「デモクラシー」と「主であること(Herrschaft)」

――拙論「デモクラシーの契機としての「精神的貴族主義」は可能か」の続きに代えて――

相馬千春

   
    「「デモクラシー」と「主であること(Herrschaft)」」と題した本稿は、私が参加させていただいているヘーゲル『精神現象学』読書会の2022年夏季合宿で発表させていただいたものです。私は先にこのサイトで拙論「デモクラシーの契機としての「精神的貴族主義」は可能か(一)」を掲載しており、本来ならば、その続きを書かなければならないのですが、なかなか難しい。それで、その続きに代えて、本稿を掲載させていただくものです。
   

「デモクラシー」と「主であること(Herrschaft)」

   
一、はじめに
    今回は“「デモクラシー」と「主であること(Herrschaft)」”というテーマで発言させて戴くのですが、これは実は読書会後の居酒屋での議論が発端です。私たちの世代の政治談議がだいぶ“勇ましい”ものだったので、A先生が驚かれて、それなら次の合宿で発表せよということになったわけです。
    ここで私たちが“勇ましい”発言をする背景を少しだけ言い訳しますと、今の日本では “勇ましい発言をするのは右側の人”というのが相場になっていますが、私が政治に目覚めた頃、つまり1960年代末は、状況がまったく違っていました。日本でも政治的街頭闘争がありましたし、「人民の武装」を主張する左派が若者たちに影響力を持ってもいました(注1)。そういう時代のセンスを多少なりとも引き摺っていると、今の世では“勇ましい”と受取られるのかもしれません。 
    しかし今日は、なにか “勇ましい”ことを言いたいのではありません。そうではなく、先ずは政治的な対話の必要性について考えてみたいのです。というのは、日本では人々が政治を話題にすることはあまりにも少ないと思われるから。最近ロバート・キャンベルがTVで「日本では電車やバスの中で若者が政治の話をするのを聞いたことがない」と言っていました。
    日本の政治が満足できるものならそれで良いのかもしれない。しかし現実は反対で、 “政治の貧困”が日本の未来を蝕んでいます。だから、私たちも、時折りは政治について対話するほうが良いのではないか。またそういうセンスがなければ、ヘーゲルを読解することも難しいのではないでしょうか。

(注1)西欧のデモクラシーにおいては、「人民の武装」の主張は左派に限られたものではなく、かなり一般的なものである。これは「合衆国憲法」やカント『永遠の平和のために』を想起すれば明らかであろう。

   
二、日本の知識人と政治
    最近マルクス・ガブリエルが、日本のメディアで、「哲学者は政治に参加すべき」、「哲学者には対話を義務づけるべき」と発言していますが(注2)、これもはっきり言えば 、“日本の知識人は政治的な対話に消極的で、知識人がほんらい果たすべき役割を果たしていない”ということでしょう。
    しかし“政治について対話すべし”というだけでは芸がありませんから、ここでは先ず“なぜ日本の知識人は政治的な対話に消極的なのか”を考えてみます。この点で私が想い出すのは、東北帝大にいたカール・レーヴィットによる日本の知識人の見立てです。

「[日本の学生は]二階建ての家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そして、ヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き来する梯子はどこにあるのだろうかと、疑問に思う。」(『ヨーロッパのニヒリズム』跋文)

    レーヴィットは、先ず日本の知識人の西欧由来の知識と日常の意識や振る舞いとが切断されている点を指摘する。さらに、レーヴィットは「本当のところ、かれら[日本の学生]はあるがままの自分を愛している」とも言います。しかしへーゲルによれば「思想すること(Gedanke)とは、人間のなかのあるがままの傾向性や習慣などを意識にもたらす働き」(Suhrkamp Werke 19 S.370)なのですから、「あるがままの自分を愛している」のでは、思想することは永遠に成立しないでしょう。言い換えると、ヘーゲルのいう意味での「教養」は成立しない。ヘーゲルに学ぶのであれば、自分の日常の意識や振る舞いを「意識にもたらす」という態度は不可欠のはずです。
    このことを踏まえた上で、以下では政治への関りという視点から西欧の精神と近代日本の精神とを比較したいのですが、この際、ヘーゲルのいう「主であること(Herrschaft)」あるいは「自己意識の自由」をメルクマールにしてみようと思います。

(注2)https://president.jp/articles/-/55927 による。

   
三、ヘーゲルは「主であること」・「ストア主義」をどのように把握しているか。
    こういうと、政治の話とヘーゲルの「主であること(Herrschaft)」・「自己意識の自由」にはギャップがあるのでは……、と言われるかもしれない。しかし日本語では「民主主義」とか「人民の人民による人民のため政治」とか言われるが、「デモクラシー」のクラティアは支配すること(Herrschen)であり、「政治」と訳される「ガヴァンメント」も同様でしょう。つまりデモクラシーとは「人々が主であること」のはずですが、この「主であること」は、古代から西欧の精神にその本質的な契機として孕まれていたものではないか?
    そこで、『精神現象学』のIV章「自分自身だという確信の真理」でヘーゲルが「主であること」・「自己意識の自由」をどのように押さえているかを見ることから、考察をはじめましょう (注3)。(以下では「 」で括られた文章は、テキストからの引用であり、[ ]は引用者による補足、〈 〉は引用者による要約です。)

(注3)  IV章の冒頭から「ストア主義」論までについての私の理解は、拙稿http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8448 「デモクラシーの契機としての「精神的貴族主義」は可能か(一)-ヘーゲルの「ストア主義」論」で示した。この拙稿からの抜粋が本稿の以下のヘーゲルに関する記述の元となっている。

   
1. 『精神現象学』の「IV章 A」における主であること(Herrschaft)と奴であること(Knechtschaft)の把握
    IV章Aの冒頭部では、ヘーゲルは〈二重化する自己意識の統一という概念、すなわち「無限性」の概念は、多くの側面と多くの意義との絡み合いであり、その諸契機は一方では厳格に分析されなくてはならないが、他方では区別のないものとして、反対の意味において、認識せられなくてはならない〉と言い、〈この精神的統一の概念を分析すると、「我々」には承認の運動が現われてくる〉と言います。
    以下ではこれに続く叙述を追っていきますが、金子武蔵訳と対照しやすいように金子が挿入した標題を〔 〕で示しておきます。
〔一 承認の概念〕
    ここで、ヘーゲルは「自己意識の統一」の諸契機の「二重の意味」を指摘します。この個所は、「IV自己意識」の中でも難解なところだと思いますが、それはヘーゲルが言うところの『無限性』あるいは『概念』の展開が前面に出ているからでしょう。これを扱うと長くなりますから、ここではこの箇所の検討は省略します。
    さて、諸契機の「二重の意味」についての論述を経て、ヘーゲルは次のように総括的な把握を提示します。
    〈自己意識は両極[=二つの自己意識]に分解し、各極は各自の規定態を相互に交換して、全く反対の極へと移って行く。各極は他極にとって[推論の]媒語であり、この媒語を介して各極は己れ自身との媒介的関係に入り、また己れ自身と推理的に連結する。両極は互に承認しあっているものであることを互に承認しあっている。〉 そして〈今や、この承認の純粋概念が考察せらるべきである〉とされる。
〔二 承認のための生死を賭する戦い〕
    〈自己意識の絶対的な対象は自我であり、自己意識はこのような直接態においては、個別者(Einzelnes)である。他者は自己意識にとっては否定的なもの、非本質的対象であるが、他者もひとつの自己意識であるから、ひとつの個体(Individuum)がひとつの個体に対立して登場する。〉
    〈各人が自己意識だけの純粋抽象であるのを呈示するのは、自分がいかなる限定的な定在にも、生命にも緊縛されていないのを示すことによってであるから、両者の関係は、両者が生死を賭する戦いによって自分自身の、またお互の証しを立てることとなる。生命を賭さなかった個人も人格として承認せられるが、自立的な自己意識としては承認せられない。〉
    〈しかし死によって証しをすることは、生じてくるはずの真理のみならず、各人の自分自身だという確信をも撤廃してしまう。なぜなら死は意識の自然的な否定であって、承認に要求せられている意義を欠いているから。・・・意識は撤廃されたものを保存・維持し、自分の撤廃されたことをも越えて生きるものである。〉
    こうして〈自己意識には生命もまた本質的である〉ことが明らかとなります。
    〈最初にあった単純な自我という直接的な統一の解体によって、一方にはひとつの純粋自己意識が、他方にはひとつの意識が定立せられている。この後者の意識は純粋に自分だけであるのではなく、他方の意識に対して存在する意識としてあり、物であるという形態にある。〉
    〈両方の契機とも本質的ではあるが、両者は最初には等しくなく対立していて、両者の統一への還帰(Reflexion)はまだ生じてはいない。〉
    〈一方は自立的意識であって、この意識にとっては自分だけでの存在が本質であり、他方は非自立的意識であって、この意識にとっては生命ないし他者に対する存在が本質である。前者は主、後者は奴である。〉
    以上でヘーゲルの言う「主であること」のおおよその意味にたどり着いたと言ってよいでしょう。
    それでは「自己意識の自由」のほうはどうでしょうか。ヘーゲルは次のように言います。
    〈思惟において自我は自由である。なぜなら、私は端的に私自身のもとにとどまるから〉
    「自己意識のかかる自由は、自覚的な現象として精神史において登場したときには、・・・ストア主義と呼ばれてきたものである」
    ここまで『精神現象学』 IV章Aの展開を追いかけてきましたが、ここで登場した「ストア主義」とは――『精神現象学』VI(精神)章によれば――[古代ローマの]「法的状態の原理をその抽象的な形式にもたらすところに成り立つ意識」(Suhrkamp版S.386)に他なりません。
   
2. 『哲学史講義』の「ストア主義」把握
    『哲学史講義』では、ヘーゲルは、ストア派の言葉・「賢者はたとえ手かせ足かせにつながれていても自由である。なぜなら彼は恐怖や欲情(Furcht oder Begierde)に心を奪われることなく、自分自身の心にもとづいて行為するからである」を引用した上で、「このように彼は欲情と恐怖に属するすべてのものを自分自身に寄せつけず、自分とは縁(えん)のないものという位置づけを与える」(岩波版全集『哲学史中巻の二』p.207)と言います。
そしてストア派の自由について次のように説明している。

「思惟によって自分を純粋な自分との一致のうちで保持するというこのまったく形式的な原理において、もろもろの特殊な享楽、好悪、激情、利害(Genus, Neigung, Leidenschaft, Interesse)が断念され、自分にはどうでもよいという無関心が生じる。ここにストア派が特徴とする生きる力、内面的な自立性、自分の内なる人格(Charakter)の自由が見られる」(同上p.198)

    このように西欧の精神は、恐怖や欲情を自己に属さないものと見做し、それらを断念して自己の内面的な自立性・Charakterを保持することこそが「自由」である、と考える。これは日本で言われる「自由」――これについては後ほど検討しますーーとは違ったものである点は押えておくべきでしょう。
   
四、「自由」という思想の近代への「継承」
    このような古代ローマの”ストア主義的”な自由、あるいは「自己意識の自由」という精神の契機が、近代にまで「継承」されていることは、近代の思想家の次のような言葉を想い起せば、容易に想像できるでしょう。

「精神的自由のみが、人間を真に自己の主人たらしめる。これを加える理由は、単なる欲望の衝動は人間を奴隷状態に落とすものであり、自分の制定した法への服従が自由だからである。」(ルソー『社会契約論』第一編第八章)

    カントにも以下の言葉があります。

「純粋な、かつそのようなものとして実践的な理性が、みずから[道徳的―引用者]法則を与えることが積極的な意味における自由である」(カント『アカデミー版全集』 V. S.33)。
「自由は……、ただわれわれにおける消極的な特性、すなわち、いかなる感性的規定根拠によっても行為へと強要されないという特性としてだけ、われわれに知られるもの」(同上、VI. S.226)である。
「人間の選択意志は、衝動によって確かに触発されるが、しかし規定されはしない」(同上、VI. S.213)。
「選択意志の自由とは、感性的衝動による規定からの独立」(同上、VI. S.213)しているということである。

    ヘーゲルは、このような”ストア主義的”な自由、あるいは「自己意識の自由」という精神の契機の「継承」をどのように把握しているのか。『精神現象学』 VI章B-I-aでの「高貴な意識と下賤な意識」の個所などは、”ストア主義的”な主であることと”スケプシス主義”的な奴であることを「継承」するものとして読むことができると思いますが、これを読解するのは難しい。それでこれは断念して、代わりに現代の政治学者の――古代から近代への精神の契機の継承についての――指摘を聴くことにしましょう。
   
    マウリツィオ・ヴィローリ(『パトリオティズムとナショナリズム』佐藤 瑠威/佐藤 真喜子訳)は、古典古代が現代に伝えたものは、「パトリアをレスプブリカ (respublica)、公共の自由、公共善と同一視する見方が根底にある、政治的パトリオティズム」(p.40)であるとして、次のように言います。

「ローマ共和主義的パトリオティズムという慣用句は、スコラ哲学者達の著作に多少残った。……アクィナスはキケロを多数引用し、祖国愛は「同胞市民や祖国の友人達のための、愛情に満ちた保護と慈善の奉仕から……成る、敬虔の形をとると強調している。」(p.42)
「パトリアという、古代ローマ時代の古典語の意味が完全に再発見され、パトリオティズムという、共和主義に特有な言葉の根拠を形成するに至るのは、イタリアの都市共和国の知的な背景においてであった。」(p.46)
そしてマキァヴェリについては、彼の言うところの「徳(virtu)」は「パトリオティズム」を意味しているが、それは「公共の自由への愛が持つ、共和主義的意味においてのパトリオティズム」であるとして、さらに次のように言う。
「マキァヴェリは共和政体の文化的同質性を守ることには全く関心がなく、その言語の純粋性を守ることについてはさらに関心がない。」(p.63)
「マキァヴェリにとって政治制度と政治的価値は、社会習慣と生活様式から分かつことができないものである。実際に彼は、ある特有な生活様式、文化である、「自由に生きること」(vivere libero、すなわちVita libera)を、別の生活様式、文化である、「隷属して生きること」(vivere servo)と対立するものとして語っている。パトリアとは、ネイションのようにひとつの生活様式と文化ではある。だがそれは自由により鼓舞される、ある特別な生活様式なのである。」 (p.63-64)

    そして「近代の共和主義」と古代の思想との関係については、次のように把握されています。

「近代の共和主義、特に市民権とパトリオティズムに関する共和主義の理論は、アリストテレスよりも、古代ローマの共和主義の著作家に負うところのほうがはるかに大きい。共同体の自治を論じたイタリアの人文主義、およびそれ以前の理論家達、そしてまた市民権の理論を再構築した法学者達の文献を入念に研究してみるならば、彼らの諸理論はほとんど全て、古代ローマに起源を持つことが非常に明白になる」(p.297-298) 。

    以上のようなヴィローリの指摘を踏まえると、「自己意識の自由」という精神の契機は古代ローマから近代へと「継承」されたと理解してもよいでしょう。ただし、前の時代のものの「継承」には難しい問題がありそうで、それは、ほとんどの場合、新しい時代の「創造」や「幻想」と結びついていると思われる。それで「継承」にはカギ括弧をつけておいたのですが、私にはこの問題を扱うだけの知識がないので、これ以上の発言はできません。
    ところで、近代革命における古代ローマの影響と言うと、マルクス『ブリュメール18日』冒頭の「一七八九ー一八一四年の革命はローマ共和国の服装とローマ帝国の服装をかわるがわる身にまとった」etc. という指摘が想い起されるかもしれません。ここで、このマルクスの指摘を検討することができれば良いのですが、これも、簡単な作業ではありませんから、やめておきます。
   
五、アンシャン・レジーム末期における「自由」と「変革主体」
   
1.パトリオット派の登場
    さて、アンシャン・レジーム末期、最初に形成された「変革主体」は「パトリオット」と称されていましたが、この時期の「パトリオット」について柴田三千雄(『フランス革命はなぜ起こったか』)は次のように言います。

「この[パトリの]観念は古くからあるが、啓蒙思想は、これに普遍主義的な自由と理性の観念を結びつけた。そのため、自由と理性が支配する地しかパトリではありえないし、パトリをもつことは人類共通の幸福となる。これはコスモポリタニズムであって、一九世紀以降のナショナリズムとは違う。」(p.167-168)

    柴田は、フランスのパトリオット派のなかで重要な位置を占めたグループとしてパリの「三〇人委員会」を挙げています。

「[パリ高等法院評定官アドリアン・デュポールの館での]会合がはじまったのは、一七八八年九月二五日のパリ高等法院の決定が第三身分の失望をかい、それに対抗して全国三部会の構成の代案を出す運動がいっせいにおこったなかでのことであった。この決定が、それまで高等法院の内部にあった二つの潮流を露呈させ、社団的権益の擁護のため王政に抵抗する旧世代から、改革派の新世代が分裂したのである。」(p.174)

    このグループの構成員を見ると、名前が判明する五五名のメンバーのうち、平民(上層ブルジョワ)は五名で、他は貴族である。そのうち二四名は高等法院メンバーの「法服貴族」であり、二三名は「帯剣貴族」である。しかもは、「帯剣貴族」は、「一人(ミラボー)を除いて一五世紀以前まで家系をさかのぼりうる名門貴族だった」(p.175)。

「名門の大貴族が多数加わっているのは、じつは彼らが不遇の身をかこっていたからであった。というのは、ルイ一四世以来、官僚機構を整備しはじめた王政は、地方貴族を地方長官その他の官僚に起用して、伝統的な大貴族を敬遠した。また近年の宮廷では、王妃マリ・アントワネット側近の軽薄な貴族が、収入と権力をあわせた宮廷職にありついて、幅をきかせていた。テュルゴとコネのあった貴族は、とくに不遇だった。このため、名門大貴族のなかからアメリカ独立に感激し、国制の改革に取り組む体制批判の青年貴族たちが多数輩出した(注4)。」(p.175)

(注4)、『精神現象学』の「高貴な意識」に関する叙述では、「自己意識の極度に教養された自由の気高さ(貴族)」(Suhrkamp版S.386)が登場する。この柴田の叙述はヘーゲルのそれと必ずしも対応するものではないが、「自由の貴族」が革命の初期に「変革主体」の重要な一翼をなしていたことは事実であろう。また『精神現象学』では、「下賤な意識」については、「この意識は支配権力のうちには、対自存在の束縛と抑圧とを見てとり、 したがって支配者を憎悪する」(同上、S.372)と言われているが、 これは次に見る「欲求不満の作家たち」(シャルチエ)=「下賤の徒」に対応していると思われる。

   
2. 「欲求不満の作家たち」
    次に知識人たちの動向ですが、ここからは専らロジェ・シャルチエ(『フランス革命の文化的起源』松浦義弘訳)によってアンシャン・レジーム下の状況を見ることにします。シャルチエは〈知識人の地位と期待とのあいだの緊張は、文芸の世界ではことにするどい形態をとった〉と言います。一七六〇年以後、自分たちが期待していた地位や収入から排除された作家は数多く、少ない「職」は、一七二〇年代・三〇年代に生まれた作家の世代によって独占されてしまっていた。

「文芸の世界の持てるものと、社会的地位のない作家とのあいだにできたこの溝は、重大な結果をもたらす。一方で、社会的地位も職もない作家がふえ……、糊口をしのぐ仕事に身をささげざるをえなくなる。他方で……、すでに地位をえた作家の側は、「文芸にかかわる下賤の徒」をはげしく軽蔑し……、「どん底のルソーたち」の側は、……地位を独占している者たちをひどく恨むことになった。」(p.291)
そして、欲求不満の作家たちは、あらゆる社会的不幸を政治のせいにするという、当時よくみられたメカニズムによって、「国王や宮廷や大臣たちが……彼らの人生を挫折させた第一の責任者」であると考えるようになる。こうして、「誹謗文作者が注文で書いた文章のなかに、しばしば旧秩序にたいするはげしい憎悪がみられるということになる」(同上)。

   
3.ブルジョアと民衆の政治的な「主体」化をもたらしたものは何か?
    以上は、貴族と上層ブルジョア、そして知識人の話ですが、それでは中流以下のブルジョアや民衆のその後のラディカルな行動はどのような思想で裏付けられたのか。またどのようにして彼らは王権やキリスト教の権威から脱却できたのか。
    後者の問いはともかく、前者の問いに答えるのは容易ではないようです。中流以下のブルジョアや民衆が啓蒙思想を受容する機会はそう多くなかったので、“啓蒙思想がブルジョアや民衆に波及した”と、安易に言うわけにはいかない (注5)。
    シャルチエは、「フランス革命をひきおこしたのは啓蒙思想である」という古典的解釈に対して、「むしろ、フランス革命こそが啓蒙思想をでっちあげたのだ、と考えるべきなのではないだろうか」(p.8-9)と問い、〈フランス革命という事件とその起源が、はっきりと分かれていて、両者を因果関係によってむすびつけることができる〉という前提そのものに疑問を投げかけ(p.301)、さらにアルフォンス・デュプロンのつぎのような見解のほうを「重視したいという気になってくる」と言う。

「啓蒙の世界とフランス革命は、独立した、つまり、神話も宗教ももたない人間からなる社会……が確立されるプロセスという、より全体的なプロセスにかかわるふたつの表現(あるいは付帯現象)のようなものとして位置づけられる。両者のあいだの真の因果関係は、それら固有の現象よりもよりひろく、より全体的な歴史現象に、そのように共通してかかわっているという関係にもとめられるのである。」(p.303)

    シャルチエはまた、パスカルの言葉・「人間は、生まれながらに信じやすく、疑いぶかく、臆病で、大胆である」を引用した上で、「十八世紀のどこかの時点で、王の身体の表象にたいする関係において、フランス人の疑いぶかさが信じやすさに優越し、大胆さが臆病さに優越するにいたったのだ」(p.205)とも言います。こう言われると何か誤魔化されているような気もしますが、“革命は、けっきょくフランス人が自ら持ちあわせている「疑いぶかさ」と「大胆さ」によって導かれた”ということであれば、納得するしかないのか……、とも思う。
    もっとも、シャルチエはつぎのような指摘もしています。

「非キリスト教化は、非神聖化を意味しない……。……伝統的にキリスト教信仰とむすびついてきた感情的・精神的エネルギーが、新しい価値(家族や祖国愛や市民にかかわる価値)に注ぎこまれるようになる……。聖書が引証されるかわりに、古典古代のローマやギリシャがしたがうべき基準とされたことによって、この聖性の移行に、語彙とともに美学が提供された。たとえば、絵画の新しいパラダイム―― ……ダヴィドの主要な作品に明確にあらわれているようなパラダイム――は、ディドロによってあたえられた、市民的美徳の称揚のために役立つ表象についての考え方……を立証するものとなっている。アンシャン・レジームの最後の一〇年間のダヴィドの絵は、古典古代や祖国愛や政治にかかわる主題の選択によって、……観客の心に感動や熱狂や自己犠牲をうみだすことをねらっており、このような感情の状態によって、審美的経験が宗教的経験のようなものになるのである。」(p.261)

    これに従えば、民衆の思想においても古代からの精神の「継承」という視点にはなにがしかの有効性がある、ということになるでしょう。

(注5) シャルチエは『百科全書』の予約者の資料にもとづいて次のように言う。「この刊行物は、その価格からして……名士にしか買えないのはあきらかであるが、購入者のなかでは大商人はきわめて少数であって、この書物の真の読者を構成するのは、彼らよりもずっと伝統的エリート(聖職者、軍人貴族、高等法院官僚、法律家、自由業の人びと)の社会だった」(p.127)。

   
4. どのようにしてキリスト教と王権の権威からの脱却できたのか
    他方で、〈どのようにしてキリスト教や王権の権威から脱却できたのか〉という疑問に対するシャルチエの答えは大変興味深いのですが、それをすべて扱うと長くなるので、ここでは「サロン」の成立がもたらした状況の変化だけを記して、他の点は(注6)で記載することにします。
    アンシャン・レジーム末期には「サロン」を中心とした社会的・知的エリートの自律的な文化圏の出現したわけですが、シャルチエによれば、この文化圏を特徴づけているのは、ふたつの特性で、「第一は、美的感覚の領域にかんする宮廷の決定やアカデミー当局の決定によってのみ支配されないような、批判的判断や文芸上の実践をおこなう公衆が形成されたこと」であり、「第二は、保護-被保護関係の旧来の形態によって課されたさまざまな従属や序列のなかにあって、そしてしばしばそれらの従属や序列にさからって、固有の論理をもつ文化財市場が確立したこと」(p.235)である。
    一方では美にかんして「考え方が対決しうるような空間」が、他方では「公衆の判断……が芸術作品の評価を支配すべき最高の権威と考えられるような空間」が成立しはじめる。したがって、「アカデミーの役人によって準備された展覧会は、……当初の意図からすればやや逆説的に、……論争に道をひらくことになった」(p.243)。
    こうして「旧来の権威は美的感覚を決定する独占権をうしないかねなくなり」、「既存の美の序列が混乱しかねなくなる」(同上)。「文芸上の公共圏」の形成は、「文化的実践における深刻な変容をもたらすものであった」が、この実践は「公的な場にうつされ、ついには政治性をつよく帯びることになる」(p.244)。「批判の習慣が獲得されると、思想と行動のどのような領域も、自由な検討からまぬがれることはありえなく」なり、「宗教の神秘も国家の神秘も、その点では同様だった」(p.246)。
   こうして人々のキリスト教や王権の権威からの脱却は決定的になったのでしょう。
    さて以上で見てきたことを振り返ると、貴族、上流ブルジョア、そして知識人については、「自己意識の自由」という精神の契機の「継承」もあり、アンシャン・レジームのほころびのなかで、彼らが文化的な領域で「主体」化し、そこから政治的な「主体」化に進んでいったくことが了解できるでしょう。それに対して、中流以下のブルジョアや民衆の政治的「主体」化がどのように達成されたかは、必ずしも明らかではない。しかし革命の展開のなかでは――「バスティーユ襲撃」や「ヴェルサイユ行進」、さらに「テュイルリー宮殿襲撃」などを想起すれば明らかなように――、中流以下のブルジョアや民衆も政治的に「主体」化していったことは否定しようがない。すなわちこうした展開のなかでは民衆自身が、「自分たちが主であること」を実現しようとした。

(注6)シャルチエは、シェル・ド・セルトーなどの仮説の助けをかりて、人々の教会からの離反の理由を提示している。
「司祭のあいだのジャンセニスムによって、二重の意味での非キリスト教化がもたらされるのである。まず第一に、厳格な精神的準備ののちにしか信徒に聖体拝領や罪の許しをみとめず、信仰の神秘を認識するとともにふかく悔俊することを要求するような、秘蹟にかかわる厳格主義によって、ジャンセニストの司祭たちは、おそらく、自分たちに要求された真の回心をおこなうことができなかったり、あるいはそれを躊躇する多くの悔俊者を、告解や聖体の秘蹟からとおざけてしまった。第二に、世俗の権力が対立する敵対者の双方のために動員されたことによって(ジャンセニストの側には高等法院、反ジャンセニストの高位聖職者やイエズス会士の側には国王や国務諮問会議)、教義にかんする司牧の紛争がまったく政治的な闘争に変化した。こうして、聖職者の権威と信仰への信頼に、重大な亀裂が生ぜざるをえなくなったのである。ジャンセニストの司祭とイエズス会の宣教師が専念するとげとげしいたたかいは、すべて、敵の宗教上の正統性を抹殺し、敵のキリスト教徒としての資格を否定し、敵を異端としてあつかおうとするものであった。信仰という絶対的なものが、妥協不可能な敵対集団のあいだで政治色をあたえられ、操作や論議の対象となって、論議されうるがゆえに拒絶されることもありうる、たんなる意見に変容するのだ。こうして、教義や規律の一体性は決定的にうしなわれ、信仰にかんする疑念や後退や離反の余地がおおきくひらかれるのである。」(p.158)
王の権威に関しては、シャルチエは、「王のふたつの身体」――「死すべき生身の身体」と、「けっして死滅しない政治的身体」――の問題に注目している(p.190-192)。もともと、王の葬儀の行列では、先君の人形(ひとがた)に中心的な役割があたえられ、最後に「王冠、笏、司直の手が人形(ひとがた)からとりさられ、先君の奉公人たちがちりぢりになる」ことで葬儀は完了した。「人形(ひとがた)は、けっして死滅することのない王の政治的身体という、ふつうは見ることのできないものをしめし」ており、「王は、その前任者の埋葬までは、そして彼自身の聖別式と戴冠式までは、不完全なものと考えられていた」。しかし「ルイ十三世は、一六一〇年に式典の秩序をかき乱し」、「王政についての祭礼が確立される以前に、王の政治的身体はその生身の身体に吸収され、それらを区別することは考えられないものとなる」。「一六一〇年の葬儀での新機軸によって準備された、国家式典から宮廷社会への移行は、主権をめぐる儀礼への民衆の参加をすべて抹消し、王権の概念を根本的に変えたのであり、したがってそれは、民衆と王とを遠ざけることになるきわめて重要な段階であった」。
「王の葬儀の式典を基礎づけていた表象概念は、イメージ(王の葬儀のばあいには人形(ひとがた)……)が、不在の物あるいは目にみえない実体(ここでは、王の永続的な威光)を象徴的に表現することができる、という原理に依拠するものであった。一方、[ルイ十三世以降の――引用者]政治的身体と歴史上の王の身体との統合を基礎づけていた表象概念は、記号そのもののなかにその記号があらわすものが存在している」。これによって「王の身体は秘蹟の聖体のようなものとなったのである。」(p.196-197)
「あえて仮説を提示するとすれば、以下のようになろう。……君主の図像に秘蹟の側面を付与していた聖体モデルが、宗教的な無関心が進行するとともにその有効性をうしなう。また、王がその臣民のあいだに姿を見せることがしだいに少なくなるとともに、国家の式典がまれになったために……、臣民が王と共通の歴史に参加しているという感覚がよわまる。さらに、批判的な心性が……進展したことによって、近寄りがたく威嚇的な国家の神秘と長いあいだむすびついていた絶対的な権威がゆるがされる。」(p.204-205)

   
六、日本近代における「主であること(Herrschaft)」
   
1.近代日本の民衆運動
    柴田三千雄は、1789年のフランスの「革命」を「江戸城に、江戸の町人の群れが乱入して、政治に介入するようなもの」(柴田前掲書p.224)と言っていますが、日本でも18世紀には農民層の分解が進行して「打ち毀し」が起こるようになり、さらに19世紀に入ると天保の頃からは、「世直し」を掲げるようなラディカルな民衆運動が起きています。しかしこの「世直し」も、貧困層が富裕層を対象にして、借金の棒引きや質流れした土地の返還を求め或いは金品を求める、という社会運動であり、直接に政治権力と対決するものでありませんでした(注7)。
    つまり89年以降のフランスの民衆運動が「政治に介入する」ものであり、さらに政治権力を打倒するものへと発展していったのに対して、近世末期の日本の民衆運動は政治的な方向には発展していきません。そしてそのような日本の民衆運動の性格は、次に見るように、近代にも引き継がれていきます。
    近代日本で最大の民衆蜂起は、明治4年からの「新政反対一揆」ですが、それは大規模かつラディカルであったものの、みずから権力を掌握しようとはせず、旧藩主の復帰(旧藩政の復活)を求めるものでした (注8)。
    その後、自由民権運動が起りますが、これは士族を主体とするものであり、それに豪農層が加わることはあっても、一般民衆は演説会の「御客」で、官憲を罵倒する壮士に喝采を送るのがせいぜいでした (注9)。
    次の「大正デモクラシー」の時代には、民衆の政治化も始まりますが、その政治化の根底にあるのは――出発点の「日比谷焼討事件」(1905年)が示しているように――民衆が対外拡張する帝国に幻想の中で自己を重ね合わせるという事態です (注10)。
    その対外拡張の果てに日本帝国は破綻し、憲法の条文上は「国民主権」が実現しますが、それは民衆自身の力によって実現されたものではないから、「主権者」は、実際には「主」ではなく、また「主であること」とは何か、を意識してもいません。

(注7) 拙稿 http://pubspace-x.net/pubspace/archives/5591 「「戦前回帰」を考える(八)――明治維新期の「世直し一揆」」を参照されたい。
(注8) 拙稿 http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6363 「「戦前回帰」を考える(十)――「新政反対一揆」」を参照されたい。
(注9) 拙稿http://pubspace-x.net/pubspace/archives/5825 「「戦前回帰」を考える(九)――「困民党」などの自由民権期の民衆運動」を参照されたい。
(注10) 拙稿 http://pubspace-x.net/pubspace/archives/7040 「「戦前回帰」を考える(十三)――近代日本「民衆」の政治上の三つの意識」を参照されたい。

   
2. 「主であること」と「武士のエートス」
    もちろんかつての日本には、「主であること」を意識している人々もいました。「主であること」の核心にヘーゲルのいう〈生死を賭する戦いによって自分自身の、またお互の証しを立てる〉ことがあるとすれば、これを日本史において体現しているのが「武士」であることは言うまでもないでしょう。また「主であること」を政治支配の主体として理解するとしても、武家は鎌倉以来政治の主体でしたから、明治の初めまでは、政治主体(主権者)としての決意と能力を持った人たちがいたわけです。
    これは、私の意見と言うより、丸山真男や神島二郎の受け売りですから、ここでは彼らの言うところを記しておきましょう(注11)。
    丸山は、室町時代中期の「朝倉敏景十七箇条」について次のように評価します。

「儀礼主義・フォーマリズムと結びついた儒教的な「道」から、最も鮮明に戦国武士道を分かつのは、この具体的状況に即したリアルな比較考量と、<それに基づく主体的な>決断の尊重である。」(『丸山眞男講義録5. 1965』 p.188)
「朝倉十七箇条を貫いているのはきわめて積極的な現実主義であり、・・・戦闘的で行動的なリアリズムの只中から、「道理」の精神がふたたび自覚されてくる。」(同上)
「この「道理」の精神もまた、先に述べた「器用」を尊ぶ精神、および「臨機応変」の精神などとともに、戦国時代において鼓動するリズムの一つである。・・・南北朝から室町前半期にいったん見失われた御成敗式目の精神が、違った状況下で生き生きと自覚され、リヴァイヴァルしてきている」(同上)

    また幕末における武士のエートスについては、丸山や神島は次のように評価しています。

「幕末の動乱のなかにダイナミックな戦国状況がいわば再現したとき、この戦闘者としての武士のエートスはもう一度、最後の沸騰の機会を与えられるのである。」(同上、p.247)
「動きのとれない自然法的規範の拘束と行動の定型化から自由な<こうした武士のエートスのよみがえりによる>兵学的=軍事的リアリズムは、power politicsの波を乗り切るのに有利だった。」(同上、p.252)
「兵学的リアリズムが、革命の指導者をして、まさに強いられた開国を……みごと主体的にうけとめさせ、それがほかならぬ「開国進取」の政策となる。」(神島『近代日本の精神構造』p.187)

   しかし「武士のエートス」を体現した者たちが作り出した明治新体制は、武士という身分を解体しましたから、皮肉なことに明治になると「武士のエートス」も解体されて、知識層からも「主であること」は失われていきます。

(注11) 拙稿 http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8348 「(続)「武士のエートス」とその喪失を考える」を参照されたい。
なお、武士の場合は、「その自我領が個人(小家族!)ではなく「家」(観念的大家族)にあった」(神島二郎『近代日本の精神構造』、p.260)点には留意すべきであろう。

   
3. 「武士のエートス」の解体と「欲望自然主義」の登場
    それでは、武士的エートスに代わって登場したものは何だったのか?神島二郎は次のように言います。

「明治と大正以後とではその[=献身の]主体的契機がことなっており、明治期においてはそれが武士的エトスであったのにたいして、大正以後においては欲望自然主義であったことが注意されなければならぬ。」(『近代日本の精神構造』、p.203)

    神島は、高山樗牛を念頭に置いて、「欲望自然主義」の成立過程を跡付けるのですが、樗牛は「美的生活を論ず」(明治34年)において「幸福とは何ぞや」と問い、「本能の滿足、即ち是れのみ」と答え、さらに「本能とは何ぞや」と問い、「人性本然の要求是れ也」と答える。そして「人性本然の要求を滿足せしむるもの」を「美的生活」と定義する。しかし樗牛のいう「本能なるもの」は性欲や恋愛ばかりではない。「古の忠臣義士、孝子烈婦の遺したる幾多の美談」も、一種の「美的行爲」(=「本能の滿足」)である。また、「眞理其物の考察」を「本來の目的を遺却」して「無上の樂み」となすのも「美的生活」であり、「守錢奴」さえも「美的生活中の人」である。(注12)。
    しかしこのように「欲望に従うことが自由である」という様に理解された「自由」は、西欧思想からすれば、「奴隷の自由」でしかありません。例えばヘーゲルは「我意は、個別態に執着して奴隷の境涯の内部にとどまるところの自由である」(『精神現象学』Suhrkamp版S.157)と言います。

(注12) 「欲望自然主義」に関しては、次のふたつの拙稿を参照されたい。http://pubspace-x.net/pubspace/archives/7946 「近代日本で「個人」と「市民社会」は成立したのか?」、http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8122 「日本的な〈わたし〉の問題」。

   
4.最後に
    このように近代日本では、「主であること(Herrschaft)」を具えていた武士の「エートス」が解体した後、知識層においても支配的な精神は「欲望自然主義」となりましたから、「主であること」は近代日本のほとんど何処にも――したがって「民主主義」派においても――存在し得ないことになります。
    1960年代の日本では、『戦後民主主義』には根本的な欠陥があるということが、ある程度は感じられていて、鶴見俊輔は「私は戦後を、ニセの民主主義の時代だと思う」と言い、丸山真男は「戦後民主主義の虚妄性」や民主主義における「精神的貴族主義」の必要性に言及しました(注13)。この日本の「民主主義」の「ニセモノ性」、「虚妄性」の底にあるものこそ、人々の「主であること(Herrschaft)」の欠如ではないか。
    日本の「民主主義」派はいまは没落しつつありますが、これも「民主主義」派に自分たちに対する批判的認識――丸山や鶴見にはあった認識――が欠けていることと無関係ではないはずです。自分たちに対する批判的な考察こそ、今日の日本の「民主主義」派に――そして『主権者』全般に――必要なことだと思われますが、日本の「民主主義」なるものを、「デモクラシー」と比較して、批判的に考察するならば、そこには「主であること」という契機の欠如が見出されるのではないか。
   もっともこれは“「奴」ではなく、「主」であれ!”ということではない。なぜなら、「自己意識には純粋な自己意識と同様に生命もまた本質的である」(『精神現象学』 Suhrkamp版S.150)のですから。

(注13) 鶴見の発言は「二十四年目の「八月十五日」」(1968年8月、『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』所収、p.211)のものである。また丸山の発言のうち、「戦後民主主義の虚妄性」への言及は「〔増補版〕現代政治の思想と行動」(1964年)でのものであり、「精神的貴族主義」についての発言は、「一月一三日丸山眞男先生速記録」(1959年、『丸山眞男集別集第二巻』所収、p.198およびp.199。)による。

   
(そうまちはる:公共空間X同人)
   
(pubspace-x10037,2023.05.25)