続 身体の変容8 ディドロ – ゲーテ – ヘーゲル

高橋一行

 
   本稿を次の順番で書いていく。
1 ヘーゲル『精神現象学』におけるディドロ『ラモーの甥』の影響
2 ヘーゲルには身体論がないという批判について
3 『精神現象学』の無限判断論、人相論・頭蓋論
4 ディドロ『絵画について』、ゲーテ『色彩論』、ヘーゲル『美学講義』
5 『美学講義』における無限判断論、人相論・頭蓋論
6 ディドロとヘーゲルの自然哲学
7 ディドロの著作について、自然哲学から『セネカ論』まで
 
1 ヘーゲル『精神現象学』におけるディドロ『ラモーの甥』の影響
   『ラモーの甥』はフランスで知られるようになる以前に、ロシアのエルミタージュ図書館に保管されていた手稿が、それに興味を抱いたシラーを経てゲーテの手に渡り、翻訳がなされ、出版された。1805年のことである。そしてヘーゲルがそれを読み、1807に刊行された『精神現象学』の中で引用されたのである。
   この『ラモーの甥』はヘーゲル『精神現象学』にとって特別な書であった。その引用は『精神現象学』の「精神」章の「自分から疎遠になった精神の世界」にある。「「音楽家との語らい」と訳書には見出しがある。ここでヘーゲルはディドロの『ラモーの甥』を参照したことを明記している。ヘーゲルは多くの場合、参照先を明示せずに引用するので、これは本当に貴重なことである。
   主人公の「彼」は、大作曲家ラモーの甥であり、自らも音楽家なのだが、実質的にホームレスである。彼は哲学者の「私」に、支離滅裂な話をし出す。ヘーゲルは「音楽家の狂気」という表現をする(『精神現象学』p.828)。「彼」は、社会の欺瞞を、妄言を繰り広げつつ暴こうとするのである。一方「私」は既成の秩序を守る常識人であり、ヘーゲルによって「物静かな意識」と言われる(同)。このふたりの対話が『ラモーの甥』の世界を創り出す。
   「彼」は非道徳的な立場であることを自認し、社会的な掟を放棄していると言う。「私」は欲望から逃れる自由を説いていて、「彼」に激怒する。
   しかしここで実は「私」の方が、社会の矛盾に無自覚であるのかもしれず、分裂した意識の言葉を語る「彼」の方が真実に近いと言うことができる。
   ヘーゲルはここで「転倒」という言葉を使う。「高貴なもの、善なるものと呼ばれるものがその本質において、自分自身の転倒であり、さかしまである」(同p.829)。分裂、対立と転倒がヘーゲルの『精神現象学』のこの箇所でのテーマである。
   大橋完太郎は、そのディドロを論じた著書において、ゲーテを通じたヘーゲルへの流れで示されたディドロを高く評価する。それは萌芽状態の弁証法である。対立した意識が議論を経て、高まっていくのである。小説では、両者の対立は解決することなく、両者は離別するのであるが、読者においては、思索が深まることが期待されるからである。
   さて、エンゲルスが『反デューリング論』でディドロを褒めている。すなわち、エンゲルスが強調するディドロは、「弁証法の傑作」である。『反デューリング論』の「序説・総論」と『ユートピアから科学へ』の「弁証法的唯物論」の節にそう書いてある。もっとも後者はそもそも前者の抜き書きで作られているので、文言が前者と完全に同じということになる。私が、わざわざ後者の本をここで挙げたのは、この本は社会主義文献の内で最も読まれた本であると言われているからである(大内兵衛約の訳者序)。つまりエンゲルスがディドロを褒めていることは、またディドロの考えが如何にマルクス主義に近いものであるかということは世に知られていることだということになる。
   また一方でマルクスがディドロを好んだということについても良く知られている(注1)。マルクスが1869年4月15日、エンゲルスに宛てた手紙の中で、ディドロが高く評価されている。マルクスはそこでディドロの『ラモーの甥』を「比類なき傑作」と呼んでいる。
   マルクスがドイツ観念論とイギリス経済学とフランス唯物論から出てきたという一般常識に照らせば、このことは良く分かる。
 
2 ヘーゲルには身体論がないという批判について
   大橋完太郎によれば、ディドロの考えは抽象的にヘーゲルに受け継がれる。しかし重要なのは、ディドロの身体論であると大橋は考える。
   大橋のヘーゲル観は、一般的なものかもしれない。つまりヘーゲルは意識のレベルでディドロの主張を受け止め、それを精神の問題として論じた。しかしそこには身体性が欠けているということなのである。
   ヘーゲルは『精神現象学』において、「確かに『ラモーの甥』の構造の基本的な要素をかなりの程度正確に把握している。だが同時にそれは、ディドロの思想における本質的ないくつかの要素を見逃しているところに成立しているのではないだろうか」と大橋は問う(大橋 p.8)。その要素とは身体であり、動く身体を持つ人間である。
   つまり、唯物論的な意味での「身体」という位相に注目すべきではないか。「身体」という審級の絶えざる媒介のなかにディドロの思想の核はあるのではないか。このように大橋は問う。
   身体がないという大橋の批判は本質的なものだ。ヘーゲルはここで意図的に身体性を捨象したと批判されている。
  

「ヘーゲルは観念を対話=弁証法の舞台上に乗せようと試みた。けれども、ディドロの思考において舞台に上がるべき存在は人間に他ならない。そうして、ディドロにとって人間とは、物質論に基づいた生理的原則に則って、動く身体無しで考えることはできない」(同p.8)
「甥ラモーと哲学者という異なる人物は、精神における分裂の様態として回収されてしまう」(同p.14)。
「甥ラモーはそこでは、ヘーゲルによって、主人と奴隷の弁証法を暗示した存在だと見なされている」(同p.28)。

 
   こういう言い方は何度も繰り返される。しかし大橋に拠れば、『ラモーの甥』で重要なのは、ラモーが身体を用いて、様々な身振りをし、様々な歌手の歌い方を真似したりするところにある。つまり身体を用いた模倣行為やパントマイムに、この主人公の魅力があり、この小説の主張がある。ラモーはひとりでオペラの芝居をマイムによって演じるのである。大橋は言う。「まさしくパントマイムにおいて、複数の時間性を持った物質から構成される身体は、容易に歴史に統合されることを拒みながら、世界という舞台に、仮面なしに、わが身ひとつを携えて動き続ける」(同p.79)。ここにこの小説の特徴がある。
   しかし大橋の批判は当たっているのか。確かに『精神現象学』においてはそうかもしれないと私は思う。しかし身体はヘーゲルにとって重要な観点ではないか。
   大橋は先行研究を良く精査している。その論点は明確で、的確であると私は思う。しかしそれに対して私は本稿のこのあとで、ヘーゲルは身体を重視した思想家であるという点を強く打ち出したい。
 
3 『精神現象学』の無限判断論、人相論・頭蓋論
   『ラモーの甥』を参照して、ヘーゲルが展開するのは、実は無限判断論である。これはまた、人相論・頭蓋骨論批判として展開される。
   吉田達は、この無限判断論と『ラモーの甥』との関連を調べる。ヘーゲルは,無限判断を通じてディドロという思想家と対決し,彼の思想を『精神現象学』の叙述に批判的に組みこんでいったというのが彼の主張である。
   まず、無限判断について整理しておく。『精神現象学』の理性の章で、人相術と頭蓋論が取り扱われて、そこで「精神はひとつの物である」という判断が得られる。これは「精神とはひとつの骨のようなものである」という頭蓋論の結論から得られたものである(p.346)。
   それが精神の章に入ると、自己は権力と財富という現実的な実在の下にあり、つまりここで「物となった自己」が論じられる(p.826)。こういう議論があって、良心の節で、自我は自我であるという判断が得られる(p.973)(高橋2021 3-6)。
   これらは『精神現象学』の最後の絶対知のところで「三つの頂点」という節が設けられて、そこで「自我は物である」、「物は自我である」、「自我は自我である」という三つに整理される。
   『ラモーの甥』が参照されるのは、この権力と財富の議論のすぐあとである。つまり高貴な自己意識と、俗世界の権力と財冨の間に分裂がある。この分裂の言葉を語る自己意識は、「そのまま絶対の自己同一、絶対の分裂に只中における絶対の自己同一であり、純粋な自己意識が自分自身との間に行う純粋な媒介」だとヘーゲルは説明する。これが「無限判断」である(『精神現象学』p.824f.)。
   そしてさらにこの『ラモーの甥』の議論がなされた後で再び、「この分裂の内において自我にとって他者であるところのものとは、ただ自我自身のみである」と言われる。そしてこれが「無限判断」であるとされるのである(同p.845f.)。
   ここのところを、吉田は次の様に考えている。まず音楽家の自己意識が、「私は私である」という無限判断である。音楽家は孤高の自己意識を自覚して対象化し、同時にそれをおのれ自身としているからである。そしてこの自覚は、自らを何らかのカテゴリーに包摂することを拒否する。音楽家はただの奇人ではなく、新たな社会秩序を生み出せないままに恐怖政治に陥った革命を批判する。そもそもヘーゲルは『精神現象学』の「自分から疎遠になった精神の世界」の章で、フランス絶対王政末期の社会を念頭に置いている。ヘーゲルは『ラモーの甥』の内に、恐怖政治の自己破壊の予兆を読み取る。同時に啓蒙思想の効力をも、この音楽家の無限判断の内に見て取っている。このように吉田は論じる。
   そして、先に書いたように、この議論の前に「物となった自己」という無限判断がある。ここで、骨相学、つまり人間の精神は頭蓋骨の形状で決まっているという考えをヘーゲルは批判しつつ、ここから物は自己であるという無限判断を取り出す。
   この骨相学の議論とディドロの『ラモーの甥』の議論が、このあと統一されると吉田は考えている。
   ここで吉田は『ラモーの甥』の反骨精神に言及する。この反骨精神は、これだけでは、「一方的な決め付けを否定するだけで、無限性を不完全に体現しているに留まる無限判断」に過ぎないのだが、それを「制御して一定の方法に基づいて鍛えたもの」として、『精神現象学』が生まれるのである。
   この節の最後に、私が無限判断について補足すべきと考えるのは次のことである。つまり、『精神現象学』の無限判断の議論において、精神と自然は不器用な仕方で結び付けられている。ディドロの議論がそこに関わる。
   つまり人相論・頭蓋論の発想を批判しつつ、しかしヘーゲルはそこに拘っている。自然と精神を結ぶ原初的な方法が、この無限判断にはあるからだ。このことは後述する。
 
4 ディドロ『絵画について』、ゲーテ『色彩論』、ヘーゲル『美学講義』
   ここでヘーゲルの身体論が取り挙げられる。そもそもディドロのヘーゲルへの影響は、『ラモーの甥』の『精神現象学』への影響に限られるのかということが問われなければならない。
   先に、ヘーゲルは『ラモーの甥』をゲーテの独訳で読んだということを書いたが、ゲーテはさらにディドロの『絵画について』も独訳をし、それをヘーゲルは読んでいる。ここで注意すべきは、ヘーゲルはゲーテの『色彩論』をはじめとする自然科学を扱った著作からの影響を強く受けていて、その影響下でディドロの著作を知ったということである。
   またディドロは先のエンゲルスの評価の通り、弁証法的思考の萌芽を持ち、唯物論の主張をする哲学者なのだが、『百科全書』では「美」の項目も担当している。
   ここは栗原隆の論文を使う。彼はヘーゲルが『美学講義』で、ゲーテを通じたディドロについて言及した個所を引用する。
 

「ゲーテの翻訳した『絵画研究』の中で、すでにディドロはこう言っています。「身体の感触を表現できた人は、大きな力を得たと言えるので、それに太刀打ちできる技術は他にはない。身体に触れないままに、死んだ画家は数知れないし、今後も、数知れぬ画家が身体に触れないままに死んでいくだろう」(『美学講義・下』 p.61、『絵画について』p.32)。

 
   栗原は、ゲーテ『色彩論』、ディドロ『絵画について』、ヘーゲル『美学』と並べて、「身体の感触を表現できた画家」について考察する。
   栗原はまずヘーゲルにおけるゲーテの受容を見ていく。いくつかの著作でヘーゲルはゲーテを引用する。例えば『自然哲学』では、「光の中の闇に関するゲーテの解明は、明快で、根本的で、学識に富む。それなのにどうしてゲーテの解明が世に迎えられ、刺激的な効果を発揮しなかったのかと言えば、その主な理由は疑いもない。彼らは自分たちがあまりにも思慮を欠いて軽率であったことが、あまりにもひどすぎて分かってしまうからである」(『自然哲学』320節注)。
   また最も興味深いのは、『精神哲学』の「感覚論」での引用である。その第25節(翻訳では401節)の補遺には、色彩についての言及がある。これが栗原の調べたところでは、ゲーテ『色彩論』の影響下で書かれている。「私たちはそのような精神的共感を、色、音、匂い、味及びまた触感に対して存在しているものから受け取る。色に関して言えば、厳粛な色もあり、喜ばしい色もあり、燃えるような色もあり、冷たい色もあり、悲しい色もあり、穏やかな色もある。人々はそれ故に、一定の色を、我々の中に現存している気分の記号として選んでいる」。
   自然現象としての色から象徴という精神的なものとしての色が取り扱われる。ヘーゲルの著作で言えば、『自然哲学』から『精神哲学』へと議論が移っていく。そこには「精神は自然よりも高い」というヘーゲル論理学における、ヘーゲル哲学の根本的な発想が一貫して見て取れる。
   かくして考察は、そこからさらに『美学』に進む。そして先に挙げたように、ディドロの絵画論が引用される。この「身体の感触」表現するには、どうするか。ヘーゲルは、油絵が人間の肌の表現には一番向いていると言う。油絵は、繊細で微妙極まる色の融合や上塗りで以って、色の変化を付けることができ、うまく塗れば宝石のような輝きを出すことができると言うのである(『美学講義・下』 p.61)。
   ここに人間の身体を描くことが最も美的感覚の上で望ましいということが論じられる。『百科全書』のディドロと『哲学の百科事典(エンチュクロペディー)』のヘーゲルを、博学多才のゲーテが結ぶ。
   栗原は、「ヘーゲルをヘーゲルにしたのはゲーテだったと言っても過言ではない」とまで言う。色彩論は、自然についての議論であり、しかしそれは自然から精神へと高まる道程の議論であり、かつ美学でもある。
   栗原はここで「感応」という言葉を使う。これは「気分や気持ちと雰囲気とが、精神と自然がひとつになるところに現出する働きに他ならない」。美学において、自然と精神は結び付く。
 
5 『美学講義』における無限判断論、人相論・頭蓋論
   ここで本稿第3節の無限判断の議論が生きてくる。
   石川伊織の論文を使う。『美学』において、『精神現象学』で扱われた人相学と頭蓋論が再び扱われているということを示す論文である。
   『精神現象学』、『自然哲学』、『精神哲学』、『美学』という流れが重要になる。まず若きヘーゲルの書いた『精神現象学』で、自然と精神という対立物が無限判断で結び付き、その後、このあとで詳述するような『自然哲学』と『精神哲学』における、自然と精神の結び付きがあり、それが最後に『美学』で結び付く。そして、『精神現象学』と『美学講義』のどちらにもディドロの影響がある。
   ここに今回の拙論の主題がある。
   先に書いたように、『精神現象学』の無限判断の議論において、精神と自然は不器用な仕方で結び付けられる。
   そして『美学』で再び人相学・頭蓋論への言及がある。若きヘーゲルの『精神現象学』の議論が、『自然哲学』と『精神哲学』を経て、『美学』で再現される。
   人相学・頭蓋論は彫刻論に現れる。ヘーゲルは彫刻の限界を人相学・頭蓋論に即して考察する。彫刻は本質的に人相学・頭蓋論的にならざるを得ない。骨格を造形するからである。そして彫刻から、さらに絵画へと芸術の段階が進むのである。
   造形芸術の第三部「絵画」ではディドロの『絵画について』が引用される。ヘーゲルはディドロとゲーテの議論を肯定する。これは先に吉田達を参照しつつ、書いた通りである。
   ヘーゲルは『美学』を、自然に対する精神の優位という立場からさらに「芸術の哲学」の地位に高めたと石川は言う。
   本稿第2節で、ヘーゲルには身体の議論がないという大橋完太郎の批判をここで再批判したい。ひとつは人相論と頭蓋論である。ここで身体と精神は結び付けられる。またもうひとつは『美学』の身体性である。絵画は身体を描くことに成功する。
   本節の最後に、『自然哲学』と『精神哲学』におけるヘーゲルの身体論を書いておく(高橋2024 ふたつの補遺)。
   「精神は自然よりも高い」という考え方は、ヘーゲル論理学で定式化されて、『自然哲学』と『精神哲学』で具体的に論じられる。ひとつは精神が自然から出現しており、そしてヘーゲル哲学ではあとから来るものの方がレベルが上だということなのである。
   またもうひとつは、そうやって出現した精神は発達しつつも、常に自然性を纏っている。つまりここで考えねばならないのは、精神は常に自然性に捕らわれているということである。精神は自然の制約の下にある。
   もうひとつのポイントは、自然と精神を繋ぐ存在としての、身体の積極的な役割である。ここで身体は自然に属しながらも、精神性を持つのである。これが本稿でヘーゲルの主張として押さえておくべきことである。
 
6 ディドロとヘーゲルの自然哲学
   さらに田口卓臣の初期ディドロ論を詳述する。
   田口は『自然の解釈に関する思索』を分析する。まずこの作品は、『百科全書』で扱われている様々な項目に対して、ディドロが批判的に取り挙げて書き記したものである。そして一般的にこの本は、デカルト的な幾何学主義からベーコン的な実証科学主義へと変化する、そのマニフェストであると見なされている。しかし田口に拠れば、ここで見られるのは、「いわば実証主義的な科学の精神から逸脱していく思考の運動」であり、理性的かつ客観的な法則にそぐわない「例外」であり、「体系に組み込めないものへの敵視」である(田口p.17f.)。自然現象を単一の原理に還元しようとする理論に懐疑を向け(同 第2章)、「極小の偏差に自然の秩序の発出を嗅ぎつける(同 第3章)。そして既成の学説を内側から食い破り、壊乱させ、それを通じて新しい仮設の創出を試みる(同 第4章)。また神の存在を前提する自然観を解体するのである(同 第5章と6章)。
   ここで描かれる自然哲学のディドロは、体系を目指したヘーゲルと正反対のように思われるかもしれないが、しかしヘーゲルの『自然哲学』を読めば、体系からはみ出す夥しい実例にヘーゲルが拘り、それらが体系を壊していく様が見て取れるだろう(高橋2021 3-3)。私はヘーゲルとディドロの発想は似ていると思う。さらに私はヘーゲルがディドロの自然哲学を読んだら、そこに自分と近いものを見い出したのではないかと思うのである。
   さらに大橋完太郎も『自然の解釈に関する思索』を分析する。田口の取り挙げる初期ディドロについては、大橋もその著書の第四部で論じている。第五部には、田口の著書の書名に出てくる「怪物」という言葉も使われている。田口と大橋の主張は重なる。
   さて大橋は、ディドロの発想が化学的だと言う。この著作において、「自然学、生物学、博物学のあらゆる対象を貫いて、物質に内在する諸力を見出す唯物論的一元論の世界観を構成する要素が、化学的な観点の影響のもとに形成されたと考えることができる」と言う(大橋p.230)。
   化学的な発想については、これは加藤尚武がヘーゲルのものだと言っている(加藤2004)。加藤が言うには、ゲーテとヘーゲルの間にスピノザの無限概念が共有されており、そこでは本質と現象、悟性と感性など、対立するものが、生動的に統一される。その考え方の背景には化学の問題が関わっていると加藤は言うのである。つまり対立物の統一というのは、化学反応が下敷きになっている(加藤2004 p.77f.)。
   対立物の統一という考え方は様々に解釈される。それはエンゲルスによって、弁証法のひとつの考え方だとされる。また『精神現象学』においては、それは無限判断論の発想だとも言われる。上述の通り、それは化学的だということにも繋がる。またゲーテ由来のメタモルフォーゼは、自然と精神を統一させる。ヘーゲル論理学なら、それは推理論によってなされるだろう。
   さらにヘーゲル論理学の本質論の中心的な概念である、反射という考え方について、ヘーゲルはゲーテの『色彩論』の議論に通じるものがあると、加藤は言う(加藤2013)。つまり反射というのは、光線が他者という反射面に当たって跳ね返ってくることである(ゲーテ223節、図はp.430)。そしてこの他者から跳ね返ってくるものを自己の内に取り込むというイメージは、個体が他者との共同の中で自己を維持していく生命の在り方を示している。
   加藤はヘーゲルの自然哲学は体系をはみ出すと言う。これは『自然哲学』訳書の解説にある。ヘーゲルは、図式が最初にあって、その中に自然の事象を並べていって体系を創り上げたのではなく、当時の最先端の自然科学の研究成果を取り込んで、膨大な資料を集めて、それを収まり切れないのを承知で吸収し続けたのである。「詰め込み過ぎた箱舟」だとか、「大きな体系という袋が中身でいっぱいになってあちらこちらに穴が開いたり、素材がこぼれだしたりしている」と加藤は『自然哲学』の翻訳に付けた「解説」で言う(加藤1999)。
   膨大な量の記述があり、自然を巨大なシステムと考えるのは、まさにヘーゲル的である。田口は、そこに段差や偏差や剰余を見出すが、しかしシステムというのはそういうものなのである。
   先に、『百科全書』のディドロと『哲学の百科事典(エンチュクロペディー)』のヘーゲルを、博学多才のゲーテが結ぶと書いた。それは本稿第4節においては、美学の議論だったが、ここではそれは自然哲学の話である。
 
7 ディドロの著作について、自然哲学から『セネカ論』まで
   このシリーズの「続 身体の変容6 キケロの「老い」論」を書いたとき、同じローマの哲学者セネカについて、「中川久定の『ディドロ「セネカ論」』を読むと、ヘーゲルはこのディドロの著書を読んでいるのではないか?なんて空想してしまいます」というメールを頂いた(注2)。
   実はヘーゲルのセネカ観は、キケロに対するのと同じく、極めて冷淡である。そこでは「哲学的思索への関心は失われている」とヘーゲルは書く(『ヘーゲル哲学史講義 中巻』p.219)(注3)。
   つまりヘーゲルはディドロからの影響は受けているが、セネカに対しては低い評価しかなく、ディドロがセネカに対して高い評価を与えている、ディドロ晩年の大作『セネカ論』を読んだ形跡は見つからない(注4)。
   さて私は、その「キケロ論」で書いたのだが、ヨーロッパにおいて、キケロの役割は大きい。哲学がギリシアという狭い領域の中で発達し、そこで話されていた言語で記述されたのに対し、キケロたちは、それをラテン語に翻訳していく。そのことによってラテン語を、哲学を語れるレベルにまで磨き上げていったのである。そののちに、ラテン語はヨーロッパの知識人の使う言語となる。そしてさらにギリシアの哲学を世界に広げたのである。セネカもまたそこで重要な役割を担っている。さらに非業の死を遂げるところもキケロと似ている。彼らは政治に巻き込まれた哲学者なのである。
   ディドロは語学に堪能でギリシア語もラテン語もできる。ヨーロッパ哲学の基盤を創ったひとりであるセネカに対する関心は、いわば当然のことである。
   ディドロの生涯については、鷲見洋一に詳しく書いてある。それに拠れば、ディドロは、哲学、自然科学、政治学、芸術論と、恐ろしい程に興味関心が広く、様々なことを論じている。
   しかしそれに対して、ヘーゲルはディドロを満遍なく読んでいるという訳ではない。ディドロの膨大な著作は、ディドロの生前にそれほど世に知られていた訳ではなく、またディドロの生きたフランスよりも、ゲーテを通じて翻訳がなされたドイツの方で先にディドロの評判が上がるという有様で、ヘーゲルの時代にディドロの全容が明らかにされていた訳ではない。だから『ラモーの甥』と『絵画について』のディドロからヘーゲルは影響を受けているが、その他の著作に触れることはない(注5)。
   もうひとつ書いておくべきは、田口や大橋の論じる初期ディドロの自然哲学と、セネカを論ずる晩年のディドロが、まるで別人のもののように思えることである。ギリシア語とラテン語に堪能で、翻訳の仕事もしていたディドロが晩年セネカに向かっていったことは、それはそれで至極当然の成り行きに見える。しかしそれは、初期ディドロの過激な論調の自然哲学論と結び付かないように思えるのである。
   しかしセネカ論でディドロはセネカを分析しつつ、セネカと対決して、自らの主張を強く打ち出す。そしてセネカのほか、ソクラテスやヴォルテールなど、徳を論じた人々の系列の中に自らが位置付けられ、その中に加えられることを望む。
   これはしかし、ニュートンやダランベールやコンディヤックやリンネやビュフォンやモーペルチュイと対決し、それらを批判するというスタイルで夥しい論点を挙げていく初期ディドロのスタイルではないか。初期と晩年と、ディドロは共通のスタイルを貫いている。
   先にも書いたが、ヘーゲルにおけるディドロの影響というテーマは、ヘーゲル研究としてはマイナーなものである。しかしディドロそのものは大物と言うべきで、しかもヘーゲルはディドロをゲーテの訳で読んでいる。三度(みたび)書く。「百科全書」派のディドロと「哲学の百科事典」を書いたヘーゲルを、博学の才人ゲーテが結ぶ。とりわけそれは自然哲学と芸術論に現れている。
 
注 
1 Marx-Engels Correspondence 1869 Letter from Marx to Engels In Manchester
また、この書簡集について、私は以下から情報を得ている。
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1869/letters/69_04_15-abs.htm
2 「公共空間X」同人相馬千春氏からのものである。
3 セネカを哲学者としては評価しないが、しかし『精神現象学』ではストア主義に対しては何度も言及があり、ていねいな分析がなされている。例えば、『ラモーの甥』に言及したところで、「自然の智慧」という言葉が出てくる(同p.829)。これはストア主義を意識した言葉である。
4 『セネカ論』は初版と第二版があり、どちらも長い題が付けられている。第二版は、正式には、『クラウディウスとネロの治世、及びセネカの生き方と著作に関する試論 この哲学者の読書案内』と名付けられている。またこの本については、私は翻訳が入手できず、中川久定を通じて知るのみである。
5 その他に、ヘーゲル初期の「抽象的に考えるのは誰か」という断想に、ディドロの『運命論ジャックとその主人』が参照されている。
 
参考文献(アルファベット順)
ディドロ, D.,『ラモーの甥』本田喜代治、平岡昇訳、岩波書店、1940
—- 『絵画について』佐々木健一訳、岩波書店、2005
—- 「自然の解釈に関する思索」『ディドロ著作集1』小場瀬卓三、平岡昇監修、法政大学出版局、2013
—- 『運命論ジャックとその主人』王寺賢太、田口卓臣訳、白水社、2022
ディドロ, D., &ダランベール, J.L.R., 編『百科全書』桑原武夫編訳、岩波書店、1971
エンゲルス 『反デューリング論1』村田陽一訳、大月書店、1955
—- 『空想より科学へ 社会主義の発展』大内兵衛訳、岩波書店、1946
ゲーテ, J.v. G., 『色彩論』木村直司訳、筑摩書房、2001
ヘーゲル, G.W.F., 「抽象的に考えるのは誰か」『現代思想』1978-12、加藤尚武訳
—- 『精神の現象学(上)(下) ヘーゲル全集4,5』金子武蔵訳、岩波書店, 1971, 2002
—- 『ヘーゲル論理の学』I,II,III山口祐弘訳、作品社、2012、2013
—- 「法の哲学」『ヘーゲル 世界の名著44』藤野渉他訳、中央公論社, 1978
—- 『小論理学(上)(下)』松村一人訳、岩波書店, 1951, 1952 
—- 『自然哲学(上)(下)』加藤尚武訳、岩波書店, 1998, 1999 
—- 『精神哲学(上)(下)』船山信一訳、岩波書店, 1965 
—- 『美学講義(下)』長谷川宏訳、作品社、1996
—- 『哲学史講義(中)』長谷川宏訳、河出書房新社、1993
石川伊織「ヘーゲルの『美学講義(1820/21)』における人相学と頭蓋論をめぐる諸問題」『国際地域研究論集』No.7, 2016
加藤尚武「解説」『自然哲学・下』加藤尚武訳、岩波書店, 1999
—- 「「無限性」の概念史の試み – ゲーテ「スピノザに学ぶ」を資料として -」(初出2004)『加藤尚武著作集5』未来社、2019
—- 「ヘーゲルの個体論とゲーテの色彩論」(初出2013)『加藤尚武著作集5』未来社、2019
栗原隆「色と心 ヘーゲルによるゲーテの『色彩論』の受容をめぐって」『シェリング年報』No.27、2019
中川久定『ディドロの『セネカ論』 初版と第2版とに表現された著者の意識の構造にかんする考察』岩波書店、1980
大橋完太郎『ディドロの唯物論 群れと変容の哲学』法政大学出版局、2011
鷲見洋一『編集者ディドロ 仲間と歩く『百科全書』の森』平凡社、2022
田口卓臣『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』講談社、2016
高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
—- 『身体の変容 メタバース、ロボット、ヒトの身体』社会評論社、2024
吉田達「無限判断は無限性とどのようにかかわるか あるいはヘーゲル『精神現象学』におけるディドロとヤコービ」『中央大学論集』No.40, 2019
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x16182,2026.09.29)