信」であるということです。
   もちろん立憲民主党も「食、兵、信」を否定してはいないでしょう。しかし立憲民主党のコアな支持者たちの最大の関心は「基本的人権」であるようで、このこと自体はもちろん間違ってはいません。しかし日本の国民の多くが「食」(=生活)や「兵」(=安全保障)より以上にLBGTや難民の人権に関心があるのかと言えば、そんなことはない。
   主権者である国民の大多数が重要と思われているものは、「食」(=国民の生活を保障すること)であり、「兵」(=国民の安全を保障すること)であるのですが、経済政策においても安全保障政策においても立憲民主党がどの方向に進むのか、よく見えないのが現実です。例えば、立憲民主党は消費税減税に賛成なのか反対なのか、不明である。「敵地攻撃」についても、人(議員)によって考え方にかなりの違いがあるようだし、そもそも立憲民主党の議員たちに軍事技術・戦略戦術についての知識がどれだけあるのか。そうであれば、国民は立憲民主党に政治を託することが出来ない、ということになるのは当然でしょう。
   「兵」などというと、軍拡に賛成しているように受け取られかねないから、お断りしておきますが、私は敵地攻撃論にも防衛予算の増額にも、「兵学的リアリズム」(後述)の立場から、反対であり、防衛費の使われ方を精査して、効率の悪い支出を徹底的に削減することが、日本の安全保障のためには不可欠であると思っています。しかし同時に私は、リベラル・左派は、――彼らが政権を目指す限りは――「国民を守るために、どのような予算規模で、どのような防衛政策を採るのか」を明らかしなければならないとも思う。
   じっさい最近の世論調査の結果では自衛隊の規模を増強を望む者が4割強、今の程度でよいと思う者が5割強で、縮小を望む者は3.6%しかいない(3)。国民の9割強が現状程度かそれ以上の防衛力を必要性を感じているのだから、国民の大半が理解できる防衛政策を提起できなければ、多くの小選挙区で勝つことも、政権を獲得することもできないのは確かでしょう。
   もちろん立憲民主党は――共産党も――防衛力を保持することを認めていますが、ちょっと脱線してリベラル・左派政党の支持層の話をすると、いささか事情が異なっています。支持層のうちコアをなす人々の中では、強い意味での「平和主義」あるいは「絶対平和主義」が影響力を持っていて、「日本は非武装でよい」、「攻めて来られたら降服すればよい」と言われる方もいる。私はそういう意見には同意しかねるのですが、かと言って、思想信条としての「絶対平和主義」を批判するとなると、それは非常に難しい。しかし次のように言うことはできると思っています。すなわち、「絶対平和主義」は一つの宗教的・思想的な境地としては成立し得るが、政治の世界(=ヘーゲルの言うところの「客観的精神」の世界)に直接適用することはできない、と。
   なお、国民が防衛力を保持することは西欧的な意味でのデモクラシーからは当然のことなのですが、このことが今日の自衛隊をそのまま肯定することを意味するものでない点はお断りしておきます(4)。
 
   「食、兵、信」のうち、最後の「信」についてはどうでしょうか。
   昨秋の枝野幸男氏(立憲民主党前代表)の次の発言を取り上げてみましょう。

「衆院選で後悔しているのは、時限的とはいえ消費税減税を言った(ことだ)。政治的に間違いだったと強く反省している」、「二度と減税は言わない(5)」

   公約を反故にすれば、信は失われて当然である。このように言うと、“公約が「間違いだった」と気づいたのだから、間違いを認めるは正しいことではないか”と言われる方がいるかもしれない。たしかに「過ちては改むるに憚ること勿れ」ではある。しかしこの場合、間違いを認めるだけでは足りない。なぜなら、枝野氏が主権者=国民に対して約束をして、代議士(レプリゼンタティブ)すなわち主権者の代理人になった以上、その約束が「間違いだった」としても、「国民が約束を反故にされた」こと、そのことによって「公約に即して議員を選ぶという民主主義の原則が侵害されている」ことは、否定しようがない事実なのですから。
   ここで譬え話をすると、あなたが和菓子屋で「甘大福」と書かれた品を買って、じっさいにはそれに砂糖が入っていなかったらどうでしょうか。不良品なのだから、あなたはそれを返品しようとするでしょう。その時、カロリーの高い「甘大福」を食べることが「過ち」だとしても、それを理由にお店が返品を拒否するなんてことはありえない。
   同様に主権者=国民にとって公約を反故にした枝野氏は、代議士=代理人としては「不良品」ですから、主権者が「不良品である代議士には辞めてもらいたい、再び選挙を行って公約に即して議員を選び直したい」と主張しても当然でしょう。たしかに「消費税減税は間違いである」のかもしれないが、それは、再び行われる選挙で議論すべきことで、「不良品」を交換しない理由にはならないのです。
   枝野氏が議員を辞職しないまま“間違った公約は反故にしてよい”と考えているのであれば、それはずいぶんと自己中心的な発想である。これでは立憲民主党が国民の信を得ることは望むべくもありません。
 
   枝野氏はその後、「敗軍の将として、あれ(消費減税を訴えたこと)が敗因の大きな一つだ(6)」とも言っています。
   しかし「消費減税を訴えたことが敗因の大きな一つ」というのは、明らかに現実と乖離している。なぜなら野党間の合意――「時限的消費税減税」を含む――に基づいて、共産党とれいわ新選組が多くの小選挙区で候補者を降ろさなければ、立憲民主党の当選者はもっと減っていたのは明らかなのですから。このように他党やその支持者の協力を都合よく忘れて、自党のコアな支持者たちの内輪だけで成り立つ議論をしているのであれば、そういう政治は没落するしかありません。
   ここで「21年衆議院選で野党の敗北したのはなぜなのか?」について、私見を簡単に述べておきます。私は、敗北の原因は――田村智子氏(共産党)や辻元清美氏(立民党)が指摘している通り――立憲民主党や共産党の運動の「上滑り」である、と感じています。「上滑り」とはどういうことかと言うと、それは、野党の「政権担当能力」が国民から信用されていないのに、その不信に答えることなしに――「政権担当能力」をどう付けていくかを示すことなしに――「政権交代」を訴えたということです。「政権交代」のためには野党が「政権担当能力」を獲得する必要があり、そのためには何より「政権担当能力」の不足を自覚していることが前提である。そうした謙虚さが国民に見えたならば、野党は21年衆議院選挙でもう少し前進できたのではないでしょうか。
 
四、政治には兵学的リアリズムとそれを支える「エートス」が不可欠である。
   「政権担当能力」の獲得のためにはさらに、丸山真男や神島二郎が「兵学的リアリズム」とそれを支える「武士のエートス」に言及している点を参考にすべきでしょう。
   丸山真男は、日本の幕末の状況について「動きのとれない自然法的規範の拘束と行動の定型化から自由な<こうした武士のエートスのよみがえりによる>兵学的=軍事的リアリズムは、power politicsの波を乗り切るのに有利だった(7)」と言っていますが、これは“幕末の日本に「武士のエートス」と「兵学的リアリズム」がなければ、日本は列強に屈して独立を失っていた”ということと受け取ってもよいでしょう。
   日本のリベラル・左派は、「正しいこと」(=教条)からストレートに政治方針を提起していく傾向が強いようです。しかし政治の世界では、それが「正しい」か否かはよく議論してみなければわからないことも多い。また、さまざまな状況に制約されて、選択肢は限られている。何かを決断し行動すれば、どのような選択をしても、そこには必ず「悪」も含まれてくる。そして悪を絶対に避けようとすると今度は何も行動できないことになる。このような世界では「兵学的リアリズム」とそれを支える「エートス」が不可欠となります。
   それでは「兵学的リアリズム」とそれを支えた「武士のエートス」とはどのようなものか。丸山によれば、幕末における武士のエートスの「よみがえり」とは、直接には戦国の武士のエートスのよみがえりなのですが、戦国の「武士のエートス」の具体例として、丸山は「朝倉敏景十七箇条」を挙げて、その特徴を次のように捉えています。

「儀礼主義・フォーマリズムと結びついた儒教的な「道」から、最も鮮明に戦国武士道を分かつのは、この具体的状況に即したリアルな比較考量と、<それに基づく主体的な>決断の尊重である。/朝倉十七箇条を貫いているのはきわめて積極的な現実主義であり、・・・戦闘的で行動的なリアリズムの只中から、「道理」の精神がふたたび自覚されてくる。/この「道理」の精神もまた、先に述べた「器用」を尊ぶ精神、および「臨機応変」の精神などとともに、戦国時代において鼓動するリズムの一つである(8)。」

   ところで朝倉家の他の文書(9)には、「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つが本にて候」とあって、まさに「兵学的リアリズム」なのですが、また「武者を心懸くるものは、第一うそをつかず、聊かも胡論なる事なく、不断律義を立て、物恥を仕るが本にて候」とも言われている。つまり「兵学的リアリズム」というものは、<胡論なる事なく、不断律義を立て、敵味方ともに信用されねばならない>という「エートス」を根底において初めて成立し得るものであって、しかるべき「エートス」を欠いた者が「兵学的リアリズム」を気取っても自滅するだけである。
   以上のような「兵学的リアリズム」とそれを支える「エートス」は、日本のリベラル・左派がぜひとも身に付けるべきものだ、と私には思われます。
 
五、対話的な思考力が欠けている――「道理の重視」と「虚心な議論」の重要性
   リベラル・左派と議論をして思うことは、彼らは「対話」があまりに苦手だ、ということです。一般に近代日本の知識人は対話を得意としていないようで、これは幕末や明治初期の知識人とはまったく違う。
   明治20年に出た中江兆民の『三酔人経綸問答』は、「洋学紳士」と「豪傑君」と「南海先生」の三人が徹夜で酒を飲みながら国事を論じるという話ですが、丸山真男はこの三人について、「彼等のイデオロギーはそれぞれ違い、しばしば全く正反対になります。・・・つまり明治二十年頃には、まだこういうちがったイデオロギーの持主が集って徹夜で討論するような精神的空気が実際にあった(10)」と言い、また「『三酔人経論問答』の主人公達の間にあったような知的共同体の意識というのは、二十世紀初頭にはすでに急速に失われつつあった(11)」と言います。
   丸山によれば「身分と藩によって縦横に分断された幕藩体制において却って知識人の間に知的共同体の共通の成員だという意識があった」が、「逆に大日本帝国が出来て、封建的な階層制と地域的障壁が大胆にとりはらわれた後に、急速な官僚化と専門化がそれに代位してくると、かえって組織への所属性の方が、知的共同体の同じ成員であるという意識よりも優先するようになってくる(12)」。
   さて、江戸時代の藩校や私塾では素読・講読とならんで「会読」が行われていましたが、丸山のいう「知的共同体」がどのようなものかを把握するには、「会読」がどのような精神に基づいて行われていたのかを見るのが早道でしょう。前田勉『江戸の読書会』が金沢藩明倫堂の「入学生学的」を紹介しているので、これを――他でも度々引用していますが――ここでも引用しておきましょう。

「会読之法は畢竟道理を論し明白の処に落着いたし候ために、互に虚心を以可致討論義[もつてたうろんいたすべきぎ]に候」(会読の方法は、帰するところ、道理を論じて、明白な結論にいたるために、お互い虚心に討論すべきものである(13))

   ここで注目すべきは「道理」と「虚心」ですが、今日の日本の議論においては――私が見るところでは、リベラル・左派の世界でも――この二つは全く尊重されていません。またこのうち「道理」が――中世以来の伝統において――『原理』から演繹的に推論されるものではなく、「水平的なDialektik[対話法]のプロセス(注)」から生み出されるものであることは踏まえておく必要があるでしょう。そして「虚心」もまた忘れ去られている。すなわち今日の「議論」は多くの場合、単に相手を「論破」できれば良い、あるいは「少なくとも負けなければよい」という態度で行われています。つまり知的共同性という基盤が喪失されているので、これでは知的な意味で生産的な議論は期待できません。これらの点を踏まえると、虚心な議論によって「水平的なDialektik[対話法]のプロセス(14)」から「道理」を見出していく、そのような知的な共同性を構築していくことこそが、すべての土台ではないでしょうか。
 
六、終わりに
   今回、批判の尺度として挙げた「智・仁・勇」、「食、兵、信」、「兵学的リアリズム」とそれを支える「エートス」、そして「道理の重視」と「虚心な議論」というのは、どれも新しい事柄ではなく、いわば「古臭い」ものです。しかしこのような事柄こそ、じつは身に付け、実行することは難しい。自分の無知と無能を棚に上げて以上のようなことを述べたのはお恥ずかしい限りですが、政治に携わる方々が自分に足りないものに気づくことがなければ、何事も始まらない。それで日ごろ感じている点を遠慮なく指摘させていただいた次第です。(以上)
 

1 現代思潮社、中川信訳『寛容論』第25章p.152-153
2 『論語』顔淵篇第一二)
3 「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」(令和4年11月調査)
4 今日の自衛隊が抱えている様々な問題については、清谷信一氏「自衛隊に当事者能力がないので、防衛費を上げても防衛は強化できない」https://japan-indepth.jp/?p=71442を参照願いたい。なお、日本国憲法は、公務員を「全体の奉仕者」と規定しているが、日本の官僚機構は「全体の奉仕者」であることから逸脱しており、自衛隊もその例外ではないことは言うまでもない。
5 https://www.jiji.com/jc/article?k=2022110400968&g=pol
6 https://www.asahi.com/articles/ASQCD777ZQCDUTFK00N.html
7 『丸山眞男講義録5. 1965』 p.252
8 同上 p.188
9 福井県立一乗谷朝倉氏資料館刊『朝倉家の家訓』所収、「朝倉宗滴話記」
10 丸山眞男『後衛の位置から』所収、「近代日本の知識人」p.95
11 同上p.100
12 同上p.125-126
13 『江戸の読書会』p.48
14 『丸山眞男講義録5. 1965』p.121
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-x10093,2023.06.15)