「戦前回帰」を考える(二)――「教育勅語」から「霊魂主義」的国体論へ

――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を手掛かりに――

相馬千春

 
(一)より続く。
 
三、「教育勅語」から「霊魂主義」的国体論へ
 
 「教育勅語」の策定に関わった井上毅や元田永孚は〈儒教士大夫〉でした。しかしその後の日本の政治思想は、〈儒教士大夫〉的なものから、やがて「霊魂主義」的なものへと転回していく。以下では、国体論に焦点を当てて、この転回を見ていくことにします。
 さて、小倉はこの国体論転回の大筋を次のように見ています。
 

「明治から大正期に至る時期の国体論は、ほとんどが「国権」「主権」という法的な概念に関わるものか、あるいは「国柄」という曖昧な概念……に関わるものである。……大きな流れとしては、徳川時代から明治期にかけての国体論は「日本を立ち上げる」際にどのような主権の形態によって外国勢力との角逐に生き残っていくか、という点に重点が置かれているのに対し、大正期から昭和にかけては、国民の精神をどのように統合するかという側面に関心の重点が移行している。/それは、国体をめぐる言説が、制度論的なものから精神(霊魂)論的なものへと転回してゆく過程としても読み取れるのである。」(小倉紀蔵『朱子学化する近代日本』P.230。以下、同書よりの引用はページ数のみを記す。)

 
1.比較可能なものとしての「国体」
 まずは、霊魂論的なものへと転回していく前の「国体」論を見ておきましょう。
 小倉は、石川岩吉著『國體要義』(1913年=大正2年)を挙げていますが、これは大正初期の「国体論の雰囲気をよく現わしている」ものなのだそうです。
 『國體要義』は「国家論、制度論を主として、それを実証するための歴史論が加わる、という説明体系」を取っている。「国体」は「国家組織上主権の存立に関する特殊の主義」として規定され、「日本の場合、帝国憲法の第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」というのが「我が国家の千古不動の根本主義なり、即ち国体なり」とされる。このように理解された「国体」は各国との比較が可能なものであるわけですが、この点は『國體要義』から引用しておきましょう(『朱子学化する日本近代』からの重引)。
 

「主権が君主に在る国家は、我が帝国のみならざるべし。……過去に於ては、かゝる国家が一層多かりし事、歴史の示せる所なり。然れども其の国の史上の成跡、克く我が国の如くなるを得ずして、或は夙に滅亡し、或は漸次国体を変更し、君主国体の美を発揮せず。」(p.231-2)
「或る君主国に於ては、……遂に人民の怨府となり、革命の厄に遭へるが如き、畢竟其の主権存立の内容に当然の原因を含めるものにして、日本民族が天照大神の皇統を奉戴せるが如き事実と比較すべからざるなり。其の内容の相違を説明するものは唯歴史あるのみ」(p.232)。

 
 こうした石川の叙述には「日本の国体を世界の中で正当に位置づけようという合理的な理解への意志」(p.232)を見ることができます。ところが「このような穏健な国体論が、昭和十年代にはその雰囲気をがらりと変える。…オカルト的な様相を呈してくる」(p.232)。
 
2.霊魂としての「国体」
 「オカルト的な様相」を呈した「国体論」の一例として、小倉は、佐藤道太郎著『科學論證 日本國體正論』(1937年=昭和12年)を挙げています。
 

「国体がもしや反国体勢力によって改変されたり転覆させられたりするのではという可能性に対する極度の恐怖心が綴られているのは、先の石川岩吉『國體要義』と同じだが、……佐藤は生命論・霊魂論によってそれを克服しようとする。」(p.232-3)
 「佐藤は、国民の「生活」と「生命」を結合させるものとして血の共通性を強調している。天皇がそのまま主体なのでなく、天皇を奉戴する国体が主体であると説くのは、国体こそが国民の「生活」と「生命」を結合させる場であるからである。/このような論理の背後には、天皇に対する次のような規定が存する。「日本国体に於ける天皇は主権者に非ず、君主に非ず、霊であつて、御親裁は霊動である。」」(p.234)

 
 小倉は、こうした佐藤の国体論を「霊性的天皇論の究極の形」であると位置づけます。
 
3.『國體の本義』の矛盾と欺瞞
 
 それでは、政府の公式的な国体論とはどのようなものであったのか。1937年=昭和12年の『國體の本義』(文部省)がその「最終的な認識の体系」ということになります。
 『國體の本義』は「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じてこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と言い、「我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる」と言いますが、その意味するところを、小倉は次のように解説します。
 

「万世一系の天皇」が「皇祖の神勅」を奉じるというのは、歴代の天皇が大嘗祭において天照大神の神霊……を受け継ぐという宗教的儀式を根拠にしているから、これは「神勅」の内容を理性的に理解して継承するという意味ではなく、……天皇が霊として肇国の時から変わらず生き続けていることを指している。」(p.236)
「天皇の霊はつねにその始源(天照大神)の生命力をそのまま今に実現しており、その今は今後もずっと続くのだから……、未来もまた今なのである。」(p.237)

 
 しかしこのような「永遠の今」の実体たる「天皇の霊」=大御心の中身は、あらかじめ決められている。したがって国民は、その「大御心」「御精神」を「下から支え、現実化する行為〈主体〉としてしかありえない」(p.237)。こうした『國體の本義』の思惟構造は、小倉によれば、「きわめて朱子学的」なのだそうです。
 

「文部省こそ〈理X〉注1を掌握している〈主体X〉であり、国民=臣民をその〈理〉によって〈主体化〉し〈序列化〉してゆくのである。その中でも〈理〉の根拠と源泉を全く知らずに〈主体β〉となる臣民と、少なくとも〈理β〉の根拠と源泉……を知っている〈主体α〉とに分離する。そして〈主体β〉は〈主体α〉の下位に組み込まれ、すべてが〈序列化〉される注2」(p.237-8)
「〈理〉は日本の場合、天皇の神霊の大御心である。……この思惟方法がきわめて朱子学的なのは、すべての構成員に〈理〉が宿っているとしながら、その〈理〉の内容はあらかじめ決まっているという思考であるがゆえである。……〈理〉の内容は実際には〈主体X〉によって決められている」p.239

 
 こうして、国民にできることは、その〈理〉の内容を体得してゆくことだけとなるが、ここで体得されるべき〈理〉の内容とは、「家国一体・忠孝一本」といわれるもの、すなわち「家がそのまま国であり、孝がそのまま忠である」ということです。
 

「ということは、家と国、忠と孝の間に現実的には存在する数多の矛盾を矛盾として認識しない特殊な能力が要求されるということである。」(p.239-40)
「「家国一体・忠孝一本」という〈理〉を国民に信じさせるためには、国民の理性の能力を停止させなければならないが、そのためにはふたつの道があった。ひとつは、天皇霊という不可視の魔術的力を完全に信奉させることであり、もうひとつは、肉体性という可視的な世界を信仰の核とすることであった。…『國體の本義』が採った道は、後者であった。」(p.240)

 
 そして「この点[後者を選択したこと]が、『國體の本義』の持つ、あるいはあらゆる国体論の持つ欺瞞性の根源なのである」(p.240)と、小倉は言う。
 

「すべての国民(臣民)は天皇と本源を同じくする霊性を持つとしながら、国民にはその霊性の内容に関与させぬまま、その霊性の身体的実現のみを強要するという論理の構造に、欺瞞性の本質がある。」(p.240)
「重要なのはここに至って〈朱子学的思惟〉は急速に劣化することである。……臣民の道を説く際の最大の破綻は、そこに羅列された数多の徳目どうしの論理的連関性を一切説くことなく、連用形の数珠つなぎによる陳列に終始してしまうこと…である。朱子学の〈理〉においては、たとえば孝と博愛との論理的関係…などに関して、厳密な議論を展開する…。そのような議論を経て初めて〈理〉はオーソライズされる……。……互いに矛盾し射程の異なる「衆理」を結びつける論理もまた重要な〈理〉である……。しかるに国体論においては、そのような論理性は、かぎりなく稀釈されてしまっている。」(p.241)

 
 ここにおいてすでに『國體の本義』の〈理〉は崩壊している。そしてその破綻を糊塗するために「まこと」という観念が引っ張りだされてくる。「まこと」で「ばらばらな徳目同士を連結」しようとするわけです。
 

「「……まことは万物を融合一体ならしめ、自由無礙ならしめる」。……まことにこそ、その力があると語っている……。……言葉と行動とが完全に一致し、真言が真行となるのが言霊の思想である。……「まことには、我があつてはならない。一切の私を捨てて言ひ、又行ふところにこそ、まことがあり、まことが輝く」。」(p.242)

 
 小倉によれば、この「まこと」に関する叙述が『國體の本義』のクライマクスである。
 

「まことの思想は「没我帰一」という概念に着地する。……ここにこそ儒教との相違が顕わになる。朱子学においても陽明学においても、……「私」とは……、天理から逸脱する欲望のことである。天理と一致する自我を滅する……ことはありえない。ところが『國體の本義』においては、……主体としての自我は放棄される。」(p.242)

 
 『国體の本義』以降の日本は、「和を以て根本の道とする」(『國體の本義』)ことによって、まさに<天理と一致する自我>をも滅したわけですが、それは当然ながら「天理」に背くことであり、自ずと没落の道を歩むこととなったわけです。今日の日本の政治家も似たようなことをしているようですが……。
 いささか脱線したようですので、話をもとに戻しましょう。
 
四、霊魂主義的な国体論はなぜ魅力的だったのか?
 
 昭和期の日本の政治思想が、理性を停止しなければ信じられないような「霊魂主義」的国体論へと転落したのはなぜでしょうか?
 これは<昭和の『超国家主義』を成立させたものは何か>という問いとほとんど同じ問いであり、日本近代史を考察する者にとって、未解決にとどまっている難問といってよいでしょう。
 したがって、この問いに簡単な答えなどあるはずもなく、多様な考究を積み重ねていくしかない。そこで、本稿ではいったん暫定的な『回答』を提示し、次回以降、諸氏の論考を検討していくことで、『回答』を補正できればと思います。
 
1.「文明開化」の時代から「西欧近代の矛盾」が噴出する時代へ
 
 ここで小倉のテキストから離れて、明治から昭和に至る日本の政治思想の変容を、社会の変容との関係で、考えてみます。
 
 明治の日本は、不平等条約撤廃のためにも「近代国家」の体裁を取らざるをえなかったが、このことは「文明開化」の流れを一層拡大させ、西洋の制度・学問・文化をより広範に導入しなければならなかったことを意味します。
 このような「開明主義」の選択は、逆説的に道徳における「儒教主義」の必要性を再認識させ、両者の妥協の上に「教育勅語」が制定されます。(これを受けて1891年=明治24年に出版された井上哲次郎『勅語衍義』には、「家族国家」観の萌芽があると言われますが、これは後の「国體の本義」の「一大家族國家」論などとは異なるものです注3。)
 しかし、日清・日露の戦役を経て、日本が列強と伍する帝国なり、維新以来のとりあえずの目標に到達してしまうと、国家は目標を失い、人々は行動様式・思考様式における明治的な「型」注4を失ってしまう。国家主義は後退して、個人主義が思潮となる注5が、それは同時に人々が、故郷を喪失してアトム化し、不安と孤独とに苛まれる時代が到来したことをも意味する。しかしこうした状況の中で、失われた『日本』の復活を希求するメンタリティも生成してきます。
 第一次大戦後、日本経済は内部に不均衡を持ち、ゆるやかな物価下落が収益力の低下を招いたことから不況感は強かった注6と言われる。そして1930年=昭和5年に至り、世界恐慌が特に――農産物価格の暴落を通して――農村を極度の苦境に追いやる。さてこの間、日本でも左右の政治・社会運動、都市と農村での争議が活発化しますが、コミュニズム運動は、苛烈な弾圧あるいは内的要因によって、変革の主流にはならなかった。しかし社会体制の矛盾は明らかで、何らかの変革を模索する動きは、体制のエリートたちからも起こってきます。
 しかし体制の矛盾は世界的規模のものであり、欧米の側に――コミュニズムやファシズムを除けば――解決策があるとも思われない。むしろ<「個人主義を本とする欧米」を無批判に模倣したことこそが、今日の日本の矛盾の根源ではないか>と思われる。こうして「伝統精神」、「大和心」への回帰が大きな流れとなり、この『回帰』の先にあるべきものこそ「霊魂主義的国体」であると考えられたのではないでしょうか。
 
2.「霊魂主義的な国体論」はなぜ魅力的だったのか
 
 昭和十年代に至る日本の政治・社会状況が以上のようであったとして、回帰すべき先は、なぜ「霊魂主義的国体」だったのでしょうか。
 小倉は「重要なのは、このような議論[「霊魂主義的国体」論]の形ですべての国民が翼賛ないし補弼することができたという事実である」と言います。
 一般国民からすれば、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ……」というような「制度論的な国体論」の下では、国体の構築に参与する道は閉ざされている。むしろ天皇を「霊動」ととらえる「霊魂主義的な国体論」の方が、<「国民の集合霊動」と「天皇の霊動」とが一体化する道、あるいは「天皇の下での民主主義」注7への道も拓かれる>かのように思念される。
 「エリート」層は、どうでしょうか?明治の〈儒教士大夫〉が、<直接に国家と結びついている>というメンタリティを保持していたのと比べ、(西欧を起源とする)専門知識・技術を以って国家に奉仕する「エリート」層は、国家とはより疎遠になった一方で、西欧に起源をもつ思想を超越的なものとして受け入れ、自らの主体性の根拠とするようなった注8。しかしそのような根拠化は脆弱性を抱えており、またその精神は西欧的なものと日本的なものとの二重性をも抱えている注9。したがって西欧的システム自体の危機が明らかになったとき、彼らは西欧起源以外の根拠を探さざるを得なかったが、そのとき「霊魂主義的な国体」が魅惑的なものとして浮上したとしても、不思議ではありません。
 さて、以上で述べたことは<霊魂主義的な国体論はなぜ力を持ったのか>という問いに対する、暫定的な「回答」にすぎません。次回は、この問いに関わる諸氏の論考を検討することを通して、この問題をさらに考究してみたいと思います。
(三)に続く。
 

1〈理X〉、〈主体X〉、「主体α」、「主体β」などの用語については、(一)の「二、「教育勅語」を元田永孚の側から見る」の「4.「教育勅語」には、〈理β〉はあるが、〈理α〉がない」を参照していただきたい。
2 戦前の日本人にもっぱら「主体性の欠如」を見ることを、小倉は次のように批判する。
「彼[丸山眞男]はこの[〈序列化〉された人間たちの]グラデーションを「客体のグラデーション」と理解した。そのことによって、「主体性が欠如した日本人」の戦前におけるあらゆる責任を免除しようとした。……本書は逆に、この差等の体系を「主体のグラデーション」として理解するのである。したがってフーコーや丸山のような、「客体」や「主体・臣民」に対する容赦のまなざしは、一掃されるであろう。」(p.41-2) 
3 石田雄は次のように指摘している。
「井上哲次郎の勅語衍義において「國君ノ臣民ニ於ケル、猶ホ父母ノ子孫ニ於ケルガ如シ、即チ一國ハ一家ヲ拡充セルモノニシテ、一國ノ君主ノ臣民ヲ指揮命令スルハ、一家ノ父母ノ慈心ヲ以テ子孫ニ吩附スルト、以テ相異ナルコトナシ」と說かれているところに、すでに「家族國家」観の萌芽的發生をみることができるが、實はまだこの時期には、後にのべるように全體の文脈からみれば、必ずしも全倫理體系の中核をなすものとはいい難い。事實一九〇四年(明治三七年)「勅語ノ旨趣ニ基キ」編纂されたわが國最初の國定修身書は、およそ「家族國家」観とは緣遠いものであつた。」(『明治政治思想史研究』(1992年〔復刊〕p.6-7)
この勅語衍義の「國君ノ臣民ニ於ケル、猶ホ父母ノ子孫ニ於ケルガ如シ」という考えは、当時、目新しいものではなかったのではないか。というのは、『大学』には「康誥に曰く、赤子を保つが如しと」(「国君として人民を養うには、幼児を慈しみ育てるようにする」〔明治書院「新釈漢文大系2」の通釈による〕)とあり、また「詩に云ふ、樂しめる君子は、民の父母」ともあるからである。
このように、<国君と民とを比喩的意味での『家族』とする(家族に見立てる)>考えは古よりあるものであるが、これと、昭和の時代の「霊魂主義的国体」論(日本国の根柢に血のつながりを幻視する考え)や、「国體の本義」の「一大家族國家」論(「我等臣民は、皇祖皇宗に仕へ奉つた臣民の子孫」とか「皇室を宗家とし奉」るという考え)とは、当然ながら別物である。
4 ここでは、「型」を次のような意味で使っている。
「「型」を唐木[順三]は、「国民の生活体系と、思惟体系とまで行かないにしても情緒或は常識、体系を規定してゐるもの」と、やや漠然と定義する。それはつまりは、歩き方でも手の洗いかたでも何でもいい、あらゆる生活形式や日常道徳を含めたものなのだろう。」(片山杜秀『近代日本の右翼思想』p.105)
5 生田長江(いくたちょうこう)は『明治文学概説』で、日露戦争後の時代状況を次のように述べている。
「(一)日本の国際的地位がともかくも安国なるものになつて半世紀に亘る憂国的緊張も幾分の緩みと疲労を来した為め、(二)国際的興隆が必ずしも直に国民個々の福利を意味しないことを、余りにもむごたらしく体験した為め、及び(三)産業界の近代的展開にもとづく自由競争と生活不安とから、思ひ切つた利己主義へ駆り立てられた為め、明治四十年頃からの日本人は一体に、それまでの国家至上主義的思想に対して反動的な思想を抱き、甚だしく個人主義的自我主義的な考へ方感じ方をするやうになつた。」(片山杜秀『近代日本の右翼思想』p.110-111より重引)
6 武田晴人 「経済成長の長期的把握 (3) 第一次大戦後の不均衡成長」 の指摘による。
7 小倉は以下のように言う。
「その〈理〉[=天皇の神霊の大御心]の内容は全構成員によってその都度暫定的に決められるのだとすれば、天皇の下での民主主義というものも機能しえたであろう。」(p.239)
8 小倉によれば、このような近代日本知識人の「型」は、福澤諭吉が定式化したものであるが、これを指摘している部分を以下に引用しておく。
「現実的な効用や実践を追求するために、外部(主に西洋)の特定の理念や原理などを絶対化し超越化するということは、ごく普通の行為である。このように、形式上の超越性を内容的に充填するものが西洋思想である、という「型」は、……福澤[諭吉]がそれを明確に定式化した。ここに、特定の西洋思想を超越性として受け容れ、それによって自己を〈主体化〉するという近代日本的な「型」が定式化されたのである。」(p.30-31)
「福澤は旧い封建的な〈理α〉と〈理β〉の先験性[超越性]を否定したという意味では反朱子学的な側面を持っていたが、〈理X〉の先験性を否定しえなかった(既述したように、「天理」や「権理通義」の新しい革命的な先験性を確保するために、それらの〈理〉を成立させる先験的な地平として西洋近代思想に依拠したことがそれである)という意味では朱子学的だったのである」(p.285)
9 この点については、「「認知の視点」から考える、「I」と「私」の違い――金谷武洋「日本語論」から導かれるもの」で、カール・レーヴィットの言を紹介しておいた。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(本稿は、2017年5月28日に開催された「公共空間X」の合評会に提出されたものが元となっています――編集部)
 
(pubspace-x4203,2017.07.16)